第一信・森崎茂様(2022年11月27日)
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最新の論考である「歩く浄土」281、大変興味深く拝読いたしました。ぼくもジョルジョ・アガンベンの『私たちはどこにいるのか?』に触発された文章を幾つかブログに発表したところだったので、共感するところ大でした。アガンベンの文章はコロナ下のイタリアで、2020年の7月ごろまでに発表した文章を集めたものです。このなかで彼は「例外状態」という言葉を使っていて、今回の森崎さんの論考の導入部分とも重なりますので、そのあたりから話に入らせてもらおうと思います。
まず今回の論考から、森崎さんがコロナ・パンデミックを総括した文章を引いてみます。
〈コロナ禍の3年で西欧近代発祥の人間についての理念は総敗北をした。人間についての理念が一瞬で消滅したということだ。この衝撃のおおきさは計り知れない。公衆衛生の危機を煽り社会を病院化すれば人びとは易々と両手を差しだし縛ってくれと言った。こうやって人類史ではじめての統治のしくみが誕生した。人びとの生は飼育される家畜にすぎない。人権は天賦のものではなく自由の制限を徹底的に受容する者のみに期間限定で供与される。〉
〈公衆衛生の危機を煽れば惑星規模で全体主義が即座に可能となる。馴致しない者らは例外社会へと追いやられ、徹底的に私権は制限される。各国の統治者はこのしくみを骨の髄まで体得した。両手を縛ってくださいと国民のほとんどが自発的に私権の制限を申し出た。唯々諾々と医学という宗教に人間の内面が融解することは人類が経験する初めての歴史だった。それがいま眼前で起こっていることだ。〉
その通りで、付け加えることは何もありません。そしてあらためて、このようなことは医療現場では当たり前になっていたことに気づきます。とくにがん治療においては、多くの患者が医者に勧められるままに、まさに「唯々諾々」と手術や抗がん剤などの治療を受けることになっています。今回のコロナで、病院に限定されていた現状が地球規模に拡大したということでしょう。つまり全人類ががん患者になってしまった。
本来、がん患者やがん治療というのは、ぼくたちの日常からすれば非常事態であり例外的な状態であったはずです。しかし今後は、こうした非常事態や例外状態が恒常的なものになりそうです。なぜなら統治者たちは図らずも、人類史上もっとも効率的な統治方法を知ってしまったからです。アガンベンの言い方を借りれば、例外状態を通常の統治パラダイムとして用いること。これがいともたやすいことを、彼らは学習してしまった。
科学的な検証も正当な手続きも必要はありません。ただ公衆衛生の危機を煽って、人類を恒常的に疑似がん患者の状態に置きつづけるだけでいい。そうすれば人々は進んで縛ってくれと両手を差し出すことになる。まさに人類は、西欧近代に生まれた人間という理念をみずから手放し、「自由の制限を徹底的に受容する者にのみ期間限定で供与される」人権のもとで飼育される家畜になろうとしています。
どうすれば、家畜にならずに「人間」を生きることができるのか。今度の論考のなかで森崎さんは〈人間は、あるいは人類はただの一度も自同律の律動のしばりをほどいたことがない。もっと深い自然を生きてもいいのではないか。同一性の手前にある自然をひとつの公準とする生のありようを描いてもいいのはないか。それが内包論の誘いである。〉と書かれています。誘いに応答しようとする者の一人として、この書簡をはじめた次第です。
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今回の論考で、森崎さんはジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』に触れられています。〈分子記号に分解された生をクリスパーキャス9で編集し、ビットで再構成できるという迷妄。明晰は迷妄へと零落する。生をアルゴリズムに還元し、神経のアルゴリズムを外部のブレイン・コンピューター・インタフェースに結合できるという蒙昧に呑み込まれているようにみえる。もしもすべての人びとがこの科学知の新興宗教とシステムを受容すれば、内面のない共同幻想のみのグロテスクな人間が誕生すると思う。ジェインズの甦る二分心が再降臨する。〉
