日々愚案

歩く浄土2

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 「けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして、そのことを名づけること」について考えています。言葉では言いあらわせないそのなにかのことを、わたしは〈ことば〉と呼んでいます。だから言葉が〈ことば〉自身を生きることが言葉の始まる場所であり、同一性の彼方なのだと言ってきました。

 〈ことば〉は自己に先立つのです。この場所のことを根源の性と名づけました。自己でもなく共同性でもない〈なにか〉です。レヴィナスはこのあたりのことをうまく言えませんでした。かれが「自我は起源に先立って他者へと結びついている」というとき、その結びつきをいう刹那、自我は自我とも、他者とも違う場所に転位しているのです。だれがやろうとここにはいつも未然があります。同一性の規範はかくも強いのです。
 言葉が〈ことば〉を踏むことはできません。それは言葉に先立つものだからです。ありえたけれどもなかったものを現にあらしめるということの極度の困難さもここにあります。
 けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないような出来事は、わたしがわたしでありながらあなたである、そのような場所です。この場所を内包と言います。その場所へと媒介するものが還相の性です。それよりほかにわたしは生きることができませんでした。ここまでくるのにながい時間がかかりましたが、じぶんを生きるということは、生の原像を根源の性で生きることにほかなりません。わたしにとって生はそういうものとしてあります。

 このわたしの知覚の場所から吉本隆明さんの国家論を見てみます。国家や親族についての吉本さんの考察は熱血の青年マルクスが『経哲草稿』で言った「幻想の共同体」よりも、レヴィ=ストロースが『構造人類学』で述べた互酬性や贈与という考えより格段に優れています。

 ずっと若い頃に吉本さんの近親相姦の禁止について考えたことがあります。guan02という本に書いたことを再録します。そのうえで還相の性を手がかりに吉本さんの対幻想理解を再考してみます。吉本さんの近親婚の禁止は線形な記述概念であり、うまく表現論として言えていないと思います。

 レヴィ=ストロースの互酬性という考えは功利的な感じがして好きではありませんした。構造主義という理念は関係の型だけを抽出して世界を平板に論じる理念です。好きになれませんでした。アンドレ・ヴェイユというシモーヌ・ヴェイユのお兄さんがレヴィ=ストロースの親族についての考えを代数的構造として定式化しました。アンドレは兵役拒否で処刑寸前までいきました。
 構造主義は人文の思考というより未開種族の分析の仕方はむしろ理系の考えです。ユダヤ人のホロコーストの衝撃が、人間について考察する意欲を削いだのだと思います。レヴィ=ストロースがやったのは関係の型についての考察だけです。表現の深さや奥行きというものは方法意識としてはじめからないのです。自然科学の理念として読めばそれほど違和感はありません。
 バタイユには鋭い性の感受性がありました。激烈な性を発見した人類が、かれはそれを至高性といいますが、知を積みますごとに生が貧血し、1950年代のソ連に流し目をしながら、いまやけっして回収されない否定性のみがリアルだといっていました。かれの思考はヘーゲルの圏域にありました。
 いまわたしはレヴィ=ストロースの未開種族の観察理論も、バタイユの供犠も、吉本さんの兄弟と姉妹間の性的親和感も、国家の起源を明かすための説明概念のひとつにすぎないと思っています。
 自己幻想も対幻想も共同幻想も同一性によって統覚されています。バランスのとれたカロリー制限食は真理ではありません。しかしそれを真理とする概念の内部ではそれを疑うことができないのです。おなじことが思想についても言えます。
 『共同幻想論』は柳田国男の遠野物語をテキストとして書かれています。わたしは『共同幻想論』をテキストとして国家のない世界を語ることもできると考えています。

 2001年に考えていたことです。数ヶ月後に同時テロが起こりました。

 なんで近親相姦の禁止なんやとよくいわれました。なぜ近親相姦の禁止にこだわるかというと、近親相姦を禁圧すると、理念として起源の国家が生まれるからです。血縁集団をどれだけ拡大しても結縁集団はそのままでは国家にならないことをぼくたちは実感として知っています。ぼくは国家を経ない人間の関係のあり方の可能性を考えてきました。
・・・(中略)・・・
 そこでネックになるのが近親相姦なのです。太古の面々が氏族共同体から部族共同体に至るには観念の飛躍が必要です。そのためには近親相姦がなぜ禁止されたのかその謎をほどかないといけないのです。現に近親相姦は世の大勢ではありません。また国家は現存します。しかし理念としていえば、血縁集団を拡大したら氏族共同体まではつくれるのですが、氏族制が血縁集団であるかぎり、統一国家あるいは統一社会となりえないわけです。氏族制が部族制へと転化するには断層というか裂け目があります。近親相姦の禁止という一理があれば国家は誕生します。共同幻想の彼方に行くには近親相姦の禁止の謎を解き明かし、それを梃子にして共同幻想を経ない世界がつくれるのではないか、ぼくが考えたのはおおまかにはそういうことです。

