日々愚案

歩く浄土279:情況論75-Live/COVID-19をめぐって「片山恭一vs森崎茂」往復書簡2

往復書簡・コロナ禍のなかで(1)

森崎茂様。第一信

 書簡、ありがとうございます。さっそく応答のかたちで第二信をさしあげます。これを書いているさなか、日本でもいよいよ三回目の接種がはじまりそうな流れになってきました。デルタ株が出てきて過去二回のワクチンが効かなくなったから必要ということですが、なんとなく後出しジャンケンみたいですよね。「だまされた」と思っている人も多いんじゃないでしょうか。それとも「仕方ない」と思っているのかな。

 ウイルスに変異株が出てくるのはごく自然なことで、ウイルス性肝炎みたいに一人の一つの肝臓で細々と増殖している場合でも、稀に変異株が出てきて抗ウイルス薬が効かなくなることがあります。ましてコロナ・インフルエンザのように何百万、何千万に感染して増殖していくケースでは、変異のスピードも格段に速いわけだから、デルタ株に限らず、シータ、オメガ……と無限に出てくるはずです。それに対応するワクチンを作って接種をつづけようというのが、現在の方針です。

 おそらく終点はありません。はじめた以上は、最後までワクチン依存の生活をつづけるしかない。ほとんど狂気に近い振る舞いではないでしょうか。どう考えても、ワクチンという設計図が根本から間違っているとしか思えません。その過程でいわゆる抗体依存性感染増強(ADE)が起こるのではないか、ということもぼくたちが共有する懸念の一つです。これについては書簡を重ねるなかで議論を深めていけたらと思っています。

 もう一つの懸念は、今回使われているワクチンが人類初体験の遺伝子ワクチン(mRNAワクチン、DNAワクチン)だということです。これが将来どんな結果をもたらすかは、分子生物学の専門家でもわからないと言っています。理論上、mRNAは細胞の核内に入ることができず、またDNAに変わることもないとされていますが、現に人間の体内には逆転写酵素をもつレトロウイルスが無数に存在するわけですし、ヒトの遺伝子のかなりの部分はウイルス由来ではないかと言われているくらいですから、本当に何が起こるかわからないと思います。

 以上のような現状を踏まえて、何が問題かということを、できるだけ本質的なところで問うてみたいと思います。森崎さんにいただいた書簡から少し引用してみます。

 新しい世界システムへ移行するために医学知という共同幻想に完全に同期するかたちで人類は一斉に入眠状態に入りました。揺籃期にある繭となり、来たるべき時代へと擬態を遂げたのです。いま人類は是非をぬきにしてこの状態にあると思います。
 科学知という新興宗教の繭のなかを揺蕩っています。同一律という外延知は人びとの生を分子記号に還元し2進法で再現することによって人間という概念を組み替えます。(中略)さしずめいま人類を襲っているバイオ・ファシズムはCOVID-19によるものですが、すぐにCOVID-Xに置き換わりさらに恐怖と戦慄が煽られワクチンの無限ループに陥り、わたしたちの生はバイオ・ファシズムに変態した専制によって統治されることになります。(「歩く浄土」278)

 ここに述べられているとおりのことが起こっているし、これから起こっていくだろうと思います。ぼく自身が漠然と感じていたことが明快に述べられていて戦慄さえおぼえます。このなかから幾つかのキーワードを抜き出し、応答できるところを述べてみたいと思います。さしあたりのキーワードは、「医学知」「同一律」「外延知」「バイオ・ファシズム」の4つです。

 とりわけ心を乱される「バイオ・ファシズム」について述べてみます。いまぼくたちの目の前にあるのはワクチン接種をめぐるものです。既定のワクチン接種を受けていないと移動の自由が制限される、飲食店や公共施設への出入りが制限される。スーパーや生協で買い物したり、通常の医療機関を受診したりすることもできなくなるかもしれません。

 ぼくの母はいま神奈川の妹のところにおります。88歳とかなり高齢ですが、ぼくはワクチン接種を受ける気がないので、病気をしても見舞いに行けなかったり、最期を看取ることができなかったりという状況になりそうです。現実的にかなり切実な懸念としてあります。長年つづけている剣道も、ワクチン接種を受けていないと稽古に参加できなくなるかもしれません。

