日々愚案

歩く浄土103:情況論27-総アスリートから総表現者へ13-内包自然と総表現者7

なぜ総表現者か-総表現者とはどういうことか

内包論が自己についてのあたらしい知覚をもたらす。内包という知覚によって、自己は閉じたものではなく離接する他者を含みもつ〔主体〕となり、奇妙な生が豊穣なものへと転位することになる。わたしに起こったことはだれにでも起こりうるのではないか。だれにでも起こりうるということに概念の妙味があるのだが、総表現者は新奇な概念なのでつたわりにくいと思う。わたしは、そのなかにいてそこを生きることを可能とする、生をつつむものを表現と考えている。言葉と生きていることのあいだにすきまがないということ。表現とはそういうものではないか。そこにしか固有の生はないと思っている。そして生のこのありようのなかで人と人はおのずとつながる。わたしたちは同一性による生の技法になじんでいるので、固有の生において人と人がつながることがどういうことであるかをまだ知らない。

総表現者という概念はわたしの生の体験を抽象して生まれた概念である。わたしの表現の概念は内包表現によっているので、世の通念としてある表現の概念とはちがう。内面化という意識の形式は歴史的なものであり人の生を引き裂く自然を無化することはできない。外界の大きな生を引き裂く権力に抗命すると錯覚することはできるがともに権力の疎外された形式だと思ってきた。内面化された作品と作者も、また作品と読者もまれな例外をのぞきつながらない。

自己表現は内包表現へと拡張できると考えている。なによりわたしの身に起こった表現の転位には普遍性があるのではないかと思っている。わたしは出来事が内面化も社会化も不能であるところから考えはじめた。むかし書いた文章を貼りつける。

「・・・私は自分が文章を書くなんて若い頃考えたこともありませんでした。・・・思ってもいないことが実現することはなかなか味わい深いものがあります。この不思議に私は驚いています。短気で喧嘩っぱやいくせに虫やサボテンを育てたり星を見たりするのが好きな空想癖の強い田舎の少年が、どうしてこうなったのか自分でもわかりません。南極観測船宗谷に乗って南極に行くというのが子供の頃の夢でした。探検というのに憧れがありました。北極とか南極とか中近東の緑のない岩山とかタクラマカン砂漠とかパタゴニアとかそういうとこにおれは行くぞと考えたりするともうそこに自分が行ったような気がしてワクワクし、アンモナイトや三葉虫の化石掘りに行ったり、雷魚の卵を帰化することに夢中になったり、霜柱がニョキニョキ生えてくる真冬の夜更けにベンジンの匂いのする白金カイロを胸に、オリオン星雲やプレアデス星団をネオパン3Sを使って撮影したりするのが好きな、天と地に関係あることに好奇心のある、周囲からすると内気でちょっと変わった少年でした。小学6年生の時、オパーリンの『生命の起源と生化学』を読んでノーベル賞に憧れました。顕微鏡や望遠鏡で花粉や星ばっかり見ていたのに、生来の熱しやすさが災いして時代にかぶれ、気がついたら首まで学生騒動につかり、すぐキレる手負いの狂犬みたいなやばい青年になっていました。オウムもそうですが、社会には純朴を狂わせる怖いところがあります。凄まじかった。いろいろありました。それでも書くということは自分とはちがうどこか遠い世界の出来事でした。私は本の宣伝をしたいのです。『内包表現論序説』は高校生がノートに「うふふ」と書いたりするあの日記のようなものです。・・・この本にはひたむきな不器用さがあります。書くとはどういうことか、世界はどういうものか、そういう根本的なことについて、自分がぶつかったこと、うぅむと考えこんだことについて、つまりうまく書きようがないことがたどたどしく真剣に書かれています。無骨な本です。だから私はこの本を読んで欲しいのです。ふりかえれば20歳そこそこのガキが極道して更正するまでの物語です。空想少年が夜空の星を見て感応した不思議が、じつは〔内包〕という知覚のことだと気がつくのに、少なくとも30年はかかりました。この本にはあきらめや愚痴やごまかしやこざかしさ、いわゆる口先ぺらぺらはありません。貧血する狂暴な世界に立ち向かう、繋ける日の元気の素が可能なことがこの本には書かれています。どうかこの本をよんでください」(オウムがなくなる『内包表現論序説』1995年9月)

