日々愚案

歩く浄土125:内包贈与論8-カール・マルクス考8

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社会の変質の速度が加速し、この国も世界も剣呑な雰囲気に充ちている。共謀罪も国会に上程されるらしい。国家の内面化に伴い、行方を失った個人の内面は天皇親政へと憑依しつつある。その危機感のなかでこのブログを書いている。昨秋アメリカでトランプが大統領選で勝ったとき、わたしの体験は超えられていないと直観した。わたしの体験の範囲にヒラリーもトランプも収まっている。グローバリストであるヒラリーのずるくて冷酷で権力にしか関心のないポリティカル・コレクトネスは唾棄され、グローバリゼーションに疲弊し、うち捨てられたアメリカのラストベルト(さびついた工業地帯)白人の劣情をトランプは煽った。劣情とは人種差別であり、異民族の多様性の否定であり、移民排斥であり、ナショナリズムである。強いアメリカを復権するとトランプはツイートする。超富豪の政権が貧しいものの国益を第一義とする。大富豪が貧者を救済することはありえぬ。しかし問題の本質はトランプか反トランプではないし、安倍を支持するか反安倍かということでもない。むろんグローバリズムか反グローバリズムかにあるわけでもない。新自由主義によって遺棄された者らのおぞましさをトランプは煽った。それがトランプ現象の実相だ。知的であると自称する者らは、ヒラリーを支持する側であれトランプを支持する側であれ、なにが起こっているかわかっていない。グローバリズムとナショナリズムの相克は仮象であり擬制である。適者生存の勝者がそれぞれの立場で薄っぺらな理念を吹聴する。移行期の混乱のなかで世界の条理がむきだしになる。

わたしはおぞましさがどういうことであるか、なにが起こっているか手に取るようにわかる。人間という生命形態の起源の闇が噴出しつつあるのだ。観察する理性はこの事態を傍観し座視することしかできない。わたしにとってはすでに既知の光景だ。ポリティカル・コレクトネスの欺瞞も、トランプの白人第一のナショナリズムもともに世界の無言の条理に末端がひらかれている。その淵源は自己意識の外延表現にある。別の言い方をすれば精神の古代形象に起源をもつというべきか。精神の退行現象はそのいずれもが意識の外延表現に閉じられているということ。主観的な心情の襞にある信は論じる人の数だけある。意識の外延的な規範性を超えること、それだけが本質的な問題だ。『1★9★3★7』(辺見庸)や『ヨーロッパから民主主義が消える』(川口マーン惠美)や『サピエンス全史』(ユヴァル)を読んだときもおなじ感じをもった。世界の無言の条理とポリティカル・コレクトネスが競り合い、やがて世界の無言の条理が支配的なコレクトネスを再編成し、その支配の様式を人々は自然な生成として受容することになるだろう。意識の外延表現を表現の全体とみなすならば世界のこの動きは不可避だと思う。マルクスが夢想した世界を内包的に拡張すればこの世のしくみは変わりうるとわたしは考えている。内包自然の真芯にある還相の性を核として世界を巻き取れば、喩としての内包的な親族の下で、国家は消え、財は交換ではなく贈与としておのずからあらわれる。外延的な表現は人間にとって余儀なさであり、内包的な表現に表現の本然がある。マルクスを論じることは、現在を、現実を論じることにほかならない。マルクス論は情況論でもある。

今、わたしたちは人類史の転換点に立ち会っている。意識の外延史では、私性、内面化、交換の円環の中心に国家がある。わたしの考えでは、私性、内面化、交換(貨幣)は精神の古代形象としては同型であり、その起源は同一の時期に淵源をもつと言える。それがわたしたちの知る人類史にほかならない。やがて諸国家の外部に新しい環界ができる。いやすでにできつつある。この過程は不可避であると判断している。もはや外延的な表現の枠組みでは意志をもって歴史に参画することはできない。だれもが感じていることだ。転形期のおおきな渦に巻き込まれて世界もまた漂流する。いわんや、わたしたちの個々の生においてをや。今年もまた思考の険しい登坂をつづける。新しいメタフィジカルなリアルをつくれば、このリアルでこれからさらに猛威を振るうことになるビットマシンを中核とする新しい環界そのものをすっぽり包むことができる。内包論では精神の古代形象のなかに埋もれていたメタフィジカルなリアルを磨きだそうとしている。わたしはビットマシンの高度に線形的な思考にたいして同一性の起源をなす根源の性を対置したいと思う。わたしはわたしの身の上に起こったことを普遍的に語るという表現の原則をこれからも持続する。問いたいことは、人間はほんとうに社会的な存在なのかということだ。人間が社会的な存在としてあらわれるのは、ある制約があるからだとわたしは考えた。