 国家形成のターニングポイントを吉本隆明はヘーゲルにもとめました(嘘だと思う人は「世界の大思想1ヘーゲル」樫山欽四郎訳『精神現象学』264頁下段及び265頁の下段を見てください。あらま、書いてあります)。例の兄弟と姉妹のあいだのセックスをともなわない性的親和感です。これでいける、と吉本は思いました。ここを認めてしまうと共同幻想の国家への転化は不可避です。うん、じつにうまく説明できる、そう吉本は考えたに違いありません。そのうえで吉本隆明はあらゆる共同幻想の消滅を唱えます。ぼくは共同幻想の彼方を構想してきました。吉本隆明の国家論を認めることはぼくのモチーフに反するのです。自己幻想を梃子にして共同幻想の消滅を遠望することと、内包存在を分有することで共同幻想の彼方を構想することはまったく異なる概念です。延々とそこを考えました。

 なぜ近親相姦が禁止されたかということについてレヴィ・ストロースは女性を交換の財貨とみなしました。やりたいけど我慢して値をあげると高く売りつけられると互酬制で考えたのです。バタイユも吉本隆明もそれはないぜとアタマにきたかどうかしりませんが、レヴィ・ストロースの考えを批判しました。
 吉本隆明は「バタイユ論」で近親相姦の禁止について次のように言っています。

〈氏族〉共同体からの個々の〈家族〉共同体の脱落、孤立、内閉こそが、〈氏族〉の〈部族〉への飛躍と、〈近親相姦〉の〈禁止〉を促した、とわたしにはおもわれる。なぜならば〈家族〉共同体の、上位共同体からの孤立は、いわば、意識的に〈性〉的な対象としての〈近親〉の異性を、改めて見直す必然性を与えたし、この必然性に素直に(自然に)従えば、〈家族〉共同体は、崩壊の危機に見舞われただろうからである。ところで、〈家族〉共同体の崩壊とは、そのメンバーが解体して個々別々に流浪することでもなければ、〈氏族〉共同体の直接のメンバーに転化することでもない。〈家族〉共同体の内部で自閉した対(ペア)に分裂することであり、それ以外の現実的な行き場所はないのである。つまり、〈家族〉の〈自滅〉そのものであり、どこにも、転化の契機をもたないのである。これを免れるためには〈近親相姦〉を自ら〈禁止〉するほかはない。(『書物の解体学』所収「ジョルジュ・バタイユ」)

 暗号文に見えませんか。祝詞よりわかりにくいし、まるで呪文。この文面を何年も何年もくる日もくる日もじっと眺めたのです。よく友人にこれどういう意味だと思う、と尋ねましたが、答えは決まって、わからん、です。脱落・孤立・内閉の反力として氏族制は部族制への飛躍と近親相姦の禁止をもたらしたと吉本は考えます。性の自然は家族の自滅に向かってもよいのだが、そうはならなかったことの根拠として近親相姦の禁止をもちだすのは、結果から特定の原因が探られているような不自然さがともないます。性という根源は硬直した因果論で説明されることではないように思えてなりません。この不自然さは吉本の性の定義の硬さと同根であるような気がします。(118~120p)

 巨大な思想が同一性の罠に監禁されています。それは吉本さんが性の世界を特殊な共同性とみているからです。かれはマルクスの経済論とは異なった幻想論をつくりましたが、この特殊な共同性である対幻想をもう一捻りしました。それが近親婚の禁止という媒介です。そうすると上位共同体からの脱落や孤立や内閉という分裂感は相互に反力として作用し、氏族性は部族性へと飛躍し、国家の起源を手にすることになります。ある意識の範型を前提とするかぎりでの思考の必然が語られていることになるのです。
 吉本さんは個人が恣意的に生きるということをいちばん価値あることと考えました。おれのことにはかまわないでくれ、好きにさせてくれ、ということです。それはどんな対関係であれ、対幻想の世界では人間は全人格的にではなく部分的にしか登場できないという根本認識が根底にあるからです。かれの恣意性は、どうじに、生きてていいことなにもねえという不全感をともないます。晩年そういうことをよく言ってました。そういう意味では吉本さんは正直な人だったと思います。

