日々愚案

歩く浄土278:情況論75-Live/COVID-19をめぐって「片山恭一vs森崎茂」往復書簡1

第一信・片山恭一様(2021年9月6日)

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なにかとんでもないことが人類史の規模で起こっている気がします。この衝迫感の正体をつかみたいというのが片山さんに往復書簡を呼びかけたモチーフです。いまなにが起きているか。新しい世界システムへ移行するために医学知という共同幻想に完全に同期するかたちで人類は一斉に入眠状態に入りました。揺籃期にある繭となり、来たるべき時代へと擬態を遂げたのです。いま人類は是非をぬきにしてこの状態にあると思います。
科学知という新興宗教の繭のなかを揺蕩っています。同一律という外延知は人びとの生を分子記号に還元し2進法で再現することによって人間という概念を組み替えます。これらのことは片山さんとの共通の認識として対話の前提になっています。さしずめいま人類を襲っているバイオ・ファシズムはCOVID-19によるものですが、すぐにCOVID-Xに置き換わりさらに恐怖と戦慄が煽られワクチンの無限ループに陥り、わたしたちの生はバイオ・ファシズムに変態した専制によって統治されることになります。厭な言葉ですが自己の家畜化であり、その度合いに応じた自由を生の統治者から与えられます。いずれにしても人類は新しい段階に突入しています。あっという間の世界の地殻変動は民主主義でさえスパイクタンパクやナチズムの変形にすぎないことを赤裸々にしてしまいました。私権の制限を人びとが自発的に申し出ることは、世界を覆っていたリベラルという薄い膜が擬制であったことをいやおうなく告げています。こうやってかぎりなく人びとの生は家畜としての記号に漸近していきます。もうそこからぬけだすことはできない。この過程は存在の複相性を往還する思想がないとしたら、どんな例外もなく人間とっての自然史的な必然となります。

片山さんとの往復書簡の大前提として脳神経内科医田頭さんの医学についての見識を参考にしています。ほぼ考えをおなじくしています。いま世界で医学の核心を語ることができるのはかれだけだと思っています。安保徹さんの身体は間違わないという太い医学の思想が田頭さんに継承され主体的医療が提唱されています。昨年末から年始にかけてのかれのブログには鬼気迫る迫力がありました。突然に亡くなった安保徹さんの名言があります。<専門家というのは、「そのことしか知らない業界人」です。森を見ず、木の枝葉ばかりにやたら詳しいだけの人種。医師だって同じです。あなたの大事な生命を、たかが医療界の業界人に全権委譲して、身も心も委ねる愚かさ―。そろそろ本気で気がついてもいいころではないでしょうか。言い換えれば、あなたのことを丸ごと知っている人は、この世の中にあなた以外にいないのです。つまりは、あなたの専門家はあなた自身なのです。そのことを、常に忘れずにいてほしいと思います。>(『長生き免疫学』)田頭さんの主体的医療と見事に重なります。

コロナ禍自体はじめからうさん臭く、ますますその傾向が強くなっています。あるとされているCOVID-19はほんとに同定され単離されているのか。いまのゲノム編集ではかんたんにできることなのに、なぜスパイクタンパクの毒性をなくした抗原をつくらなかったのか。荒川央さんは分子生物学者として免疫を研究しています。優秀な研究者で論文に誠実さを感じます。かれの36本の論文は何回も読みかえしました。製薬会社の企業秘密だから公開されてないのかもしれませんが、ゲノム編集した遺伝子の断片にはあとで編集しなおすときのために始まりと終わりの印をつけるはずです。分子記号一文字単位で編集できるのですから。次から次にブーストを作成するのですから。荒川さんはどれだけ調べても見つからないと論文で書いてます。COVID-19とされるウイルスはありますが、コロナウイルスを修飾し人工的に遺伝子が挿入されたことはないのか。疑問とすることがきりなくつぎつぎに湧いてきます。そしてどのひとつの疑問に答えることもなくウイルスの脅威から、脅威を制圧するワクチンがコロナ禍に終わりをもたらすこととしてすごい速度で集団接種が進められています。何回接種すればいいのか。この国で戦前戦中地上を睥睨した現人神の威信がいまはウイルスへの恐怖と不安に憑かれることに変質しています。軍部の役割を疫学と感染症の専門家が代行し政府を恐喝する。異世界の出来事のようです。感染症ファシズムの到来です。

クリスパーキャス9が登場してからほぼ10年経ちました。その間にゲノム編集の技術はすさまじい進展を遂げにちがいありません。発見者のジェニファー・ダウドナさんらは2020年にノーベル賞を受賞しましたが、研究の現場ではすでに古典の人だと思います。多田富雄さん、安保徹さんの免疫学の方法は身体に染みこんでいるので、かろうじてワクチン推奨者たちとワクチン懐疑者たちの諸論考をおおまかに読むことができています。ある新型コロナウイルスらしきものがあるとして、それにゲノム編集で新しく合成した遺伝子の断片を組み込むことは技術的に可能です。するとどこからがほんもののウイルスでどこからが合成されたCOVID-19verか判別不能です。こんなあいまいなことで世界のありようが激変しています。同時テロとの闘いのときは一週間で世界が変わりましたが、その比ではありません。例外なくだれもがCOVID-19の当事者なのです。治験の第三相を人類の規模で実験中なのです。どうなるかだれにもわかりません。

