日々愚案

歩く浄土108:情況論32-内包自然と総表現者10/池田晶子の自然2

ひとつの気づきがあってこのメモを書いている。ヘーゲルの思想を外延すると民主主義の市民主義になるということ。意識と存在のあいだにすきまがあり、そのすきまをないことにしてヘーゲルは壮大な思想の伽藍をつくった。ヘーゲルの思想を踏襲したマルクスの自然思想にもそのすきまがある。なぜいま池田晶子か。市民主義では私利と他者への配慮がつながらないことを類い稀な鋭敏な知覚で言い切っているからだ。と共に、は不可能であると池田晶子は言う。いまわたしたちが手にしている理念ではそのとおりだというほかない。まだ言い足りないのでもうすこしメモを書き加える。
ハイデガーはヘーゲルを受け継ぎ、存在者と存在のあいだには余白があり、人間という概念はそのすきまを埋めることはできないということを発見した。人間の私性は利己的な自由や平等ときわめて相性がいいが、他者については無関心である。ヘーゲルやハイデガーの思想を感得するとその理由がよくわかる。市民主義において他者への配慮がおのずから成ることはなく、建前の飾りとしていつもぶら下がっている。それは絵に描いた餅であって実現されることはない。またそこにアーレントの悪の凡庸さが日々何気なくあらわれる。

ヘーゲルの精神現象学を微分するとハイデガーの哲学になる。わたしはそのように理解している。「人間は、まず最初に世界のこちら側にいて、『自我』であれ『我々』であれどう考えられようとも、ともかくなんらかの『主観』として、人間であるのではまったくない」(『「ヒューマニズム」について』渡邊二郎訳 107p)このハイデガーの考えはつぎの考えを招く。「宇宙の茫漠として果てしない空間の中にある地球を思い浮かべてみよう。たとえてみれば地球は小さな砂粒であり、同じおおきさをした隣の砂粒との間は一キロメートルもそれ以上もあって、そこには何も存在しない。この小さな砂粒の表面にうようよとはいまわる愚鈍な動物の一群が生きていて、それがほんのしばらくの間、認識するということを案出して、賢い動物だと自称している。(略)全体としての存在者の中では、われわれ自身が偶然その一人である人間と呼ばれるこの存在者を特に重要視するいかなる正当な理由も見あたらない」(『形而上学入門』)

斯くして戦渦の犠牲者は遺棄される。ヘーゲルの弁証法においてもまた。生き残るのはいつも思考の型だけであり、そこで生き死にする存在者たちは取るにたらない存在である。おかしくないか。おかしいとわたしは思う。ハイデガーの自己正当化をもうひとつ。「無傷の健全なものと同時に、存在の開けた明るみのうちには、憤怒に燃えた悪事も出現する。憤怒に燃えた悪事の本質は、人間行為のたんなる背徳性のうちに存するのではない。むしろ、憤怒に燃えた悪事の本質は、深い激怒の邪悪さにもとづくのである。しかし、無傷の健全なものと、深い激怒に駆られたものという二つのものが、存在のうちに生き生きとあり続けることができるのは、実はただ、存在そのものが争いを含んだものであるかぎりにおいてのみ、である。争いを含んだもののうちにこそ、歪む働きの本質由来が隠れ潜んでいるのである。(中略)ところが世間の人は、歪む働きなどは存在者そのもののうちのどこにも見出されることはできない、と思い込んでいる。(中略)歪む働きは、存在そのもののうちに生き生きとあり続けるのであって、そうであるからこそ、私たちは、歪む働きを、存在者に付着する何か存在者として、けっして見つけることはできないのである。(略)存在というものが初めて、無傷の健全なものに、恩寵のうちで立ち現れることを許してくれ、また、深い激怒に、災禍へと向かって突き進むなだれのような殺到を許してくれるのである」(『「ヒューマニズム」について』渡邊訳)

出来事の当事者ではなくつねに観察者である者の自己弁明である。深い激怒の邪悪さは存在の本質に内在する歪む働きであり、災禍に向かってなだれをうって殺到するとハイデガーは言う。言うまでもなく民族浄化をさしている。ハイデガーの『「ヒューマニズム」について』と同じ1947年にレヴィナスの著書も出版される。なんの因縁か。ハイデガーの心の襞をめくってみる。ハイデガーは見えない言葉で、おれは存在に触ったのだ、ユダヤ人のホロコースト、おうそれがどうした、と轟然と言い放っているような気がする。民族浄化を許容しても痛痒を感じずにすむ怖ろしいものがハイデガーの思想に棲まっている。慄然とするおぞましさはたんにハイデガーの卑俗な性格に還元できるものではない。存在論がもつ本来的な恐さなのだ。厄災は決してあの時代に特有の出来事といってすむことではない。存在と存在者のあいだにある謎はかたちを変えていまも生々しく息づいている。わたしは、わたしたちが生きている、いま・ここをつきうごかすものの正体をつかみたいのだ。

