日々愚案

歩く浄土107:情況論31-内包自然と総表現者9/池田晶子の自然1

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先月、公式サイトを開設したとき、読者からサイトの開設を祝うコメントをいただいた。ごくわずかの読者しかいないので、読んでいる人がいるとわかってそのコメントに励まされた。片山さんとの連続討議の話の接ぎ穂に書いていたブログを模様替えしたくて公式サイトにした。お礼のメールの旁々一度メール交換をした。その縁で佐川清和さんの『贈り合いの経済』をアマゾンから取り寄せ、半分くらい読んだときに、ふいに池田晶子の考えていたことを思いだした。

いま手元にざっと25冊ほど彼女の本がある。池田晶子(1960ー2007)とは何者か。外延知を偽りなく生き切った思索家だ。生前の彼女の著作はすべて真剣に読んだ。池田晶子のつくる言葉と彼女のあいだにはすきまがなく見事だった。言葉を生きる稀な誠実さが彼女の言葉にはあり、ほんとうに強い概念とぶれのない強い言葉をつくることができる文章家だった。言葉をつくることが池田晶子の身過ぎ世過ぎであったことはないと思う。物書きデビューした頃の著作は難解で身をよじるほどだった。池田晶子さんが文章家でデビューしてから出版された著作と数年間格闘した。書かれていることは身体感覚として諒解できた。
わたしは総表現者の概念を強いものにしたくて総表現者という理念を内包自然にからませて内包贈与論につながる一連の論考を書いている。ある前提のもとでは池田晶子さんの考えは無敵だと思う。じっくり論理の筋目を追っていけば、諾というしかない論理の強さがある。書きたいことはその彼女の太い論理が硬直しているというところだ。「私は全人類でありヘーゲルである」ということをくり返し言う。池田晶子が人類創生以来の意識のかたまりであるという気宇壮大な考えに虚偽意識はない。「私」が世界であるとしてその意識の内部構造はどうなっているのかという問題意識は池田晶子にはない。ここで問題としたいことはそういうことではない。人類創生以来の意識に池田晶子の意識を同期するときそこにあるのは絶対的な孤独性でありニヒリズムであるということだ。意識を意識のかたまりに同期するとき、その意識がなぜ池田晶子になるのかということは池田晶子の思考の様式では明らかにならない。すべての問題が瞬時に解決するとどうじにあらゆることが混沌とする。この意識のありようは朕は国家なりという意識のありようとまったく同型であり、西欧においては牧人=司祭型権力になり、わたしたちの島嶼の国においては天皇=赤子型権力という自然生成の権力になる。つまり池田晶子はなにも言っていない。

理解しながらも微妙なずれがある。それはどこからくるのか。そのことについてすこし書きたい。それは外延自然や外延知という認識のありかたがとても平板で奥行きのない思考だということを明らかにするだろう。西欧のギリシャの哲学からキリスト教の牧人=司祭型権力を経て、近代西欧の知の諸系譜がどういう軌跡を描き、また東洋の老荘思想の諸系譜がどこまで考え切れたのか、総じてこれまで人間がつくった知の系譜がどのような思考の慣性に沿ったものであるか、それが浮かびあがってくるように思う。その道案内を池田晶子さんがやってくれている。