胸騒ぎをできるだけかんたんに書いてみます。あるウイルスの断片にすぎないスパイクタンパクを抗原として筋肉注射し抗体を誘発することでCOVID-19の重症化を防ぐという製薬会社の基本の設計モデルがちゃちすぎると思ってきました。ウイルスと宿主との相克はもっとはるかに全面的なものです。自然免疫という土台があって、獲得免疫が作用しますが、免疫現象の精緻なしくみは絶妙なもので、生命体の30億年の智恵が宿っています。気の遠くなる長い歳月を経て身体は間違わないようにして生命体の恒常性が維持されています。おそらくまだ免疫の全貌のごく部分しか解明できていないと思います。そこにゲノム編集とそれを翻訳するビットマシンの二進法のおおきな陥穽が潜んでいるはずです。病気を悪としその悪を遺伝子治療で除去するというのはきわめて畸形的な観念です。がん細胞は毎日数千個できているとして、では何個からがんの超早期治療がはじまるのでしょうか。そのあたりのことも往復書簡で少しずつあきらかにしていきたいと思っています。

なにを危惧しているのか。抗体依存性感染増強(ADE)が起こるのではないか。荒川さんもなんども論考のなかで取りあげています。「どうしてコロナワクチンで血栓が出来るのか」(2021年6月13日)という論考は次のように締め括られます。<つまり「ウィルスに感染するのが怖いので、ウィルスの遺伝子を体に入れて、ウィルスの毒性タンパクを自分の体内で量産させてみよう!さて、どうなるか?」という実験です。理解に苦しみます。けれどもいま世界中でやっているのはそういう事なのです。いずれにせよ現在は治験の真っ最中という事ですね。>昨年ワクチンが話題になり始めたときからずっと気がかりだったのです。このことについてもさまざまな意見があるのでかんたんに一括りするわけにはいきません。最新の情報では、京大IPS研究所が、新型コロナウイルスに反応する交差反応性T細胞(記憶型T細胞、メモリーT細胞)が未感染の日本人に確認されたと発表しました。また阪大の荒瀬研が2021年5月に「Cell」でデルタ株が武漢株スパイク抗原ワクチン誘導免疫を完全に回避し、感染を防御する中和抗体ばかりでなく、感染性を高める感染増強抗体が産生されていることを初めて発見し、抗体依存性感染増強ADEリスクが現実に近づいていることを示しています。ワクチン効果が切れてきた頃、ワクチン接種によって感染時にむしろ重症化してしまうADEが起きてしまえば人類史規模の災禍をもたらすことになります。

ところがそうともいえないこともあります。48時間でつくられたモデルナ社のワクチンがあまりに限定的な効果しかもつことができずわずか数ヶ月で中和抗体が激減し、追加のブーストが必要とされています。このメモを書いているとき、イスラエル政府が2回接種後6ヶ月を経た者は新規未接種者とすると発表しました。感染しても抗体ができにくいということは、宿主とウイルスの相克が全面的なものでなく、ほとんど既知のコロナウイルスと交差反応する古い免疫系によって感作されていると理解することもできます。免疫学の世界の主流はゲノム編集された遺伝子ワクチンを抗原とすることで抗体を誘発する抗原抗体反応がメインで自然免疫は付け足しになっています。大事なところなのでくり返します。獲得免疫のおこぼれとして自然免疫があるとする考えは、フロイトのエスと自我の範型と同型になっています。あたかもフロイトのエスが意識の淵源で自我はおまけという思考の型と相同です。老化とともに免疫力が逓減するという考えも自然免疫を獲得免疫の付属物にする免疫学からきています。わたしたちの身体のなかの腸管や肝臓には古い免疫のリンパ球があふれています。これらは自己応答性をもちがん細胞や細菌やウイルス感染に感作し異常細胞を排除しています。わたしは今回のコロナ禍は身体は間違わないという太い医学思想を根拠に、古い免疫系と新しい免疫系の範疇で考えないと、恐怖を煽るブースター注射を強制する無限ループから逃れることはできないと考えています。

もっと楽観的に考えることもできます。あまりにワクチンのできが悪いので、大量に作成されたスパイクタンパクを抗体が除去してしまえば、ワクチンの仕事は終了し、長期に残存するスパイクタンパクは残ったまま免疫寛容の状態になるということも考えられます。このあたりは片山さんと短いメールのやり取りをしました。

<炎症状態にある疾患を免疫寛容に持ち込んでホメオスタシスを維持することと、健康体に免疫寛容を持ち込むことは全く違うし、ワクチンの設計思想そのものがはじめから歪んでいます。いまぼくにとってワクチン正義も反ワクチンも、前提となる思考の慣性はおなじなので、まったく同じものとして写ります。今日気づいたときぞっとしました。どちらの立場に立とうと、バイオファシズムに隷属することにはちがいがありません。徹底して世界に対する構想力だけが問題となります。その余はありません。あすモデルナ社の社長のインタビューをお送りします。事態は、ナチズムやスターリニズムやローカルな天皇教よりはるかに深刻だと思います。とりあえず強力な文理横断の知が要請されます。人文知は刺身のつまにもなりません。いわんや文学をや、です。>(2021年8月8日)

片山さんからは次のような返信をいただきました。

<実際にADEによってどの程度のことが起こってくるかわかりませんが、今回の遺伝子ワクチン(荒川さんの言い方をすればスパイク遺伝子のベクター)は設計図からして根本的に間違っていると思います。正常な細胞のなかにコロナウイルスの遺伝子を入れて、細胞の表面にウイルスタンパクを発現させるというのは、ぼくが長年付き合っているウイルス性肝炎と同じ状態をつくり出すってことですから、どう考えても異常です。本当にこれから何が起こるかわからないですね。一方で、数億年かけて磨き上げられてきた免疫機構が、トランスジェニックスパイク遺伝子などという人間の浅知恵を蹴散らかしてくれるかもしれません。そうなることを期待したいのが本音ですが……。>(同日)

片山さんのツイートとからひとつ引用します。
<とはいえ老練なヒトの免疫機構は、ぽっと出の人工ワクチンなどでどうかなるようなものではないはずです。すでに打った人はあまり心配しないほうがいいと思います。ただ今後、ワクチン接種を習慣化することは、子どもも含めて人をワクチン中毒状態にするわけですから、やめたほうがいいと思います。>(2021年8月28日ツイート)