 ここが入口で、そのあとは分子レベルでの生の管理へと突き進んでいくでしょう。どこかの遺伝子にがん細胞のもとになるエラーが生じれば、ただちに治療する。それが義務になり、受け入れる者だけがバイオ・シチズンとして保護される。受け入れない者は例外社会へ追い落とされて、かつてのユダヤ人みたいな扱いを受ける。このあたりの道筋は規定のものとして、すでに出来上がっている気がします。

 つぎに「外延知」について少し述べてみます。たとえば人間は寿命が尽きると死んでしまう、というのは典型的な外延知です。だから外延知はどこかで虚無に突き当たる、と言ってもいいでしょう。虚無を回避する手段として「長生き」とか「延命」といった発想が出てきます。それしか出てこない。

 いまは長生きも延命もお金で買うことができるようです。グーグルが出資したキャリコという医療ベンチャーがあります。ラリー・ペイジによると「健康、福利、長寿」にフォーカスした企業なんだそうです。具体的には老化や老化関連の病気の発生を抑えるとか、長寿につながる治療薬の研究開発をめざすとか言っています。お金でそういうものを買いたいという人はたくさんいるでしょうし、その気持ちはわからないではありません。

 それにしても、いったい何歳くらいまで生きれば満足なんだろう? 常識的に考えて、自分の子どもたちよりも長生きしたいと思うかなあ? 友だちもみんな死んでしまって、何匹もの飼い猫の死にも立ち会わなくちゃならない。いいことなんて何もないと思うんですけどね。まあ、それでもOKという人は、ご自由にと言うしかありません。

 これも外延知ですよね。お金をいくら外延しても、せいぜい贖えるのは長生きか延命くらい。でも肝心の虚無を埋めるものはお金では買えない。わかりきったことです。だからどこかで折り返してくる必要がある。しかし外延知のなかに「折り返す」という契機はないように思います。お金儲けにしても、どこまでも果てしなく儲けるしかない。何十億、何兆という富を得て、いったいどうすりゃいいんだと思っても、稼ぎつづけるしかない。

 テクノロジーや科学技術は、まさに外延知を結集したものですから、これはもう徹底的に折り返すことができません。技術は技術によって乗り越えるしかない。ハイデガーが技術論のなかで執拗に言っていることです。人間が技術を使うことは、技術に使われることでもある。コントロールすることは、コントロールされることである。こうした相互的、双方向的な関係が人間と技術のあいだにはあるってことだと思います。技術とは人間に制御しえない何かだ、という言い方をハイデガーは繰り返ししています。

 ぼくは友だちの学習塾で中学生に国語を教えています。現在の3年生の教科書にはフロン規制のことが出ています。夢の冷媒として20世紀のはじめに開発されたフロンは、地上では無毒・安全・安価ですが、大気中に放出されてオゾン層にまで達すると、強い紫外線によって破壊され塩素が発生する。この塩素がオゾン層を壊していくわけですね。オゾンホールなんてインパクトのある名前も生まれ、世界的な関心が高まったことから、モントリオール議定書が締結されます。以後、フロンの段階的な規制が進められ、代替フロンなるものが開発されたのですが、これが地球温暖化に悪影響を与えることがわかってきた。ということで目下、代替フロンの代替フロンが必要になっている。

 なんだかワクチン接種の無限ループを想わせる話です。外延知の一分野である医療・医学も、やはり折り返す術をもたないから、今回のコロナようにちょっと躓くと激しく暴走してしまうということだと思います。

 今回いただいた書簡に「西欧的知の偏り」という言い方が何回か出てきます。「畸形的な観念」というのもありますね。西欧的な知のどこが偏っていて、どういうところが畸形的なのか? フロンという物質は、もともとアンモニアにかわる冷媒として開発されたもので、主に冷蔵庫に使われてきました。もちろんクーラーにも使われていた。

 クーラーという発明品、いかにも西欧的だと思うのです。「暑ければまわりを冷やしちゃえばいい」って発想ですからね。書簡にこんな文章があります。

 敵とみなされる対象を殲滅し、征服すること。人間と環界の関係のつくりかたのなかに西欧的知の偏りがあり、それがコロナ禍の淵源でもあると考えてきました。(「歩く浄土」278)