天賦の才をもつ思索家の生は短かった。一度はじっくり膝を交えて話がしたいと思ううちにお迎えが来た。あるものがそのものにひとしいということを同一性と言うのだが、同一性による生の極北を身をもって生きた人だった。私利私欲のかたまりでしか生きようのないわたしたちの生命形態の自然からは、「と共に」ということが原理的にありえないことを論理として言い切った思想家だと言ってもよい。
心身一如の場に自己があると錯認し、すさまじい歴史を重畳してきた過誤の人類史の欺瞞を池田晶子は暴いている。だれがそのことに気づいただろうか。デビュー作の『事象そのものへ!』は難解で彼女の思考がぎっしり凝縮されていた。新人類がはしゃぎ回っていたとき忽然と出現した異才だった。彼女の論理の厳密さに衝撃を受けた。書店に並ぶ本をそのつど買い求め真剣に読んだ記憶がある。池田晶子の仕事は、大まかには初期の著作と、考え得たことを世間に敷衍し世界の事象を述べた時評と、死を目前にした哲学を卒業して魂について語りたいと言った時期に分かれる。まもなくお迎えという時期に、理性の外にあるほの暗いところに関心がある。それは魂ということであるが、形式も文体もまだ考えついていない、そのように発言していた。「本当は、私はこの時は、『魂』と言いたかったのだ。魂であるところの人間は、物質の側から見れば肉体、非物質の側から見れば精神である、したがって、魂とは、物質でもあり非物質でもあるような、それ自体は不可知な何らかの力もしくは動きであると。(『2001年哲学の旅』所収「『死』は、どこにある?」98p)到達した最期の場所が始まりの一歩であったとしても、ともかく池田晶子はここまでは到達できた。

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私利私欲と相性がいい自由と平等についてではなく、友愛と博愛について、とも鳴りは不可能だと激烈な批判をする。いま書いている一連の「内包自然と総表現者」という論考でなぜ池田晶子の考えをとりあげようと思ったのか。それは池田晶子が「社会」主義や民主主義の陥穽を精確に指摘しているからだ。人と人が「と共に」生きることはできないと池田晶子は言う。そのことを原理的に言っている。

「存在するとは別の仕方で」が再び存在に帰還することはないとわたしは内包論で考えている。存池田晶子がむきになって論難するそのレヴィナス論の要となるところを貼りつける。レヴィナスの「存在の彼方」はあいまいさを払拭できていないところがあって、そこを池田晶子が鋭くついているようにみえる。わたしからするとどっちもどっちだと思う。レヴィナスの存在論の未然に矛先をむけても半分は池田晶子自身にもどってくる。だから哲学を卒業して魂について語りたかったのだと思う。池田晶子の存在の理解の仕方では世界は半分しか生きられない。死を目前にしたとき、哲学では語りえない魂について気づいていた。レヴィナスの存在論の矛盾を池田晶子は鋭く突く。

そこで、レヴィナス。『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』、妙なタイトルだ。続けて言いたい言葉をぐっと呑み込み、遙かな空を仰ぐべくそこに立ちすくまされるような心地がする。すなわち、「存在するとは別の仕方で-存在するとも、「存在することの彼方で-存在する」とも、決して言わないことそのことに、レヴィナスは、常に「存在論」として収斂してきた西洋形而上学の歴史を「倫理」の側へと開く突破口を見出そうとしているのだ。これは苦しい仕事だ、読む方もひどく息切れがする、不自然な姿勢の持続に窒息しそうになる。
 アウシュビッツから生還した人なのだそうだ。かつて教えを受けたハイデガーのナチス荷担など、さまざま考え合わせると、理論としての存在論は、心の奥底深く愛憎の振幅を経由して、いかなる屈折率を示すようになるのか。存在者としての人間の「存在」を考えるそこには、いかなる人間主義(ヒューマニズム)もあるはずがないと、「ハイデガー」のところでみた。また、「存在」を考えるのが意識でしかない限り、存在する限りの一切の存在者は、意識としての「主観」に包摂されるという、その意味での存在論の独我性を、「ヘーゲル」のところでみた。ところで、「倫理」とは、「他者」という存在者との関わりを言う。存在者の存在をのみ扱う存在論という思考からは、存在者レベルの倫理の問題は、どうしても出て来ないのだ。それは無理なのだ。そのことを嫌というほど知っているのが、他でもないレヴィナス自身であるはずなのだ。だからこそ、「存在」を迂回しつつ、その向こう、もしくは手前から、「倫理」を語り出そうとする、あのように苦し気な息遣い、吃音、嘆息、絶句の気配-。
「存在ではないもの」は「無」でしかない。しかし、無は無だから無なのだ、したがって「存在ではないもの」は「無い」、全ては「存在」である。哲学史上でそれを定式化した最初の人はパルメニデスだが、私だって一時期死ぬほど考えた。が、死ぬほど考えても死は存在しないとはっきりわかって、考えるのは諦めてしまった。諦めきれないのが、レヴィナスという人なのだ。彼は言う、「存在ではないもの」それは「無」ではなく、「無限」としての「他者」なのだ、と。「外へ」と題された最終章である。(『考える人』78~79p)