たしかに持ちあわせている知でできることは自力作善の行為です。それ以外にないようにみえます。安部的なものと反安部的なものが同一の思考の慣性に縛られていると繰り返し書いてきました。この思考の型では、解けない主題を解けない方法で解くしかなくなり、どうやってもその問いは解けません。錯綜するコロナの情報に対してぼくは内包論からひとつの原則を設けることにしました。コロナの恐怖を煽り、ワクチン接種を善なる行為とする狐憑きと反ワクチンを唱える者たちは一見対立しているようにみえて、いずれも科学知の思考の慣性に準拠していることにおいて、まったく同一の思考の表裏の関係になっているだけです。ワク激推しと反ワクはいつでも交換可能です。

錯綜する新型コロナの情報をどう感知すればいいのか。だれもがひとしくこの問いに曝されています。COVID-19は殺人ウイルスであり、ワクチン接種をすることが正義であるという信と、この信に違背する信が対立しているようにみえます。このふたつの信はいずれも同一律を暗黙の公理とする思考の慣性にかたどられた擬制であると思います。同一の信の裏と表。それが真相ではないか。そうするとコロナ禍の途方もない勘違いは、外延知の錯認に閉じられていることになります。内包知からこの外延知の錯乱をどう収拾することができるか、それがこの往復書簡の主題となると考えています。COVID-19の理解は最終的には死の外延性と内包性の違いに収斂することになると思います。

内包知を持ちださずとも文理横断の知によって戦慄的恐怖に陥らずに感染症のひとつとして理解することは十分可能です。ただ心身一如を自己が所有する前提に立つと体験することはできませんが、死は自己に属することになります。長く内包知を究尽してきたので、外延知によってこの死の問題を解くことができないことは先験的なものとしてあります。死はどこで受容され、消滅するか。外延知ではとらえることも生きることもできない。内包自然の生によって外延知の死を巻き込むこと。コロナをめぐる錯乱と狂気、科学知の暴走が喚起した呪術的宗教の根をどうやれば抜くことができるか。このことがコロナ禍のもっとも本質的で焦眉の課題としてあると思います。

コロナの狂騒の根っこにはヨーロッパ的知の偏りが起因しているに違いないと考え、ヘーゲルからマルクスを経てハイデガーやフーコーを扱いながらある知の流れを追尋してきました。フーコーはすでに1976年に社会は防衛しなければならないと発言しています。そうするとフロイド、ライヒ、ラカンの精神分析の吟味をやらないと外延知の思考の慣性を超えることはできない。フロイドはかれの表現概念であるリビドーを自然科学的な実体であると考え、ライヒはオルゴンなるものを可視化する装置を作り、アインシュタインに紹介しています。つまりふたりの精神分析家にとってリビドーもオルゴンも科学的に可視化可能なものとしてあったということです。リビドーもオルゴンも、かれらにあっても色濃く存在した科学という宗教への素朴な実在信仰が象った自然だと思います。フロイトのエスはかれの自我の投影されたものであり、そのエスから自我を逆に措定しています。この倒錯を実在化する科学的実体がリビドーだったのです。それに懲りたラカンはこの罠を巧妙に回避し、鏡像段階-象徴段階-想像界という観念の装置を創案しました。たぶん分析するだけで変調した精神は調律できない。患者は言語によって切り刻まれただ分析の対象としてだけ存在しているような気がします。

つまりヨーロッパ的知は環界の自然を制圧しそのなかに義を持ち込むものとしてあるように思います。どうやってもモダンな思考の根を抜くことができません。このなかからコロナ禍がでてきたのではないか。そう思えてなりません。くり返します。西欧的な知の偏りの中に今回のコロナ禍の錯誤もあると考えています。文理横断の知なくしてコロナの錯乱を免れる道はないと思います。ワクチンは人工コロナ感染で、天然コロナ感染よりタチが悪いと、多田富雄、安保徹の免疫学の理解から実感しています。フロイトが自我をエスに投影し、そこから逆にエスが自我を措定すると錯認の体型を作ったように、獲得免疫のおこぼれとして自然免疫を考える限り、コロナ禍の終わりは見えません。医学知の前提そのものが歪んでいます。フロイドの錯認は、医学知の錯認に等しいと考えています。素朴な実在信仰の医学教とその司祭が信の前提を疑うことはありません。医学という共同幻想が惑星の規模で生の全体を覆い尽くしています。西欧的な知の偏りにその淵源があると考えます。またユーラシア大陸の東に位置する島嶼の国はこの西欧知を仰ぎ見ながらご一新以降を建国してきました。その全てが瓦解しつつあります。いまでは悪霊退散のお札が三密回避とマスクと手洗いです。

精神医学も医療の一分野ですが医療の総体を考えると、ハンス・セリエのストレス学説がもっともすぐれていると長い年月ひそかに考えてきました。ストレッサーの生体反応を明らかにしたハンス・セリエとフロイトをどう対比するか。わたしは身体の恒常性のありようについてはセリエがフロイトをはるかに凌駕していると考えています。端的にフロイトの精神分析は精密な思弁であり、セリエは臨床家です。これまでフロイトとセリエが医学の領域で比較されたことはおそらくないはずです。科学知が担保する健康を一義とする一神教がバイオ・ファシズムとして人類に惨禍をもたらし、マグマのようなストレスが人びとに負荷されています。セリエの警告反応期、抵抗期、疲憊期という概念はヨーロッパ的知の偏りを超えて普遍性をもっています。病原菌やウイルスを悪とし制圧することではなく、負荷されたストレッサーが人体にどのように作用しているか。コロナという精神病の膨大なストレスの総量は想像を絶するものだと思われます。わたしの理解ではセリエの医学の方が患者の苦悩にたいしてきわめて具体的で実践的です。ほぼ思弁の入り込む余地がありません。セリエの思想は安保徹さんの身体は間違わないという根本思想として継承され、田頭秀悟さんによって主体的医療としてさらに拡張されつつあります。

