箚記

佐々木俊尚ノート

フェイセズ    1
 佐々木俊尚さんは気になるブロガーです。偶然見つけたのですが、どういうわけかときどき覗いていました。フォロワーが30万ですからとても発信力のある人です。はじめは『家めしこそ、最高のごちそうである。』を書いた人ぐらいにしか思っていませんでした。アベノミクスや集団的自衛権を支持するが、安倍の伝統的家族観には大反対とか書いてあって、なんのことかよくわかりませんでした。

 あるとき、幼少時と少年期に味わい深い生き方を送った人なんだと知りました。
 それはこの記事です。

 バランスのとれたかれの発言がここからきているのかと少し腑に落ちた気がしたのです。ほっとしました。かれの言葉の出所がほんの少しだけ理解できた気がしました。
 それでかれの『自分でつくるセーフティーネット』と『「当事者性」の時代』『レイヤー化する世界』をアマゾンから取り寄せて読みました。
 とくに『レイヤー化する世界』を面白く読みました。
 読んだ本と、最近の佐々木俊尚さんのツイートを参考にしながら、感じたことを少し書きます。

 わたしたちが迎える社会はどんなものであるかを佐々木さんは『レイヤー化する世界』で問います。それはこれまでとはまったく異なった新しい世界システムであるとかれは断言します。そのことを素描するのがこの本の眼目です。かれもまた坂口恭平さんとおなじくレイヤーという概念を多用します。新しい構造である〈場〉とレイヤーがキーコンセプトになっています。かれの考えに同意するかどうかはともかく、すでにそのなかにいてそこを生きているわたしたちひとりひとりの現存感覚であることはたしかです。よくわかると言って、・・・よくわかります。第三の産業革命、加速される電脳社会に対処すればいいのかということについてのハウツー本とも言えます。

 超国籍企業が国民国家を終わらせるとかれは言います。国家はよくても災いという意味での国家は早晩消滅するのではないかとわたしもひそかに思っています。安倍のひずんだ戦後レジームの転換やイスラム国のカリフ制は、グローバリゼーションといういま世界を席捲する圧倒的強大な力にたいする思想的な退行そのものです。社会を変質させている本態は電脳と結合した金融工学や生命工学の加速度的な進行からくるのであって、その力の煽りをうけ翻弄され伝統的家族観が復古しているのです。すでに形としてあった範型にすがることなくして不安の世紀を渡世できないからです。その意味で安倍のアタマとイスラム国の理念はよく似ていると思います。

 長くなりますが、かれの主張の概要を引用します。

 テクノロジーがつくる〈場〉の革命は、ウチとソトの境界を破壊し、国民国家と、その上に築かれた民主主義という二十世紀のシステムを壊していくでしょう。
 しかしその先には、昔から人びとが願っているような「皆が自由になる世界」「抑圧がない平和な世界」がやってくるわけではありません。ウチの幸せが消滅し、〈場〉へと世界が移行していくと、そこではやはり〈場〉を運営する側とされる側という新しい支配関係が生まれます。
 支配がなくなるわけではありません。支配の構造が変わるだけなのです。 国民国家という古い権力支配が終わり、〈場〉という新しい権力支配が始まるということ。
 それが二十一世紀に世界中で起きることなのです。(174~175p)

 〈場〉とレイヤーは、国のありかたをどう変えていくのでしょうか? そもそも〈場〉の世界で、国民国家はこれからも続いていけるのでしょうか?
 権力は、国民を法律と道徳でしぼる国家から、人びとの行動の土台となる〈場〉へと移っていくでしょう。上から人びとを支配するのではなく、下から人びとを管理する、そういう形に権力のありかたは変わっていきます。
 権力は、国民国家から奪い取られるのです。国家の権威は消滅し、最終的には国という形そのものさえもなくなっていくかもしれません。すべては〈場〉に吸収され、〈場〉こそが国家に代わる権力になっていくと私は考えています。(214p)

