日々愚案

歩く浄土124:内包贈与論7-カール・マルクス考7

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マルクスの「個人は社会的存在である」と「人間の個人生活と類的生活とは、別個のものではない」はおなじことを意味している。マルクスのこの言明のなかには人間という生命形態の自然の頑迷さが隠れている。それは人類史的な倒錯の規模をもっていると言えるように思う。存在についてのこの了解のなかにマルクス主義の厄災も収まっている。人間の自由や平等、他者への配慮がどういうものであるか、ほんとうには考え尽くされていない。いまもなおわたしたちは人間という現象について迷妄のただなかにいる。マルクス主義が崩壊して以降は民主主義という理念がその代理をしているが、マルクス主義と民主主義はともに「社会」主義ということで意識としては同型である。わたしは個人は社会的な存在ではないと思う。また個人生活と共同的生活は外延的な意識の範型においてもまったくべつの形態である。自己幻想と共同幻想は逆立すると考えることも可能だし、法と秩序のあいだの和解は永遠に夢であると考えることもできる。どちらの立場をとっても理念は現実を追認することにしかならない。わたしの考えでは、個人は社会的な存在ではなく、領域としての自己として内包的に存在している。人は根源の性を分有するということにおいて自由であり平等である。心と身体がひとつきりの自然にとっては性や家族は往相の性としてあらわれる。それにもかかわらず根源の性の分有者には心身一如を可能とする同一性の原型ともいうべきものが無限に小さなかたちで内挿されている。外延論理では個人と社会のつなぎ目に性や家族が位置しているが、性を外延のしばりから解き放ち自己と共同性をつつむと未知の光景が出現する。

いつもそのうえに立っているシンプルな情動。人であることの背後でひっそりと息づく熱い自然。それがあるから人が人である所以があらわれる根源の性がある。この内包存在を分有することで人は人であると可視化される。この一方的な働きかけを味わい尽くそうとして人間という生命形態の自然が立ち上がった。あるものが他なるものに重なるという驚異がなければあるものがそのものに等しいという意識が生まれれるはずがない。この存在の原理を同一性が措定することはできない。同一性原理で人間であることを定義しようとすると空虚としてあらわれる。それがニーチェのニヒリズムであり、ゲーゲルの不完全性定理であることをわたしたちは知っている。もしも同一性によって人間が定義できるとするなら、自由や平等や他者への配慮は外延権力から流れ下った総アスリートのひとりとして、ある位置や順序を占めることしかできない。グローバル経済と結びついたビットマシンは諸国家の障壁をやすやすと超えて行く。その光景をわたしたちは目の当たりにしている。自己意識の外延的な表現の途に就くかぎり世界はそのように転形を遂げる。それは不可避なことだと思う。わたしはそれがあることによって同一性が同一性として機能する意識の原型を根源の性を分有する分有者と名づけ、分有者が棲まう自然のことを内包自然と呼んでいる。外延的な権力によって諸国家を超えてつくられつつある新しい環界のもとでは総アスリートが自然となる。内包論では、還相の性を核として自己や共同性という外延表現は、領域の自己と喩としての親族となって表現される。生の現存性としてだけではなく歴史の概念としても表現できる。人類史というモダンな歴史の概念は内包的な歴史へと転位することになる。この認識においてわたしたちは到来しつつあるシンギュラリティのただなかで外延的な知の特異点を超えて内包的な歴史を構想することができる。『カール・バルト=滝沢克己往復書簡1934-1968』を読みながらそういうことを思った。