ぼくもコロナの初期に同じようなことを考えていたようです。「今回のウイルスにたいして、ぼくたちは自分で考え、自分の意志で決定を下すことが難しくなっている。情報やデータといった「神」の声に従う傾向が強くなっている。危機的な状況において「心」は不要であるどころか、むしろ邪魔なのだ。身に大きな危険が迫れば〈二分心〉の時代に戻って「神」の声を聞き、声に従う。そういう本性を人間はもっているのかもしれない。」(「今日のさけび」2020.3.2)
『神々の沈黙』のなかでジェインズは、一般に「心」と呼ばれている主観的意識のある心は、いまから3000年ほど前に生まれたと推定しています。それまでは彼がいうところの〈二分心〉の時代でした。つまり人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた。こうした〈二分心〉は社会統制の一形態としての役割を果たし、おかげで人類は小さな狩猟採集集団から大きな農耕生活共同体へと移行できた、とジェインズは考えます。なぜなら〈二分心〉の人間にとって、声こそが意思であり、意思は命令という性質をもつ声として現われ、そこでは命令と行動は不可分で、聞くことが従うことだったからだと。
現在、人類は3000年以上も前の〈二分心〉の時代に戻っている、というのがぼくたちの共通した認識です。そこで命令を下す「神」は、たとえば感染症の専門家と称される人たちが発信する情報やデータになっています。現在、先進国の多くの人たちは24時間オンラインの状態で生活しているので、常時、これらの「神」の声を聞いていることになる。この「声」に人々が従った結果、コロナという巨大な災厄がもたらされた、ということだと思います。
なぜ、ジェインズのいう〈二分心〉は繰り返し甦るのでしょうか。ぼくは森崎さんがかねてから使われている「精神の古代形象」と同じ機制によるものだと思います。生死にかかわるような状況になると、人間は思考停止して集団的なもの、その時代の共同幻想に自ら突進してしまう。閉じた共同観念の内部に身を置き、その観念を信憑するときにはどんなに惨い振る舞いもできてしまう。社会主義という共同幻想のもとにソ連やカンボジアで起こったこと、ナチズムという共同幻想のもとにアウシュヴィッツで起こったこと、皇国の軍隊という共同幻想のもとに南京で起こったこと、イスラム原理主義やカリフ制といった共同幻想のもとでISなどによって繰り広げられた斬首をはじめとする残虐行為……。
今回はコロナという疑似的な生死にかかわる状況が出来したことによって、世界中の多くの人たちが思考停止の状態に陥って、現代の共同幻想である医学・科学知に帰依してしまった。何が問題なのでしょうか? 世界が閉ざされているということだと思います。閉じた世界のなかで、人々は容易にその時代の共同幻想に憑依し、ジェインズの〈二分心〉が再降臨する。
大半のがん患者にとって、自分が生きている世界はほとんど病院医療という非常に狭い枠内に閉ざされています。だから患者は医療医学的な信に憑依して、主治医の勧める治療を「神」の声のごとく聞いてしまう。これはある意味、よくわかります。今回のコロナ・パンデミックが衝撃的だったのは、同様のことが世界規模、人類規模で易々と起こってしまったことです。
これまで人間がつくり上げてきた共同幻想は、病院や国家、部族などに限定されたものでした。もともと同じ価値観を共有しているから、一つの閉じた共同観念にとらわれやすいのでしょう。しかし今回は、国も民族も宗教も異なる人たちが、一瞬にして「コロナ」という共同観念にとらわれてしまった。マスクとワクチンの前に、宗教対立もLGBTもあっけなく消し飛んで、人類はオカルトじみたコロナ教に帰依しまった。ぼくはおぞましい世界宗教が降臨したような印象を受けました。
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今日、世界に暮らす80億の人々が信奉しているのは、バイオテクノロジーやコンピュータ・サイエンスといった新興科学です。これが宗教化して科学教になった、と森崎さんは書いておられます。80億の人類を平定する強力な世界宗教です。
すでに述べたように、人々が一つの共同幻想や共同観念に憑依するには、その世界が閉じていることが前提になります。世界が閉ざされているから、人々はどんな愚劣なものにも憑依し、これを信奉する。北朝鮮がいい例です。いまや世界は北朝鮮化し、人類はあたかも金正恩という神の「声」を聞くように、感染症の専門家や製薬会社の言うことを聞いているということでしょうか?