「おれはニーチェが嫌いだ。この世の美しいものに唾棄し吐き気をもよおしたニーチェの哲学批判。キリスト教やヘーゲルが存在してニーチェの哲学が許容される。その逆はありえない。ひねくれかたの比類なさ。人間に対する、自分にたいする嫌悪と倦み疲れたその感情がどこから来るのかおれにはわからない。ひりひりしたニーチェの繊細なこころが風に吹かれ、ニーチェは抉る。ニーチェの壮絶な気狂い。だれもがいくらかニーチェだ。そしてだれもニーチェほど徹底しない。おれはニーチェが憧れた自然状態を避けようがなく潜った。言葉を戯れる者はこの風景をしらない。だからおれはアッシュが好きだ。今まで言葉の気圏で手痛く二度転んだ。なにしろ激しく転んだので、からだやこころのあちこちに大きな穴がぽっくりあいてしまって風邪をひいたり下痢をしたりなかなかだった。ときどきはぽっくりあいた穴から『注文の多い料理店』の風景が覗けて、『バナナ・フィッシュ』のアッシュのひとりごとが聞こえた。”ニーチェはオレの遠縁だ、でも彼はモテナイ”いや、寝言だったかもしれない。いつもからだがスースーするのでガムテープ貼ったりシリコン入れたり包帯で温めようとした。からだやこころがしんしんと冷えていった。だからおれはロックが好きだ。一度目転んだときも二度目転んだときも、いつも好きなロックを聴いていた。ロックがなかったらこころの起伏がなだらかになってしまったような気がする。二度目ひっくりこけたときはあんまり激しくて顔が地面にめり込んで、気がついたら地図でしかみたことがなかった南半球のシドニーにいた。みんな朝ご飯をたべていた。ぼくは食欲がなかった。そうしてぼくは内包表現論の言葉をひとつひとつ、つくりはじめた」(『パラダイスへの道’91』)

「たとえどんな生涯であれ代理不能のふかく刻みこまれた固有の体験というものがある。それは言葉に最も遠い場所だ。書けぬことも書かぬこともある。〔おれは人間ではなく〈おれ〉である〕という表現の格率から、〔わたしは〈性〉である〕という内包の知覚に至る、わたしの三〇年を賭けて、原口論考の感想を走り書きする。一人でながいあいだ戦争をやった。時代がうねって渦巻いた、避けようのない、昏い、仁義なき戦いだった。船戸与一や笠井潔やトマス・ハリスの小説よりもサイコでハード・ボイルドだった。終戦も手打ちもどこにもなかった。じぶんのすべてを賭け、殺されても殺してもゆずれないこととしてそこを潜るほかなかった。不意の一撃にそなえ全身を眼にした二四時間。麻紐の滑り止めを巻きつけた一尺の肉厚鉄パイプをブルゾンの袖にしのばせ、灼熱の夏にボルトナットを縫いこんだ皮手袋を身につけ重ねた十数年。それがじぶんがじぶんであることのすべてだった。書くということはどこか遠い世界の出来事だった。そうやって十数年を生き延びた。それでもアタマのなかが一瞬で真っ白になる出来事のまえでおれは能面になった。迂闊だった。書かぬことも書けぬこともある。一九八六年、三六の歳だった。自殺する人がやたら元気に見えた。じぶんがそこらに転がっている石ころとおなじみたいで一切の感情がなくなった。コトバも消えた。死でさえ余裕がありすぎた。おれたちの連合赤軍としてひきうけた一九七三年春の昏い衝撃も吹き飛んだ。Jumping Jack Flash! そしてわたしはビッグピンクにさわった。そこから内包表現論をはじめ、一〇年が過ぎた」(『guan02』「熱くて深い夢-中村哲論」)