 かれはみずからの意識の無限性を内包のきりのなさと考えることはけっしてなかったのです。どういう精妙煩瑣なしかけをもってきても、同一性の内部にいるかぎり同一性の堅固がゆらぐことはありせん。それは人類史に等しい規模をもっています。

 わたしの性の知覚は吉本さんとずいぶん違います。内包存在を生きるときだけ生の不全感からまぬがれるのです。そこでは、なぜや起源を問う意識はなくなります。歩く浄土が現成します。けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとしてそこを生きること。ここにしか国家のない世界はないと思います。自己も、自己の写像である共同性も、相互に矛盾や対立や背反があるとしても、同型です。さまざまな思想が唱えられてきましたが、空念仏でした。外延論理という閉じた意識の範型を突きぬけることはできなかったのです。

 あるときわたしに内包の知覚というリアルが生まれました。

 「わたし」になんの挨拶もなくいきなり「わたし」のど真ん中をまっすぐに貫通し、「わたし」のなかのなにか硬いものを破壊して、「わたし」という存在を根こそぎさらっていき、理不尽に「わたし」を簒奪するもの、それが〈性〉だ。この〈性〉によぎられることなくしてわたしがわたしであることの自己性はけっしてあらわれない。(238p)

 この知覚は次のような理念としても言えると考えました。

 内包と分有からはじまる人類の内包史が可能だとわたしは考えている。あるものをそのものと同一とみなすことに生の不全感と権力の起源があったのだ。あるものとそのものは厳密には内包の関係にあって、同一ではない。あるものを往相とすれば、そのものは還相として、あるものにかさなるのだ。(188p)

 よし、これでいけると当時考えたのです。浅はかでした。根源の性と分有者という概念で国家のない世界が可能となると思ったのでした。ずいぶんいろと試行錯誤をしましたが、うまくいきませんでした。親鸞が信に往相廻向と還相廻向があるといったように、性にも往相と還相の過程があったのです。歩く浄土は還相の性において現成するのです。どうじにそこが国家のない世界の可能性が現存する場所です。

    2
 けっして共同化できないようなそれ自体、それ以外のものではありえないようなものとして、そのことを名づけることは、往き道の言葉ではなく、帰り道の言葉でしか言い得ないとわたしは考えるようになりました。いまは、言葉が〈ことば〉自身が生きるということをそういうふうに考えています。還相のリアルをつくること。根源の性と還相の性で世界を描くこと。ここを真剣に考えています。

 おおまかにはこのあたりのことには10年前も気づいていました。

 わたしがほかならぬわたしとしてあなたと出会う対関係の世界を意識の第一層とします(吉本隆明の幻想論はこの領域に属します)。わたしがあなたをわたしの分身として生きる対関係の世界を意識の第二層とします。『情動の思考』でドゥルーズが語った、自己を他者の分身として生きるという特別な絆の世界です。分身を生きることで同から他へと過ぎ越そうとしたドゥルーズの困難があります。彼は貫通できませんでした。ぼくたちの知る哲学や思想、文学や芸術の大半はここまでしか到達していません。同一性の彼方は意識の第三層にあります。(140p)

 1(自己)と3(共同性)の区別とつながりはかくも言い当てるのが困難です。同一性を暗黙の公理とするかぎりどうどう巡りをするだけです。思索を重ねまわりまわって出発点に戻り、元の木阿弥になるのです。4半世紀まえに書いたことを再録します。当時、精神医学者の木村敏さんと何度かお会いして話し込んだことがあるのです。絵描きの桜井さんが本の制作費を賄ってくれた『内包表現論序説』を5冊欲しいと言われたので、差しあげました。かれの研究室の若者が読みたいから買ってきて欲しいと言われていたそうです。