なぜ、こんなことが易々と起こってしまったのか。多くの人が、自分の固有の生を生きることができなくなっているからだと思います。〈いま人間は素朴な個体レベルの実存ではなく、分子記号の集合として定義されるので、是非を超えてかぎりなく人間は記号Aに漸近する。同一性を準拠とする科学の必然である。人間であることはA=Aとなる。〉まさにそういうことが、いま起こっている。
ミシェル・フーコーが『臨床医学の誕生』で述べているように、臨床医学的なまなざしのもとで、病人は個人や個性を差し引かれ、いわば「彼」や「彼女」を括弧に入れられて、ただ「病理的事実」という均質な地平に還元されます。こうして18世紀末から19世紀初頭にかけて臨床医学なるものが誕生した、とフーコーは言います。この病理的事実が80億の人類にまで拡大されたということでしょう。「同一性を準拠とする科学の必然」として。
同一性を準拠とする科学の手続きは、森崎さんが引かれているハイデガーの言い方をすると、「媒介、連結、統合」ということだと思います。臨床医学的なまなざしや、遺伝子生物学的なまなざしに媒介されて、一人ひとり人間の固有な生は病理的事実やたんぱく質を合成する分子記号として連結される。これをAIによって総合、合一すれば、あっという間に80億の均質な人間が出来上がる。つまり「人間であることはA=Aとなる。」これが今回のコロナ禍の前提だろうと思います。
どうすればA=Aに閉ざされてしまった人類を、世界をひらくことができるのか? 森崎さんはつぎのように書いておられます。〈思考を展延すれば存在も拡張される。外延知の近傍に内包知をつくり同じものとすれば存在の複相性がおのずと出現するではないか。わたしは自己言及のパラドックスをこうやって拡張した。〉難しいところですが、じっくり読み解いてみたいと思います。
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ハイデガーは『形而上学入門』などで、しばしば古代ギリシアの哲学者、パルメニデスに言及しています。紀元前520~450年の人といいますから、いまから2500年ほど前の人ですね。ちょうど孔子(B.C.552~472)と同じころです。あとで孔子にも触れようと思っているので、この同時代性は面白いと思います。
それはともかく、ハイデガーが問題とするのは、パルメニデスの言葉と伝えられる「思考と存在とは同じである」あるいは「同じものは即ち思考であるとともにまた存在である」というものです。つまり思考と存在の自同性ということになります。このパルメニデスの文を検討しながら、ハイデガーは「思考と存在は交互に相関的である」といった弁証法的な解釈に落とし込んでいるように見えます。すると「人間は誰であるのかを知りえない」という月並みな結論に立ち至る。これは森崎さんが「意識のシンコペーション」と名付けられている生の不全感であり、ニーチェのいうニヒリズムだと思います。パルメニデスを援用しながら、結局のところ、ハイデガーは「人間とはどこまでいっても自分に届かない存在である」というニヒリズムを語っているだけではないのか。
このパルメニデスの文は、もっと素朴に、伝えられているとおりに受け取ったほうがいいように思います。すなわち「思考と存在とは同じである」ということは、「人間にとって思考されたものは存在である」ということなのだと。あるいは「人間にとって言葉として存在することと、実体として(実体であるかのごとく)存在することは同じである」と言ってもいいでしょう。
たとえば「死」という言葉を考えてみます。もともと日本に「死」という言葉はなかったそうです。だからいまでも「死」という漢字には訓読みがありません。動詞化するときには、「死す」というようにサ行変格活用にしてしまうしかない。「愛す」とか「信ず」などもそうですね。昔の日本には「愛」や「信」という観念はなかったのかと思うと、ちょっと寂しい気もしますが、「死」にかんしては、なくてもよかった、ないほうがよかった気がします。
折口信夫によると「しぬ」という言葉は、古来日本の言葉(和語)にもあったそうです。そして折口は「しぬ」に「萎ぬ」という漢字をあてています。つまり植物がしおれた状態ですね。あるいは気力や体力が衰えてぐったりする。着古した衣服などがくたくたになる。いずれにしても復活可能です。植物なら水をやればいいし、気力体力の衰えは適切に休めばいくらか回復する。衣服なども染め直したり仕立て直したりして着つづけることができる。「死」という無慈悲にして絶体絶命な観念は、おそらく「因果」などの考え方とともに仏教思想として伝来したのではないでしょうか。
同じようなことを、晩年の吉本隆明が「アフリカ的段階」にからめて語っていたのが印象に残っています。アフリカや南アメリカの先住民がシャーマニズムのようなものとして保存している古い精神のかたちには、死という概念が少しも含まれていない。文化史時代の宗教の元祖が生死の概念をつくる以前には、生死の概念はない。そのほうが人類史的にはるかに立派で、本当だと思わせる。原始キリスト教や原始仏教の聖書や聖典は、いま読むと立派なものだし、われわれには到底考えられないようなことが書いてあるけれど、人類史を広く数百万年の長さでとらえたとき、現世の聖人君子が編み出した宗教は相当堕落しているのではないか、といったことを『老いの超え方』という本のなかで述べています。2005年ごろのインタビューなので、吉本さんは80歳くらいですかね。