〈存在のうちで、新しさが「存在するとは別の仕方で」を意味するのは、「他者」によってである。顔としての他者の近さを欠くとき、全てが存在に吸収され、存在内に埋没し、存在内に幽閉される。また全てが同じ側に固まって全体を形成し、全体が開示される相手としての主体さえ、この全体によって吸収されてしまう。存在すること、すなわち存在者の存在は、比較不能な自我と他人との間に、(たとえ類比的統一性によってでしかないにせよ)統一性、共同性をつむぎ出し、私たちを鎖で繋ぎ、「同じ側」に寄せ集める。存在することは徒刑囚同士を鎖で繋ぎ、近さからその意味を一掃するのだ。接合と連携を切り離そうとするどんな企ても、この鎖をただ軋ませることにすぎない。開示されたものである限りにおいて、他は同のうちに舞い戻り、超越の体験は、紛いものではないかという嫌疑をすぐさまかけられる。(中略)存在することは、存在すること以外のもの全ての不可能性、自己革命以外の一切の革命の不可能性に他ならないのではなかろうか。存在することをも驚かしうる驚異にせよ、技術や魔術による刷新の驚くべき可能性にせよ、この世界の高みに住まう神々の完全性や不死にせよ、更には神々が人間に約束する不死にせよ、存在すること以外のところから到来したと言い張るどんなものも、在るのざわめきを和らげはしない。在るはどんなに否定されても再開するのだ。存在することによってなされる営みのうちには、いかなる裂け目もない。気晴らしも皆無だ。ひとり他者の意味のみが忌避しえないものである。他者の意味のみが、自己の殻に閉じ籠りそこに舞い戻ることを禁じるのだ。ある声が向こう岸から到来する。すでに語られたことを語ることが、この声によって中断されるのだ。〉(前掲書79~80p:これはレヴィナスの発言)

このレヴィナスの発言を池田晶子は激しくなじる。と共に、は原理的に不可能であると言いつのる池田晶子を呪縛する存在の知覚の平板さが逆説的にレヴィナスへの激しい批判のなかに示されている。なぜ存在者の主観においてしか存在を語ることができないのか、その思考のありかたが数百万のユダヤ人を虐殺したのではないかとレヴィナスは考えた。存在者の意識が他者を語りえないことは池田晶子にとって先験的でありなんの関心もない。長い引用になるが、どうか息切れしないで池田晶子の言いがかりを読み通して欲しい。

