「歩く浄土」の99~101は書いていて手応えがあった。ここしばらく総表現者という概念を強いものにしたいと思って書いてきた。概念を強くすることには世界への対抗概念としてアイデアを述べるのではなく、未知の世界をよきものとしてつくりたいというモチーフが込められている。総表現者という概念が概念としての水準をもつにはいくつかの条件があった。ひとつは人類史の厄災を招来してきたとわたしが考えている「知識人-大衆」という権力による世界の分割を終焉させること。知というものにまつわる頑迷な迷妄をほどかないと総表現者という理念は理念として自立しえない。対抗概念ではだめなのだ。そのことには自覚的だった。
わたしには内包という表現はわたしにとっての固有のものであるとどうじに普遍的なものとしても言いうるという確信のようなものがあり、総アスリートという世界の趨勢にたいしてついに総表現者という理念を提起した。古い知の範型ではなく新しい知が万人にとって可能であるということ。だれもが表現者となりうるということ。時期は到来した。電脳社会のインフラはいまでは万人に供与されている。だれもが、どの領域であれ、望めば知の先端に触れることができる。人類が文明や文化として蓄積してきたおよそありとあらゆる知に触れることができるのだ。世界の地殻変動にともなう転形期の混乱は生を縮減する力としても作用するが、生を豊潤なものにする力もある。たくさんのなかのひとりにすぎないわたしがサイトをもち意見を表明することもできる。その与件が万人に供与されるのはおおきな革新だと思う。この与件によって世界を古い知によって分割してきた世界像は解体される。もちろん知は、ほっておいても緻密になる観念の遠隔作用をもっているので、万人に与件が供与されることがそのまま価値であることはない。観念はひとりでに知を精密にするものだ。それは観念の自動的な作用で、知を積み増すということそれに自体なんの価値もない。観念の自然過程にすぎぬことだ。ハイテクノロジーによって万人に知がひらかれるということに価値があるわけではない。総表現者という概念が目鼻をもつにはもうひとつの条件がある。
知識人と大衆という世界図式が終焉すれば総表現者が可能となるということではない。同一性を前提とした知が知の位階制をつくるのは必然である。それがわたしたちが受けいれている自然である。わたしが内包論で試みているあらゆる価値の価値転換は世界に対する対抗概念を意味しない。そういう文化相対主義で歯が立つほど世界の無言の条理はやわではない。もっと人間という自然はしぶとい。観察する理性は世界の無言の条理にやすやすと組み込まれる。刺身のつまみたいなものだ。むしろさまざまな観察する理性によってこの世のしくみが支えられていると言うべきか。
身体と心がひとつきりという人間の生命形態の自然にとって同一性という存在の粗視化されたありようがきわめて相性がよかっただけで、ほんとうは奇妙な生はいつも同一性の彼方にある。同一性によって生存は可視化され計量可能となる。天然自然が優位である時代に人権の原理は人びとの生にとって、それが充分には機能しなくても生存することに有利だった。収入の多寡にかかわらず等しく一票の選挙権をもつ。これって不思議なことだ。
人工自然に天然自然が呑みこまれようとしている現在、わたしたちの生はますます同一性に漸近する。それはわたしたちの生がA=Aに近くなることを意味する。それを避けることはできない。もともと同一性の淵源は存在の粗視化にある。根源の性を分有するという驚異を生命形態の自然において享受しようとして同一性という認識の型がとられただけのことである。同一性もまた歴史的な概念であると解すればいい。
どこに自己はあるか。心身一如のなかにはない。どこを探してもそんなものはない。固有の他者の目に映った自己が〔わたし〕なのだ。そのとき意識は他者を自己の内に認めることを知覚する。アキが朔であることの驚異はここにある。意識はいつもこの驚異を事後的に認識することしかできない。気がつけばこれほどシンプルなことはない。このシンプルな出来事をわたしは根源の性と名づけた。根源の性を分有することではじめて自己の各自性が現象するということだ。この先後は逆にならない。自己が他者を措定するという錯認が人類史を連綿とあやなしてきた。この制約された意識のありようがわたしたちの人類史をかたどってきたといえる。意識が扇状的に積み上げてきたすべての理念の構築物のことを意識の外延知とわたしは呼んでいる。天然自然も人工自然も国家も貨幣も宗教も、文学や芸術の営みもこの信の体系のなかに閉じ込められている。この鞏固な信の体系を根柢で支えているものが同一性だということに気づいてしまった。それはどういうことであるか。表現についてのわたしたちの根ぶかい臆断を転倒したくて、ひとつひとつ概念をつくりながら自前の世界を描いていくのは困難を極めた。博多に出て少年から青年になり、やがておっさんになり、親の世話で熊本に戻り、おじいちゃんに変貌するが、考えていることは変わらない。紆余曲折、つづら折りの道行きだった。すきに生き、考えたいことを考えてきたといってもいい。しかし役割人間を演じたことはない。考えるしかないから考えたのであってだれのためでもない。もちろんじぶんためでもない。根源の性の驚きが内包論を書かせている。そのことを自己表現ではなく内包表現だと言ってきた。自己が主体なのではない。内包的に表出された〔わたし〕が主体なのだ。