どうやら人類の長い歴史のなかで、大半の時期を人々は「死」という言葉なしで過ごしてきたようです。当然、死という観念もなく、ぼくたちが当たり前と思っている死は存在しなかったでしょう。死が人間の世界に降臨したのは、おそらく原始キリスト教や原始仏教が誕生したころで、せいぜい遡って3000年といったところではないでしょうか。逆に、「死」という厄介なものが存在するようになったから、キリスト教や仏教や儒教が生まれのかもしれません。また古代ギリシアではパルメニデスみたいな人たちが、存在について、「ある」ことと「あらぬ」ことについて考えるようになったのでしょう。
人間にとって思考されたものは存在する、ということだと思います。現に「死」という言葉が発明されてからというもの、今日に至るまで死は歴然として存在しつづけている。そして「死」という言葉が、死という観念や思考が、人間の生存をいたましいまでに縮減してしまっている。「人間の文化史的な堕落は、原始キリスト教や原始仏教の元祖たちが生死の概念をつくったところからはじまった」と吉本さんが言っているのは、そういうことではないかと思います。
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森崎さんに新しい言葉をつくってもらったおかげで、親鸞の思想にかんしては、ずいぶん見通しがよくなった気がします。たとえば悪人正機は、一種の誇張と解釈したほうがいいのではないか。その真意は善や悪といった差異にとらわれてはならない、ということではないでしょうか。だから端的に、「自己の手前」と言えばよかったのです。善人や悪人といった自己の手前があるから、善人も悪人も関係ない、みんな浄土へ往ける。阿弥陀仏の慈悲は万人に届くということでしょう。
善人と悪人のあいだに優劣をつけたのは、仏法の言葉で思想を語るしかなかったという時代の制約に加えて、聖道門への対抗思想であらざるを得なかった、という当時の仏教界の事情もからんでいるのかもしれません。もちろん親鸞は聖道門の自力廻向の考え方をひっくり返しているのですが、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言った途端に、自力と他力が同じ地平に、同じ言葉の世界に位置づけられてしまう。森崎さんも指摘されているように、そのために彼は晩年に至るまで執拗に聖道門を批判しつづけることになったのではないでしょうか。さもないと、他力はすぐに他力という自力になってしまうことに、親鸞は気づいていたのだろうと思います。
そうではあったにしても、ひとたび内包自然や存在の複相性という言葉を知ってしまうと、親鸞の「他力」は痩せているように感じられます。森崎さんが親鸞の未然として、他力のなかの他力、領域としての他力へ言葉を向けられているところだと思います。自力に対置される他力にはふくらみがありません。それは知に対比される非-知にふくらみがないこととパラレルだと思います。だから非-知ではなく「愚」なのでしょう。非-知と「愚」の差異が、親鸞にとっては無念義と一念義の違いだったのではないかと思います。
どうして一念義なのか? 何もしなくてもいいではないか。無念義でもいいではないか。親鸞はそうは考えなかった。一念と無念の差異は無限大です。なぜなら言葉がすべてだからです。森崎さんも書かれているように、「南無阿弥陀仏」という言葉自体は喃語に等しいでしょう。赤ん坊のムニャムニャと変わらない。このムニャムニャが「愚」だと思います。名号だけを称えるあり方が「愚」と言ってもいいでしょう。親鸞の一念義は、比喩として言えば、愚そのものを生きるということだと思います。
すると親鸞が言っている阿弥陀仏の第十八願は、パルメニデスの文にあたるように思えてきます。つまり「人間にとって言葉として存在することと、実体として(実体であるかのごとく)存在することは同じである」。愚そのものを生きるとき、称名念仏と存在は同じなんだ。南無阿弥陀仏と唱えた瞬間、そこに出現するものがある。何が出現するのか? 森崎さんの言葉では「内包親族」ということになると思います。それを彼は「正定聚」と言っているように思います。
正定聚とは何か? 親鸞の時代には「往生は必ず決まっている」という言い方しかできなかった。本当は生と死のあいだ、ということだと思います。生と死のあいだがある。そのことを親鸞は「阿弥陀」や「浄土」という言葉を使って言おうとしているように見えます。もちろん彼が言いたかったことは、そんな言葉では言い尽くせないものでした。だから「仮仏土」とか「往相・還相」とか、さまざまな言い方をしています。しかしどんな言い方をしても、阿弥陀や浄土といった仏法用語を使うかぎり、媒介・連結・統合という同一性に準拠する知の運動に取り込まれ、あっという間に信の共同体をつくり上げてしまうことは必定だったでしょう。
本当は死をひらきたかったのだと思います。
〈生の果てに死があるのではなく、存在の複相性の往還が内包という観念の母型に回帰するということ。わたしの言い方では、生の原像を還相の性として生きるとき、この観念は、知に対する非知ではなく、愚であること俗であること、卑小であること、無知それ自体となって、実詞化できないやわらかい生存の条理として、だれのどんな生のなかにもひっそりとあらわれる。〉(『歩く浄土』280)
いまに生きる親鸞は、ここに書かれているようなことを言いたかったのではないでしょうか。