この50年近くの生の経験のなかでさまざまなことがあった。そのことは一身にて三生を経る例えとして折に触れて書いてきた。個人の経験の総和は人類史の経験の総和とひとしいはずだと考えている。個人の精神の履歴は歴史としても精神の形象の系統発生をくり返す。苛烈な生のただなかでわたしが手にしたものはたったひとつだった。マルクスは男性の女性にたいする関係のなかにもっとも本質的なことがあることを直観しながら、一瞬でその気づきを自己のなかに封じ込め、人間の人間にたいする関係へと逸らしてしまった。どういうことか。〔わたしよりわたしの近くにいるあなた〕という知覚である。名づけようもなく名をもたぬ、対幻想ということでは語りえない生の経験を名づけること。そこに生と歴史の未知があるとわたしは考えた。四半世紀以上前にそのことに気づき身震いした。それはわたしの知るどんな知ともちがうものだった。その驚きに促されてわたしは絶句しながらひとつひとつ自前の概念をつくりはじめた。三人称のない世界とはどんなものか。禁止と侵犯という外延的な表現の規範からほどかれた、政治の存在しない世界はどう考えれば可能なのか。悶絶と七転八倒の日々を重ね、いまわたしは手にしたいくつかの概念で未知の世界を織りあげつつある。内包論は赫々としたわたしの世界への意志論の表明である。

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マルクスは自然を究尽しつくしていない。わたしはマルクスの思想の土台をつくっている自然哲学の究明のあいまいさのなかに、マルクス主義の、現在に即して言えば民主主義の「社会」主義的な起源が語られていると考えている。個人は社会的な存在か。ちがう。断じて否である。マルクスは人間の類生活を実現しようとかれの生涯を賭けた。言葉の力でこの世のしくみを変えようとした近代以降のただ一人の思想家であることは充分に諒解している。個人を社会的な存在であると擬制するどんな思想も例外なく政治を招き寄せ、他者の生存を自己の生存の手段とする。マルクスの自然哲学は牧歌的であるとともにいくつものあいまいさを含んでいる。おおらかなマルクスの信を象徴するところをいくつかあげてみる。

①人間は一つの類的存在である。というのは、人間は実践的にも理論的にも、彼自身の類をも他の事物の類をも彼の対象にするからであるが、そればかりではなくさらに-そしてそのことは同じ事柄にたいする別の表現にすぎないが-さらにまた、人間は自己自身にたいして、眼前にある生きている類にたいするようにふるまうからであり、彼が自己にたいして、一つの普遍的な、それゆえ自由な存在にたいするようにふるまうからである。
 類生活は、人間においても動物においても、物質的にはまずなにより、人間が(動物と同様に)非有機的自然によって生活するということを内容とする。そして人間が動物よりも普遍的であればあるほど、彼がそれによって生活する非有機的自然の範囲もまた、それだけいっそう普遍的である。植物、動物、岩石、空気、光などが、あるいは自然科学の諸対象として、あるいは芸術の諸対象として-人間が享受し消化するためには、まず第一に仕上げを加えなければならないところの、人間の精神的な非有機的自然、精神的な生活手段として-理論上において人間的意識の一部分を形成するように、それらは実践上においてもまた、人間的生活や人間的活動の一部分を形成する。これらの自然生産物が、食料、燃料、衣服、住居などのいずれのかたちで現われるにせよ、とにかく人間は物質的にはこれらの自然生産物によってのみ生活する。人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が(1)直接的な生活手段である限りにおいて、また自然が(2)人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体にするという普遍性のなかに現れる。自然、すなわち、それ自体が人間の肉体でない限りでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の〔交流〕過程のなかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。人間の肉体的および精神的生活が自然と連関しているということは、自然が自然自身と連関していること以外のなにごとをも意味しはしない。というのは、人間は自然の一部だからである。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』)