 ここで「人間と環界の関係のつくりかた」と言われているものの一例がクーラーだと思うんです。ぼくが長年やっている気功のなかに、二十四節気導引養生法というのがあります。流派によって名前は少しずつ違うみたいですが、要するに春夏秋冬の二十四節気に合わせて身体を調律しましょうってことです。これでいくと「暑い季節に備えて涼やかな身体をつくっておきましょう」ってことになります。「人間と環界の関係のつくりかた」がまったく違うわけです。クーラーとコロナはどこかでつながっているのかもしれません。

 今回のワクチン接種が2回で終わらずに、イスラエルのようにブースターの追加接種へと進み、3回目、4回目……と無限ループに落ち込んでしまう。これは典型的な外延知の振る舞いですが、医学知についてはもう一つ言っておきたいことがあります。西欧由来の医学・医療には、自分に向かって折り返す契機がないということです。まなざしが常に自分以外のもの、非自己へ向かってしまう。医学・医療だけでなく、西欧的な知一般に特徴的なことだと思います。

 クーラーの例でいうと、「暑ければまわりを冷やしちゃえばいい」ということで涼しくて快適な環境で長く過ごしていたら、ぼくたちの身体にどういう影響が出るのか。折り返しの視線がまったくありません。森崎さんが書かれているように、「敵とみなされる対象を殲滅し、征服すること」だけが一義的な目標になって、それ以外の振舞い方ができない。この前まで主要な「敵」はテロリストだったわけですよね。タリバンとかISとか。そこにコロナが躍り出た。いまはコロナを「殲滅し、征服すること」に世界をあげて躍起になっている。

 どうしてタリバンやISといった敵が現れるのか。なぜコロナが人類的な脅威になっているのか。コロナをめぐる情報によって負荷されたストレッサーが人体にどのように作用しているのか? そうしたまなざしがまったくない。まさに西欧的な知の偏りであり、畸形的な考え方だと思います。

 西欧的な知というのは、要するに物理学だと思います。世界を物理現象として見る。あらゆるものを物質の因果関係として説明する。医学もこうした物理学の一分野と考えるとわかりやすい。感染症とは細菌やウイルスなどの病原体によって引き起こされる免疫反応である。免疫反応とは身体のなかの免疫細胞が抗原を排除しようとすることである。という具合に、どこまでも物質の因果関係として説明されます。目下、世界の主流は遺伝子ワクチンという物質を体内に注入することで、抗原抗体反応を誘発しウイルスにたいする増強部隊をつくろうってことですが、これもやっぱり物理学ですよね。

 誰もが恐れるがんもそうです。それは遺伝子という物質のエラーによって引き起こされた異物だから、早期発見早期治療によって取り除くことが望ましい。がんは加わりつづけるストレスに応答した身体の表現なのだ、という観点はまったくありません。ただ敵とみなして手術で取り除く、抗がん剤で叩く、放射線で小さくする。いわゆる三大がん治療によって、たとえ一時的にがんが消えたり小さくなったとして、患者はどんどん弱って死に近づいていく。

 前提からして間違っていると思います。原因と結果を取り違えている。遺伝子変化は原因ではなくて結果なんです。これまでは早期発見の精度がニュートン物理学のレベルだったので、せいぜい数ミリくらいのものしか見つけられなかったけれど、今後は量子力学レベルで精査されて細胞単位で治療されるようになる。

 COVID-19はいつべつの株になるかわかりません。そのたびに戦慄に襲われ隔離される。それを自然として受容するとき人間は終焉し、べつの人間へと変態します。いまその途上にあるのではないか。外延知を知の全体とすればもうどこにも行き場はない。やがてがんの超早期発見超早期治療がもっとも正統な治療法となります。(「歩く浄土」278)

 まさにそういうことですよね。人間の概念は完全に変わってしまうと思います。なぜこういうことになるかというと、物理学をそのまま人間に当てはめようするからです。人の心と身体を物理現象として粗視化し、物質的に介入しようとする。それは人間を原子爆弾やスマホと同じ地平で、同じモードで扱うことです。

 アインシュタインの重力方程式は原子エネルギーや原子爆弾として実装されています。病気や死といった人間的事象を物理現象として扱うってことは、要するに人間を原発や原爆と同じ手つきで扱うということでしょう。あるいはニールス・ボーアが量子力学を発案しなければ、間違いなくスマホはなかったはずです。人体に遺伝子レベルで介入するということは、人体をスマホと同類のものとして操作するってことです。この異常さを異常と思わないことが異常だと、ぼくは思います。

