日々愚案

歩く浄土280:複相的な存在の往還-幼童について10

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ほんとうに久しぶりの、2021年9月以来の更新です。危機のなかでかんがえたことを書きます。さぼっていたわけではない。どうすることもできない理由によって書けなかったのです。それでも困難な日々のなかで少しずつかんがえをすすめてきました。かんがえないと生きていけなかった。だから必死でかんがえた。

youtubeでイヴ・ネットのピアノソナタ1から32(9時間21分34秒)を来る日も来る日も小さな音で繰りかえし100回は聴いた。圧巻は32番。作者も演奏家も音のなかに消えている。悲惨な晩年のベートーヴェンの生涯が作曲者から離れて作曲した音そのもの、無名まで到達してる。生の重力から解き放たれてベートーヴェンが音そのものになっている。内面の文学や芸術が普遍的表現の水準に達することは稀である。ベートーヴェンの音はそこまで突きぬけている。稀なそれらは内面の表出を意図せず、意識せずに超えて、内包自然と総表現者まで到達しているようにわたしには感じられた。内面化も共同化もできない未知の表現が期せずして実現されていて不思議な感じに包まれる。

文学や芸術もまた共同幻想という観念のひとつの枝にすぎないというとき、文学や芸術を貶めたいのではない。もっと深い内包自然のうえにそっと文学や芸術をおいてみたい。生の原像を還相の性として、総表現者の卑小な愚を生きるときそのことが可能となる。過酷な現実は内面化や共同化できるほどやわではない。圧倒的な生の実感がそこにある。

生きていることは、観念の複相性を往還するときあらわれる、全円的な観念の母型そのものを意味している。そのことは内包にとってすでに自明だった。この存在がかちんかちんに緊張するときがある。存在の危急存亡だ。それは不意にあらわれる。

生の果てに死があるのではなく、存在の複相性の往還が内包という観念の母型に回帰するということ。わたしの言い方では、生の原像を還相の性として生きるとき、この観念は、知に対する非知ではなく、愚であること俗であること、卑小であること、無知それ自体となって、実詞化できないやわらかい生存の条理として、だれのどんな生のなかにもひっそりとあらわれる。

もしも内包自然という表現の契機があるとすれば、外延知が公準としている時間とはまったくことなった時間が可能となるだろう。その直観をたどりつづけた。すでにブログで公表してきた、観念の母型について再掲する。

<生誕と終命が内包という観念の母型に円環していることが、存在の複相性を往還することにつながり、そのことがリアルに感じられた。死が生の一部であることはたしかだが、では、生誕と終命のあわいの生涯、つまりわたしたちの個々の生ということだが、内包という観念の母型とどう関係しているのか。そのことがすこし言えたと思う。わたしの思惑としては、生と死という二項対立をわずかに組み替えることができた。存在の複相性を往還することで内包という観念の母型となめらかにつながる。この自然な過程のどこにも死はない。ここで言われる死は意識の外延性の終局の出来事である。どこに終命があるか。意識の外延性のなかにしかない。内包自然が外延的な死を抱き取ることで、外延的な死は内包自然の生の一部となり追憶する未来として生きることができる。死はだから終命とは内包という観念の母型への生まれ還りである。性を内包した人間という生命形態の自然はそういうものとしてある。>(「歩く浄土268」一部加筆)

昨秋、近親の危急存亡があり、内包についてあらためて考え直しました。考えるだけ考え、すこし内包をすすめることができたようにおもいます。なにを体験したのか。一瞬は領域として内包的に存在し、その存在はじかにそのまま永遠だとおもう。そのあたりのことを書こうとしている。ここは、いつも追憶されるかなたであり、どうじに、ここの手前であり、だから、ここは、いつでも、どこへでも行ける。これほど単純なことはない。

この気づきはむきだしの生そのものへと向かいつつある現在の核心的な課題とも通底しているとおもう。気迫をこめて書こうとしたとき、ロシアのウクライナ侵略戦争が起こり、身の不調にみまわれ、書くのがさらに延びに延びた。

近親の危急存亡。生きた心地がしないふた月は千億の夜のようだった。2021年の9月から11月。書けなかった。コロナも消えた。内包はこの事態に耐えうるか。そのことだけを考えた。考えるほかなかった。なにか特別の体験だった。そのあいだわたしはできるかぎりのことをやり、高村光太郎の『智恵子抄』と『葬送のフリーレン』をむさぼり読んだ。このふたつの作品から今回の幼童は大きな示唆を受けた。それが近親の危急存亡にたいするひとつの手がかりでもある。

内包を改めて問い直し、いくつかのことに気づいた。存在の複相性を往還するとやわらかい生の条理があらわれるとながく書いてきた。存在の往還によって出来する幼童のことだ。

死ぬと生きるが対立するのではなく融合すればいいと考えた。わたしの言い方では起こったことはすべてよし、死は生に内包されるということだ。危急存亡に直面してそのことを考えるには困難があった。ともかく生きた心地がしなかった。そうとしか言いようがない。やっとここまできた。奇跡だと思うし、機縁だというしかない。玄妙な巡り合わせだった。わたしの考えてきた内包は今回の危機になんとか耐えることができた。

今回の絶体絶命の出来事を通じて、ほとんど起こりうる事態、考えられるすべてを考えた。外延知では怯えることしかできなかったと思う。いまのコロナ禍のように。今回の出来事はコロナどころではなかった。3ヶ月余、コロナ禍をすっかり忘れた。それほど深刻だった。まだその渦中にあるのでなにかが言えるわけでもない。それでも生還した。それがすべてだ。そしていま、ウクライナ・オン・ファイヤー。めまぐるしく世界は転変する。

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メビウスの輪になったひとつながりの内包という性をたどると、わたしがあなたであり、あなたがわたしであることを一義とする根源の一元が、自己の自己についての意識とはなんの関係もなく、いきなり立ちあがる。危急存亡の生きた心地のしなかった数ヶ月のあいだ、考えに考え、その考えることをさらに考え、ある言葉が〔然り〕として生まれた。内包とは時間の奥行きのことだった。まだそのことについて書いたことはない。

内包という時間の奥行きについてふたつのことを前提とする。親鸞なら「この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり」(「末燈鈔」)というし、滝沢克己はおなじことを「こちら側が信じる信じないに先立って結びつきがすでにあるから信ずることが起ってくる」と言う。おなじことをレヴィナスも、だれかをかけがいのない人として思うからこそ、愛があると言う。いずれも自同律の手前があることを言っている。幾人かの稀有な先人が感得した言葉の手前をわたしもまた生きていることは内包の前提としてくりこまれている。そのうえで他力のなかの他力である内包時間の奥行きについて書こうとおもう。

くり返し存在の複相性について書いてきたが、メビウスの輪に比喩される性は同一者の思考が疎外した過去・現在・未来という時間をすべて包んでしまうことができることに、危急存亡を体験してはじめて気づいた。メビウスの輪となった性を時空に敷衍すると、過去、現在、未来が、現在を起点に一瞬の永遠として過去と未来が円環することになる。時間が一捻りされてつながってしまう。外延存在をくるっとまるめた聖道門の自然生成にみられる竪超の信ではない、やわらかい時間のかたまりが降るように舞い降りてくる。万余に渡りだれもほどくことのできなかった同一性というゴルディオスの結び目をいま内包が弛めつつある。内包時間という内包自然から生成される時間がある。内包の性とはなにか。その時間の深淵についてかんがえる。

わたしの身に起こったことがどんなことであったかできるだけ再現してみる。吉田秋生の『バナナフィッシュ』は40歳前のわたしの元気の素だった。すきなロックがそうであったように。坂口尚の『石の花』も。マンガやロックからたくさんの元気をもらった。そして『葬送のフリーレン』に包まれている。この作品の不思議な印象をなんと言ったらいいか。なぜか、そのとき高村光太郎の『智恵子抄』を思いだした。『葬送のフリーレン』を読んで感得した、死を未来へ連れた行く魔王使いフリーレンとその仲間たちの幼童を、「智恵子の半生」の幼童と重ねながら、存在の複相性の往還について、これまでとはことなったたどりかたをしてみる。

優者ヒンメルが大魔王を滅ぼす冒険が終わったところから『葬送のフリーレン』(原作:山田鐘人/作画:アベツカサ)は始まる。優者ヒンメル、戦士アイデン、僧侶ハイター、魔法使いのフリーレンたちを中心に、魔王を倒した後日譚が語られる。1000年は軽く生きるエルフ族のフリーレンが魔王退治に同行した人間ヒンメルに関心を示す。わたしはこのマンガをフリーレンとヒンメルの根源の性のつながりと、戦士アイデンと僧侶ハイターの内包親族をめぐる物語として読み、惹き込まれた。超人のフリーレンが人間のヒンメルを恋するその全体が『葬送のフリーレン』の根幹をなしている。

大魔法使いのフリーレンは少女に見えるが人間ではない。人間よりはるかに長寿だから人間にとってのはるかな時間がたった一瞬のこととしてある。超人のフリーレンはある出来事を通じて人間のヒンメルに関心を持つ。神が人間に関心をもつようなことだ。超人のフリーレンと勇者ヒンメルは根源の二人称をなしている。その刹那、ヒンメルとフリーレンを取り巻く関係は内包親族となる。むろん葬送のフリーレンという作品をわたしのように読むのは読者の特権である誤読になるが、ニーチェの永劫回帰や超人よりフリーレンのあなたたちの記憶を未来に連れて行く超人のほうがずっといい。

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ヒンメルとフリーレンは内包ですね。すきなひとに出会うために生きている。ほかに理由はない。何度もあると身がもたないので一回あれば奇跡だとおもう。わたしがかんがえてきたこと、いまも考えていることは文学や芸術とほとんどなんの関係もない、わずかな例外を除いて。すきは幼童。非知が消える愚そのもの、それ自体だとおもう。そのときだけなぜが消える。