②動物はその生命活動と直接的に一つである。動物とは生命活動なのである。人間はじぶんの生命活動そのものを、自分の意欲や自分の意識の対象にする。彼は意識している生命活動をもっている。〔人間は生命活動をもつものとして規定されるとしても〕それは人間が無媒介に融けあうような規定ではないのである。意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。あるいは、人間がまさに一つの類的存在であるからこそ、彼は意識している存在なのである。すなわち、彼自身の生活が彼にとって対象なのである。存在された労働はこの関係を、人間が意識している存在であるからこそ、人間は彼の生命活動、彼の本質を、たんにかれの生存のための一手段とならせるというふうに、逆転させるのである。
 対象的世界の実践的な産出、非有機的自然の加工は、人間が意識している類的存在であることの確証である。すなわち人間が、類に対して、自分自身の本質にたいするようにふるまい、あるいは自己に対して、類的存在にたいするようにふるまう存在であることの確証である。なるほど、動物もまた生産する。蜂や海狸や蟻などのように、動物は巣や住居をつくる。しかし動物は、ただ自分またはその仔のために直接必要とするものだけしか生産しない。すなわち、動物はただ自分自身を生産するだけであるが、他方、人間は全自然を再生産する。動物の生産物は直接その物質的身体に属するが、他方、人間は自分の生産物にたいして自由に立ち向かう。動物はただそれの属している種属の基準と欲求とにしたがって形づくるだけであるが、人間はそれぞれの種属の基準にしたがって生産することを知っており、そしてどの場合にも、対象にその〔対象〕固有の基準をあてがうことを知っている。だから人間は、美の諸法則にしたがってもまた形づくるのである。
 それゆえ人間は、まさに対象的世界の加工において、はじめて現実的に一つの類的存在として確認されることになる。この生産が人間の制作活動的な類生活なのである。それゆえ労働の対象は、人間の類生活の対象化である。というのは、人間は、たんに意識のなかでのように知的に自分を二重化するからであり、またしたがって人間は、彼によって創造された世界のなかで自己自身を直観するからである。それゆえ、疎外された労働は、人間から彼の生産の対象を奪いとり、そして動物にたいする人間の長所を、人間の非有機的身体すなわち自然が彼から取りさられるという短所へと変えてしまうのである。
 同様に、疎外された労働は、自己活動を、自由なる活動を、手段にまで引きさげることによって、人間の類生活を、彼の肉体的生存の手段にしてしまう。
 したがって、人間が自分の類についてもつ意識は、疎外によって変化し、類生活が人間にとって手段になる、というところまで変わってしまうのである。
 こうして疎外された労働は、(3)人間の類的存在を、すなわち自然をも人間の精神的な類的能力をも、彼にとって疎遠な本質とし、彼の個人的生存の手段としてしまう。存在された労働は、人間から彼自身の身体を、同様に彼の外にある自然を、また彼の精神的本質を、要するに彼の人間的本質から疎外する。
 (4)人間が彼の労働の生産物から、彼の生命活動から、彼の類的存在から、疎外されている、ということから生ずる直接の帰結の一つは、人間からの人間の疎外である。人間が自分自身と対立する場合、他の人間が彼と対立しているのである。人間が自分の労働にたいする、自分の労働の生産物にたいする、自分自身にたいする関係について妥当することは、人間が他の人間にたいする関係についても、人間が他の人間の労働および労働の対象にたいする関係についても妥当する。
 一般に、人間の類的存在が人間から疎外されているという命題は、ある人間が他の人間から、またこれらの各人が人間的本質から疎外されているということを、意味している。
 人間の疎外、一般に人間が自分自身にたいしてもつ一切の関係は、人間が他の人間にたいしてもつ関係において、はじめて実現され、表現される。(同前)

③《人間は直接的には自然存在である。自然存在として、しかも生きている自然存在として、人間は一方では自然的な諸力を、生命諸力をそなえており一つの活動的な自然存在である。これらの力は、人間のなかに諸々の素質、能力として、衝動として実存している。他方では、人間は自然的な肉体的な感性的な対象的な本質として、動物や植物がそうであるように、一つの受苦している、制約をうけ制限されている本質である。すなわち、人間の衝動の諸対象は、彼の外部に、彼から独立している諸対象として実存している。にもかかわらず、これらの対象は、人間の欲求の対象であって、彼の本質諸力が活動し自己を確証するためには欠くことのできない本質的な諸対象である。人間が肉体的で自然力のある、生きた、現実的で感性的で対象的な存在であるということは、人間が現実的な感性的な諸対象を、自分の本質の対象として、自分の生命発現の対象としてもっているということ、あるいは、人間がただ現実的な感性的な諸対象によってのみ自分の生命を発現できるということを意味するのである。対象的、自然的、感性的であるということと、自己の外部に対象、自然、感性をもつということ、あるいは第三者に対してみずからが対象、自然、感性であるということは、同一のことである。》飢えは自然的な欲求である。したがって、それを満足させ鎮めるためには、自分の外部にある自然、自分の外部にある対象を必要とする。飢えは、肉体の外にあって肉体の保全と本質発現のために不可欠である対象を求める、肉体の対象的な欲求である。太陽は植物の対象であり、植物には不可欠の、植物の生命を保証する対象である。同様にまた植物は、太陽のもつ生命をよびさますカの発現、太陽の対象的な本質力の発現として、太陽の対象なのである。自分の外部にその自然をもたない存在は、なんら自然的な存在ではなく、自然の存在に関与しない。自分の外部にいかなる対象をももたない存在は、けっして対象的な存在ではない。それ自身が第三者にとって対象ではない存在は、いかなる存在をも自分の対象としてもたない。すなわち、対象的にふるまわない。それの有は、けっして対象的なものではないのである。(中略)それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は二つの受苦的な存在であり、自分の苦悩を感受する存在であるから、一つの情熱的な存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。《しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自己をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接にあたえられたままの自然諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は-客体的にも-主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。》そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかしこの歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である。(同前)