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この往復書簡はほぼ80億人を向こうに回す言論になるような予感があります。困難ですが、コロナ禍の壮大な思い違いに青空が見える風穴を開けたいというのが動機です。かなり思考の慣性のタブーに触れることになります。なぜコロナの馮人現象が人類史的な厄災なのか自覚している人はあまりいません。この世のしくみについての巨大な思考の慣性が粗視化した自然が聳え立っているからです。もちろん医学知もここに含まれます。テクノロジーや材料工学の進展によって第三次救命救急の発展にはめざましいものがあります。進んだのは工学技術であって医学思想ではない。病気を悪とみなし退治する対症療法の医学はあります。それを認めるとしても病とはなにかの根源にふれる知は皆無だと言っていいと思います。とくに慢性期の生活習慣病は対症療法的に薬剤を処方するだけです。機能的なバイオテクノロジーという素朴な実在信仰。あるのはそれだけです。この世のしくみと全的に同期しています。

ワクチン推奨とワクチン懐疑は、飛ぶ矢は飛ばない、エピメニデスのパラドックスになっているということです。世界を認識する方法がその対象を世界に延伸するとき、解けない主題を解けない方法で解こうとしてきた。その表現の全体を意識が外延的に表現された外延知と名づけてきました。外延知は同一律を公準に人類史にひとしい規模の思考の慣性で聳え立つ外延自然を粗視化しました。その歴史のなかをわたしたちは生きています。

蝦名陸さんはこのしくみに気づいています。かれの発言を引用します。「いまの世界はあまりにアンフェアである」。アンフェアは追認の構造であって、その構造は、<もう、ひっくりかえらないように「できている」「ということになっている」「と認めている」「という構図しかないもの」「と信じている」。>(「note」所収「うったえている はずかしい」2021年8月19日)この追認の構造はつぎのような感受としてあらわれる。「いちばん近くにある問いを引きつける力によって隠されている、その近さがどんな遠さかという問い」(2021年8月20日ツイート)そしてその遠さを往還すると、べつの世界がおのずと立ちあがる。思考の慣性を拡張する複相的な存在の往還がよく読み解かれていると感じます。

未曾有のパンデミックと称されるコロナ禍もこの意識の範型に細部に至るまで囲繞されています。医学知が信とみなすことのなかに迷妄が潜んでいます。きずは消毒するやバランスのとれたカロリー制限食で血糖値の管理をする、などなど、外延知の範囲でも誤謬であり、信そのものが信として成り立っていません。敵とみなされる対象を殲滅し、征服すること。人間と環界の関係のつくりかたのなかに西欧的知の偏りがあり、それがコロナ禍の淵源でもあると考えてきました。この偏りにすぎない知のありようが分子記号のゲノム編集と二進法への翻訳によって人間にとっての普遍となりつつあります。

COVID-19というウイルスは危険なウイルスなので隔離とワクチンによって除去するという世界諸国家の意志があり、ワクチン接種は任意であるとされながら、自発的私権の制限を要請する強制力として機能しています。COVID-19はいつべつの株になるかわかりません。そのたびに戦慄に襲われ隔離される。それを自然として受容するとき人間は終焉し、べつの人間へと変態します。いまその途上にあるのではないか。外延知を知の全体とすればもうどこにも行き場はない。やがてがんの超早期発見超早期治療がもっとも正統な治療法となります。毎日がん細胞は数千個できているとされます。一個であっても治療が介入するのでしょうか。ストレスが負荷されつづけ生命体の智恵として生き抜こうとしてがんとして表現されたとわたしは思います。生命体はがんになることもできるのです。真核細胞が原核細胞に先祖返りしたと理解しています。一個のがん細胞をゲノム編集で除去する倒錯は科学知を称名念仏するほかに生きることの意味はなくなります。いつから健康が宗教となったのだろうか。けっして科学にはなりえないにもかかわらず擬制の医学知にたいする信仰はますます強化される。

接種を推進する者たちもワクチンに懐疑的な者たちもおなじ思考の慣性のなかに閉じられています。自然免疫と獲得免疫という医学知に準拠して仲違いしてるだけだと理解しています。まちがった医学知からは共同幻想しか生じません。がんを撲滅の対象にすれば、がん遺伝子をゲノム編集で治すのが理に適ったこととなり、それは強固な共同幻想となります。おなじようにをコロナかぜを戦慄の殺人ウイルスに仕立て上げます。まだあります。医学はどれだけ自然科学が精緻になっても科学にはなりません。はやぶさはニュートン力学の計算で小惑星まで行って地球に帰ってくることができますが、人間は機械ではなく、心と身体が相関する領域に病があるのです。そして病の根源はストレスにあります。だれもがかかりたくない3つの病を経て、ストレスが原因であったことを体感しています。内面化と内面を共同の符牒にする共同性の世界では医学は精密になるほど呪的な宗教になります。そして最終的には同一性のひとつの記号に収斂するまで抽象化されます。これや、あれや、それとして。この過程を経て「あなた」はAはAで「ある」ことになる。そして「ある」が外延知で解読されることはなく、存在のなぞは無限に延長され、やがてなぞそのものが消えていきます。

