日々愚案

歩く浄土104:情況論28-総アスリートから総表現者へ14-内包自然と総表現者8

いつもおまえの内包はわかりくいと言われる。内包の概要をできるだけコンパクトに書いてみた。

世界の基層で進行している世界の枠組みの世界史的激変があり、表層では市民社会から疎外された謂わば例外社会からの噴流と、国内的には世界の地殻変動を理解できずに精神的に退行したファシズムが急速に台頭している。テロによって社会を破壊する者らとオカルトファシズムでこの国を破壊する者らの動きは精神の退行という意味において双生児である。昨年メディアに登場したシールズは消滅した。転形期の激動を超えていく世界構想を持ち得なかったから消えていき、入れ替わってグロテスクな日本会議が前景に登場してきた。この者らとの闘いは不可避だと思う。むろんかれらにグローバルハイテクノロジーに抗するどんな世界構想があるわけでもない。むやみに社会を混乱させ引き裂いていくだけだ。到来するこのような社会にあって、民主主義は抗命することはできない。1%によって99%が収奪されるという世界図式を前提にするかぎり、人びとはやすやすと事態を座視する凡庸な悪として、この時代の奔流のなかに呑みこまれていくだろう。それらは既知の光景だ。片山さんとの連続討議を通じ、くり返される既知の光景を未知の世界へと組み替えようとしている。また未知の世界構想が可能だと思うから討議を持続している。わたしたちはまったく未知の世界をこの討議でつくりつつあると確信している。

討議のなかで真っ向から内包自然と総表現者という概念を提起した。内包自然という概念が可能ならば、人びとはアスリートとしてグローバルな世界に組み込まれるのではなく、一人ひとりが表現者として立ちあらわれうるという表現の機微が話されている。わたしたちの知る表現の概念はここで大きな転回をしている。「内包自然と総表現者」のホットな対話を少し付記する。自分のなかにも世界にも未知を見いだすことができずに、じりじりと世界が縮小している世界の行き詰まり感はだれの胸中にもリアルにあると思う。ハイパーリアルなむきだしの生存競争が加速されることによって自己や生は伸びやかになるだろうか。変化する世界に身の丈をあわせていくことによって受容するしかないとする感受がだれのなかにもあるのではないか。わたしたちはグローバリゼーションとハイテクノロジーによる世界の改変はある意識の自動的な更新にすぎないという共通する理解をもっている。この世界が窮屈であればもっとのびのびする生をつくろうではないか、とわたしたちは考えた。

生が縮減していくのが世の趨勢であれば、テロや戦争のない、一人ひとりが歴史の主体となる世界をつくろうではないか、それはどうやれば可能かということが討議のテーマである。オカルト安倍晋三の独裁があり、生活が厳しくなり、酷くて残忍な社会の到来が予感される。そのただなかをわたしたちは生きている。わたしたちは思考を停止することで天変地異のように予感される時代をやり過ごそうとしている。なぜ世界はこのようなものでしかないのか。グローバル経済もハイテクノロジーも国家も資本も宗教もある思考の慣性の必然として現象していることだとわたしたちは考えた。とりあえずこの思考の慣性を超えるものは存在していない。そうであればこの思考の慣性をひらく思考をつくろうではないか。討議を重ねるにしたがい同一性が思考の慣性を決定していることに気づいた。同一性を拡張できれば世界はまったく未知のものとして登場するという確信がわたしたちにある。そしていまわたしたちには同一性をひらきうるという手応えがある。やっとここまで来ることができた。簡単に言えば世界をあらたなものとして構想することができないから思考の慣性を受容し、思考が停滞しているのだ。わたしたちの知るどんな理念もハイパーリアルなむきだしになった世界の無言の条理に抗することはできない。それは日々の実感としてある。

新しい権力論を構想したフーコーは戦後を生き直すにあたってつぎのような原則を設けた。「デカルト的な意味での〈主体〉、そこからすべてが生まれてくるような根源的な点としての〈主体〉から出発してはならない、ということでした」(『哲学の舞台』)戦後西欧哲学は、大戦の惨禍とマルクス主義の重い気圏の負荷の下、主体の限界、主体の消滅、主体の解体をめざして新しい理念を目指した。かれらの試みが、「『ここは私の日向だ』。この言葉のうちに全地上における簒奪の始まりと縮図がある」(レヴィナス)に届いただろうか。なにも変わりはしない。ホームグロウンのテロが熄むことはない。「知識人-大衆」を前提とした観察する理性は世界に対する対抗概念をつくることはできても世界の無言の条理が怯むことはない。わたしの理解では観察する理性のつくる対抗概念もまた思考の慣性のうちに閉じられている。こういうちゃちな対抗概念で変わるほど世界はやわではない。世界も現実も人間ももっとしたたかだ。それほどわたしたちが生きている自然から流れ下った思考の慣性は鞏固だ。この自然は天然自然である国家や宗教や貨幣や、人工自然である金融工学やハイテクノロジーすべてを含んでいる。片山さんとわたしは膝をつき合わせてあっちこっちの喫茶店であたりを気にしながら討議をつづけた。だったらこれまでの自然を外延自然、外延自然を拡張する自然を内包自然と呼ぼうではないか。