 そもそも何のために〈場〉は形成され、これら超国籍企業は力を持とうとしているのでしょうか。
 ひとつの大きな世界市場がつくられ、国民国家の枠を超えて企業が活動するようになれば、企業の目的は大きく変わってきます。母国に対して「経済成長も後押しせず、雇用も生まず、税金も払わない」という企業は一見すると悪にみえます。
 でも彼らは母国に最適化しているのではなく、世界全体に最適化しているのです。
 母国のために仕事をしているのではなく、世界全体に平均して富を与えるように仕事をしているのです。
 母国には貢献していないけれども、アップルやグーグルは世界経済の成長を後押しし、世界の雇用を増やしています。
 国民国家と、その土台の上に築かれている民主主義というのは、ヨーロッパという特殊な地域で起きた特殊なシステムが、ちょっとした偶然で世界に普及してしまっただけのことです。世界中の人たちにとっての最善で最高のシステムというわけではないのです。  もしそうだとしたら、これまでとは異なるシステムの上で駆動する企業が別の世界観へと進んでいくのは当然ではないでしょうか。
 では、〈場〉が世界にもたらす世界観とは、何でしょうか。
 それは、私たちと〈場〉の新たな「共犯」関係です。(232~233p)

 そしてこの〈場〉という帝国と私たちの関係は、とても奇妙です。

 私たちは、〈場〉に支配される被支配者です。
 しかし同時に、私たちは〈場〉を利用しています。〈場〉が存在するからこそ、いままでの化粧箱のなかの息苦しい生活ではなく、横に動き回ることのできる自由を得ることができたのです。
 〈場〉に支配されていることを知っていながら、自由を得るための代償として、支配を受け入れているのです。
 一方で、〈場〉は圧倒的な支配者でありながら、私たちがいなければ存続することができません。〈場〉は、私たちの自由な動きからエネルギーを得ているのです。
 〈場〉は何でも呑み込んでいきます。私たちが〈場〉の支配に抵抗し、〈場〉を破壊しようとしたとしても、〈場〉はそのエネルギーを呑み込んでさらに巨大化していくでしょう。私たちはそれを内心わかっていながら自由に動き、〈場〉に抵抗さえし、そして結果的には〈場〉にエネルギーを与えていくのです。
 私たちと〈場〉は、決して仲のよい友人ではありません。互いが互いを出し抜こうと必死に動き、しかし結果としてそれが互いの関係を深めていき、互いの存在を強くしていくことにつながる。嫌いな者どうしが結束しているような関係にも見えます。
 だからこれは、一種の「共犯」関係なのです。(237~238p)

 引用の箇所をスキャナで読み込みエディタで整復して読み返しました。
 テクノロジーがわたしたちの住んでいる世界を急速に変えつつあることは、わたしもその最中にありよくわかります。でもなにか世界の生成変化を追認し、それに合わせていくという現状認識しかないような気がします。蒸気機関による産業革命が家内制手工業を破壊したことをどう考えるのかと同種の問いかけがあると思うのです。かれは不可避だと言い、わたしもそうだと思います。現実にはその変化に身の丈を合わすしかないのです。
 テクノロジーそれ自体は観念の自然過程そのものであり、倫理も善悪もその内部にはありません。ここまでは諒解します。

 まだ佐々木さんの主張に同意できることがあります。この本の中で国家と民主主義は人の生存のあり方として過渡的なものだということが主張されます。わたしもそう考えています。
 上から下へと向かう従来の垂直な権力の網の目がさまざまなレイヤーが交錯する〈場〉では、支配の構造が変わり、横に開かれるとかれは言うのです。権力関係がなくなるとはかれは言っていません。アップルやグーグルという〈場〉を制する者は圧倒的な支配者でありながら、ユーザーはそれを承知で〈場〉を活用するという意味で、両者は一種の共犯関にあるのだから、レイヤー化された世界では、善と悪の共犯関係をただひたすら自力作善を施すことで生きよ、と親鸞の悪人正機説を援用しながら述べています。これは『自分でつくるセーフティーネット』のなかで繰り返し言われていることです。使われながら使い回せという通俗しかここにはないように思います。自己意識の特異点の無限順延しかないように感じます。グローバルな超国籍企業はすぐにこの認識を商品化できると思います。現に最後に残された天然自然である身体は、そこが膨大な市場であるから、心身丸ごと商品にされつつあります。
 もちろんこの過程は不可避です。