コロナ禍の狂気は自然免疫と獲得免疫の考えでは解けないと考えています。獲得免疫のおまけとしてしか自然免疫は考えられていません。自然免疫よりはるかに奥行きの深い古い免疫と生物の陸棲化後の新しい免疫だと収まりがつきます。歳を取ると胸腺由来の訓練されたリンパ球の活性は落ちますが、腸粘膜には胸腺外由来の古いリンパ球がたくさんあります。胸腺外由来T細胞も大発見ですが、身体は間違わないという医学思想は医学知のパラダイムを変えてしまうので無視されました。顆粒球の表面にアドレナリンの受容体があることは昔から知られていましたが、リンパ球にアセチルコリンの受容体があることを発見し、白血球が自立神経の支配を受けていることを法則化したことだと思います。1997年のことです。このふたつの発見が身体は間違わないという太いうねりとなって安保徹さんの医学思想をつくっています。

けがは消毒すると思いこんでいます。おなじように老人になると免疫力は減衰すると思っています。糖尿病はバランスのとれた食事より、糖質を減らすと、発がんをうながすインシュリンは少なくて済み、血糖値の乱高下による酸化ストレスは減少します。医学知のなかには公認されることがなくてもいくつものパラダイムシフトがあります。そのひとつに免疫についての公準があります。獲得免疫中心の免疫学から生命体の数十億年の智恵のつまった免疫学へと思考を切り代えるのです。

ここで少し安保徹さんがつくりあげた古い免疫系について整理します。古い免疫系は、NK細胞、胸腺外分化T細胞、自己抗体産生B細胞など自己応答性をもつ細胞です。腸や肝臓や外分泌腺や子宮や皮下に存在します。新しい免疫系は、T細胞、B細胞で外来抗原向けの細胞で、胸腺や骨髄や末梢血、リンパ節、脾臓に存在します。古い免疫系が土台としてあって、新しい免疫系は生物が陸棲化してさまざまな抗原に曝露されて獲得した免疫です。自己と非自己の抗原抗体反応で獲得される獲得免疫と生まれもった自然免疫があるとされますが、免疫の中心は自己が非自己を排除するシステムになって、悪い意味での擬人化が起こっています。ワクチンによる淘汰圧を逃れる変異種というときも擬人化されています。数多くの変異種のあるウイルスに武漢ウイルスを模擬したワクチンが効かなくなったというだけです。あたりまえです。進化論もおおくの擬人論によって解釈されています。

老齢になるとほんとうに免疫力は低下するのでしょうか。むしろ古い免疫系に回帰することで生の動的平衡が保たれているのではないか。自己と非自己の抗原抗体反応ではなく、体内の異常細胞を除去するシステムが古い免疫系の本態です。異常細胞はがん細胞や細菌やウイルスに感染した細胞で、その細胞を駆逐するのが古い免疫系の長い進化の歴史だと言えます。いまの免疫学のメインストリームは獲得免疫中心の医学になっています。もちろんゲノム編集にとって分子記号と二進法は可視化しやすい便利なツールです。そして獲得免疫のおこぼれが自然免疫ということになっています。なにを問題としたいのか。医学知を可能としている思考の慣性、つまり対象となる自然を粗視化する思考の型を問題としたいのです。そこにヨーロッパ的知の偏りがあり、その偏りが普遍として語られています。コロナ禍の真芯にこの普遍になった知への信仰があります。そして世界はこの信に沿うように編成されつつあります。

片山さんと長く対話をしてきたのでおわかりだと思いますが、感染ファシズムの核心にある素朴な実在信仰は呪的な自然信仰へと退化しています。この認識の型はフロイトのエスと自我の範型と同型になっています。気づいてぞっとしました。テロとがんを殲滅することを正義とするヨーロッパ的知の偏りのなかにコロナ禍もあります。もちろん日本的自然生成をヨーロッパ的知に対置することに何の意味もありません。裏表の関係ですから。自然免疫と獲得免疫の二項図式ではコロナ禍は解けないとずっと考えてきました。古い免疫系と新しい免疫系の考えなら、老化と共に免疫力は減衰するというウソを払拭できます。古い免疫系から飛び出した精鋭部隊が獲得免疫です。加齢と共に古い免疫系に老人力は回帰すると考える方が自然です。自我が無意識を措定しているのに、無意識が意識を措定すると作為したフロイトのように、獲得免疫の残余を自然免疫として刺身のつまにしています。エスのつけ足しが自我であるようにフロイトは意識を仮構しましたが、免疫学も自己と非自己の抗原抗体反応に目を奪われ、自然免疫を自我扱いしてます。

フロイトの自我とエスの関係は一方が他方のマトリョーシカ人形としてあること、自我はエスと相同であり、自我の投影としてエスがあることを明瞭に示している。医学知がけっして力学的科学知にはなりえないことをフロイトはよく知ってるにもかかわらず、リビドーを科学的に実体化できると妄想しました。ライヒはもっと極端にオルゴンを測定する装置をつくり、アインシュタインに自慢しました。人間の内面的なふるまいはいかなる意味でも科学にはなりえない非合理を内含します。非合理のなかに合理が小さく屈み込んでいる。脳と意識の関係についてベルグソンは巧みな言い方をしています。ベルグソンは脳もまたひとつの表象だから、脳と心の関係は、ハンガー掛けの釘とジャケットの関係だと言いました。上手い言い方です。たしかに釘が抜けたら服は落ちます。釘が動いたら服も揺れます。釘の頭が尖りすぎていたら服に穴が開きます。心は脳と相関しますが脳の機能のあらわれとして心があるわけではない。脳が意識の座であるという考えも、あるひとつの観念、表象にすぎない。おなじように身体と心の関係もストレスの無限の階調を媒介にひとつながりになっていると思います。精緻な現代医学がどれほど身体そのものへ病を還元しているか。無能そのものです。人間をかぎりなくバイオテクノロジーで計測可能な実体へ可視化する。フーコーではないですが、病院に監禁されると人間は荷札のついた肉袋になります。