名作『葬送のフリーレン』を内包論として読むことができる。おそらくこのような読み方をする者がほかにいるとおもわない。わたしの読みでは『葬送のフリーレン』の4巻目、第33話、「フォル爺」が頂点をなしている。そのなかから印象深いところを拾っていく。フォル爺も戦士アイデンもフリーレンほど長命ではないが人間よりははるかに長生きする。ヒンメルが死んだあと旅の途中でフリーレンはフォル爺と再会する。

<まだ若者だったヒンメルが80年前にフォル爺に問いかける。フォル爺はなぜこの村を守っているのだ。昔の話だからどうでもいいだろうとフォル爺は答える。人はどうでもいいことに命を賭けない、とヒンメル。儂は人間だった妻とのこの村を守るという約束を果たしているだけだ。もうあのひとの顔も声も眼差しも思い出せない。ヒンメルおまえはいい勇者だ。記憶を儂が未来へ連れて行ってやろうと申し出ると、フリーレンがぼくたちの記憶を未来へ連れて行ってくれると答える。
そうして80年後。フリーレンにフォル爺が訊く。その勇者の顔は覚えているか。馬鹿にしないで、全部覚えている、ヒンメルはわたしが人間を知ろうとしたきっかけだと、答える。フォル爺の記憶も未来に連れて行ってあげる。人生の最後におまえに会えてよかったとフォル爺。。。それ80年前もおなじこと言ってたよ。>

たわいないことの深読みではないかといえば言える。それでもわたしはそのようにおもえた。過去も現在も未来も内包時間としてはおなじことで、過去は過去であり、現在は未来への通過点であり、現在の彼方に未来があるとする意識の線状性として時間があるのではない。優者ヒンメルと魔法使いのフリーレンの関係はそうとしか読めなかった。外延知によって統覚される世界では、過去も、現在も、未来も、外延知ではそれぞれ異なる位相となるが、内包知が統覚する世界では、過去も現在も未来も一瞬が内包することになる。『葬送のフリーレン』を読んでそんなことをかんがえた。

このあたりを読みながら追憶される未来が鮮やかにフラッシュバックした。それは同一性の手前にある精神の古代形象の復路だ。ひとつの思考実験をやってみる。ここに適当な長さのテープがあるとして、表に今、裏に過去と書き、一捻りしてつないでみる。今をたどると、わたしがあなたになるように、過去になるはずだ。では、テープの表に今、裏に未来と書いてひねってつないでみる。今は未来となる。2が1であることは同一律には隠されているが、過去が今に、今が未来になることは、曲率ゼロの外延知の平面では、過去があり、今があり、今の延長に未来があるとしかならない。シンプルなメビウスの輪では過去が滑らかに今になり、今は未来へと接続される。トポロジカルな曲面を曲率ゼロの平面に押しつぶすことはできない。自己意識を起点に世界を構築すると、自己意識の剰余は、自己意識と共同の符牒をもつ共同主観的虚構を疎外することで自己意識とつながる。文明の外在史と精神の内在史という意識の範型がここでうまれる。とても窮屈な自然だとおもう。

もしわたしがあなたであるならば、いなくなったわたしはあなたとともに未来へとつれていかれる。かつてわたしがわたしであった過去を追憶する未来としてあなたが生きていく。ひとりでいてもふたり、ふたりでいてもひとりだから。どこにも外延知の死はない。外延知の時間が内包知では位相的に差異のないものとして表現することが可能となる。外延知の過去、現在、未来は、内包知では過去も現在も未来も、いずれも一瞬で、その一瞬が永遠となる。この永遠によって聖道門の自然生成が切断されることがアルファでありオメガとなる。竪超の信と内包の信は似ているようにみえてまったくちがう。

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もうひとつの幼童をとりあげる。
ヴェイユが自己を無にすることによってその自己を神に差し出したように、高村光太郎によって描かれた『智恵子抄』の智恵子さんは統合失調症の破瓜型になることによって、高村光太郎より近傍に存在することを選んだ。その感慨が高村光太郎にとっての、死ねば死にきり、自然は水際立っているということだった。智恵子さんの想いの深さを移し取ったのではないかとエビナリクさんに示唆されてなるほどと驚いた。エビナさんありがとう。これまで吉本隆明が愛好する高村光太郎の言葉は身勝手なものだと書いてきた。人間を超出する自然になることで高村光太郎となる、その自然を受けとった言葉が「死ねば死にきり、自然は水際立っている」となる。奥さんの自然を了解したという応答がなければ身勝手な死の感受性を述べることにしかならない。いままでそう理解してきた。迂闊だった。ふたつの自然を往還することなくこの言葉が生きることはない。

高村光太郎の「智恵子の半生」は底がみえないほど深い。なぜ、誰にむけて作品をつくるのか。高村光太郎は言う。その一節をそのまま引用する。

<妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。・・・彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。・・・一日の製作の終りにも其を彼女と一緒に検討する事が此上もない喜であった。又彼女はそれを全幅的に受け入れ理解し熱愛した。・・・もう見せる人も居やしないという思いが私を幾箇月間か悩ました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識というようなものだけでは決して生れない。そういうものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあっても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあろう。大君の愛である事もあろう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものを必ず作りあげる潜力となるものはない。製作の結果は或は万人の為のものともなることがあろう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかった。作りたいものは山ほどあっても作る気になれなかった。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知っているからである。そういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によって却て私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言わば彼女は私と偕(とも)にある者となり、私にとっての永遠なるものであるという実感の方が強くなった。私はそうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終って製作を眺める時「どうだろう」といって後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。・・・餞(はなむけ)とする事を許させてもらおう。一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にも敢て此の筆を執ろうとするのである。>

「一人に極まれば万人に通ずる」のはなぜか。機縁として言えば、根源の一人称が共軛的にくびれて根源の二人称になり、この根源の性は根源の一人称を無限小の潜力として内包する。だから、ひとりでいてもふたりということと、ふたりでいてもひとりが矛盾なく生きられる。根源の一元は存在の複相性としてわたしたちのだれもどんな生も貫いている。

高村光太郎はこのできごとを、「智恵子はその個的存在を失う事によって却て私にとっては普遍的存在」となり、「智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言わば彼女は私と偕(とも)にある者」として普遍的な存在になったと書いている。『智恵子抄』の詩のなかに、智恵子をなぞる言葉がいくつかでてくる。拾い出してみる。

<もう人間であることをやめた智恵子に・・・/「風に乗る智恵子」
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の・・・/「千鳥と遊ぶ智恵子」

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、/わたしのうしろのわたしに憧れる。/智恵子はくるしみの重さを今はすてて、/限りない広漠の美意識圏にさまよひ出た/わたしをよぶ声をしきりにきくが、/智恵子はもう人間界の切符を持たない。/「値いがたき智恵子」

―わたしもうぢき駄目になる/意識を襲う宿命の鬼にさらわれて/のがれる途無き魂との別離/その不可抗の予感/―わたしもうぢき駄目になる/・・・/この妻をとりもどすすべが今は世に無い/わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し、/閺(げき)として二人をつつむこの天地と一つになった。/「山麓の二人」>

高村光太郎が描く智恵子の狂いかたに漠とした既視感があった。どういうことかたぐっていくとヴェイユの神との関係に似ていることを想起した。

<私の苦しみの、なくそうとしてなくせない根底である〈わたし〉、このなくそうとしてなくせないもの。それを普遍的なものにすること。>『重力と恩寵』は、同書の「消え去ること」という断章にもすがたをあらわす。<神が私に存在を与えたのは、私がそれを神に返すためである。(略)私はすがたを消したい。私の見ている事物がもはや私の見ているものでなくなることによって、完全に美しくなれるために。・・・私がそこにいないときの風景をあるがままに見ること・・・・・・・・/私がどこかにいれば、自分の呼吸と鼓動とで天と地のしじまを穢している。>ヴェイユが自己を消し去ることでつくろうとした普遍はどのようなものだったか。<ある一つの秩序に、それを超越する秩序を対比させる場合、超越するほうの秩序は、無限に小さなもののかたちでしか、超越されるほうの秩序のなかに挿入されえない>(春秋社刊『シモーヌ・ヴェイユ著作集Ⅲ』所収「重力と恩寵」)ヴェイユの思想のなかで普遍と消え去ると無限小は不即不離のものとしてあることがよくわかる。

ヴェイユの無は神に差しだされた。おなじように人間であることをやめて智恵子は光太郎より近傍にいることを選んだ。ヴェイユと智恵子のこころのうねりはとてもよく似ている。

根源の一人称をまるごと生きた智恵子さんが自己を分別する同一者の思考で生きようとすれば人格は分裂するしかない。だから精神医療は薬で錯乱を宥めることしかできず、破瓜型の精神病といわれるものも時代が生んだある病理にすぎないようにおもう。ニヒリズムを超える権力への意志、あるいは新しい諸価値を永劫回帰と超人が媒介するとニーチェはかんがえたが、人間であることを止めて天然の自然を生きた智恵子さんはニーチェの憧れを生きてしまった。ニーチェの脳天を貫通した自然もそういうものであったような気がする。

根源の性を分有することを赦さず錯乱することで根源の一人称を生き切った智恵子さんの自然や、自我を無にすることで自己を神に差しだしたヴェイユの自然を、むしろ変わるほどに変わらない、存在の複相性を往還することで生きられる内包自然のなかにそっと誘いたい。ふたつの幼童とは趣はちがうが、自同律からの途方もない逸脱がある。自同律をまるごと飲み込む内包という観念の母型が生にとって無限の可能性だと思うからまだ内包論をつづけている。

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4、5年前、文学や芸術もまた共同幻想から派生したひとつの自然ではないかとかんがえはじめ、ああ、ここに深入りするとただ一人の読者もいなくなると感じたことを覚えている。