 そうだろうか。

 そうではないと内包論は考えています。世界は欧米を中心とする自由を普遍原理とする陣営とイスラム原理の戦いであるように喧伝されていますが、違うと思います。佐々木さんの言葉を借りて言えば、「猛獣の理」がグローバリゼーションの本態です。上から下へではなく横につながるレイヤーの情の世界はなんとかニッチを棲み分けることでしか生き延びれないというのが実情ではないでしょうか。

    2
 このあたりのことを最近のかれのツイートを交えながら考えてみます。
 坂口恭平さんもレイヤーを多用するし、佐々木俊尚さんもよく使うし、レイヤーというのは最近の流行なんだろうかとつい思ってしまいます。それにしてもレイヤーというのは便利な概念だな。鶴亀算から方程式くらいの高度化があるみたいで。なんでも解けてしまいます。便利だなあ。これさえあればたちどころになんでも難題が解決してしまう。内包論は高次方程式の解がどうしたとこうしたと手続きが複雑でなかなか理解されのです。ふうっ。
 国破れて山河ありを国難をしのぐやり方として推奨する内田樹さんの後退戦の美学が懐かしくなります。それもそうだ、同世代だから。

 佐々木さんってなんだろうと思いながら、ツイートをたまに覗いていました。かれの政治理念が腑に落ちることはないのですが、ときどき、どきっとしたり、はっとしたり、胸を衝かれたりすることがあるのです。いい感覚しているのだと、かれが取りあげた動画や記事を読みながら思うことがあります。それにかれは偉そうにはしていない。目線が共感できます。成熟した大人です。バランス感覚がいいです。かれの小さい頃の味わい深い体験を読むことがなければかれの言葉と出会うことはなかったと思います。Flying Lotusの音を知っただけでもめっけものです。100回は聴きました。けっこう大きな音で。

 このブログの記事を書いていたとき後藤健二さんの死を知りました。佐々木さんの2015年2月1日のツイートに、投稿日:2014年7月11日 作成者: Kenji Gotoとされる記事が載っていました。佐々木さんのツイートを覗いて知ったのです。

 後藤さんの文章が響いたので、そのままコピペします。

It means “Lost Age” really. これこそ本当に「失われた世代」だ

なぜ、彼らは死ななくてはならなかったのか?希望の光射す未来と無限の才能を持っていたのに。これから好きな女性ができて、結婚して、子どもを産み、家族を持てる十分な機会があったはずなのに。戦いに疲れ果てた人たちは口々に言う。「死んだ者は幸いだ。もう苦しむ必要はなく、安らかに眠れる。生きている方がよっぽど悲惨で苦しい」と。皮肉だが、本音だ。彼らは兵士でも戦場を取材するジャーナリストでもなかった。外国人と交流して異文化を味わうことを楽しみ、すべての時間を市民のために自分のできることに費やし、自分で試行錯誤しながら技術と得意分野を真っすぐに成長させて行った。

オマールはあの時何歳だったか?革命を信じたお子ちゃまカメラ少年は、いつの間にか生き生きした映像を録る勇敢なカメラマンになっていた。ISISに殺された。

そして、ハムザ。戦争孤児や貧しい家庭1,000世帯に、毎朝パンを届ける慈善団体を切り盛りする天才肌の若者だった。7月10日、空爆の犠牲になった。

彼らは、いつも笑顔でこちらの頼みを聞いてくれた。一緒にお茶を飲み、甘いお菓子を食べた。感謝のしるしに日本製の時計を、コンデジを、プレゼントした。戦時下では、プレゼントできること自体が嬉しいものだ。

世界各地の紛争地帯で、私の仕事を手伝ってくれた人たちが、もう何人亡くなっただろうか?