 これは、理論ではない、何か祈りに似たものだ。いや、祈りという心のかたちを私たちがもつという、その一点にのみかけられた祈りというべきか-。矛盾は、火よりも明らかではないか。外がない「存在」を考えているのがこの意識である限り、この意識(「私」と呼んでも呼ばなくてもよいが、呼ばない方が誤解が少ない)、にもまた外はない、徒刑囚同士で繋がれているかどうかさえ言い得ない、それは絶対的な孤独なのだ。「類比的統一」とはまたなんと苦しまぎれ言い方か!
 「他者の存在」すなわち「倫理」を語るためには、「存在一般」のカタがついてからしかできない、しかし「無がない」その限り、「存在」が片付くことは決してあり得ないのだ。「在る」は再開する、「在る」にはいかなる裂け目もない、神さえも「在る」-。
「存在ではないもの」「存在の彼方へ」と考えるそのことのまさにそこに「存在の他性」が現われているという言い方をレヴィナスがするとき、言い方としてのみそれは納得できる。「言い方としてのみ」とは、内実をもたない端的な思考の契機としてのみという意味だ。既にして人ではなくなっている「存在」のその「他」が、なお人間であるはずがないのだ。しかしレヴィナスは、その「存在の他性」として「他者という人間存在」すなわち「他人」を、どうしても置きたい。気持ちはわかる、しかし、それは無理だ! 「他性」は「他人」ではない。たとえば、「他なるもの」といったとき、「もの」は「者」か、はたまた「物」か、いずれにせよ存在者としての「者」や「物」をいうハメになってしまうという「存在」の陥穽。それなら「他なること」というべきなのか、「他所事(よそごと)」としての「存在するとは他なること」と。しかし-いったいそれは何だというのです??
「それは何か」など、きっととうにレヴィナスは眼中にはないのだ。「哲学」が「倫理」としての「語り」へと化すのがここだ。私たちは語る、誰に向けて? -しかし、そうではない、そうは問えないのだ。苦悩するレヴィナスは思い余って、そこをエイヤッと、ごっちゃにしてしまう。存在論という思考の圏域においては、全ての言葉はその「人間性」を消失しているはずなのだ。したがって、前の問いは本当はこうなのだ、「何かは何する、何に何して?」しかし、これでは、どのへんの何を言っているのか、通常の思考にはまったくのお手上げである。(存在論的思考も実は、最後はここで万歳なのだ。)「ハイデガー」の章の最後で私はこう言った、「人間が言葉を語っているのではない、言葉が存在を語っているのだ」と。が、レヴィナスは、どうしてももう一度こう言い直したいのだ、「存在の彼方の他者へ向けて、やはり人間が言葉を語っているのだ」と。艱難辛苦の人間主義(ヒューマニズム)は、ここに蘇生すると言えるのか、否か。
 否。私はそう考える。「存在ではないもの」「存在の彼方」とは、言い方と願望としてしか存在しないのだ。なぜなら、たとえここでなお、「存在ではないもの」「存在の彼方」と言いかつ願望することができることのそこにまさに「存在ではないもの」「存在の彼方」が存在していると言い張ったとして、見よ、そう言い張るそのことがまさに、「存在ではないもの」「存在の彼方」が「存在している」と言うことなのだ!-誰がパルメニデスの外へ出られるのか。すなわち、誰が「存在ではないもの」を言うことができるのか。―誰も、できない。できるというとするなら、できると「言う」にすぎない。「存在ではないもの」と言うことで、「存在ではないもの」を言うことができているというのは、言うことができていると「言っている」にすぎない。私は、そう考える。なぜ、ここで「私は」なのか。他でもない、私はそう考えるのに、レヴィナスはそうは考えない考えたくないのだからだ。これこそまさしく、各々の「私」の「存在」の絶対孤絶性でなくて何だろう! それはレヴィナスの倫理ではあり得ても、この私の倫理ではあり得ないのだ。やはり、存在論を経由することなしにはどのようにしても、そして、経由したならばなおのことどのようにしても、「共生の倫理」は、不可能なのだ。
 だからこそレヴィナス自身、「語ること」を「他者」への「責任」というふうに言ったとしても、その実践において、それはやはり「存在」との孤独な闘いとしてしかあり得ないのだ。「存在ではないもの」と語られた刹那のその「存在」を即座に撤回し、間髪入れずに「存在ではないもの」「存在ではないもの」・・・と語り直しつつ語りつづけて行く、ぎりぎりの、独りきりの実践としてしかあり得ないのだ。これは、存在の波浪に没すること必定の人間が、最後の力で波間に高く掲げ上げる旗(NO!)だ。存在と存在者の間で交わされる睦言などもういい、言葉も文法もすべからく既にして存在ならば、文法にさえ援護を求めず空拳で「語る」そのことだけは、「存在ではないもの」「存在の彼方」を、遙か指さしていると言っていい、はずだ!
 つまり、レヴィナスにとってそれは、可能か不可能か、正しいか誤りか、ということとは全然違うことなのだ。そんなことはもはや問題とはなりえないというそのことが、そのことなのだ。彼は、それを、するしか、ない。それをするしか、それをする仕方がない。西洋形而上学二千年、いやいや、現宇宙以前にこの存在が「在った」そのときからの生々流転、死屍累々、「To be,or not to be」「生(あ)るか死(ない)かそのどちらか」の二者択一の「外へ!」出るためには、語ること、ただ語ること、「存在の彼方」への彼岸のような渇望を、息をも吐けない絶句の刻々をもってしてさえ、なお語ろうと示すこと-。