互いに矛盾する観念をもつことが人間という概念にひとしいと考えてきました。言うまでもなく身体と心の相関として心身の現象があるからです。明晰を自認する科学知が一瞬で古代や原始に遡る迷妄をいま目の当たりに経験しています。意識の外延性をたどるかぎりこの迷妄から免れることはないようにみえます。どういうことか。未知のウイルスの恐怖を煽り科学という名の宗教に帰依することも、ウイルスは殲滅の対象ではなく共存してきたと科学知の明晰を語ることも、同一律に準拠した自然を粗視化し、そうやってつくられた巨大な思考の慣性を可視化したものにすぎないと思います。科学知はこの思考の慣性を同一律で刻み可視化したものであることは明白です。科学的明晰のなかにも、自己言及のパラドックスが、不完全性定理のゲーデル文が含まれています。疫学や感染症の専門家を自称する者らにこの繊細を求めるのは無理なことです。かれらは病原体の素朴な実在への信仰を表明しているだけです。たとえようもなく鈍感です。この自己言及のパラドックスは共同幻想としてあらわれるので、いずれが信か決定不能です。いくつもの付箋を貼りつけた信の体系が呪的な宗教として勢いをましている。どちらに論理の正当性があるか決めることはできません。どちらの考えも共同性を疎外し、それぞれの宗教的な信を語ることになります。これからは技術が世界を表象すると、ノーバート・ウイナーのサイバネティクスやフォン・ノイマンのゲーム理論に哲学の席を譲ったハイデガーのほうがむしろ高貴な人物であったのではないかと錯覚を起こしかけます。

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長い年月のなかで恒常性の維持を培った精妙な免疫の全円性をmRNAワクチンが撹乱し、免疫を回避する変異コロナウイルスとワクチンの軍拡競争を招いて収拾がつかなくなりADEを起すのではないか。どうしてもこの疑念を拭えないのです。mRNAワクチンを筋注することで免疫抑制が起こり、COVID-19に感染しやすくなり、他の感染症や疾病の悪化を招くのではないか。すでにファイザー社は4回目のブーストを準備しているらしいです。ここで製薬事業の現実をみることにします。モデルナの社長のインタビューによるとワクチンは48時間でできたそうです。『Newsweek』(2021年8月5日)に掲載されたものの一部を抜粋します。モデルナの社長は言う。「私たちはこのようなワクチンを何千種類も作れると考えている。利用する技術は全く同じ。メッセージに書かれた生命の4文字(DNAの塩基配列)を、ソフトウエアの0と1のように変えるだけだ。」分子記号をソフトで二進法に置き換えるだけだから、ゲノム編集でどんな病気も、もちろんがんも簡単に治せるようになると言っています。すごいなあこの外延病。ヒトゲノムの表現型が人間だから、人の心身は生命の基である4文字を二進法で置き換えることですべて編集できるという妄想です。というか畸形的な観念。変異株にたいして「定期的にブースターショットが必要になる」と語るモデルナの社長の上滑りする話をもう少しつづける。

<この10年間、2つの驚くべき科学的発見があったと私は考える。この発見は既に製薬業界の癌に対する見方を変えている。1つ目は、癌はDNAの病気であるという理解が十分に進んだこと。癌細胞は基本的に「異常な」細胞のことであり、DNAに突然変異が起きて自然な細胞、健康な細胞とは違うものになる。
2つ目の発見は、白血球の中のT細胞が(テレビゲームの)パックマンのように癌細胞を食べることだ。
この2つの発見で、業界全体が大きく前進している。科学の基礎的な発見を基に、医薬の応用として何ができるかが見えてきた。まさに今、私たちはそれを実現させようとしている。現在は5つの薬の臨床試験を進めている。
その中に、ワクチンを使って、免疫システムが見失った癌細胞の目印を教えようという試みがある。体内に出現した癌細胞を免疫システムが食べることができなくなって、癌を発症するのだ。
病気として発症しなくても、全ての人が生涯に何回も癌になっている。健康で、よく眠り、よく食べて、健康な免疫システムを維持していれば、癌細胞を早いうちに、パックマンのように食べてしまう。そうすれば、大きな腫瘍細胞に成長することも、転移して全身に広がることもないだろう。
そこで、癌ワクチンを使って、癌の突然変異を免疫系に教え込むというアプローチがある。癌細胞のDNAの遺伝子変異は、例えば離婚や子供を亡くすなど、人生で大きなストレスを経験したために免疫系が気付かなかった変異だ。人生で何かトラウマを経験してから10年後に、癌になることも多い。>

モデルナの社長が語るがんもがんの原因となるストレスもゲノム編集による疾患の治療も書き割りの絵のような機能主義そのものであり、そこにはどんな生の深みも玄妙さもない。熱力学工学者のエイドリアン・ベジャンの声が聞こえる。勝者だけによき人生が与えられる。<同じ進化の方向性やデザインは、勝利するという共通のゴールを目指す人のさまざまな集団で別個に現れる。本当の目的は速度ではなく勝つことで、勝つとは社会的地位を上げること、より良い暮らしをし、より長く生きること、そしてより遠くへ移動することだ。その目的は人生そのもので、その背後にあるのは、生きたいという衝動だ。その衝動は保存(あるいは自己保存)の本能としても知られ、何ものにも優る。>(『流れとかたち』)モデルナの社長から漏れてくるのは適者生存の邪な貨幣への欲望だけだ。