しだいにつくりたい理念の輪郭が浮かび上がってくる。大地を簒奪する自然から大地を分有する自然へ。ここに空腹でたまらない複数の人がいるとする。そこにおにぎりが一個放り投げ入れられる。そのとき人は空腹のあまりおにぎりを奪い合うものである。自然だ。そこでマルクスは考えた。パンが100個もあれば、食べたいだけ食べて残りは冷蔵庫に入れてあとで喰おう。そのとき分ければいいではないか。マルクスの読みははずれた。人は余剰があればあるほどもっと欲しくなるものだった。なぜそうなるのか、どの本にも書いてない。生を引き裂く自然は奪い合うものである。禁止は侵犯される。親鸞はその生のありようを煩悩だと考えた。往相廻向とはそういうものではないか。では、死にゆくアキが朔に「また見つけてね」と言い、朔が「すぐに見つけるさ」の場合はどうなるか。おにぎりは半分っこされる。半分ずつ食べようか。あなたがぜんぶ食べていいよ。これは倫理だろうか。おのずからなる絶対的な善だ。ふるまいのどこにも倫理はない。わたしたちはそういう理念をつくろうとしている。もうひとつ根源の一元のたとえをあげる。「まわらぬ舌で初めてあなたが『ふたり』と数えたとき/私はもうあなたの夢の中に立っていた」(谷川俊太郎『女に』所収「ふたり」)この「ふたり」を同一性で指さすことができるだろうか。「ふたり」は同一性に先立っている。根源の出来事は「2が1」であり、事後的に「それぞれが1」となる。自己意識によっては事後的にしか言いあらわすことができない。そこが人と人がおのずとつながる根源の場所だ。

この自然をわたしは内包自然と名づけた。男性がいて女性がいるのではない。〔性〕が分有されることで〔わたし〕と〔あなた〕になるのである。自己意識が指さす男であるか女であるかはつねに事後的なことなのだ。この〔性〕は驚異ではないか。わたしは驚異であると思い、この驚きを内包論として書き、いまも書いている。この〔性〕のことをわたしは根源の性と名づけた。このときわたしは穴の開いた点としての自己ではない。〔わたし〕が〔わたし〕のまま〔あなた〕となる領域として存在している。わたしは、アキと朔の物語に象徴される広義の性は人類史を一新する潜勢力をもっていると思う。自己であることの背後の一閃によぎられ自己が領域化する。この根源の力はだれのなかにも無限小のものとして内挿されている。だから、他者を自己の内に認める生の知覚は、自己表現ではなく、内包的に表現される。身と心をひとつきりで生きているわたしたちの生命形態の外延的な自然は、根源の性を分有することの驚異を粗視化し、心身一如に引き取り、性を外延化した。それがわたしたちの知る人類史だ。広義の性によって拡張された領域としての自己が自己の本然である。このときあらゆる共同的な信は根をぬかれ、「大地」は簒奪ではなく、自己の陶冶がそのまま他者への配慮となって現成する。自己を領域として生きるとき三人称の共同的な世界は、喩として内包的な親族として表現されるほかない。自己が内包的に表現されるとき世界に音色のいい風が吹く。

存在を粗視化し、同一性が規定する自己を実有の根拠として表現された科学、哲学、文学、芸術という自己意識の外延的な形式(外延知)は、自己に先立つ内包存在が内包的に表現する内包知によって拡張されるだろう。国家も社会も貨幣も宗教も〔領域としての自己〕による内包表現(内包知)によって根底的に変化する。国家は終焉し、社会は喩としての内包的な親族へ、また喩としての内包的親族の下で貨幣は贈与されるものへと生成変化していく。ここに生が固有な〔主体〕として歴史に登場する。内包史のなかで人はみな表現者としてあらわれる。わたしたちの眼前には壮大な未知が際限なく広がっている。数少ない読者よ、どうかわたしたちに同行されんことを。浄土はわたしたちとともに歩いている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です