文学もまた国家と同様に共同幻想であるという考えは人びとの思考の慣性にとって受け入れ難いと思う。人間の意識を外延的に表現するかぎりそうだとしか言いようがない。内包論からすると意識の外延的な表象である意識の主観的な意識の襞にある情動とその総和である共同主観的虚構は矛盾なく同期することになる。あたかも渡り鳥の群れの一羽が飛ぶ方向を変えると、なにかそこに意志があるかのようにして、群れ全体が大きく方向転換する。主観的な意識の襞にある信を文学や芸術と言い、この信と矛盾や対立や背反する意識を共同幻想と言おうと、そこには観念のあり方としてなんの違いもない。それほど人間の観念がつくった現実という観念の篩が粗いということなのだ。

いま世界は人倫を決壊させたまま漂流している。どこへたどりつくかだれも見通せない。おおよそつぎのように描写できる。

グローバリゼーションはグローバルファシズムを招来することがコロナ禍とロシアのウクライナ侵略でいよいよ明らかになってきた。事態のもっとも深奥に固くてほどけなくなった自同律が外延知の極限として潜んでいる。自己同一性が必然として国家や貨幣という共同主観的虚構を要請し、さらに高次の世界秩序をつくろうとしている。なぜ自同律にこだわるのか。自己同一性という観念を拡張しないと同一性による生の監禁からのがれられないからだ。

新しい世界システムへ移行するために医学知という共同幻想に完全に同期するかたちで人類は一斉に入眠状態に入った。独裁の象徴である習近平でさえ科学知の属躰でしかなく、過酷なロックダウンをやっている。グローバルな科学知はグローバルなファシズムといつでも可換である。諸国家に聳え立つ科学知とテクノロジーの威力。人びとは胎児のように身をかがめなにかへの過渡としてある揺籃期の繭となり、来たるべき時代へと擬態を遂げた。いま人類は是非をぬきにしてこの状態にあると思う。同一律という外延知は人びとの生を分子記号に還元し2進法で再現することによって人間という概念を根底から組み替える。さしずめいま人類を襲っているバイオ・ファシズムはCOVID-19によるものだが、すぐにべつの感染症に置き換わり、さらに恐怖と戦慄が煽られワクチンの無限ループのなかで、わたしたちの生はバイオ・ファシズムに変態した専制によって統治されることになる。

そしてロシアによるウクライナ侵略がはじまり、熱核戦争の暗い予感がある。核の抑止力によって保たれた非戦が決壊しようとしている。科学知とテクノロジーによる新世界秩序へのあきらかな精神的退行として世界は目を頭の後ろにつけて前に進んでいる。

上海のロックダウンをみていると、外延知の枠組みにある科学知やテクノロジーが、諸国家の国家権力のはるかな上位に君臨していることが明らかになっている。科学知が強固な宗教として地上を睥睨すると、習近平やプーチンの独裁でさえ最強の共同幻想の属躰としてふるまうしかなくなる。独裁者のプーチンや習近平が科学知とテクノロジーの臣民にすぎないことに新世界秩序のシステムの強大さがある。このことは銘記しておいたほうがよい。共同幻想となった科学知がファシズムとなってあらわれているのであって、ファシズムもまた世界新秩序の属躰にすぎない。

内面は共同幻想の支流というところまでいってしまう。外延知はそういうものでしかない。内面は共同性を凌駕するものではなく、共同性の属躰にすぎない。内面は大きな自然のなかのちいさな自然であり、共同の幻想のひとつの領域にすぎないことがコロナ禍であらわになった。

そういうことを西欧的知性の持ち主のニーチェは言いたかったのではないかと不思議と寛容になっている。かれなりにもうひとつの人類史の可能性を妄想し、狂気のなかで死んだ。内包論はニーチェの権力への意志を継承しているとおもっている。ノーバート・ウイナーのサイバネティクスやフォン・ノイマンのゲーム理論、核物理の進展にたいして双手を挙げて降参したハイデガーの技術論とニーチェの世界構想はコロナ禍のなかにピッタリ収まる。フーコーの人間の終焉はじつにあっけなくコロナ禍によって実現した。しかし外延知の人間の終焉は同一律の必定にすぎない。いやそうではない。内包があるからまだ無限の可能性がある。

人間の終焉は同一律の必定で、なにか特定のタイミングで終焉したのではなく、終わりつづけていた、ということになる。終わりつづけつつそれにもかかわらず、終わりようのない一陣の風も吹いている。それがふいに偶然みいだされる無限にちいさなかたちで表象されるものであるとしても。。。ニーチェのあらゆる価値の価値転倒を内包は継承していると実感している。

ニーチェについて半世紀の間に3回読み方を変えることができたのはよかったと思っている。優柔不断ということではない。ニーチェのニヒリズムのなかに今般のコロナパンデミックのうそが包括されているからだ。あらゆる価値の価値転換はもうひとつの人類史の可能性を可能とするものだったが、外延知の制約によってまだニーチェの試みは解読されていない。外延知の思考の慣性でニーチェを読み解こうとしても、解読は外延知の戯れにとどまることになる。どういう描写をしても外延知の思考の枠組みから逃れることができない。わたしに起こった危急存亡と身の不調の背景で、コロナ禍は進行し、2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵略戦争が発動された。いずれの出来事も外延知では解けないので内包論をつづける。

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親鸞は他力のなかの自力はあるが、他力のなかの他力はないと「末燈鈔」で書いている。わたしは他力のなかの他力が内包自然として存在するとかんがえている。わたしはリアルな実感として他力のなかの他力があるとおもう。本から得た知識ではない。苛烈な生を親鸞は生きたが、他力のなかの他力を生きるほどは追い詰められてはいなかったのかもしれない。あるいはわが子、善鸞を義絶したことについて、書かれぬ苛烈があるのかもしれぬ。

浄土教の教義を解体したにもかかわらず巨大な親鸞教団ができたことは、どこか他力のなかに他力という共同の符牒が潜んでいたからだ。他力のつながりが巨大な教団を生むのはどうかんがえても矛盾する。他力の手前にもうひとつの自然がある。非僧非俗の非知では途方もないこの世界の変貌を組みかえることができない。知と非知を対比することで生きられることはもうなにもない。他力のなかの他力をつくらないと、浄土教の教義を解体できても、還相廻向を説いても、非知のありようを拡張することはできない。このわずかなすきまが社会性や共同性を疎外してしまう。親鸞の他力や自然法爾には、ほんとうのことをいうと有情と有縁がふかくからんでくる。親鸞は他力のなかの他力はないと言っている。

<他力のなかには自力とまふすこと候とききさふらひき。他力のなかにはまた他力とまふすことはききさふらはず。>(「末燈鈔」)

ここで親鸞が他力のなかの自力というのは聖道門の信をさしている。

<竪(じゅ)というのはたてという言葉である。これは自力聖道門の難行道の人にいうのである。横(おう)はよこということであり、超は超えてというのであって、これは仏のお誓いと修行と救いのお力といった他力の船に乗ってしまうと、生死を繰りかえす迷いの大海を横にのり超えて、真実報土の彼岸に着くのである>(「一念多念文意」石田瑞麿訳)

謂われていることはじゅうぶんわかる。親鸞の思想を作品として、詩として読むと、べつのことが言える。他力のなかの他力はないと親鸞が言うとき、それが親鸞にとっての思考の慣性である。親鸞もまた自同律を疑っていなかった。なんどでも言おうとおもうが、ある思考の型を前提とするかぎり、だれもこの思考の袋小路の封印を解くことはできない。親鸞においてもまた。同一律の絶妙さを懼れよ。

親鸞の思想にもっと深入りしたいので、片山さんの内包理解をかれのブログから引用する。

<外延知というのは森崎さんの言葉で、自同律を公準とする知のあり方のことです。もう少しわかりやすく言うと、同一性によって存在を定義することですね。たとえば「私は存在する」ということは、「私は私である」ことと同義と考える。また「私はあなたではない」けれど、「あなたはあなたである」から「あなた」も存在する。このように同一性や同一律を基準にすると、どこまでも自己と非自己が析出されていきます。

これが外延という知のあり方です。したがって外延知とは、自己と非自己として世界を粗視化する意識や視線と言ってもいいでしょう。外延知のなかで生きることは、「私は私である」という同一性を保全することです。私以外のあらゆる非自己から、「私は私である」ことを守ることが生になる。森崎さんが「むきだしの生存」と言われるところです。>(「今日のさけび」2022.3.2)

知の崩壊が起こり、外延知が不可避に拘束するゴルディアスの結び目を切断するものを内包と定義した。切断することでなにが生まれるか。存在の複相性という未知の熱い自然がふいに出現する。まさに同一性の背後の一閃です。このメールに片山さんは応えます。

<まず、外延知がなぜゴルディアスの結び目(解けない難問)に逢着するかというと、森崎さんの言い方をお借りすると、最初から「解けない主題を解けない方法で解こうと」しているからです。

ぼくは「有情の手前に目に見えない有縁が潜んでいる」という発見が内包論だと思っています。>(「今日のさけび」2022.3.3)

<「往相の外延知の結び目を緩める」、つまり自同律を公準とする知のあり方にたいして、同一性の拘束を解かれた内包知という別の世界を対置することによってだと思います。>(「今日のさけび」2022.3.6)

こういうことを前提としながら「不可逆」という概念に相転移のようなものを片山さんは感じる。そのあたりをかれはつぎのように語っている。

<このところ滝沢克己さんの「不可分、不可同、不可逆」が気になっています。滝沢さんが神と人との原関係として言っていることは、そのまま「ふたり」にも当てはまるように思うのです。