マルクスの『経済学・哲学草稿』からかれの自然哲学が凝縮して表明されている箇所を引用①~③として取りあげた。マルクスの自然論を読んでいると、心と身体がひとつきりの心身一如を個人と考えていることに気づく。自然論としてはよく考えると奇妙なことだと思う。霊魂という熱いものが身体のあちこちに混在し身体と渾然一体となった生命が皮膜によって囲まれているとエピクロスが考えたことがマルクスの自然論の根っこにある。わたしたちに理解されているマルクスの自然哲学は次のようなものだ。人間が自然に働きかけ自然を加工すると自然は人間化され、その反作用として人間は自然化される。人間と自然とのこの相互作用が最も根源的なことだとマルクスは考え、この思想を礎にして市民社会の内部の解析を資本論として著した。
「人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が(1)直接的な生活手段である限りにおいて、また自然が(2)人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体にするという普遍性のなかに現れる」とマルクスが言うことに不服はない。狩りでもっと獲物が欲しくて石を加工して石器をつくり、その石器で豹やライオンが食べ残した骨を砕いて骨髄を食べて飢えをしのいだ。クルミの硬い殻を石で割って実を食べたかもしれない。空腹なので自然に働きかけて飢えを満たすことをマルクスは「自然は、人間が死なないためには、それとの不断の〔交流〕過程のなかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである」と言い、「人間の肉体的および精神的生活が自然と連関しているということは、自然が自然自身と連関していること以外のなにごとをも意味しはしない。というのは、人間は自然の一部だからである」と結ぶ。
ちょっと待てよ。腹が減るから喰うことは、個人の心身相関としてあることで、自然に働きかけるまえに、身体に促された飢えの意識がもともと人間という生命形態の自然としてすでにあるからではないか。ことさら人が自然に働きかけるまえに、人の観念は自然の属躰であり、意識はそこに従属している。マルクスはこの心身の相関を括弧に入れている。腹が減るから飢えを満たすために狩りをして飢えを満たす行為について述べられている。そのどこにも不自然なことはなく、あたりまえのことを言っている。人間は自然の一部であるというまえに、すでに自然に属しているのだ。マルクスの自然論では解けないある意識の特異点を含んでいる。すこし踏み込んでいえば、人間は飢えを充たすために、動物性を観念として巻き込んだのだ。どう考えようと意識は自然にたいして違和をなしている。マルクスの自然論ではこのことが認識のなかに計量されていない。

「個人は社会的存在である」も「人間の個人生活と類的生活とは、別個のものではない」もマルクスの疑うことのなかった信であるが、個人と類生活はつながるだろうか。つながりうるはずだとマルクスは途方もない脳髄で考えた。つながらないとわたしは考えた。狩りによって得た獲物を公平に分配することによってしか生を維持することができないとき、生活の知恵は公平な分配を選ぶだろう。狩りでけがをして骨を折ったら明日から働けない。相互扶助は自己保存の原則に矛盾しない。人間という生命形態の自然に宿った意識は観念として遠隔対象性を持つので、生活の知恵は自然に高度化される。この過程は自然である。そのたびに人間の自然との関わりはより深さと広がりを増す。人間が自然に働きかけるに応じてその反作用として人間はより自然化されるということが引用①で言われている。マルクスの語りはまっとうだがなにかを隠蔽していると思う。