 生命が誕生いらい連続しているとみなすのは、人間的な意識がそうみなしているということであり、人間的な意識が性の誕生に由来するのであるから、じつは性のうねりが生命をとぎれることのない連続するものとしてとらえていることにほかならない。フロイトの「エス」は「おのずから」のひとつのあらわれであり、「おのずから」は「社会」(多)と「自ら」(一)をやがて分節する性のうねりからはじけたひとつのあらわれである。
 つまり性のうねりが「おのずから」の源泉というほかなくなる。灼熱する激烈な性の光球がはじけて「おのずから」がむっくと身をもたげた。その無数の影のひとつひとつが「みずから」ということであり、対極にフロイトの「エス」が「みずから」に釣り合って深々と存在している。あるいは「おのずから」という大洋がうねって撥ねあげた、波間に光る雫の一滴一滴が「みずから」に比喩されてもよい。うねりからはじかれて弧を描く、無数のしぶきの軌跡の全体をフロイトは「エス」と考えた。(467p)

 木村敏さんとはフロイトについて突っ込んだ話をしました。かれも好きでないということでした。ほんとうは作曲家になりたかったのだそうです。それでは食えないと思い医者になったと言うほどの音楽愛好家です。いちばん好きな作曲家と演奏はなんですか、とお聞きしたら、バッハのマタイ受難曲だと言われていました。木村敏さんが共訳したヴァイツゼッカーの名著『ゲシュタルトクライス』に話が及んだとき、訳注にあったヴァイツゼッカーがフロイトを訪問した折りの会話が面白いと言うと、木村敏さんは膝を打ち、大いに話しが盛りあがりました。
 有志で木村敏さんを囲んで話を伺うことができた。わたしの内包という考えについての感想も聞くことができた。ラカンからパリに来ないかと言われて断りましたが、今日はあなたに呼ばれて博多まできましたと冗談を言っていました。

 ここでフロイトについて書くことはしませんが、ヴァイツゼッカーはフロイトに訊きます。「彼が普段は秘密にしていた問題は恐らくは最終的疑問に直面していた所まで足を踏み込むことができた。つまり私は彼に向かって精神分析とは有限な過程なのか、それとも無限の過程なのかと尋ねた。彼はしばらくためらった後、小声で『無限の過程だと―と思う』と答えた」ここを読んだときすぐ親鸞を想起しました。親鸞は念仏は1度でいいと言いました。フロイトの精神分析という称名念仏は往相廻向です。親鸞の勝ち、と思ったのです。
 フロイトの混沌として沸き立つエスには矛盾律が存在しません。モダンなかれの意識はエスという無意識を同一律に沿って記述しました。とても惜しいことです。

    3
 この国もテロとの戦争下に入りました。精神を病んだ安倍晋三が招いたことです。
 かつてフーコーは言いました。

だが、今日、第三世界、いや、非・西欧的な世界が前世紀より蒙っていた西欧による怖るべき経済的搾取を乗りこえようとする方法と手段とは、なお西欧に起源をもつものであるように思われます。では、これから何が起ころうとするのか。この西欧的な手段による解放の動きを契機として、何か新たなものが生まれようとしているのか。絶対的に超・西欧的な文明が発見されることになるのか。わたしはそれが可能だと思う。大いにありうることだとさえ思う。そして、それが可能でなければならぬ。・・・(略)・・・西欧は、西欧文明は、西欧の「知」は、資本主義の鉄の腕によって屈伏させられてしまいます。われわれは、非・資本主義的な文明を創出するには、疲弊しつくしています」(蓮実重彦によるインタビュー『批評あるいは仮死の祭典』所収)

私がイランから戻った時、絶えず訊かれたのはもちろん、『あれは革命なのですか?』ということだった。(中略)私は応えなかった。だが、私はこう答えたかったのだ。これは、文字どおりの意味では革命ではない。あれは、立ち上がり、再び立ち向かうやり方なのだ、と。これは、我々皆に、ただしとりわけ彼らに、あの精油所の労働者、諸帝国の果の国の住人にのしかかっている恐るべき重み、全世界の重みを取り除けたいと思う、素手の人々の蜂起なのだ。これはおそらく、惑星規模の諸体系に対してなされたはじめての大蜂起であり、反抗の最も近代的な、また最も狂った形式だろう」(「反抗の神話的指導者」高桑和巳訳)

 フーコーが夢想した1000年規模での、非西欧的で非資本主義的な文明への渇望はフーコーの予測を超える形で中東から戦禍が広がりつつあります。反乱ではありません。処刑と殺戮の応酬です。世界の無言の条理の出現です。民主主義では歯が立ちません。長いものには巻かれることを精神の特技とする日本人のあり方からだけではいま起こっていることは説明できません。日本もアメリカを親分とするテロ有志国連合に同調します。国民も安倍晋三に同期します。同一性では同期するしかないのです。我が身がいちばんかわいいから。そうやってだれもが他者を自己の生存の手段とします。