 森崎さんが書簡に引用されていたモデルナ社の社長のインタビュー(『Newsweek』2021.8.5)などを読むと、この人は完全に工業製品として自社製のワクチンを送り出していると思います。こういう人が社長をやっている会社の工業製品を、子どもも含めてがんがん身体に入れている。どう考えても無分別だし、非常に危険なことです。

 現代医学で治せる病気は限られています。端的に言って、がんを含めてほとんどの慢性疾患は治すことができない。「病気」という考え方が根本的に間違っているからだと思います。森崎さんの言い方を借りれば「解けない主題を解けない方法で解こうとして」いる。さまざまな体調不良にたいする「病気」という粗視化の仕方が、もともと畸形的であり、最初から「解けない主題」なのだと思います。

 にもかかわらず、これほど多くの人が近代的な医療・医学に盲従してしまうのは、背後に原子爆弾とスマホが控えているからだと思います。それだけが医学の威信を支えている。一般相対性理論や量子力学は知らなくても、原子爆弾やスマホの威力は誰もが知っています。だから医学が医学として存立するためには、物理学でありつづけるしかないんです。

 今回のコロナ騒ぎを見ていても思うのですが、お医者さんたちの病気や死にたいする考え方って、小学生や幼稚園児と全然変わらないんですね。いかに専門用語を使って精密に語っていても、中身は「ばい菌が入ると病気になる」ってことです。これ以外のことを言っている感染症の専門家がいたらお目にかかりたい。

 そもそも感染症の専門家って、普段は比叡山でお経を読んだり念仏を唱えたりしているような人たちだと思うんです。それがコロナ騒ぎでにわかにお呼びがかかって山を下りることになった。いまは政治の中枢でいろいろ言っていますが、本来はお経や念仏の専門家で、政治や経済や人間のことについては素人のはずです。だからぼくたちも彼らの言うことは、お坊さんのありがたい説法くらいに聞いておけばいいと思うんです。

 ところがコロナ恐怖に煽られて、世界中が一夜にして彼らの加持祈祷を恃みにするようになった。スマホ片手に世界は一瞬にして1000年、2000年前に先祖返りしてしまった感じです。三密回避とかマスク着用とか真剣に唱えているのを見ると、死穢を恐れていた古代や中世と変わらないと思います。かつてモノノケや怨霊と呼ばれていたものが、いまはウイルスと呼ばれている。名前が変わっただけで、考え方は何も変わらない。

 森崎さんも述べられているように、テクノロジーや工学技術が飛躍的に進歩したことは間違いありません。工学的な部分だけが進歩した。おかげで検査の精度は高くなり、救命救急の技術などもめざましく発展した。それは医学の進歩とは違うと思うんです。石槍や弓矢で戦争していたのがミサイルや原子爆弾になったとか、狼煙や伝書鳩で交信していたのがスマホになったという類のことでしょう。医学思想そのものは数千年変わっていない、ほとんど進歩していないと思います。

 近代医学とは物理学の人体への応用です。でも物理学のモデルが変わってないのだから、医学のほうも変わりようがない。今日の物理学モデルの発祥は、いまから2500年ほど前のミレトスに遡ると思います。タレスとかアナクシマンドロスとかレウキッポスとか、とりわけマルクスが博士論文のテーマにしたデモクリトスとか。彼らは現実を形作るのは粒状のものであると直感した。そして万物を構成する基本的な粒子として、それ以上分割されない「原子」なるものを考案しました。

 これが非常に画期的なアイデアだったので、現在まで生き延びてきたわけです。素粒子論からゲノム編集まで、最先端の自然科学やテクノロジーは、みんなこの紀元前モデルの上を走っています。医学思想が決定的に間違っているのは、2500年間現役でありつづけている物理学モデルを、そのまま人間に応用できると考えていることです。

 医学はどれだけ自然科学が精緻になっても科学にはなりません。はやぶさはニュートン力学の計算で小惑星まで行って地球に帰ってくることができますが、人間は機械ではなく、心と身体が相関する領域に病があるのです。(「歩く浄土」278)

 医学が科学になりえないのは、人間が物理現象ではないからです。風邪をひいて熱が出たということさえ、物質の因果関係だけでは説明できません。森崎さんが「心と身体が相関する領域」と述べられているところは、医学では解けないし、かつて誰もうまく解いていないと思います。ひょっとすると永遠に解けないかもしれない。解こうとする人間の心と身体が関与してきますからね。つまり自己言及の問題が入ってくるわけです。ぼくなどは解けなくてもいいのかもしれないと思います。そこが人間の奥深さであり可能性ですからね。