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カール・マルクスにあってもカール・バルトにあっても信の共同性は、解けない主題を解けない方法で解こうとしていることにおいておなじものであるようにわたしには思えた。経済論におけるマルクスの信も神学におけるバルトの信も内包論からは同一性を暗黙の公理としたおなじ信にみえる。信をめぐる問題についてはエックハルトの「私が神である」という神の領域化と、自然法爾という親鸞の他力という意志論がもっともすぐれていて、それ以降は信の考察は進んでいない。エックハルトが敢行した神の領域化によって同一性という意識のもとで信の拡張がなされ、バルトによって信は再び個人の神への収縮として語られることになった。それがバルトの『ローマ書』であり『教会教義学』という神への忠誠を誓う信の書である。バルトはナチ政権への忠誠宣誓書を拒否し、ボン大学を免職される。ナチへの忠誠を誓い学長になった世俗のハイデガーとは大違いだ。偉大なアーリア人の精神を地上に打ち立てようというのが共同幻想であれば、神に信を収斂することで教会を語るバルトの信も共同幻想である。当時のハイデガーのナチへの賛歌はおのれの哲学が空虚であることの信念の表明であり、バルトの思想はヒットラーより上位にある神への忠誠を誓う。(石牟礼道子の『アニマの鳥』はキリスト教の信を自然生成的なマリア観音様へと土俗化して書いている。キリスト教の信にまるで触れていない。)

バルトさん。いまはプロテスタントもカトリックもすでに社会から受容された大きな経営体だからせめぎ合うことはないが、外圧により内に閉じていけば信をめぐって戦争を始めないだろうか。おなじようにマルクスが「個人は社会的存在である」と認識を措定すると、措定するや否や、個人の社会的存在をめぐる理念の相違は厄災を招き寄せないだろうか。社会的存在をめぐる個人の問題へと問いを転倒してもおなじことが起こる。この問いかけのなかには存在と意識をめぐる未解決の問題が深々と横たわっている。マルクスは『資本論』に先立つ『経済学批判』で言う。「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(『経済学批判』13p)使い古された手垢のついた定式だが、存在と意識をめぐるもつれた系はマルクスの『資本論』にそのまま引き継がれた。マルクスが価値形態論で使用価値と交換価値の二面性から貨幣の謎を解こうとするときすでにレヴィナスの三人称問題が伏在している。マルクスは解けない主題を解けない方法で解こうとしているのだ。マルクスは「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである」(『経済学批判」序言』と言ったが、かれの傾けた情熱がこの困難を回避してくれることはついになかった。

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信の起源を自然科学的に解明することにうつつをぬかす偏執もある。ドーキンスの『神は妄想である』や宗教を自然現象として解こうとするデネットの『解明される宗教』を読んだときの驚き。じつに愚かな人々である。宗教の自然科学的な起源などあるはずがない。宗教的な信が狂熱の状態にあるとき脳内でドーパミンがどれだけ分泌されているか測定することは可能だろう。生命の物質的構造を解明することはできても、生きているということはいつもその自然科学のはるか手前、あるいは、はるか彼方にある。人間の精神現象を自然科学的に還元できることなどあるはずがない。あるとすればそれこそ自然科学的な共同幻想そのものにすぎない。ここで取りあげたいのはその種のつまらぬニヒリズムにすぎない浅薄な知ではない。

マルクスの宗教批判、「宗教は民衆のアヘンである」(『経哲草稿』「ヘーゲル法哲学批判」)はどうなるか。宗教を共同幻想というとき、この認識を可能としている同一性が疑われることはない。宗教は自己意識の外延的な表現としては共同幻想であるが、それ自体のなかに共同幻想を超出しようとする契機が無限小の形で内挿されている。エックハルトが神を領域化することも、親鸞が他力という信を生きることも、ヴェイユが不在の神に向けて祈ることも、宮沢賢治がほんとうのほんとうの神ということも、宗教を共同幻想だと批判することでは片付かない。内面化することも共同化することもできないが、名づけようもなく名をもたぬ領域が存在する。エックハルトが脱自ということで神を語るとき、この気づきは親鸞の他力にぴたりと対応している。どちらも内包へと包越しつつある過渡として自然がかすかに表現されているのだ。

宗教は人間の意識がつくりだしたものだろうか。心と身体がひとつきりの人間という生命形態の自然に意識の起源を求めればそうだとしか言いようがない。意識を外延的に表現すれば、自然を加工するように、心身をふくめた環界を超越するものとして神や仏がつくられたのだと。そうだとすれば私が神であるというエックハルトの神の領域化(翻っていえば自己が領域化することと同義)や、親鸞の他力による自然法爾は同一性の産物だろうか。自己という覚知は一方的に受動であるとエックハルトや親鸞は言おうとしている。ヴェイユが人格の表出にすぎない意識の諸形態のはるか彼方に匿名の領域が存在することのリアルを言い、それは定義不能であるとつぶやくことや、宮沢賢治がほんとうのほんとうの神という言い方で言いたかったなにか。それはいったいなにか。