クリスパーキャス9の手法が発見され爆発的に世界中の研究者にひろがってから10年あまりが経とうとしている。その微細化と編集技術の進展は目を瞠るものがあります。モデルナのCEOが言う分子記号をビットマシンに置きかえれば、ゲノム編集でどんな病気も、もちろんがんも簡単に治すことができるようになる。すごいです、この狂信。邪教の匂いがします。医学が表象する新興宗教そのものです。外延知の外延は留まるところをしらない。病気を治すといいながら病気をつくる外延病です。ヒトゲノムの表現型が人間だから、人の心身は分子記号を二進法で置き換えることですべて編集できるという妄念です。ここではだれもが先端医学の属躰となるほかない。外延知でこの病気を克服することはできない。ある意味で、ジャック・モノーの予言は的中し、分子記号をついに二進法で編集することが可能となりました。バイオファシズムの誕生です。なんといっても人類史の規模の新型コロナワクチンの人体実験中という事実があるにもかかわらず、コロナの壮大な勘違いもまたヨーロッパ的知の偏りから生まれてきて、いま惑星そのものを外延知で包んでしまいました。そのうち発がんを促すストレスもワクチンで操作できることになるでしょう。心身のすべてをワクチンや薬剤で操れるという錯認。心身というアナログと合成された遺伝子とのキメラをめざして、膨大な数のベンチャー企業を巻き込み、熾烈な競争が行われているはずです。外延表現という知の往路には外延をさらに外延することしかありません。シミュラークルな生には未知も驚きもない。複相的な存在を往還することは外延化ではたどることのできない未知の生をわたしたちにもたらします。まるでぜんぜんちがう生が可能となる。猛威をふるうコロナの狂気のただなかでもうひとつの狂気の時代を生き延びたひとりの人間の幼童をとりあげます。この幼童をじかに手でつかむほかにコロナの無惨を超えることはできないと思います。

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コロナという呪的な共同幻想が喚起した人類史の厄災はどこで超えられるのだろうか。COVID-19で入院し不帰の人となると、家族の死に立ち会うことも遺族が骨を拾うこともできない。おなじような世界からフランクルは生還した。フランクルの幼童はコロナ禍の死についてとてもおおきなことを示唆している。

<ほどなく、わたしたちは壕の中にいた。きのうもそこにいた。凍てついた地面につるはしの先から火花が散った。頭はまだぼうっとしており、仲間は押し黙ったままだ。わたしの魂はまだ愛する妻の面影にすがっていた。まだ妻との語らいを続けていた。そのとき、あることに思い至った。妻がまだ生きているかどうか、まったくわからないではないか!
そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。知るすべがなかった(収容生活をとおして、手紙は書くことも受け取ることもできなかった)。だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。>(『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル)

対幻想の愛の物語が語られているのだろうか。「だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい」と思うとき、フランクルは自身の置かれている境涯を超え意図せずして存在の複相性を往還している。このとき彼女はフランクルよりはるかに近くフランクルのそばにいる。レヴィナスは言う。「だれかをかけがえのない人として思う可能性があるからこそ、愛がある」(『暴力と聖性』)フランクルは人間的な感情の根源に触れている。蝦名陸さんもこのことに気づいています。かれは言います。「いっさいの具体よりも具体的な抽象がたしかに存在している」(2021年8月25日ツイート)として。おそらくみえない言葉でつぶやいている。・・・それはどんな近傍より近傍にある、と。

フランクルのこのくだりで、すぐに木村敏さん共訳のヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』のすきな部分を思いだした。いまフランクルが生きている生の固有の場所だ。

<ところで、およそ人間精神が生命に立向って驚嘆せざるをえないもの、それは犯し難い合法則性のようなものではない。むしろこの合法則性とは、人間精神が自らの不確かさによる苦難と自らの存在のおぼつかなさから来る脅威からの救いを求める安全地帯なのである。われわれを真に驚嘆せしめるものは、むしろ生命が示すさまざまに異った可能性の見通し難い豊かさにある。現実に生きられていない生命の充溢、それは現実に生きられ体験されているほんの一片の生命よりも、予想もつかぬほど豊かである。もしもわれわれが現実的なもの以外に、可能なるもののすべてに身を委ねたとしたならば、生命は恐らくは自己自身を滅してしまうことになるだろう。だからこの場合には、有限性は人間の悟性が遺憾ながら限定されたものであることの結果としてではなく、生命の自己保存の戒律としてわれわれの眼にうつる。>(『ゲシュタルトクライス』250p)

絶滅収容所で根源の一人称を生きているフランクルが可能なものすべてを生きるとすればフランクル自身を焼き尽くしてしまうだろう。だから根源の一人称を根源の二人称として生きることで生の恒常性が維持されることになる。ここで存在の複相性がはじめて往還される。

フロイトの考えたことを素描します。かれフロイトはひとつの卓越した才能でしたが、フロイトのつかんだ性の理念は時代の知の布置に囲繞され硬いものでした。かれのリビドーという表現の概念のどこにも大洋感情はなく、かれの資質といえる合理性と科学性によって実定できるものと想定されました。ライヒのたどった道とおなじです。人間の精神現象を科学で定量できるという発想は現代の自然科学と変わるところがありません。分子記号の二進法への翻訳と同型の思考です。ここにも西欧的知の偏りがあります。観察者の視点の違いにより、エスからエゴへ,エゴからエスへ人間の精神は移動するという説明は可能です。ユングの元型とエスが対応し、その解釈の違いでふたりの知者は袂を分かちました。フロイトはエゴからエスを触ることしかできませんでした。あきらかに同一性の制約を被っています。ヴァイツゼッカーは二元論以前に根源の一元が存在することを知覚しています。そして生にたいする大洋感情である根源の一人称がなければ根源の二人称も起動しません。