 もう少し原子論の話をつづけます。原子論の最大の欠陥は素朴な実在信仰にとらわれつづけることだと思います。果てしなく「実体」を追い求めてしまう。その結果、素粒子物理学などは完全に袋小路に入り込んでいるのではないでしょうか。標準モデルでは説明のつかないことがつぎつぎに出てくるので、弦理論(ひも理論)が考え出され、さらに超対称性理論ということになって、理論の正しさを証明するためには未発見の新粒子の存在が必要だ。じゃあ巨大な加速器を造って陽子を衝突させてみよう……という具合にきりがない。

 原子論の着想は、万物を形作る基本的な物質が存在するということです。ミレトスの人たちは、それを粒子状のものだと考えた。つまり現実をつくり出す基本的な粒子で、それ以上分割されない最小のものが「原子」というわけです。この瞬間に、「科学」という巨大な信仰が生まれたと言っていいのではないでしょうか。その経典には「同一律のかたちで実体を問え」と書いてあります。これ以降、科学信仰は「~とは何か」という問いのなかに閉じ込められてしまった。

 この問いの背景には、いかに多様で複雑な自然現象も、単純な事象に還元できるというドグマがあります。ぼくたちはそれを「粗視化」と呼んでいます。医学も含めて、科学(物理学)は粗視化という手続きを踏まなければ対象をとらえることができません。科学的認識はかならず粗視化を経ている。

 粗視化のレベルを変えれば同じ現象が違って見えることは、物理学では常識です。たとえば光は電磁波であり、同時にフォトン(光の量子)の一群でもある。あるレベルで波動として検出される光は、より微小なスケールで見れば雨粒のように降り注いでいる。このことは自然科学はけっして「それ自体」をとらえることができない、ということを意味していると思います。粗視化のレベルに応じて、ある断面や局面を見ているに過ぎない。

 もちろん病気も、医学的な視線によって切り取られた断片や局面に過ぎず、それ自体として存在するものではありません。そもそも粗視化という手続きを経なければ、病気も病人も存在しないはずです。医学的な粗視化によってがんや糖尿病と同定されるものも、本当は人によって意味が違っています。風邪を引くというけれど、その意味は人によって少しずつ違っていると思います。なぜ違うかというと、病気と呼ばれているものは、一人の人間を全体として見れば、その人の心と身体の相関的な表現だからです。病人や患者として束ねられない、その人固有の心と身体が「風邪」と呼ばれるものによって、その人だけの何かを表現している。

 現代の医学では、そんなふうに病気を見ることはできません。一人ひとりの固有な人間を一群の「病人」や「患者」として粗視化し、さらに「病気」や「疾患」という病理的事実として粗視化し、病理的事実にたいして病理的に対処する。これが現代の医学であり医療です。全円的な「その人」は、どの段階でも考慮されることはありません。〇〇さんが視野に入ってくるには、せいぜい終末期に至って本人のリビングウィルが考慮されたりされなかったりするくらいでしょう。

 今回のコロナにしても、重症化して亡くなる人もいればなんともない人もいるわけだから、ウイルスの個性よりも一人ひとりの個性のほうが大きいことは明らかです。病気はその人にとっての何かを表現しているんです。しかし医学・医療の視線のなかに一人の全体的な人間も、またその人一人ひとりの固有性も入ってこないため、素朴な実在信仰に依拠してウイルスという自然科学的な実体に的を絞るしかない。ウイルスとの戦いに勝利するなんて、悪しき擬人化の典型というか、問題の方向が180度違いますよ。

 森崎さんが数十年進められている内包論では「死」という観念は消えます。もちろん「病気」という観念も消えます。その人を全円的に見るまなざしを手にすれば、当然そうなるはずなんです。現在進行中の世界では「生存」が最大の価値になることは明らかです。これに対抗するためには「死んでも生きている」という考え方をつくるしかありません。ぼくたちは可能だと考えています。病気と同様に、死をその人固有の表現と考えればいいのです。外延知と内包知の違いは、実体論と表現論の違いでもあります。(2021.9.19)

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コメント

1 件のコメント
  • 倉田昌紀 より:

    おはようございます。小生、紀州・和歌山県の白浜町富田という地方の田舎に、棲んで生活している者です。今は69歳と5ヶ月になります。
    50歳の頃から妻との話し合いの結果、二人の娘が、大学を出て社会人にとなるまで、別居生活をし、そして離婚するということで。また、娘たちの学費などの費用は、小生の方で持つ、ということで、別居生活が始まりました。
    それからは、小生、ひとり暮らしとなり「食生活」が、外食などが中心となりました。その時は、教員暮らしをしていました。「癌食」の日々でした。
    案の定、多分ストレスと食生活で、2009年11月29日に、57歳でしたが、地方の癌拠点病院で、もう手遅れの膵臓癌で、手術は不可能で、運よくて余命6ヶ月と(それも抗がん剤・ジェムラールを使って)と告知して頂きました。安保徹さんなどの本から、情報や知識を得ながらも、小生はその時、セカンドオピニオンの制度を使って、膵臓癌の手術の症例数の多い、大阪市の病院に転院することができ、そこの病院の方針(術前放射線治療と術後すぐの肝臓への転移を防ぐための抗がん剤治療)に従いました。そこの病院でも手術をしなければ、余命約7ヶ月のステージⅢからⅣaの段階と診断されました。小生は、そこの病院の方針に従い、2010年4月6日に「膵頭十二指腸切除術」という名前の手術を58歳になった次ぎの日に受けました。(教員暮らしは退職勧奨制度を受けて53歳の時に辞めていました)内臓は「大郭清術」で継ぎ接ぎとなりました。別居生活もあって、紀州の田舎から都市の入院生活では、様々な体験をすることができる機会となりました。そして今日は、2021年9月24日です。
    その間の2012年1月には、下血が始まり(膵癌手術の後遺症ということでした)膵癌手術を受けた病院から、吹田市の大学の系列病院を紹介され、そこの附属病院の放射線科で「膵頭十二指腸切除による門脈狭窄へのステント留置術」を、2012年9月25日に受けました。小生は60歳になっていました。その後、病院で偶然にも出逢った8歳年下の方と再婚し、今は紀州・白浜町富田で二人暮らしをしています。
    長々と書いてしまいましたが、小生は、膵臓癌となり、今の医療の持つ「技術」を選択することによってそのシステムに取り込まれ、生きて生活し、暮らしていることになるのです。消え去るか、という時に当面した時、小生は、上記の過程を選んだのが、小生の現実の事実そのものです。これは、貨幣に、政府に、世間に、社会に、取り込まれて生活している今と同一です。
    その後、再婚したパートナーと両親を施設や病院、在宅介護で見送り、寺との檀家制度、墓仕舞い、地区の制度や慣習、水利組合制度、土地の返却や実家の後始末をし、生活に伴う様々な卑近な住む土地や地域の制度・慣習等々から、離脱しようとするが、小生自身の論理が曖昧ゆえに、小生の中の地区との相互関係から生じる、小生の心の葛藤からの「複合感情」の動きに、そのストレスにヤられてしまいそうになりながら生活しています。
    片山さんの言葉や考え方、思考に頷きながらも、小生の現実生活は、覚悟とその弱さなどの故に、心身が分裂していることに気づかされています。これは、心地よいものではありません。
    小生の「あきらめ根性」という自ら主体的に服従する「奴隷根性」に取り込まれながら、生きて生活しています。そこで「無縁の原理」に出合ったのですが、その「無縁」を、活かすことが中途半端になっていることを感じています。消え去る手前の巷の慣習や法律に基づく身辺の片付けや整理を、しなければならないのですが、時間が過ぎて行くばかりで、実際行為は、なかなか実行できずに生きて生活しています。自分自身の世間や社会への「取り込まれ」具合が、不徹底なのでしょう。これらの小生自身の中途半端で不徹底な生きて生活している自分自身を、内省し知ることに貴兄や森崎茂さんの歩く浄土の「ことば」たちに励まされている自分自身を感じ、自分を励ましながら生きて生活しています。再婚したパートナーに助けてもらいながらですが。心静かになることを願い、また、心は悩むためにあるのだと思いながらも、落ち着かずに逃げている自分自身と共に生きて生活する日々なのです。
    いつも、「歩く浄土」のお二人のことばに、その潜在的な力に感謝しています。失礼いたします。

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