日々愚案

歩く浄土3

81SEpyEjaAL__SL1200_ 佐々木俊尚さんの今日(2015/02/05)のツイートを見ました。
 ISISをめぐってかなりホットです。
 いくつかコピペします。

テロが生み出されたのには社会的背景があるからといって、テロそのものを肯定することはあり得ません。

ただ永山則夫論(社会が悪いから人を殺した)と違うのは、今回の件は外交・安全保障であり、国際社会における日本のプレゼンスの問題であるという点ですね。根底の議論は必要だけど、表明はしていかないといけない。

あのねえ、テロの根源が何に起因するのかをきちんと検証して社会改善していくことと、国際社会の中で反テロをきっちり打ち出すことは、全然別のレイヤーですよ。

だから日本政府は空爆を支援せず、「地域から暴力の芽を摘むには、たとえ時間がかかっても、民生を安定させ、中間層を育てる以外、早道はありません」と表明してるのでは。

「ISに対して日本政府がどういう姿勢を見せるべきか」という議論のベースになるのは、「最終的に何が国益になるのか」というリアリズムだと考えます。

軍事支援は憲法に関わる問題ですが、そうでない人道支援であればできるだけ積極的にコミットすることが日本の国際社会での名誉につながり、それは日本の生存戦略になると私は考えています。

「権力に都合の良い愚民」ですか……あのねえ、もはや「権力vs反権力」という物語の有効性は日本では消滅してると思いますよ。反権力という思想はあり得ない。

私はISという存在が国民国家を超越しつつあり、グローバル企業にも似た戦略を採ってることに激しく興味を感じてますが、それとISを肯定するのとはまったく別です。

 佐々木さんはツイートに罵倒の反論がきてかなり苛立っています。佐々木さんのツイートを8つ取りあげました。かれは以前から安倍政権のTPPと集団的自衛権を支持していますので、そのことを前提とした意見が表明されています。あるいはかれの『レイヤー化する世界』で述べた理念が踏襲されているといってもいいです。

 わたしもISISの処刑と残虐を激しく否定します。かれは、いま起こっていることを、とうに賞味期限の切れた、権力と反権力という図式でとらえることはできないと言います。同意します。「私はISという存在が国民国家を超越しつつあり、グローバル企業にも似た戦略を採ってることに激しく興味を感じてます」とも言っています。いい感覚をしているなと思います。わたしもそう思うからです。
 安倍晋三は国際社会でのプレゼンスを示しているでしょうか。佐々木さんにはそう見えるみたいです。ひとりでテロリズムの嵐をかいくぐってきたわたしに、国益も国際的プレゼンスもなんの関係ありません。国益と国際的プレゼンスを表明するとき、後藤健二さんの凜乎とした面貌は遺棄されています。
 ジャーナリストの嘘を感じます。当時者性という思想はさまざまな歪みを生みます。後藤健二さんは斬首されるということでその当時者性を生きました。野武士のような面構えでした。映像を見た人は、はっきりとそのことを感じたと思います。ここが事件の現場です。日本政府は見殺しにしました。それがどんな国益や国際社会でのプレゼンスであれ、わたしはそのことを認めることはできません。

 佐々木さんの典型的新聞記者の文体と言葉はここに触れることはできません。『「当事者」の時代』を読んだ上でこのことを言っています。

 自己を実有の根拠としてつくられてきたこの世のしくみが大きく軋んでいるのが現在だとわたしは認識しています。グローバルな覇者と現実を否定するISISの倒錯。グローバルな覇者をグーグル帝国に比喩すればその「猛獣の理」(佐々木さんが『自分でつくるセーフティーネット』の中で使っている言葉です。借用しています)に対してならず者集団のイスラム国はカリフ制を遙かに遡る精神に憑依することで対抗しようとしているように見えます。国民国家を平定しようとしているグローバルな勢力の電脳社会の威力をISISもまた使い回しています。youtubeやソーシャル・ネットワーキングを駆使しながら、精神の古代形象に取り憑いています。現在以降を順伏しようとするグローバリゼーションの精神の形と、ならず者どもの精神の場所は、現在を基点とすれば、折り返したときちょうど対称的な場所に、相互が位置しているように思えます。猛獣の理とならず者どもの異形は精神の型において同型です。自己を実有を根拠とするかぎりだれもこの精神の範型からまぬがれることはないのです。
 よく似た感覚を共有しながら佐々木さんとわたしが立っている場所は異なります。遺棄された後藤健二さんの無惨は、当時者性の根底で、存在をひらくことによって、もう一度生きることが可能だとわたしは思います。そこにしか生の未知はありません。空念仏ではないのです。そこに困難な生の只中にあっても生きられる生があります。〈ことば〉からの贈与として未知の生がひそかに舞い降りてきます。

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