「神は善であると言うならば、それは真ではない。むしろ私が善であり、神は善ではない。否、更にもう一つ、私は神よりもより善であると言いたい」(『エックハルト-人類の知的遺産21』169p)なぜこんなことが言えるのか。それは「私は神である」という直覚がエックハルトにあったからだ。エックハルトは神を内面化しているのではない。「私」と「神」は離在しているが、離接しながらじかに〔一〕なのだ。「神と私、われわれはこの働きにおいて一である。神が働き、私が成る」(『エックハルト』上田閑照97p)「何をなすべきか。先ず何よりも自分自身を放下せよ」(同前129p)と、親鸞の往相廻向の自力を廃し還相廻向に即けは、どこか似ていないか。わたしの内包にどこか似ていないか。エックハルトの「私は神である」も親鸞の自然法爾も自己の内面化ではない。内面化では表現不能のなにかをかれらは言おうとしている。かれらの言うこととわたしの内包はかなり似ている。

聖書への帰依をひたすらに説いたバルトにも信を語りながら思わず信をはみだしてしまうときがある。バルトの言葉を追う。聖書によらずして人間が正しく神を信じることは、原理的に可能であるとしても事実的には不可能であると説きつづけたカール・バルトの『モーツァルト』に不思議な言葉がある。「幾年このかた年々変わらず毎朝まずモーツァルトを聴き、しかるのち『教義学』を書いている。モーツァルトを聴くと、重さが浮かび、軽さが限りなく重くなる」とバルトは言う。「モーツァルトにあっては、主観的なものは決してテーマになっていない。彼は、自己について語ったり、自己の境遇、自分の気分感情を語るために音楽を用いることをしなかった」(『モーツァルト』小塩節訳56p)「私はモーツァルトの音楽に、他の人には認めることのできないある秘技を聴きとるのである。みごとな音楽というものは、おさなごのように万物の中核を知りつくしていなくては生まれてこないものだ。始源と終末とを知りつくしていることが前提である。私はモーツァルトがこの中核から躍り出し、始めと終りとから発して音楽を奏でるのを聴く」(同前7p)

バルトはモーツァルトは始原と終末を知り尽くしているという。「始めと終りとから発して音楽を奏でる」という言葉はいい音色をしている。未来を追憶し過去を想起する内包とおなじだと言えば言える。バルトの自由は書物よりもモーツァルトを語るときもっとも自在で自由であるようにみえる。バルトにもエックハルトの「神が働き、私が成る」という力は作用している。親鸞の他力という信もそうである。自力の働きは絶えている。向こうからの一方的な働きかけなのだ。そのうえで言うのだが、わたしはバルトの信は同一性によらずしてもっとひらきうると思う。ヴェイユが人格の表出にすぎない人類の輝かしい業績をはるかに超えて匿名の領域があるというとき、ヴェイユはエックハルト以降、神という信を領域化しようとその至近の場所まできていた。

心と身体がひとつきりで生きているわたしたちの心身は自己の生を所有していると思いなしてきた。この存在の形式が倒錯に充ちた人類史を重畳した。いまもなお深くこの制約のうちにある。片山恭一さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』のなかで、まもなく死を迎えるアキが見送る朔に、また見つけてね、といい、朔はすぐ見つけるさと応える。バルトさん、よく聞いてくださいね。アキは、朔は、ほんとうはどこにいるのだろうか。アキの眼に朔が映る、朔の眼にアキが映る。アキの眼に映った朔にほんとうの朔が、朔の眼に映ったアキにほんとうのアキが存在している。始原と終末が存在するから死は生きられる。バルトさん、おわかりですよね。はたして存在の内包は信ということで語ることができますか。この神秘を同一性の信で語ることができるか。マルクスはここを生きたにもかかわらずそれがどういうことか知ることはなかった。

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