ただ「不可分」や「不可同」にたいして、「不可逆」というのはとても難しい。ユークリッドの第五公準みたいで、なんとなくおさまりが悪い。これだけ言葉の相が違う気がしていました。普通の用語法ではうまく説明できないのですね。「不可分」と「不可同」は常識的に理解できます。一心同体の離れがたい二人、しかし死によって容易に分かたれてしまう二人。それは吉本隆明さんの「対幻想」によってきれいに説明できます。

「不可分」と「不可同」が往相の言葉であるのにたいし、「不可逆」だけが還相の言葉になっているのですね。だから言葉の相が違うように感じるのだと思います。>(「今日のさけび」2022.2.14)

たしかに不一不二と不可逆(非可換)は言葉の位相がちがう。片山さんの批評を読んで、むかし書いたことをおもいだした。同一者の非知の思考に拘束された思考の慣性の往還についてこれから語る。なぜ非知は社会性をふりきることができないのか。非知もまた自同律の戯れにすぎないからだ。還相のしくみはどうなっているか。

<内包存在とその分有者は、身体と心をひとつきりとして存在する私たちの存在のありようが、関係を繋ぎえない(ニヒリズムはここに発する)ということでもなく、ひるがえって一心同体の可能性をいうのでもなく、躰によって隔てられた存在のありよう(生命形態の自然)が二身において二身のままに一心を成就する可能性(分有された二者が一心を成す絶対矛盾的同一)のことをいおうとしているのだ。二身のまま一心をなす内包存在がくびれて分有者A及びBがあらわれる。存在の内包に一閃された分有者A及びBはすでに自己意識の用語法で表現することはできない。だから私は内包表現と言い続けてきた。ここではじめてドゥルーズが『差異と反復』で為し得なかったヘーゲルの自己同一性の批判が根柢的なかたちで表現されたことになる。それは同時に自己同一性の拡張を意味する。このシンプルな理念のなかに人間という概念の定義は尽くされているとみてよい。レヴィナスはAと非Aの区別と連関についての詰めの甘さを残し、吉本隆明はAが非Aに、Bが非Bに拡張できることを知らなかった。>(「1999年1月1日のノート」から)

<内包存在から分有者へと流れくだり、こつんとわたしを衝き動かす、絶対に分かつもののない隔たりと、絶対につなぐもののない繋がりは、絶対に「私」ということでは言い表しえないことで、いかなる媒介もいれることなしにじかに一をなしている。存在は内包を分有することではじめて存在することができる。わたしたちが知っている有や同一性は内包存在が無限小に折り畳まれて共軛的に根源の二人称として自他に分節されたものである。つねにそのようなものとしてあり、またそれ以外ではありえない。内包存在は世界の根源であり基底である。存在は存在がいかなることか問うが、内包存在にはなぜはない。存在は無をひきよせるが、内包存在は無を包みこむ。存在を問う明晰な意識は不可避に意識の特異点を抱えこむ。その特異点は無としてわたしたちに知られている。>(「1999年1月2日のノート」から)

親鸞の還相廻向について片山さんにいくつかのショートメールを出した。「今日のさけび」(2022.2.17)と(2022.2.17)に掲載された。

①親鸞の他力を生存感覚でつかんだ覚者が3人以上いるとしてその者たちのつながりは共同性を産まないか。ここに親鸞の解き残した思想の課題があると長年考えてきました。親鸞が浄土教の信を解体して生き抜いたことは疑いえません。

片山さんは応えて言います。
<親鸞の他力はそれだけでは自力のヴァリエーションにしかならない気がします。それは非知が知の派生態であり、非僧非俗が僧に属するのと同じです。だから親鸞が遺した言葉を礎に巨大な教団が生まれました。教義という共同主観的現実(共同幻想)がつくられ、教義を媒介とした信の共同体が生まれました。いくら善良な人たちであろうと、これが幾多の禍をもたらすことは、歴史が示すとおりです。>

②他力のなかにもうひとつの自然が他力の祖型として存在するとかんがえ内包論をすすめてきました。他力は外延知をはみだしていますが、有縁によるつながりは共同性という信を疎外します。なぜそうなるのか、なぜそうしかならないのか。輾転反側しました。

更に片山さんは書きます。
<親鸞から教えを請うた人たちは、もとは他力という有縁によってつながった人たちだったはずです。それがいつのまにか教義や教団という共同性を生み出してしまう。ユヴァルがいう150人、ぼくたちが顔や名前をおぼえることのできる人たち、プライベートに年賀状をやりとりできる人たちの数を超えると、いかに他力や非知から生まれた有縁であろうとも、信の共同体をつくってしまう。親鸞の他力や非知は、そのままでは自力や外延知のなかに取り込まれてしまうということだろうと思います。>

③他力をもう一捻りするとおのずからひとりでいてもふたりを主体とする根源の一人称がむくりと起きあがります。その刹那、互いに、有情が有縁を、有縁が有情を含みもつ内包親族が生まれます。機縁としていえば根源の一人称が立ちあがらないと内包親族は表現されません。

問いに片山さんは回答する。
<「機縁としていえば根源の一人称が立ちあがらないと内包親族は表現されません」というところは、ジャックにローズが飛び込んで彼の「ふたり」がふくらんだ、となります。森崎さんが「根源の一人称が立ちあがる」と言っているところを、ぼくは「ふたり」がふくらむと言い換えているわけですが、肝心な点は、一人のジャックの「自己」であったものが、自己でも他者でもない、ジャックでもローズでもない「領域」になっているということです。森崎さんの言い方をお借りすると「ひとりでいてもふたり、ふたりでいてもひとり」ということですね。>

親鸞の有情より有縁を度すべしはメビウスの輪となってつながります。他力の手前に、だれにしられるともなく、有情のなかに血縁ではない有縁がひっそり潜んでいました。生はそのように往還しています。

文学や芸術という内面の劇を始まりがあって終わりのない深い渦のなかに置いてみたいと強い欲求があります。じぶんのことで言えば、『内包表現論序説』270ページ上段あたりになります。ずいぶん昔の話がいまにつながっています。だれの中にもあるちいさなニーチェのニヒリズムの根が消えるのも表現のこの場所のほかないとかんがえています。

その後出したメールを貼りつける。

④プロパガンダの何にわたしたちは煽られているのか。死が身近になる恐怖を打ち消すために死の彼岸ある共同の幻想に身を寄せることになっています。いったいどこに死があるのか。なにものによっても埋めることのできない近親の痛切な存亡危急の時があります。

同一性によって統覚される共同主観的虚構としてしか死はないにも関わらず、死がありありと迫ってくるのです。小我を呑み込む大我を無意識といったり、元型といったり、日本的な自然生成ということができますが、いずれの方法意識によっても差し迫る死の異物感を消去することはできません。

神や仏による魂の浄化を付け加えてもかまいません。言い換えれば聖道門のいかなる信も意識の結び目のはじまりの不明を解くことはできません。観念的な言葉の遊びをやっているのではありません。昨年秋にぼくを不意打ちした近親の存亡危急のことを普遍的に語りたいとおもいます。過去や現在や未来として語られてきた時間の了解の狭さをひらく鍵がそこにあるような気がしています。

⑤わたしたちは観念の対象を粗視化する思考の慣性を切り替えないといま日々を痛撃している文明史の転換を読み違えるとおもいます。なかなか通じませんが2が1であるから、1が1であることが可能となるのです。あるものがそのものに等しいことは広義の同一律ですが、わたしたちの思考は同一律を公理として対象世界を表現してきました。この公理を前提としてさまざまな自然が定理として折り重なって人類史をがかたどってきたと表明してきました。

時系列的には昨年の2021年9月6日に往復書簡をやりましょうと連絡し、第一信を書き、2021年9月19日に返信がありました。机に座ってPCに送ったメモを編集することができないので、ときどき片山さんとショートメールのやり取りをしていた。「今日のさけび(2022.3.25)の結びの文章に気持ちがのびのびした。

<言葉は科学テクノロジーと同等の力をもっている、とぼくは思っています。比喩や言葉の綾ではなく、文字通り科学テクノロジーと渡り合うだけの威力、破壊力を言葉はもっている。なぜなら精神と物質、言葉とテクノロジーは、同じ世界素材の粗視化のレベルの違い、表出のされ方の違いに過ぎないからです。したがって量子の重ね合わせや量子もつれが生み出している危機的な状況を打ち消す力が、「根源の一元」や「内包的な親族」にはあると考えます。正しいか間違っているかは問題ではありません。そう考えることにした、ということがぼくにとってすべてです。>

このブログで片山さんは根源の一元を量子の重ね合わせに、量子もつれを内包的な親族に比喩されいます。量子力学の簡単な印象を書いてみる。30歳の頃東京で数学塾の講師をしながら、ポアンカレの科学と仮説の研究会を数学者や数学の研究者たちと、時間と空間の拡大について、侃侃諤諤やりとりしたことを思い出した。場の量子力学がメインテーマだった。存在の根源は波、ぼくの言葉では領域としての性になりますが、アインシュタインは、波には個体性や自己同一性はないと考えていた。むしろ、ボーア、ハイゼンベルグ、ディラックの量子論より、アインシュタイン、ヨルダンの万物の根源は波であるの方がすきです。若い頃、ポカンカレをテーマに場の量子力学をごりごりやり合った余韻がまだじぶんのなかに残っている。いずれもその歳でしかできなかったことだ。

片山さんの感想で気合いが入ったのでかんたんなショートメールをお送りした。

以前メールで触れたかとおもいますが、ある思考の型を前提とするかぎりだれもこの袋小路からのがれることができないというのが同一律の絶妙さです。

この世のしくみはいかようにも変わりうるとかんがえています。いつかということでなく、いまただちに可能で、いつも間に合っているとおもいます。

体験的な直感に突き動かされてやみくもにかんがえていたころに比べるといつのまにかずいぶん見通しのいいところにぬけてきたという実感があります。スマホで知るウクライナの現実がどうであろうとこれまでかんがえてきたことは微動もしません。いつも間に合わないと同一律ではなりますが、その手前をつくれば、いつも間に合っているということにおいて間に合うことになります。存在の複相性を生きる由縁です。