でも、私はまだ生きている。

生きて自国に戻り、「伝える」仕事に集中することができる。

彼らが死ぬなどと真にイメージしたことは正直なかった。

鮮烈に蘇る彼らの優しい笑顔。

ボー然としたところで、「なぜ?」と考えたところで、彼らはもう戻って来ない。

どうか、神様。彼らに安らかなる日々をお与えください。

 なぜ安倍晋三が嫌いなのか。テレビがないのでよくは知らないけど、かれの身ぶりや声音が怖気をふるうほどに嫌いなのです。安倍の悪政よりはむしろこちらの方が大きいと思います。安倍の言葉になにひとつほんとうのことを感得できないのです。見るに堪えないし、聴くに堪えないのです。安倍晋三にある歪んだ自己愛が嫌いなのです。安倍と麻原は双子のように思えます。おそらくイスラム国の理念も似たようなものだと推測します。安倍もイスラム国の理念も尋常ではないです。おなじだけ嫌悪します。
 佐々木さんは2015年1月30日にツイートしています。

 まあわかるというところを引用します。

世の中すべてのもの、国際社会のパワープレイまでをもすべて善と悪に分けようとするから、変なことになっちゃうわけで。「パレスチナ=善、イスラエル=悪」とか「安倍政権=悪、安倍政権と対立する者=善」とか。無理だってば。じゃあISと対立してるアサド政権はどっち?

 言葉が上滑りして世間していますよね。佐々木さんの言いたいことは理解できますが、次のツイートは承服できかねます。

ただイスラエル国旗のそばで記者会見をした、という1点だけをもって安倍外交のすべてを否定するのは行き過ぎ以外の何ものでもないと私は考えます。

「安倍首相がISを刺激したのがいけない」という批判もあるけれど、そもそもISの拡大を懸念している中東諸国に対して支援していくというのは、人道理念としてもエネルギー安定供給のための戦略としてもごく当然の外交政策。



 あのですね、佐々木さん。坂口恭平さんもです。レイヤーは機能的な概念で、表現の深さや、深さという表現の概念ではないのですよ。ついでに〈場〉という概念も。だから記述される世界が平板なのです。わかりますか? あなたの生の固有の体験と国際政治を語るときの語り口はつながっていません。そのことに自覚的ではないのです。だからレイヤーという機能言語で政治を語ることができるのです。
 このツイートをしているときの佐々木さんの呼吸はとても浅いと思います。せっかくいい環境で育ったのに、かれに固有の味わい深さが縮んでいます。佐々木さん、わたしの言いたいことがわかりますか。あなたの世界との和解の仕方は半端です。あなたは生の固有の体験のある場所から這い上がりました。『「当事者性」の時代』を読んでそう思いました。どう生きるかは面々の計らいですから、わたしはじぶんを語るしかありません。
 ただわたしのなかにはもっと墜ちればよかったのにという気持ちは残ります。そうすればすごくやわらかくて音色のいい言葉を手にすることができたのではないかと思います。このリアルはとてもレイヤーという機能言語には収まりません。

 坂口恭平さんの躁鬱体験もおなじです。せっかく得がたい躁鬱体験をしながら、脳の故障に躁鬱現象を還元し、現実には手を付けるな、それは大地だから変えようがないといい、現実の相対化を呼びかけます。相対化する手立てがレイヤーなのです。生命体という大地はレイヤーを受けいれるほどには充分タフです。


 わたしは世界が無分別になるところまで墜落しました。無分別なのです。どこにもそのことを言いあらわす言葉はありませんでした。だからひとつひとつじぶんで言葉を積み上げて世界をつくってきました。わたしは地獄の底板を踏み抜くようにして熱い自然にさわり、このリアルを根源の性と名づけました。もとよりそれはわたしにとってそういう契機があったということにすぎません。国際政治の戦略を語るときの佐々木さんの語り口とわたしが理解した佐々木さんの生の固有性は結びつきません。おわかりになりますか。


 今回の惨劇にどういう政治の駆け引きや裏があるのか知りません。世間知らずならまだしも空っぽなくせにゆがんだ自己愛で後藤さんをポアせしためのは安倍晋三おまえだ。嘘に酔って泣くこともできる。大義の遂行のため多少の犠牲は止むをえないという、右であれ左であれ、そういう理念をわたしはどんなことがあっても絶対に認めない。