引用①の「人間は一つの類的存在である」は引用②にも引き継がれる。とにかく類生活が好きな人だ。「意識している生命活動は、動物的な生命活動から直接に人間を区別する。まさにこのことによってのみ、人間は一つの類的存在なのである。あるいは、人間がまさに一つの類的存在であるからこそ、彼は意識している存在なのである」。この箇所はまるっきりヘーゲルの意識の運用だ。ヘーゲルが巨大な影を落としている。ヘーゲルの不分明をマルクスも継承する。「類に対して、自分自身の本質にたいするように」ふるまうことと、「自己に対して、類的存在にたいするようにふるまう存在であること」のあいだには裂け目があることを目を瞑ってマルクスは跳び越している。「人間が自分自身と対立する場合、他の人間が彼と対立しているのである」と一般化するときなにか重大なことをマルクスは見落としている。言いたいことの結論から叙述が導かれている気がしてならない。演繹的な思考と帰納法的な思考が混在していると言うべきか。

マルクスの思想のあいまいさは引用③ではっきりとあらわれる。それでも「植物は、太陽のもつ生命をよびさます力の発現、太陽の対象的な本質力の発現として、太陽の対象なのである」は論理が美しい表現の形としてあらわれた見事な叙述だと思う。植物もまた受苦的な、制約された存在であり、人間は苦悩を熱情として認識することにおいて二重に受苦的であるという言い方もおおらかなマルクスの精神の夢が語られていて美しい。そのうえでマルクスが考え残した思想の難所について書く。マルクスと同時代を生きたわけではないし、マルクスの思想の現実化が人類史の厄災として現象したことをすでにわたしたちはしっている。マルクスの思想は潰え、人格の表出にすぎない理念がポリティカル・コレクトネスとして生き延びた。この理念は民主主義にほかならないが、世界の無言の条理から目を背け、建前論として生を語るとても制約された理念だ。強いものが勝ち、弱いものは勝たないかぎりいつまでも弱者でありつづける適者生存の理念である。わたしたちはまだこんな理念しかつくりえていない。

おおきな言葉の弓を引いたマルクスの思想はなぜ壊滅したのか。かんたんなことだと思う。同一性の呪力を計量していなかったからだ。ここでわたしは親鸞の自然法爾という他力による信とマルクスの明晰な信の異同を考えている。親鸞の浄土という信の解体の深さや広がりをマルクスの信はついにもつことがなかった。マルクスは明晰な信を解体していない。マルクスの自然の理解はそれほど深いものではなく、その狭さが理念化された。ヘーゲルは「有」が徹底的に「有」であれば「非有」があることを同一性の形式で語っている。あるいは、始まりは起源の闇に包まれていると言ってもよい。上部構造、つまり観念の形態についてはマルクスは『経済学・哲学草稿』のなかの第三稿「五 ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判」と第四稿でさらりと述べているだけである。引用③のなかからヘーゲルの落とした影の部分を取りだしてみる。人間の個的な生存と類的な生存は相互規定的であるというマルクスの思想の前提がゆらいでいるようにみえる。「自分の外部にその自然をもたない存在は、なんら自然的な存在ではなく、自然の存在に関与しない。自分の外部にいかなる対象をももたない存在は、けっして対象的な存在ではない。それ自身が第三者にとって対象ではない存在は、いかなる存在をも自分の対象としてもたない。すなわち、対象的にふるまわない。それの有は、けっして対象的なものではないのである」。ほんとうは同一性は外部をもたないとマルクスは考えるべきだった。マルクスが考えた個人と類の関係の捌き方のなかには三人称問題が解決不能のものとして潜在しているというべきか。ここでもまたレヴィナスの第三者問題が登場する。それははじまりの不明を起源の闇として放置したことに淵源をもつ。

片山さんのツイートが的確にここを指摘しているとわたしは思った。「A=Aという、いわゆる自同律を前提にすると、A≠Bとなり、AにとってBは無であってもかまわない。BにとってAは無であってもかまわない。これがISからビル・ゲイツまで、いまの世界のあり方をつくり出しているのではないか。『自同律の不快』どころではない。そんなことを考えています」(2016年10月27日)

マルクスの確乎とした信の表明である「自己の外部に対象、自然、感性をもつということ、あるいは第三者に対してみずからが対象、自然、感性であるということは、同一のことである」がどれほど矛盾したものであるかを歴史は証した。私以外は私じゃない。それが同一性が実現したことだ。同一性が外部をもつことはない。かろうじて人格という擬制を規範化しているだけだ。人権の理念とはそういうものだ。歴史を人間の真の自然史とみなすにはマルクスが理念化した自然とは異なる自然をつくるしかない。マルクスが渇望した自然史は世界の無言の条理に回収される。このことは理念ではなく事実であるというほかない。現実をなぞることを表現とは呼ばない。(この稿つづく)

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