じぶんがふかく関わったことにおおくの負債を抱え込み、いろんなことをしこたま考えた。体験としてつかんだこと。共同性に関する人の挙動の是非を衆を担ぎ上げる理念よって判別することはできない。共同性が掲げる理念が市民主義的なものであるか、左翼的なものであるか、天皇制的なものであるか、事由を問わず、集団的な思考を貫くものは、目的は手段を正当化するという政治である。この政治を根柢から批判するにはどうしたらいいか。政治のない世界をつくればいい。わたしはそう考えた。またそう考えるほかに生きようがなかった。しぶとく考究することで、衆に拠らぬ世界の可能性の輪郭がしだいにはっきりしてきた。いま、人類総表現者であるとか、内包的な主体という概念を提起しつつある。衆を統治する知識人の役割論が人類史の規模の厄災を招来したと思っている。反発するものは大いに反感をもてばいい。わたしの体験知はゆるぎなくそう告げていいる。わたしたちは知識人による統治のしくみを過小に評価してきた。群生する衆生を統治する技術が王あるいは皇帝を補弼する知識人であったということ、このことは洋の東西を問わず真理だと思う。人びとを飼い慣らし馴致する統治の術、それが知者の役割だった。法によって秩序を維持すること。アッシリアの古代から軍事もふくめてあらゆる知がそれにむけて駆動した。「ここは私の日向だ。この言葉こそが大地全体の簒奪の開始であり象徴である」(レヴィナスが引用したパスカルの言葉)文明とともにあった知識人と統治される草木虫魚であった衆生。だからこの世のしくみを肯んじないものは余儀なさとして内面を発明しそこに観念の王国をつくることで抗命した。それが観察する理性の誕生であり、そこで生の技芸がさまざまに試行された。おおまかにいうとこの世の草木虫魚の生を救済するものがユダヤ-キリスト教という、のちにフーコーによって牧人=司祭型権力と名づけられた生の技法であり、またユーラシア大陸で興った大乗仏教である。わたしたちの島嶼の国ではアニミズムの洗練された形象である神道をいただく天皇=赤子型権力という共同幻想の観念の運河が掘られた。
人類の文明史とともにあった自然が終わり、内包自然と名づけられた新しい自然が興る。「知識人-大衆」という権力による世界の分割が終わり、新しい〔主体〕が誕生する。人類総表現者の時代の到来だ。天然自然と人工自然の相克する時代に総表現者という表現の概念がありえただろうか。それは存在しないことの不可能性として予見されるもので外延知の制約をうけたものだった。そのもっともすぐれた達成を親鸞の他力という慈悲やヴェイユの神の恩寵にみることができるが、信の共同性の根を引きぬくことができなかった。国家の形成が同一性を前提とするとき不可避であるように、どういう信であれ信が共同性を帯びることは不可避だった。それがわたしたちが知る自然だといえる。
わたしはこれまでふたつの自然を生きてきた。ひとつは生を引き裂く自然であり、もうひとつは熱い自然である。
ふたつの自然の体験は譲渡不能であり、内面化も社会化もできぬこととしてあった。なんとかこの体験を言葉にしようと内包論を書きはじめた。五里霧中、徒手空拳、闇夜の手探り。表現にまつわる根深い思考の慣性を転倒しようとしているのだということはわかるが、どうやってもうまくいかない。もしかすると内面化も社会化もできぬということに表現の可能性があるのではないか。わたしはそう考えた。わたしの体験したふたつの自然は不即不離で、このふたつの自然をそのまま言葉として取りだしたい。もしそれが可能なら表現は拡張されるという思いは痛切だった。
ここに空腹でたまらない複数の人がいるとする。そこにおにぎりが一個放り投げ入れられる。そのとき人は空腹のあまりおにぎりを奪い合うものである。自然だ。そこでマルクスは考えた。パンが100個もあれば、食べたいだけ食べて残りは冷蔵庫に入れてあとで喰おう。そのとき分ければいいではないか。マルクスの読みははずれた。人はあればあるほどもっと欲しくなるものだった。なぜそうなるのか、どの本にも書いてない。生を引き裂く自然は奪い合うものである。禁止は侵犯される。親鸞はその生のありようを煩悩だと考えた。往相廻向とはそういうものではないか。
わたしは考えた。そこでわたしの体験したもうひとつ自然をもってくる。おにぎりは半分っこされる。半分ずつ食べようか。あなたがぜんぶ食べていいよ。これは倫理だろうか。おのずからなる絶対的な善だ。ふるまいのどこにも倫理はない。この自然をわたしは内包自然と名づけた。男性がいて女性がいるのではない。〔性〕が分有されることで〔わたし〕と〔あなた〕になるのである。自己意識が指さす男であるか女であるかはつねに事後的なことなのだ。この〔性〕は驚異ではないか。わたしは驚異であると思い、この驚きを内包論として書き、いまも書いている。この〔性〕のことをわたしは根源の性と名づけた。このときわたしは穴の開いた点としての自己ではない。〔わたし〕が〔わたし〕のまま〔あなた〕となる領域として存在している。孤独と空虚のないこの世界に、なぜ、はない。