    7

これまでなんど取りあげたかわからないが、あらためて親鸞の有情と有縁についてかんがえる。親鸞の非知である還相廻向の信が転回する契機がここにあるとおもうからだ。生きた心地がしない危急存亡がなかったらたどりつけなかったかもしれない。

<親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念佛まうしたること、いまださふらはず。そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてて、いそぎ浄土をさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと、云々。>(『歎異抄』)

危急存亡のときなにを考えるか。有情のなかにすでに有縁が内包されていることを親鸞は括弧に入れ、あたかも有縁から人倫がはじまるように世界を構想した。親鸞さん、それ、違いますね。思想がわずかに社会してます。そのわずかなずれが増幅され巨大な親鸞教団ができました。有情のなかに外延知の血縁を超えた有縁が内包されているのに、有情に有縁が先立つことを親鸞は強調した。伝承のイエスの物語とまったく同型だと思った。思想が宗教でしかありえなかった時代の制約で如何ともしがたいことだったと言えるかもしれない。

わたしは今回の体験を経て、有情は有縁であり、有縁もまた有情であると、親鸞が言えばよかったとおもった。存在を往還すると、有情が有縁であり、有縁が有情になる。そのとき他力のなかに他力が自然(じねん)にうまれる。あるいは自然法爾におくゆきができるといえばいいか。他力も自然法爾もまた領域として存在することになる。親鸞も同一律のシンコペーションを思考の慣性として受容している。聖道門の竪超は批判できても、浄土教の教義を全円的に超えることができず、そこに親鸞のかすかな未然があるというほかない。他力のなかに表現されたもうひとつの他力はこうして未知の自然として偶然にみいだされる。これからは親鸞の未然のことを親鸞のシンコペーションと呼ぶことにする。親鸞さん、内包自然があるのです。ここでだけ三人称のない世界が可能となります。

同一律の絶妙さにもうすこし踏みいることにする。それはなぜ非知ではなく総表現者の煩悩や愚が価値であるかをじかに問うことにひとしい。

若い頃、無久の存在に輪郭を刻むのが根源の性だと体験した。背後で一閃する熱い自然によぎられることは内面の言葉では言いあらわすことができず共同化することもできない。内面が内包へと広がるので、内包を内面ということはできない。これがどういうことかを言語化するのがどれほど困難であったかこの半世紀身に染みて感じている。内面と内面が外化された社会は、解けない問題を解こうとする虚偽にすぎなくて、それを自覚する人はほぼ皆無だった。

あらゆる価値の転倒を目論んだニーチェの超人も永劫回帰も外延知でしかなく、バタイユの非知もある思考の慣性を前提として社会化されている。まだある。究極的な本質である差異を反復することは是非の余地無なくエピメニデスのパラドックスをかかえこんでしまうことになる。内包知のきりのなさがドゥルーズの反復するほかない差異の絶対的な本質となってあらわれ、むろんこの究極的な差異には意識されることもなく同一性がくりこまれている。

非知ではどうやろうとつながりにすきまができる。非知を跨ぎ超した愚までいくとひとはいやおうなくつながる。すきまを埋める衝動が内面や文学や芸術といわれてきたとしても、いま知と非知のすきまのなかに剥き出しの実存が抛り込まれている。知らずにそのことをみな生きている。非知は知の派生態であり、知の匂いがするが、愚はそれ自体であり卑小なままにひとつの美である。ここまで到達する文学や芸術は稀である。

絶対矛盾的自己同一は「包みつつ包まれる」ことですが、そこに意識されることのない同一律が例外なく一拍埋め込まれている。この一拍はシンコペーションとなって同一律を絶妙に律動している。ドゥルーズの差異と反復もおなじだとおもう。いつもすでにそのうえに立っている根源の情動があることによって、この驚異に遅延して、あるものがそのものにかさなる同一者の意識が可能となるわけで、それはつねにあるものとそのものがたがいに非可換であるから、はじめて自同者として粗視化されることになった。精神の古代形象からいえば、同一律という遅延によって神や仏という自己に先立つ超越も可能となってくる。

例外なく同一律が一拍埋め込まれていることをすこし言いかえてみる。水中にあって息ができず呼吸困難になったとする。なんとかもがいて水中から水面に顔をだし、胸一杯に息を吸い込む行為が同一律だといってもいい。例外なく埋め込まれる一拍と無我夢中で空気を吸い込む行為が同一律に比喩される。それがわたしたちの生きてきた無窮の人類史だ。

あらゆる解釈の総体は、しかし、解釈を拘束している同一律を誤認することはない。息を止めて苦しくなったらどんなにがまんしようとしても、いやおうなくひゅっと息を吸い込む。世界はこうして始まる。このとき吸い込まれるものが同一律だと考えた。コロナ禍もウクライナでの戦争も途方もない錯誤であるとしても、倒錯を可能とする1イコール1を誤認することは不思議とない。

絶対矛盾的自己同一は、意識されることなく例外なく自己同一性が埋め込まれていることを、べつの言い方で言ってみる。痛みがひどいとき、自分は痛みそのものとなる。それ以外の自分がないように。外延的な生も身が心をかぎるひとつの必然である。痛いものは痛い。どうにかして逃れたい。貨幣が身体の延長態であるように。窒息寸前のとき、悪魔に魂を売っても息をしたい。この切迫性が同一律を是非を超えて引き寄せる。存在することのひとつの必然だと言える。同一律は意識の可能性を切断し、意識の可能性を限定する意識のシンコペーションのようなものとして存在すると言ってもよい。わたしが痛みそのものになるとき同一律はわたしそのものとなってわたしに臨在する。それがあるものがそのものにひとしいことの外延知の本態だ。痛みそのものと〔わたし〕は別物であるが、痛みや死の切迫性は〔あなた〕が分有するので〔わたし〕は〔痛み〕そのものであるにもかかわらず、〔と共に〕を〔浄土〕として生きることができる。存在の複相性を往還することの不思議がここにある。存在の複相性を往還することなくしてこの世界を生きることはできない。だれもが意識することもなく存在の複相性を往還することができるように生まれついている。

じゃ、それを担わされる対手の分有者の苦痛はどうなるか。世界のどんな深いものより深い悲しみを引きうけることになる。だからこそ、その悲しみは生きられることになる。ことばにはそれだけの力があるとおもう。言葉の遊びではない。内面化も共同化もできないそこをわたしが生きているのはたしかだ。

    8

『〈非知へ』の「序」で書かれた吉本さんの文章にはなんともいえない色香がある。「滝沢克己をめぐって×末次弘」の話のなかに、吉本さんのモチーフを継承したわたしの全モチーフがあると言ってもよい。かなりびっくりした。なんだ、その先をおれはやろうとしてきたんだ。吉本さんの母型論は国家の発生を前提として、そこに意識が収斂して行く論述になっている。わたしはべつのやり方があることに気づいた。わたしたちの知る思考の慣性は内面を容易に社会化する。どうして内面が社会化できるのか。内面が共同幻想だからだ。この認識は観念を伸びやかなところに連れていってくれる。わたしは種族語に言葉が収斂するその手前で折り返すことができることに体験的に気づいた。

国家に収斂しない内包的な表出がある。ここにマウリポリの惨劇を超える人間の関係のありかたの可能性が有ると信じている。そこに内面化も共同化もできない総表現者の生の固有性がある。種族語が記紀万葉に順接するのではなく、存在を往還すると、斥力のように存在がぐるんと反転し、もうひとつの生のあり方が出現する。非知は愚そのものに転位し、永遠の今のなかに過去も、追憶される未来もどうじに存在することになる。総表現者の固有の生のなかには煩悩や愚という美がじかにある。喰い、寝て、念ずる生の原像を還相の性として生きると、総表現者の多様で多彩な、無限のグラデーションをもつ生がそれぞれに固有のものとして立ちあがってくる。

吉本隆明は『〈信〉の構造「対話篇」〈非知〉へ』の「序」でアフリカ的段階を予感させることを書いている。

<わたしたちは宗教の〈信〉と〈不信〉を疎通させるために、たぶんもうひとつ宗教以前にある習俗への〈信〉と〈不信〉の考察がいるような気がする。べつの言い方をすれば、習俗はどの水準で切断し、どの水準で再生されるべきものか、あるいは習俗を反復することで転生の契機を見つけ出すという未開の宗教性は何を意味するかということだ。いつかそこまで〈信〉と〈不信〉の、弁証法を拓くことができたらと、しきりにかんがえる。>

宗教以前の習俗-わたしの言葉では性と精神の古代形象ということになる-をどの水準で切断し、再生するかと吉本隆明は問うている。この問いの立て方はすでに、種族語から記紀万葉までがひとつながりになめらかな自然として再生され、その意識をもとにして習俗の切断の可能性が問われている。解けない方法を解けない方法で解こうとする典型的な思考の型しか語られていない。意識の順接のなかで同一律の絶妙な作用によって性と精神の古代形象はアニミズムの変遷として語られることになる。

わたしは吉本隆明とちがい、「宗教以前にある習俗への〈信〉と〈不信〉の考察」、あるいは習俗と再生を切断するものを内包と定義した。不信もまた信の変形されたものにすぎない。親鸞の有縁を度すべしになぞらえて言うならば、どうすれば有縁をこれから起こりうる未来性とすることができるか。有情のなかに無限にちいさな内包の襞となって封入されている有縁が、過去と現在と未来をごく自然につないで永遠の今と一瞬の永遠を現成することになる。ここを生きるとき、なぜが消える。非知は総表現者に固有な生の、かぎりなく卑小な愚となって、三人称を疎外しない内包親族へ転化されるほかない。