フロイトは根源の二人称を知らず自我の投影であるエスを同一律に封じ込め精神を物語りました。ずっしり軽い性はフロイトの思想のどこにもありません。外延知の偉大な知者であったフロイトにはエスはつぎのようなものとしてあらわれた。生命が誕生いらい連続しているとみなすのは、人間的な意識がそうみなしているということであり、人間的な意識が性の誕生に由来するのであるから、じつは性のうねり(リビドー)が生命をとぎれることのない連続するものとしてとらえていることにほかならない。フロイトの「エス」は「エゴ」のひとつのあらわれであり、「エゴ」は「社会」(多)と「自ら」(一)をやがて分節する、性のうねりからはじけたひとつのあらわれであるとフロイトは考えた。つまり性のうねりが人間的な意識の源泉というほかない。的外れなことをフロイトは言ってません。むしろまともなことを出来事の裏側から触っている。灼熱する激烈な性の光球がはじけて根源の一人称がむくりと身をもたげたのです。その無数の滴のひとつひとつが「おのずから」ということであり、その対極にフロイトが考えた外延知の「エゴ」が内包知と対座している。あるいはリビドーという大洋がうねって撥ねあげた、波間に光る雫のひとつぶ一粒が「みずから」に比喩されてもよい。うねりからはじかれて弧を描く、無数のしぶきの軌跡の全体をフロイトは「エス」と考えた。この関係の型は獲得免疫が主な動因であり、自然免疫という雑多なものが付随していると考える免疫学の学知とよく似ています。

フランクルはフロイトの考案した自我と自我の投影であるエスの二元論に先だって根源の一元があることをかれ自身の固有の生として生きた。関係が表現である〔領域としての自己〕を生きたと言ってもいい。モダンな外延の世界では感染症ファシズムのなかで、個人としての個人は監禁され、個として死んでいくことからも疎外されている。同一性が造形した思考の慣性が映し出す幻影のなかで死ぬことになります。

フランクルの〔わたし〕は、わたしという自己と、〔あなた〕という自己にまたがってしか〔存在〕できないのです。厄介なことに心身一如に還元できないところに〔わたし〕は存在します。完全に明け渡された自己はどうやっても同一者の思考のフレームに落とし込むことができません。わたしの理解ではフランクルはこの内包の性を生きています。外延知の世界では、自然的な性を媒介としてひとりの個体がもうひとりの個体とつくりだす観念を対幻想とみなしてきました。過酷な状況のなかにあって、フランクルは生きているか死んでいるかもわからない彼女が自分よりも近くにいることをまざまざと体験しています。フランクルが生きた幼童はガス室の炎でさえ焼き尽くすことができません。

〔あるもの〕が外延知ではなく、比類を絶した内包知の〔他なるもの〕に重なるから、フロイトが自我をエスに逆措定して仮構した無意識が、むしろ内包知の観念の自然として、根源の一人称のありようを赤裸々に表現することになりました。フロイドはエスを混沌として沸き立つ釜として表象しています。同一律の先後を取り違えたためにエスという奇妙な観念が粗視化され、いまも化石のように無益で無用の精神分析として残存している。この不思議を祖述する形式として〔あるもの〕が〔そのもの〕に等しい、A=Aで〔ある〕という認識の形式が召還されたと考えました。根源の一人称が同一性の起源をなし、それぞれの心身が人間という生命の自然に従って共軛的にくびれて心身一如が外延知として表現されることになったのです。それにもかかわらず、内包の性の面影として自己同一性のなかにその痕跡が残されている。〔幼童〕を媒介に種族語から折り返す復路のなかに、国家をつくらない生の可能性を、存在の複相性を往還することでみてきました。国家へ向かう精神と国家へ向かうことから折り返してくる精神があり、前者を外延知、後者を内包知と名づけ、世界の往相と還相を構想してきたのです。探求の過程で〔1〕の回路は国家と貨幣と宗教を生むことがわかりました。〔2〕を主格とすると世界はどのようなものとしてあらわれるか。だれも考えたことのない未知の言葉の圏域を途切れ途切れに考えてきましたが、〔2〕を主格とする内包表現に寄与する考えはわたしのしるかぎり皆無でした。

内包では内包という観念の母型に回帰するだけなので死はありません。同一律が拘束する外延的な死は、内包自然の引っ掻き傷にすぎないので、生の部分でしかないとわたしは思っています。はじまりがあって終わりのない渦があります。この性は消費されることがありません。そこには世界のどんな悲しみより深い悲しみがありますが、だからこそ、この悲しみは生きられます。往復書簡でコロナの誤報や医学知がどれほどちゃちなものか轟かせることができたらいいなと思っています。

これで少し長くなってしまった第一信を終えようと思います。コロナ禍の狂気がどれほど人びとの生を切り刻んでも、コロナの凶悪を無化する他力のさらに手前があるとわたしは思います。どんな本にも書いてありませんが、不思議とそれでも、いやそうだからこそ浄土が歩くのです。浄土は根源の性です。この実感は揺るぎなくあります。いま死んだ、どこにも行かずに〔あなた〕になる。内包という観念の母型をわかりやすく言い直すとこうなります。外延知の死は内包知では内包自然の生の一部になるだけです。自己でもある〔わたし〕は脱分極し、〔領域としてのわたし〕となり、内包という観念の母型に回帰します。心身一如を自己が所有し死も自己に属していると考えて生きている人には通じにくいことです。生も死も分有されることで内包自然の一部となる。存在の複相性を往還するとこういう不思議がおのずと出来します。いつもすでにその上に立っているこの根源の情動にはどんな作為も自力作善もありません。そして内包自然のこの場所で呪的な感染ファシズムは悠然と無化されます。

コメント

1 件のコメント
  • 倉田昌紀 より:

    ヒトの身体(生命)は、間違わない、と「思考の慣性」がクロスし、歩く浄土は、未知の「ことば」を、歩いています。
    「死」という最大の「共同幻想」を、見据えながら。コロナ禍もその一つです。
    「総表現者」の「生存感覚」は、新しい「ことば」に、自らの身体そのものを生きて生活する場所から、届けられています。
    片山さんとの往復書簡は、「生命」の世界の過去と未來を往還することでしょうね。

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