存在と存在者のあいだには余白があることをハイデガーは発見し、その余白はヒューマニズムではけっして埋まらないことをハイデガーは直観していた。レヴィナスはハイデガーのこの発見に驚愕し震撼された。彼はハイデガーについて言う。「私にとって、ハイデガーは今世紀のもっとも偉大な哲学者です。おそらく、千年という単位で考えても、傑出した哲学者のひとりでしょう」(『われわれのあいだで』)続けてレヴィナスは言う。「しかし、そのことに私はずいぶんつらい思いをしています。というのも、私は一九三三年に彼が何者であったかを忘れることが決してできないからです。たとえ、それが短期間のことであったとしても、です」。会ったこともない異国のまして異なった時代の思索者の言葉を懐古趣味で取りあげたいのではない。今、この時代を生きようとするリアルな意志がここを素通りしてはならぬと言うのだ。我がゲルマンの没落期、人間の可能性はどこにあるか、とハイデガーは問う。「かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことができるのです」「この神の出現のための、あるいは没落期におけるこの神の不在のための一種の心構えを準備するという可能性です」(「シュピーゲル対談」)レヴィナスは絶句しながら反問する。「なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ」(『われわれのあいだで』合田・谷口訳)

ハイデガーとレヴィナスの決定的な落差がある。レヴィナスは存在と存在者のあいだの亀裂を埋めるほかにいきようがなかった。そういうことは池田晶子にはまったく理解できない。この落差を池田晶子は体感できない。思弁でごまかしていると思う。ヘーゲルの精神現象学にもハイデガーとおなじものが流れている。ヘーゲルの精神現象学は意識の始まりの不明を解き明かしていない。わたしが熱い自然を体験して発見したこと。ヘーゲルの精神現象学にある不明、ハイデガー哲学の虚偽。それは意識と存在者をつなぐ思考の慣性から流れ下っているということだった。根源の性というつながりの応答として、かれらの哲学があるにすぎないということ。同一性に先立つこの超越をかれらは感得できなかったし、目を瞑ってここを飛び越した。レヴィナスは悶絶しながらそのことを解明しようとしてうまくやれなかった。存在するとはべつの仕方で、あるいは存在することの彼方は、内包存在であるといえばよかった。レヴィナスとヘーゲルやハイデガー、池田晶子のボタンの掛け違えは存在ではない内包存在をつくることでしか解決しないと思う。

わたしは、レヴィナスが苦悶しながら呻いた言説の本質は祈りであるということにためらいなく同意する。言説とはそのほかではありえない。同一性にかたどられた存在の律動をどれだけこまかく刻んでも、存在そのものに触れることはできない。その律動のひとつが深い激怒に駆られた邪悪さとでもいうのか。池田晶子が触れえたと確信したことはヘーゲル的な同一律であるし、また禅仏教的な覚知でもある。けっして内面化しえない他者の絶対性は、ここにはかけらもない。あるのは自力による認識だけである。そんなものがどうした、とわたしは思う。世界の半分を生きることできるだけだ。もっといえばそんな世界はいらない。頭脳が明晰であることと世界を生きるということとのあいだにはなんのつながりもない。世界の味わい深さは向こうから一方的にくることで、意識の明晰さとはなんの関係もない。意識の明晰さで歯が立つほど世界はやわではない。そのことに打ちのめされることも、叩きのめされることもなく、池田晶子は逝った。親鸞の他力に触れる縁がなかったというべきか。思考の慣性を激しく批判しながらだれよりも池田晶子自身が存在を覚知することの罠に落ちていた。

全人間が「いきなり自己」となるヘーゲルの思想を命とする池田晶子の論法がどういう矛盾を抱えることになるかみていく。『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』という本がある。2011年9.11の同時テロのとき出版されたものである。そこで池田晶子は事件を追悼しながら、つぎのように書いている。汝の敵を赦すことができるようになるまでに、人類は何万回滅びなければならないだろうかと内省している。わたしは意識の外延表現の範型では100万回亡んでもなにも変わらないと思う。それでも9.11同時テロの報道に接し「現象にすぎないとわかってはいても、人びとの悲しみ、その祈る姿に、涙がドーと溢れた」と書いている。とてもイノセントな人。池田晶子の便法を引用する。