 ロシア革命時に赤軍の総司令官であったトロツキーは、数万のクロンシュタット水兵の反乱を鎮圧するための文書に最後は署名した。おそらく革命の理念に反することは承知の上で万感の想いがあったことだと思う。私は革命の全過程に責任を負うものである、と一言、言葉を添えました。格調がありました。
 嘘に酔うことのできるおまえにはそういうことはわからないだろう。テロに屈することなく、金を支払うこともなく今回の惨劇は回避できた。おれが身代わりになる、人質を解放してくれ。この一言で解決できた。わかるか安倍晋三。たんびに身代わりになっていたら国政ができぬなどと言うな。おまえの代わりはいくらでもいる。なりたい奴はいくらでもいる。代々の首相はそのリスクを負って、そのことを伝統とすればいい。身代わりになる覚悟のない者は首相になれない風習をつくればいいのだ。一国の宰相とはそういうものではないか。その胆力がなければ政治などやるな。簡単なことではないか。

 だから佐々木さんの次のツイートには異物感があります。

後藤さんの命は全力で救うべきであるし助かって欲しいと切に願っていますが、これは「短期戦略vs長期戦略」「部分最適化vs全体最適化」の問題。ただ「目の前の人質の命が!」と言われると反論しにくいので、わかりやすいそっちに行っちゃう。

 これはマーケティングの理念です。もしそうでないとしたら、明確に欧米の立場です。強い奴が弱い奴を成敗するという政治そのものです。表現の理念ではないです。

「いっさいテロに巻き込まれないようにしたい」という短期戦略をとるのか、テロに巻き込まれる可能性を秘めていても中東や関係諸国との連携を強めていくのか、というまあそういう外交戦略的選択肢の問題だと思いますね。単なる倫理ではなく。

 言葉に力がありません。言葉が浮いています。佐々木さんは思わず政治を行使しています。これは上からの統治者の視線です。

「国際社会における名誉ある地位」を獲得することが、国際社会におけるプレゼンスとなり外交・安全保障戦略として重要ということです。倫理だけでなく。

巻き込まれるのが嫌だから対テロの姿勢を明確にしない、というのでは「国際社会における名誉ある地位」は得られません。

 強いものが弱いものを制圧すると言われているだけです。佐々木さんは無意識に、越境しています。この視線は当事者性を欠落した睥睨する者の息づかいです。

「我々はどこであろうと、日本人を見つければ危害を加える。日本にとっての悪夢が始まる」/<「イスラム国」>後藤さん殺害か動画公開 政府は確認急ぐ (毎日新聞)

 この醜悪な理念にどう対応しますか。殺戮の応酬しかないです。この光景がいまこの国が当面していることです。
 レヴィナスは言いました。

ヒトラーの勝利―そこでは〈悪〉の優越はあまりにも確固たるもので、悪は嘘を必要としないほどだったのだが―によって揺るがされた世界のうちで死んでいった犠牲者たちの孤独がおわかりだろうか。善悪をめぐる優柔不断な判断が主観的な意識の襞のうちにしか基準を見いださないような時代、いかなる兆しも外部から訪れることのない時代にあって、自分は〈正義〉と同時に死ぬのだなと観念した者たちの孤独がおわかりだろうか。(『固有名』合田正人訳 186p)

 後藤さんの緊迫した顔に、わたしはかつてのわたしを見た。その場所からこの文章を書いている。ふたつの共同幻想が激突したとき、それぞれの内部にいる者は絶対に第三者の立ち位置をとることができない。それがわたしの痛切な体験だ。孤立無援である。
 わたしにできることは国家のない世界を言葉でつくること、それは超国籍企業が商いとして国民国家を邪魔だと平準化していくこととはまったく違います。

 言葉、それしかないと思います。もしここを言葉にできれば、その言葉は非命の後藤健二さんにかならず届きます。言葉が〈ことば〉自身を生き始めることでそれは可能です。

  
                

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