 報道で接するイスラム国の凄惨で残虐な仕打ちを見ていると、それはイスラム教のカリフ制の復権という理念とはまったく関係のないことで、むしろ人間という自然が剥きだしになっているのではないかという印象をうけます。
 酒鬼薔薇聖斗事件やオウム真理教のサリンガス事件やポア、それ以降もぼつぼつそれに類する事件が起こっています。なにかそれらと似通ったものを感じます。カリフ制をはるかに遡る古代の精神形象が甦っているのではないか。

 安田登さんは『あわいの力』のなかで、甲骨文字や金文は「殷」の武丁王の時に生まれたが、「心」に相当する文字はないと言っています。BC1300年の頃のことです。そして「心」を手にした人間は最初からそれを使いこなせたのかと問い、この目に見えない不思議なシロモノに大いに振り回されたのではないかと答えています。なにかピンとくるものがあります。
 昔書いた文章の一節を思いだしました。

 くらしの地所の四隅に図像文字を刻んだ青銅の呪器を埋めたり、道を歩くとき首をぶら下げ結界を張り、未明の時代をおののき生きた太古のひとびとの面貌を空想のうちで思いやるとき、文化人類学は巨大な錯誤を犯しているのではないかという疑念がよぎります。物たちと逍遥遊しながら喰い寝て念じ、おのずと物たちと死別し、みずから物たちのあいだに挟まって生きるありようは、歴史としても人間の現存性としてもほんとうはまだすこしも表現されていないのではないか、そんな気がします。(guan02 138p)

 定かではないなにかの力が作用し、ひとが動物生からむっくと身をもたげたとき、世界は混沌として無分別だったと思う。人倫など影も形もない頃のことです。グローバリゼーションの「猛獣の理」は人の生をそこまで追い込んでいるのではないか。なぜかそう思えるのです。
 ここまでくると親鸞の他力の思想は拡張を迫られます。86歳の親鸞は「末燈鈔」で言いました。「この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり」この自然(じねん)は、インドから中国を経て大乗仏教となり、長い年月を経て練り上げられてきたとても洗練された思想です。

 わたしは親鸞にも未然があると思うようになりました。最期の親鸞について少しかんがえます。いま親鸞の正定聚という思想を還相の性へと拡張しているさなかにいます。親鸞にも同一性が暗黙の公理として前提とされているように思うのです。親鸞においても「私」と「世界」が対座しています。親鸞が生きた時代の不可避的な制約としてあったともいえます。「私と世界」を前提として他力を語っても、それは個々の人の信としてしか現実的には訪れません。知には往相廻向と還相廻向があることを、信の解体をやり通しながら、それでもそこにまだ親鸞の未然があるとわたしは考えています。

 親鸞は還相の知は語りましたが、還相の知によって世界を表現することはなかったのです。なにかの縁でひっそりとその人に他力が降りてくるとしか語られていません。親鸞の時代は思想を仏教の形でしか表現できませんでした。そういう意味では親鸞もまた時代の人です。
 わたしは還相のリアルを現実や歴史の表現としてつくりたいと思っています。およそ750年後を生きるわたしは、横超、自然法爾、他力という親鸞の途方もなくおおきな概を拡張できると考えています

 なぜ非知と無知は深淵によって隔てられるのだろうか。自己同一性を前提として、あるいは自己同一性を括弧に入れてつかもうとするかぎり、無知と非知は陰伏された自己同一性によって引き裂かれるしかないのです。
 ヴェイユは匿名の領域を手にして不在の神に祈りました。

人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない」(ヴェイユ『ロンドン論集と最後の手紙』「人格と聖なるもの」杉山毅訳)

 わたしはけっして共同化しえないそれ自体、それ以外のものでありえないその出来事を根源の性と呼び、内包存在へと媒介する観念を還相の性と名づけています。
 グローバリゼーションという「猛獣の理」は根源の性や還相の性を形として取りだすことも表現することもできません。そしてこの表現をなし続けることが、双方のテロの応酬という連鎖する愚劣を超えうる、唯一の言葉による可能性の場所だと思います。

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