日々愚案

歩く浄土4

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    1
 格差社会から超格差社会へと雪崩をうって転げ落ちる残忍な社会の予感がある。鵺のような全体主義(辺見庸)から意志をもったファシズムへと急速に社会が変質していて、わたしたちはみなその渦中にあります。

 それでもわたしの好きなピアノの音は発つ。カザルスのSong of the Birdsのチェロ。
 そこに、だれも、どんなものも奪うことのできないカザルスの『喜びと悲しみ』の深い音があります。それは希望だと思う。それはどんなときもあるのです。

 手が届きそうなのに、もう少しで届かないところ、あなたのすぐ向こう。打ち寄せる波が水泡(みなわ)となる、そこに内包の面影があります。懐かしい汐の匂いと陽光。月光と星夜。墨絵の松の枝を吹く風の音があります。

 根源の性と分有者という考えをもう少していねいに言おうとしています。根源の性の分有者がじかに性であるという、外延論理では一人称と二人称をどうじにふくみもつ存在であることはたしかですが、いくらかそこに外延論理の影が忍び込んでいます。じつは分有者にも往相と還相があるのです。往相の性では対関係の遺制を引きづりこんでしまうと、いまは思っています。
 ここを親鸞の往相廻向に比喩しながら言います。親鸞は知の行き道ではどうであれ煩悩に惑わされると考えた。だから帰り道の正定聚という言葉をつくったのだと思います。親鸞にそういう見えない機縁があったのだと思う。それは見えない文字で書かれているのです。根源の性はどんな人にも、その人に先立ってあるのです。わたしはそう考えます。正定聚が帰り道において知覚されるものであるように還相の性も帰り道において知覚されます。それがどんな深いものより深い、けっして共同化しえないそれ自体の場所です。

    2
 自己の本来は複数性ではないのか。畏友Hさんの言葉では重なりの1となります。わたしは複数性を内包存在といっています。内包論理からいえばそれが人間の生命形態の本来性であり自然なのです。ここをていねいに解いていくと人間にとっての新しい歴史が始まると考えているのです。わたしは内包史と読んでいます。ひとはひとりでいてもふたりなのです。これまでの人類史は同一性を意識の統覚にした自己意識の外延史です。

 わたしの考えからすると自己相等というのはとても制約された意識の形式であるように見えます。記号A=Aという同一性と、人間存在の自己相等性とはまるで違う出来事であるのに、近代の理念では自己は心身一如であるとして、心身一如である自己に自由や平等という理念を与えました。いうまでもなくそこには、偉大な近代と、近代がはらむ逆理があります。仏でのシャルリー・エブト事件からISISによる日本人人質殺害事件のなかでとくにそのことを強く感じています。だれも、政府当局も、国民も、解決の手立てをもっていません。殺戮に対して殺戮で応酬するやりかたに民主主義は為す術がありません。民主主義は単数性を礎にしてますから当然の帰結です。テロリスト勢力を有志国連合で武力制圧するしか手がないのです。テロの応酬が無限連鎖します。

 西欧近代は個人に自由や平等という理念を与えました。偉大な観念の大革命です。我が国もながくその恩恵にあずかってきました。維新期のルソーの民権思想もそうです。神のもとにひとは平等であるという理念が地上におりて法の下での万人の自由を宣明しました。共同幻想という生命体の人類史的な脱皮だったと思います。一人一人の人と、国家権力とのあいだのせめぎ合いとして個人の自由と平等という理念はもたらされたといっていいと思います。観念の大革命です。先の見えないわたしたちの日々を俯瞰して考えてみると、近代の理念は単数性に付与されたものであったということができると思います。それが当面している混乱のもっとも核心にある文明史的な課題だとわたしは思います。

 わたしは近代由来の理念を拡張することを考えています。人間はもともとつながりを埋め込まれた複数性として存在しているのです。ほんとうに自由で平等であるのはこの複数性を内包する内包存在にあるのではないか。個人の基本的人権や生存権という理念は内包存在に付与されるものではないか、そう思います。そう考えるとき歴史は困難ではあっても伸びやかな世界へと飛翔することができます。

 外延論理を拡張した内包論理の世界では、わたしがあなたであるとして、外延論理のひとりがあたかもふたりであるようにあらわれます。外延論理でひとりの個人がべつの個人と気を通わせる世界のことを対の世界とか対幻想の世界であると呼んでいます。内包論理の世界では、わたしはわたしであるという外延論理の同一性を保持しながら、わたしがどうじにあなたであるという性としてあらわれるのです。外延論理から言えば奇妙な出来事です。外延論理では一人称はあくまでも一人称です。一人称と二人称を併せ持つということは外延論理にとっては矛盾です(矛盾しないということを後にフロイトのエスを拡張することでやります)。

 つまり、ひとりのなかにはそのひとがどう意識するかに関わりなくもうひとりの他者がが内挿されているのです。人はだれも、ひとりひとりが、じかにそれぞれ二人称なのです。ひとりひとりがそれぞれにひとりであるとき、ある契機で性の世界をつくることがあります。対幻想の世界です。わたしはとても窮屈な世界だと思います。吉本隆明さんは対幻想のなかではひとは部分的にしか登場できないと考えました。外延論理からはたしかにそうかもしれません。性を特殊な共同性の世界とすれば、対関係はやがて家族をなし親族集団に自動的に参入します。拡大した結縁集団から対意識が内閉すれば、氏族性社会は婚姻の形態としても部族性社会へと飛躍し、いずれにしても起源としての国家を手にすることになります。その理念の圏域をわたしたちは生きています。

 外延論理を前提としてそこから未開種族を観察していったいなにが見えてくるのだろうか。婚姻の形態であり、互酬性であり、贈与です。ポランニーの蕩尽です。それらは人が生きて織りなす営みの形骸で、外から触っている概念にすぎないのではないか。

 鵺のような全体主義(辺見庸の言葉)が、それ自体が意志をもったファシズムへと急速に変質しつつあるときなにをどう考えればいいのでしょうか。わたしは、自己の実有の根拠とされてきた存在の単数性を拡張することだと思います。
 なにも書かずにただ生きた連戦挫敗の10年を経て、やっと、根源の性と還相の性を手がかりとした内包親族論という世界認識の方法が姿を見せつつあります。それはおおいなる生のひらかれだと思います。

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