生を撃断する出来事を内面化することができるだろうか。禁止と侵犯という意識の型そのものを終焉させることによってしかその出来事の彼方に行くことはできない。内面化という浅い意識の形式でそこに触れることはできなかった。どんな内面化より深い自然がある。俯瞰することで世界を観察する者たちはこの自然を知らない。世界の無言の条理を生きることもなく世界を分析し解釈する。おわかりだろうか。内面化や社会化がシステムの一部であり、このシステムによって社会が安定的に自存しているということが。世界史的な地殻変動の転形期にあって観察する理性は体制を下から支えるものとして機能する。文学や芸術においてをや。わたしたちの知る文学や芸術の大半はうすっぺらな欺瞞の体系にすぎない。この表現をわたしは「社会」主義と呼んできた。内面はいつも社会とつるんでいる。おわかりだろうか、現実を俯瞰する表現が権力そのものであることを。そこには豊穣な生のかけらもない。愚劣な安倍晋三らと安倍晋三を批判する者らの意識が同型であるのは双方が「社会」主義的だからだ。貼りつけた文章から長い歳月を経て、わたしは内面化も社会化もできないということにこそ表現の可能性があるように思いはじめた。わたしが手にしたいものは内面よりはるかに深い自然だった。そこにしかわたしの安息の地はなかったというべきか。

わたしは当事者ということを思考の原則において物事を考えてきた。当事者性を生きるとき観察する理性の位置はとれない。ある行動をするとき、そのリアクションに命がかかると、いろいろ考える。なんどもそういう場面があったが、わたしの原則はシンプルだった。厳しい場面でどうするかはいつもすべて面々の計らいとした。その苛烈な場面で、おれはどうするのかということだけを考えてこれまで生きてきた。理念がからむ争いごとの渦中のやばい局面でなにかが身をもたげ人間の自然が露わになり、その場から消えないかぎり、第三者としてふるまう余地はなく、ある行動をとることを強いられる。どうするか。体験からいうと大半の人はこの場面から去って行く。去ることができるならば苛烈は断行しないほうがいい。だからその場面で倫理的にふるまったことはない。人のふるまいを選別する、狭き門より入れという聖句がある。親鸞は悪人正機だから狭き門という考えはない。わたしはなにをどうやろうと、そんなことはどうでもいいと心底思っていた。おまえはどうするか、それだけだった。そのあたりは親鸞に似ている。険しい場面から去っていく人に後ろから罵声を浴びせたことは一度もない。いつもおれはどうするか、とそれだけを考えてきた。そういうふうに生きて、観察する理性の場所というものをつくることができないままに、いまのじぶんがある。観察する理性の場所をつくる余裕がなかったと言ってもよい。じぶんがなしたことを眺めるゆとりがなかったと言うべきか。あっというまにいい歳になったわけだ。無意識であろうと意識的なものであろうと自力作善の者らをを唾棄してきた。

生を引き裂く自然と熱い自然を体験して、それがどういうことか腑に落ちるまで考えようとしたが、出来事を内面化することも社会化することもできなかった。知識人と大衆という世界図式からじぶんのふるまいを考えたことは一度もない。ないからないというしかない。対象から身を引きはがし距離をとり、世の中を眺め下ろす視線からしか観察する理性という場所は生まれない。苦界の衆生になにかを施すことが好きな人はそうすればいい。小さな善を積み増すことで世の中はいくらかでもよくなると信じる人はその信を実行すればいい。面々の計らいであり、わたしには無縁だった。
わたしたちの知る内面化はひそかに埋め込まれた内面のコードを読み取ることと同義であり、それは容易に社会化され、まちがった一般化を生む。まちがった一般化を最後まで拒めば内面化はどこにも到達しない。この意識はどこに行くか。内包表現の世界にたどりつくと思う。
世界の無言の条理が退散していく過程を歴史と呼ぶ。世界の無言の条理を終焉させること。わたしの理解ではこの歴史は内包史となる。人間のかくあれかしという意志の体現の漸増を歴史とみなすこともできるが、同一性に拠る生の技法によって実現できぬことはすでに先験的なことに属する。

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