ところで、イエス・キリストの言葉、その語り方にも、落ち度はあると言えばあるのである。敵は「敵」と名付けられることによって敵となるという、言語上の事実である。何であれ、存在はそう名付けられることによって、その存在者として存在することになるのだから、敵とてそう名付けられる以前には敵ではない。名付け以前の「存在」とは、ある意味で「自分」なのだから、敵を「敵」と名付けることによって敵を作っているのは、他でもない自分なのである。それが、敵を憎むとは自分を憎むことであって、決して自分のためにはならないというゆえんである。
 しかし、このように感情として納得するよりも先に、「敵」という言葉は、敵というものがあらかじめ存在するように思わせる。そして敵とは憎いものである。その憎いものを愛せという絶対矛盾に、人間の感情は振れて悶えるのは、決まっている。「汝の敵を愛せよ」とは、それ自体が不可能な言表ではなかろうか。では、どう語ればよかったかと言えば、「汝に敵は存在しない」、もしくは「すべてが汝である」。しかし、繰返しになるけれども、全人類がじつは自分であるということに、全人類が気づくまでには、人類は業を重ね、いくたびとなく自滅しなければならないのである。存在と矛盾とは、どういうわけだかそういうことになっているのだから、これはもうどうしようもない。想いここに至ると、私の「人間的な」感情もまた、ある特有の仕方で消失する。(『テロ以降を生きるための私たちのニューテキスト』75p)

全人類が自分であることに覚知しないかぎり敵を殲滅せよは無くならないと池田晶子は言う。創世以前からの巨大な考えの固まりを意識と池田晶子はみなしている。だからその意識が表象された人類は自分であるということになるわけだ。「私」がヘーゲルであり人類であるというとき池田晶子に欺瞞はない。それはよく理解できる。ここでいつもの思考実験を試みる。「ところで、ある意見が、『自分』の意見というかたちで為される限り、それは真実ではあり得ない。なぜなら、真実は、万人にとって真実であることで真実だからである。『自分』の意見は、『その人の』真実なのであって、万人にとっての真実ではない。(「意見をもつ人、もたない人」(『考える日々』76p)池田晶子とおなじことを覚知した、池田晶子n1、池田晶子n2、池田晶子n3、・・・がいるとする。その眼前に時代を震撼させた神戸の少年が登場したとする。覚知者n1、n2、n3、・・・はおなじことを言う。

私には、あの少年は、「とても同じ人間とは思えない」。あれは、われわれと同じ「人間」ではない。(「少年Aとは何者か」(『考える日々』56p)

しかし、少年Aとは、この世ならざる者すなわち魔物なのだから、魔物を人間の法でいかに裁くか、現代のわれわれにはあまりその経験がない。世が世なら火炙りですんだものを、へたに民主主義の世の中なものだから、われわれはその処遇に困惑してしまうのである。(「人の世で正義を説く人は」『考える日々』59p)

池田晶子さん。あなたならどうしますか。決定不能に陥るよね。ここでとられている意識は朕は国家なりとまったく同型の論理である。世間を風刺する小話ならば通用するが、現場はこれではやれない。では火あぶりにするのか。それだと世間と変わらない。つまり意識は膠着状態に陥り決定できない。なにがいいたいのか。池田晶子の形式論理では現場は捌けないということだ。いいかえれば、池田晶子的な信は信の共同性から免れえないということ。意識は堂々めぐりをするだけになる。

つまり言説の本質は祈りであるというレヴィナスの思想を抉ることは理性の便法では不可能となる。それを知るからこそ、ほの暗い理性の彼方にある魂について書きたかったのではないか。〔在る〕ということの律動をヘーゲル的にどう刻んでも存在そのものへ迫ることはできない。同一律の知の彼方に根源の性が存在する。同一律の支配する世界から他者への配慮が出てこないこと、と共に、が不可能であることを徹底的に容赦なく解き明かしたことは池田晶子のおおきな功績だと思う。

池田晶子さんは、意識の、世界の半分しか生きていない。意識の彼方に世界の無言の条理がびっしり敷きつめられている。レヴィナスに噛みついてどうする。かれはじぶんの生を限定されたものとして十全に生きたと思う。レヴィナスを激しくなじる池田晶子は痛々しくてきりきり舞いをしている。少年Aはこの世ならざる魔物か。わたしは紙一重の差しかそこにはないと思う。存在論の未遂がこの世がこうでしかありえないとする観察する理性の形式を生んだ。池田晶はその場所から「魔物」を見下ろしている。ソクラテスや孔子、老子、荘子においてをや。偉大な知性の持ち主によっても存在と世界は半分しか生きられていない。なぜ観察する理性の形式が生まれたのか。それは理性よりはるかに深い根源の一元からのおのずからなるうながしなのだ。根源の性によぎられてわたしたちすべての表現がある。娘の子が生まれたばかりのふたつと違わない妹の顔をじぶんの腕で輪をつくって囲み、ときどき頬を撫でている。思わずそうせずにはおれない利己的なありかたからもっとも遠くて深い場所からの応答だと思う。ここに娘の子の計らいを超えたおのずからなる応答があると思う。ヴェイユはこの場所のことを匿名の領域と名づけた。名づけようもなく名をもたぬこの根源の根源の場所をわたしは内包存在と名づけた。この場所だけが憤怒に駆られた同一性の派生態である世界の無言の条理を無化することができる。

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