このあたりについては昔書いたguan02に解説を寄せてくれた萩原さんが詳述している。今読みかえしても論点の的を射貫いているとおもう。

<九〇年には「対幻想の現在~疎外論の根源」というテーマで吉本さんと対談をしています(雑誌パラダイスへの道90所収)。ここでは何かが違うという彼の直感がすこしずつ明確なかたちをとるようになった最初の時期にあたるとおもわれます。そのころから両者の間の考え方のずれがはっきりしてきます。
なかでもいちばん大きな問題点は〈信の構造〉をめぐっての考え方のなかに表れているといえます。吉本さんはあくまでも堅固な〈非信〉の立場から、森崎さんは〈信〉と〈非信〉とを分かつ「信の構造」を超えようとする立場から、両者ともに〈信の解体〉について考え、対峙しているようにみえます。
吉本さんは、人間の内面は一方的な外界の変化に対抗できないとし、外界を削ぎ落として魂のモチーフを唯一のよりどころとするようなかんがえは認められない、もし外界が目に入らなくなるほどに苦しい目にあったとしても、すくなくともそのような状態に自分がなっているという自覚がなければならないということを、小山俊一や石原吉郎に触れて発言しています。つまり〈信〉の内部、〈信〉の外部という構造として捉え外部の視点をもたなければ思想とは言えないといいます。それに対して森崎さんは単に内面や魂のモチーフを述べているのではなく、信も非信もそれぞれがどちらもひとつの信のかたちでしかないとし、そのような制約された人間の意識が変わるような考え方が必要なのではないかと発言しています。両者の発言は最後まで平行線を辿っているようにみえます。

しかし、普遍的であるというのはどういうことなのでしょうか。すべてを網羅し、実証し、どんな時代や社会にもどんな人間にもあてはまるかんがえをつくるということでしょうか。わたしは一人の人間が生きて在るということのなかにより深い真実を見いだすときに生まれるその人だけのことば、もしくはことば以前のことばのなかにそれはあるようなきがします。〈匿名の領域〉とヴェイユによって名づけられたその場所にひっそりと存在し、ある時偶然に見いだされるというようなものとして普遍性というものはあるのだとおもいます。
吉本さんはそのような〈普遍の場所〉の外側から「これが普遍の場所です」と普遍的な言葉で説明するのです。そうではなく、ヴェイユや宮沢賢治はその中にいるのです。そして、その中にいてそれを語るということはすでに信と非信ということの是非を超え、そのように信と非信を分かつ信の構造そのものを解体してしまっているのです。このような道をとおってしか〈信の構造〉の本質的な解体というのは成し遂げられないのだと思います。どんな時代や状況にあっても変わらない物差しがなければ何が変わって何が変わらないのかを測ることはできません。非信という立場は不変の物差しにはなり得ないのではないかとわたしはおもいます。つまり信も非信もそれぞれがひとつの信のかたちでしかなく、そのように現わされるしかないという制約された人間の意識が変わるということが〈信の構造〉の解体であり、つまり不変の物差しをもつということだとおもいます。>(『guan02』所収〔「内包」という名の贈り物〕萩原幸枝)

信と不信をめぐる吉本隆明の信と非信にある不明はこの解説で尽くされている。つけくわえることはない。

『〈非知へ』の「滝沢克己をめぐって×末次弘」との対談のなかで、『言語にとって美とはなにか』が文字以降しか扱っていないので多いに不満があり、文字以前の、あるいは宗教以前の習俗の切断と再生に関心があると吉本隆明は言い、『〈非知〉へ』の序にもどってくる。

<それからしゃべる、話すようになる段階になると、いわゆる種族語というか民族語に分かれていっちゃうわけです。だから、文字や記号に定着される以前の言葉は何を根拠にして同一問題として捕まえたり、各種族で違う問題として捕まえたりするんだということになる。そのばあい、言語の同一性は人間の生理的な身体的な同一性に帰する以外ないだろうとおもっています。
なぜ意識を獲得したかじゃなくて、なぜ音声、話言葉、つまり音声言葉を獲得したかということになってきますと、共通なのは母音です。母音はだいたい多い少ないはあるけど、その共通なことはなにに対応するかといったら喉仏から鼻の構造から口の構造からといったそういうものの同一性、人類としての同一性と対応させる以外ないということになるんです。それにはそれぞれ種族で人相が違うように、鼻の大きさとか喉の広さとか狭さとか口の中の形とかすこしずつ違うというふうにかんがえて対応させれば、種族語への分枝ということは入ってきちゃうとおもうんです。>『〈信〉の構造「対話篇」〈非知〉へ』所収「滝沢克己をめぐって」吉本隆明vs末次弘」)

唯物的科学的現実的な、詩人吉本隆明の思想のしかけとしくみが巧みに語られている。『〈非知〉へ』での巻頭の対談で、吉本さんが自己同一性の起源を身が心をかぎる身体生理に求めていることに、なるほどねとおもう。喉と口のしくみで母音が決まっていることも、よく納得できる。吉本さんは身体生理が規定する同一性を前提に種族語の起源に迫った。それが吉本さんの同一律をシンコペーションする母型論だ。孤独な古代の吉本原人が表現論として解明したのは、身がこころをかぎり、こころが身をかぎることに意識の起源があるとする思考の慣性が彫像したものだった。善悪、好悪を超えた、意識の外延性の余儀なさだとおもう。エビナリクさんが「藤井風が配信ライブでさいごに、なんの飾り気もなく、Thank you for beingと言ってました」と教えてくれました。太宰の生まれてきてすみませんでなく、Thank you for beingはいいなあ。なぜきわめて限定された意識のありようでこの世のしくみが語られなければならないのか。逆にわたしは、母音はねえねえのむつみ語で種族語を疎外できない人間の関係の可能性を顕示しているとかんがえてきました。存在の複相性という概念を挿入することなしに、存在を往還することはできないのです。

むかし吉本さん的な思考の慣性について書いたことがある。

<心身を一対とするわたしたちの生命形態の自然から同一性という公準は流れ下ったものだということができる。あるいは存在をかたどったものが同一性だといってもよい。だから存在と同一性と意識は線形性をなし強く結びついている。この強い相関のあらわれを人類史といってよいほどだ。むしろわたしたちの人類史は存在を同一性で穿ち分節してつくられたものではないのか。この事態はいつの時代も同一性による生の監禁としてあらわれるから、人びとは倦まずにここではないどこかをめざしてきた。このことは存在を知覚する同一性がもともと制約されたものだったということを意味する。ありえたけれどもついになかった根源の性という内包存在をこの世にあらしめんと内包表現することで、わたしたちは同一性が彫琢した意識の外延史を振りきって、ことばの背中からひろがる青空をもうひとつの人類史として手にすることができるとおもう。>(『guan02』所収「内包世界論Ⅰ―内包論」)

内包の由来についても20年前に同書でつぎのように書いた。

<言葉にははじまる場所というものがある。言葉には熱さと深さがふたつながらともに要るという抜きがたいおもいがわたしにある。熱さは不可侵から迸り、深さは不可被侵から湧いてくる。熱さと深さであざなわれたものが生の固有さにほかならない。当事者性に徹するということは生が固有であるということのべつの謂いである。いまはどういう時代なのかではない。この時代にあって何を生きるのか、かんがえることはそこにある。この違いは決定的だ。

内包というかんがえは耳慣れない響きをもっているとおもう。なぜ内包なのか、内包とは何かという問いに、同一性に監禁された生を〈存在〉の根底からひらきたいというわたしのモチーフが先立つ。わたしは、わたしのこの欲望が、わたし一人の自己の陶冶にとどまらず、人びとにとって、また歴史にとって普遍的な意味を内在しているとおもう。おそらくだれもがすでにそのことを知らずに知っている。そこで同一性に拘禁された生を救抜する媒介となる理念を内包と呼ぶことにする。言葉の定義によって表現を規定するのではなく、言葉に先立つ情動が内包という言葉を引き寄せるのだ。だれにとってであれ内包というかんがえは、表現することについての態度の変更を迫ることになる。おそらくどんな例外もない。内包表現はまだだれによっても書かれたことがないからだ。神仏ではなく恋愛の彼方を可能とする内包表現によってのみわたしたちの生と歴史が根底からひらかれるとわたしはかんがえている。

内包という思想はわたしの知るかぎり人間の思考にとって未踏の領野に属している。いつの頃からか生という豊饒な渾沌を〈存在〉の彼方の内包存在によって分別してみたいとおもうようになってきた。はじめはとまどい、やがて概念が輪郭をもつようになってくるにしたがい、わたしは内包存在に根ざした内包表現によって人類史を画すことができるとかんがえるようになった。系譜なき思考の懼れを知らぬ所業であるとしても、内包を究尽することで、国家と市民社会という人間がつくった制度や、制度を循環する貨幣の彼方を実現できるという想いがわたしをとらえてはなさない。

もちろんはじめからこのかんがえに到達したわけではない。若い頃わたしは世界への壊滅的な異議申し立てを敢行した。理念の誤謬は自業自得のツケとなってたんとじぶんにもどってきた。わたしは一箇の修羅となり、地軸が傾くほどに孤立した。抜け出ようともがくたびに心身をすり減らし底の見えない穴ぼこに堕ちていった。胸の悪くなる暗闘はむごくて容赦なくいつ果てるとも知れなかった。この間、わたしは心善き人びとが語る口先の内面化された悪ではなく、どんなことでも人は為しうるという悪それ自体のむごさ、目を背けたくなる悪そのものの闇の深さと真向かってきた。この世の善きものを唾棄したニーチェはけっしてこの風景を生きたことがない。知によって世界を睥睨するものがいつもこの世を騙り悪の埒外で安息する。時代は推移してもこの思考の型はなにひとつ変わらない。