 「『語ること』の自己背信を代償として、すべては現出する。だからこそ、語りえないものを洩らすことも可能となるのだが、語りえないものの秘密を漏洩すること、おそらくはそれが哲学の使命にほかならないのだ」(レヴィナス『存在することの彼方』

「哲学は語りえぬものを言表する」、そうだ、ここにおいて私は再びレヴィナスと志を一にする。「語りえぬものを言表するな」というウィトゲンシュタインのあの決意と共に、だ。私たちの論理は、そこにしか、ない。「語りえぬもの」に対峙して独りで立つ、ここにしか、ない。私たちの論理は、決して「私たちの」論理にはなり得ない、「存在」に譲歩して「共に」存在しようというそれは、問題としてさえ不可能なのだから、解決されようはずがないのだ。したがって孤独の超脱を、ではなく、「存在」の超脱を、こそめざすことのそこに、「連帯」。
 人々をして語りえぬものへと絶句せしめよ! 語りえぬものの語り得なさをこそ語ろうと示すこと、そもそもの始まりから挫折を約束されている哲学という不要にして無力な営みが、にもかかわらずしかし揺るがぬ確信と矜持によって、再び「哲学」と掲げ得る唯一の促しが、この倫理なのだ。
 私はしばしば、プラトンという人を強く想う。叶うならば、直にあって問い尋ねたいのだ、なにゆえに、なにをもって、どこまで本気で、「存在の彼方」に「善」!(『考える人』78~84p)

池田晶子とレヴィナスのズレは何に由来するのか。自力による知と自力がままならぬ知との違いにある。池田晶子は〔在る〕の謎を解こうとし、レヴィナスは遺棄された〔在る〕のざわめきをつかもうとする。最初からボタンの掛け違えがあり噛み合わない。レヴィナスは、存在の彼方のことを、存在するとは別の仕方そのものであり、存在とは他なるものへと過ぎ越すことと言い、存在の彼方が存在するとは言っていない。〔在る〕のざわめきがあの出来事を生んだのであり、その出来事を包越するには存在を語りながら存在を超えること、存在の彼方というしかないとレヴィナスが言うことが池田晶子にはわからない。なぜわからないのかということさえも池田晶子にはわからない。世界の半分しか池田晶子は生きていないということだ。ということも池田晶子にはわからない。明晰で世界を語りうるという錯覚が池田晶子にある。聡明さや明晰で歯が立たなくて打ちのめされるということが世界の体験なのだ。少なくともレヴィナスは自力の果てるところから考えることを考えようとしている。考えることを感じ、感じることを考えるということにおいて親鸞は突きぬけていた。レヴィナスが親鸞の考えを識る機会があればよかったのにと思う。明晰さにおいて存在することの不思議さを語りたかった池田晶子の思考は浅い。世間の常識をひっくり返す対抗概念でしかない。はっきり言ってしまえば言えば幼い。幼くても生きていけるように彼女は生きてきたということだ。だから大峰顕という親鸞もどきの文化人に手玉に取られた。居心地がいいから村上春樹にファンがつくように、なにかすっきりしそうな気がして池田晶子を慕う読者ができた。池田晶子の思索の真芯には絶対的孤絶性というニヒリズムがある。池田晶子のレヴィナス批判が頓珍漢なのはほんとうはヘーゲルの思想の未然に由来する。(つづく)

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