地獄の底板を踏み抜くようにして這いあがると、いきなりわたしのど真ん中に熱い風が吹いていた。度肝をぬかれ、驚嘆した。孤独と空虚のないこの世界はわたしにとって未知の自然の匂いがした。わたしは、わたしより疾くわたしのなかを一気に流れ昇る、始まりがあって終わりのない渦のことを根源の性と名づけ、存在に先立つ根源の性のことを内包存在あると呼び、根源の性に誘われて風花を匂い立たせる大地のことを内包自然と名づけた。根源の性がたわんで〈有〉が生じるのであって、その逆ではない。起源の闇から流れくだった奇妙な生がくるっと反転し豊饒さとなってあらわれるこの気圏を人間はまだ歴史として一度も生きたことがない。それに貫かれることによってはじめてわたしがわたしと成るその根源の性によぎられて、わたしは人間にとっての思考の未知をこじあけた。わたしは、可能な思想の観念のかたちを内包という言葉で云おうとしているのであって、いかなる意味でも回心というような退屈な境涯を語っているわけではない。体験の固有性を手放さず、当事者性が引き込むさまざまなひずみを存在の根底でひらきたいというわたしのこだわりは一箇のある普遍にたどりついたとおもっている。>

さらにさらに親鸞の還相の知にわけ入っていく。

<如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります>(「末燈鈔」)

言葉をめぐる確執だ。なぜ親鸞は可視化できない自然法爾をある領域のようなもので、他力は粗視化できない領域となった信の深さのことだと言わなかったのだろうか。2022年を生きているわたしにとって、それを言わなかったら、親鸞の思想は聖道門の竪超と変わらぬことになる。それほどわたしたちが生きている現実は追い込まれている。わたしたちは家畜ではない。ではどうやって家畜ではなく愚の美を生きることができるか。

    9

存在の字義から説き起こしてみる。親鸞の浄土は浄土の真宗を意味するが、わたしの歩く浄土は観念の母型を往還することをさしている。まず白川静の存在の字義解釈から入っていく。古代中国の周辺に位置し、長くその文化圏の影響下にあった島嶼の国の古代中国象形文字の研究者、白川静は「存在」の原義を次のように語る。性と精神の古代形象からするときわめてモダンな解釈だ。

<ものはみな時間と空間においてある。その時間においてあるものを存といい、空間においてあるものを在という。>(『白川静の絵本』)

ここに白川漢字学の無意識の精神の公理が流れている。白川静によると漢字は線によって構成される。横画は分断的であり、否定的であり、消極的な意味をもち、縦画は、異次元の世界を貫通する。それは統一であり、肯定であり、自己開示的である。縦線は肯定であり、統一であり、ここにおいて〔ある〕ことを意味する。ここにおいて〔ある〕ことを示すものが交わるところの横線である。おおよそこういうことを白川静は言っている。とてもモダンな考えだと思う。国家の発生と象形文字の起源が白川漢字学では同一になっている。そうではないはずだ。ことばはもっと豊穣なものであったはずだ。わたしがいまここにあることの無限性を身体と心がひとつきりのなかに限定することで存在という文字が生まれたと白川静は言う。際限のなさを縦画と横画によって切り取り存在という書記が可能となったことは、〔ある〕という驚異が存在という文字のなかに封じ込められたことを意味し、そこに国家と古代文字の起源がある。この起源のことをわたしはモダンと言ってきた。

原存在の一元を、存という時間と、在という空間に分別するのは便宜的なことだった。なにを語ったということもない。根源の一元である原存在は時空連続体としてつながっていて分離できない。親鸞が「この上ない仏といいますのは形もおありになりません」ということだ。ある思考の慣性を前提とすれば分離できる。その思考の型をわたしたちは同一律と呼んできた。なにがモダンか。存が時間で、在がひろがり、という存在の字義の解釈がユークリッド的なのだ。位置を示すが広がりをもたぬものを点と定義することと変わらない。白川文字学が内包論に寄与することはなにもない。また言おう。同一者の思考の絶妙さを畏れよ。なぜ存は在となるのか。キルケゴールの「自己とは関係が関係それ自身と関係するような関係である」(『死に至る病』)の関係を借用する。ここで関係それ自身は根源の一人称と読みかえられている。〔ある〕の知覚を根源の一人称ぬきに表現する同一性のいかなる理由も、それ自体のなかにない。いずれもいずれも事後的にふり返ってそう名づけているだけだ。その刹那、同一性の手前は内面という意識の第二層のなかに消えてしまい、どうじに共同性と貨幣を疎外する。親鸞の思想を超えて意識の第三層は他力のなかの他力を生きることで輪郭がくっきりとしてくる。

いまふたりの思索家のことが気になる。若い頃ニーチェを読み、なんだこのひねくれ野郎と思い、熊本地震の時本が崩れ、てっぺんにあった権力への意志を読み返し、すべての価値の価値転換が不徹底だなと思い、コロナの狂気が世界を飲み尽くしている時、ああ、やっとニーチェが考えていたことが現実の世界で起こっていると考えるようになりました。ニーチェは過去の思索人ではなく極めて現代的だったことにやっと気づいた。

深淵を覗いて思わず口走ったニーチェの永劫回帰も超人も、内包のきりのなさの言葉の端だと思います。粗視化された同一者の思考で、観念の逆立ちをやって、ほらここに考えることがあると鋭く抉っている。外延知の思考の限界までニーチェは生きた。ニーチェの発見とハイデガーの哲学の技術への明け渡しのなかに今回のコロナの狂気が露出していると考えることができるようになりました。なぜかくも易々とひとびとがグローバルファシズムに飲み込まれていくのか。命がかかると、人々はあっというまに精神の古代形象へと退行します。なによりわが身の保存を選択するということ。ここにはどんな是非も入り込む余地がない。ぼくの生存感覚を貫く体験の皮膚感覚として焼きついています。

コロナの狂気、医学知が粗視化した共同幻想という思考の慣性を可視化するとき、ニーチェの永劫回帰と超人は象徴的な対抗イメージとなって現前しています。

仏陀の念は内面化も共同化もできないそれ自体固有のリアルだった信を内面化し、信を共同の符牒として共同的な信をつくり、それがのちに人間という理念の原型をつくり、いま無惨に打ち砕かれています。虚構が二進法でさらに実体化され、このことを受容するものに家畜の自由が与えられる。虚構を実体化しても人間は、ニーチェのニヒリズムやフーコーの人間の終焉が喚起した情緒のかけらもない記号そのもの、デジタルの端末になるだけのことで、外延知の必然だと思います。だから内包という外延知を包み込む2が1である、内面化も共同化もできない観念をつくろうとしてきました。非知ではない愚そのもの、生の原像を根源の性として味わい尽くしたいというのもまた面々の計らいのひとつにはなるのではないかと考えています。

『権力への意志』上巻の扉に「すべての価値の価値転換の試み」とある。あらゆる価値の価値転換の試みが意識の外延的な表現でなしうるとフリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)はなぜ考えたのだろうか。かんたんなことだ。ニーチェは外延知しか持ちえていなかったから外延知のかぎりをつくして同一者の思考を転倒したいと狂うほどに渇望した。永劫回帰という白熱した自然がかれを直撃しニーチェは破壊された。昨年と今年、2021年12月のコロナの狂気に直面するとき、ニヒリズムを主題として時代を狂うように舞ったニーチェの思想は長い射程を持って的を射貫いていたと思う。

<「権力への意志。すべての価値の価値転換の試み」―この定式で表現されているのは、原理と課題に関しての一つの反対運動である。これは、いつかの未来にはかの完全なニヒリズムを解消するであろうが、しかしそれを、論理的にも心理的にも前提し、もっぱらそれに基づきそれに由来してのみ来ることのできる一つの運動である。いったいなぜニヒリズムの到来はいまこそ必然的であるのか? それは、私たちのこれまでの諸価値自身がニヒリズムのうちでその最後的帰結に達するからであり、ニヒリズムこそ私たちの大いなる諸価値や諸理想の徹底的に考えぬかれた論理であるからである、―これらの「諸価値」の価値が本来何であったかを看破するためには、私たちはニヒリズムをまず体験しなければならないからである・・・私たちは、いつの日にか、新しい諸価値を必要とする・・・>

自分の試みはある原理を前提とした世界認識へのひとつの反対運動であり、それはニヒリズムを不可避に体験することになる、とニーチェは言う。わたしの考えでは外延知は同一者の思考の最後的な帰結をもたらすことになるが、いつの日にか新しい価値を必要とするとニーチェは宣言している。おそらく西欧世界、古典ギリシャの思想もふくめ意識が拘束衣を巻きつけニヒリズムを招来している。わたしたちが生きて死ぬこの世界は同一性というOSに閉じられている。

存在の複相性を往還すると内包自然が出来する。この自然を新しいOSとすれば、既存の世界認識は内包というOSの一部として呑み込まれる。ニーチェも外延知の思考の限界のなかで永劫回帰や超人を逆立ちしながら書き遺した。新型コロナという医療を騙る狂気の共同幻想によって世界が覆い尽くされた今現在ニーチェの考えたことは思弁的なことではなくきわめて現実的なこととしてわたしたち一人ひとりに迫ってくる。甦るニーチェ。

『権力への意志』を他力と読み解くと面白くなる。ドゥルーズはニーチェをどう読み解いたか。ドゥルーズの『ニーチェ』から響いてくる音を拾ってみる。

然りという肯定が永遠にくり返されることをニーチェは永劫回帰と名づけている。否定性を車輪の遠心力のように振り払い、多数多様の存在に回帰すると『ニーチェ』で書いている。その永遠の繰りかえしのなかで、肯定の遠心力から超人が生まれる。永劫回帰はあらゆる価値の価値転換をはかり、人間を終焉させ、肯定の渦のなかから超人が出来する。

ニーチェもドゥルーズのニーチェ解釈もわかるが、もどかしくなってくる。同一的なものへの回帰する人類の思考を回避したくて言葉がどもっている。存在の複相性という概念とその往還を吃音なかにそっと差し入れると、もどかしさはあっさり解消する。ドゥルーズの『ニーチェ』から、口ごもっている象徴的な箇所を引用する。

<だから超人は、二つの系譜の交点に位置している。まず一方では超人は、人間のなかで、人間たちのうちの最後の者と滅びようと望む人間との媒介によって生み出される。ただしそうした人間たちを超えた彼方に、人間的な本質が引き裂かれたものとして、その変容として生み出される。しかし他方では超人は、人間のなかで生み出されるのではあるが、人間によって生み出されるのではない。>

ドゥルーズはニーチェの思想を逍遙游した。ニーチェの思想と生の統一性は、ある本質的に忘却されたものを繰りかえし思いだすことを通じてなされる。生へ向かっての一歩と、思想へ向かっての一歩が絡み合った統一性として。生は思想を能動化し、思想が生を肯定する。かれによると、ここから徐々に永劫回帰の思想に向かっていく。ソクラテス以前の統一性のかけらももちあわせていない未踏の場所に。おう。どこか内包と似ている。ありえたけれどもなかったものを現にあらしめようと息切れしながらニーチェは一気に駆けぬけた。

もうひとり関心のあるドゥルーズの絶対的な差異とはなんだろうか。ドゥルーズもまた外延知の極限を生きた思索者のひとりである。同一性に回帰しない生や表現の理念をドゥルーズは生涯追い求めた。40歳のころ差異と反復についてつぎのように考えていた。絶対的な差異と絶対矛盾的自己同一はどこか似ている。絶対的な差異もまた絶対矛盾的自己同一とおなじで一拍の遅延をもって表白される。絶対的な差異はシンコペーションである。そのことが秘匿されているがドゥルーズがそのことを意識していたかどうかはわからない。

<芸術作品の中に示されるような本質とは何であろうか。それは差異、究極的な、絶対的な差異である。それは存在を構成するもの、われわれに存在を考えさせるものである。それが、本質をあらわに示す限りでの芸術だけが、生活の中でわれわれが求めても得られなかったものを与えることを可能にする理由である。(略)芸術だけが、われわれが友人に期待して無駄であったもの、恋人に期待して無駄になるであろうところのものを、われわれに与えてくれる。

本質をあらわにするか、単にそれを理解する者の魂の中で、本質はひとつの《神的な囚えられた者》として存在する。恐らく、本質それ自体が本質によって個体化される魂の中に囚えられ、包まれている。本質は、この囚われの中にのみ存在するが、しかしそれ自身の中に包含している今《未知の祖国》から分離されてはいない。>(『プルーストとシーニュ』)

芸術作品の本質は絶対的な差異の表白としてあり、その本質をあらわにする芸術だけが生を然りとする肯定にみちびく。ここで生の不全感は超えられる。本質を内含する芸術だけが生活の中でえられなかったものや恋人に期待できないものを与えてくれる。また芸術の本質は本質によって個体化され包まれている。わたしの理解では囚われはまったき受動性として向こう側からくるものの謂いであり、未知の祖国は内包自然ということになる。

はじめからドゥルーズの思索は内包の近傍まで到達していた。同一者の思考を絶対的な差異は回避できると考えようとしている。その気持ちはよくわかる。究極の差異、絶対的な差異は反復されるほかないと智力を振り絞ってドゥルーズは叫ぶように言うが、ドゥルーズの試みを超えて同一性の絶妙さがシンコペーションとして埋め込まれている。ドゥルーズがかんがえる同一性に超越する絶対的な差異は《神的な囚えられた者》として個体化される。ドゥルーズの未知の祖国を内包自然と読みかえるとかれの言いたいことはよくわかる。自他未分の内包自然によって分割された固体化の魂のなかにこそ同一性に還元できない神性があると言っている。同一性を前提としながら同一性の手前を語ろうと絶対的差異をシンコペーションとしてひそかに裏声でつぶやいていることになる。

数年後に書かれた『差異と反復』は呪詛みたいに差異と反復が飽くことなく繰りかえし言及される。どこを読んでも言語の緊張感や密度感にあふれている。未知の表現をもがきながらつかもうとしている。内包とも切り結ぶことのできる一節を引用する。

<存在は差異について言われるという意味において、存在こそが、《差異》なのである。そして、わたしたちが、一義的でない或る《存在》において一義的である、というわけではなく、反対に、わたしたちが、わたしたちの個体性が、或る《存在》において、つまり或る一義的な《存在》に対して多義的なままである、ということだ。>

ここにはある気づきが表明されている。ただ存在が複相的であるといえば視界がひらけてくる。絶対的な差異や純粋な差異を同一性の手前でひらけばよかった。

    10

他力のなかの他力がなければ、主観的意識の襞に非知を抱えて生きることはできるが、非知である他力の還相廻向ではこの世のしくみは変わらないことになる。内包知が外延知を包越するときこの世のしくみはおのずから存在の複相性によって変わるべくして変わることになる。だれのどんな生のなかにもある〔領域としての性〕が律動して〔還相の性〕を核として〔内包的な親族〕を生きることができる。精緻になった外延知によって、人間の生は分子記号まで還元され、AIで二進法として再編集される。そこではグローバリゼーションと結合したグローバルファシズムがいやおうなく義とされる。人間という太い幹を外延知の解けない方法で解くことはできない。共同幻想という大河の支流に文学や芸術があり、このちいさな自然はいつでも大河に合流する。

その意味では親鸞は牧歌的だった。外延知を流れる時間の知覚と内包知で生きられる時間がちがうことの発見が「歩く浄土280」を書くモチーフだった。他力のなかの他力をつくることができたら、文学や芸術という精神現象はひとりでに、内面と外界や、精神の内在史と文明の外在史とはちがう場所に移住するとかんがえている。ウクライナの無道の戦争はいうまでもなく科学知とAIとビットコインの強い力が胸襟をひらく思想や作品をつくることがすべてだとおもう。

不意うちされた危急存亡を他力のなかの他力をつくることでなんとかしのいだ。外延知の最良の非知の思考がまるまって今は昔で、昔は未来である時間を可能にした。一瞬の永遠があり、永遠は一瞬であるという気づきが絶体絶命の切迫感のなかにあった。外延知では剥き出しの生存のなかで人の生は家畜となるが、内包知では内包という観念の母型を往還しながら生きることができる。なにより内包はどういう境涯であれ、解釈ではなく、始まりがあって終わりのない生をしだいに深くなる渦として生きられる。内包が外延を包んでいくことが可能でなかったら書くことはない。だから、幾人もの思想の巨人の肩の上に内包はちょこんと座って、実現可能な希望と夢を語っている。

始まりが不明の自己の自己についての意識は、根源の性を統覚する時間から-拍おいてシンコペーションとして同一者の思考を生んだが-この知を外延知とすれば―その勢いは加速し、世界のあらゆるものが、文学も芸術も科学も経済も、同一性が睥睨するグローバルなファシズムの臣民になろうとしている。

ほんとうにそうだろうか。ほんとうにそういう生き方しかないのだろうか。ちがうとおもう。外延知の思考が必然とした同一律の絶妙な始原にある一拍のシンコペーションを内包自然にくりこめば、外延ではなく内包的な時間がなめらかな曲面となり、時間がまるく円環する。この内包的な時間のなかで過去と現在と未来はひとつながりになって融解する。それは外延知の自然生成の粋である絶対矛盾的自己同一とまったくことなる時間の了解である。

わたしたちはだれも、まったくべつのやわらかい生を、無限のスペクトラムのひとつとして、唯一のものとして手にすることができる。このとき知らずに他力は他力の内部にもうひとつの他力を現成している。自然法爾がおのずからおくゆきをもつことになる。他力も自然法爾も〔領域〕となり、共同体をつくらぬ内包的な生が可能となる。生の近傍にある観念の母型。むろん親鸞のあずかり知らぬことである。生の原像を還相の性として生きるとき、この観念は、知に対する非知ではなく、愚であること俗であること、卑小であること、それ自体となって、実詞化できないやわらかい生存の条理としてだれのどんな生のなかにもひっそりと内挿されることになる。

意識は内包という観念の母型を分有することで、おのずから内包的に表出されたのであって、自己意識として自然から分離したものではない。自覚するしないにかかわらず、はじめから自己はふたりなのだ。内包という母型から根源の性が弾けて、一拍おいて、心身一如の同一性的な生が表現され、自己の自己についての意識が分極し、自己の意識と環界が相互に規定し合い、さまざまな自然がつくられ、外延的な生は生の終わりにふたたび分極し、内包という観念の母型に回帰する。生は内包と共に始まり、ある時間を外延的な生としても生き、再び内包に回帰する。個人の生涯も内包から外延を経て内包に回帰し、歴史もまた内包から生まれ、一時期、外延史の世界を描き、やがて喩としての親族から内包という観念の母型に回帰する。

誕生と終わりのふたつの内包にはさまれて自己と歴史という外延的な表現が存在している。内包とはみずからなる世界のおのずからなる〔性〕へ包越することを指す。世界の理想を叙述するのではない。内包の思想はじぶんが夢となって生きることを可能とする。夢を語るのではない。じぶんが夢になればいい。是非を超えてここに外延的自然の死はない。外延的な死は内包的な観念の母型に回帰することで追憶する未来へ包越される。そうやってどんな死もこのうえなく深く生きられる。内包自然には非知を包越する愚が複相的な存在としてじかに存在する。はたしてそれは死だろうか。内包的な還りの生そのものであるような気がする。

もう書けないかもしれないとおもいながら、書きあぐねていたことを、なんとかひとつ書くことができた。うれしい。

     

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