箚記

坂口恭平ノート

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 昨年秋に片山さんから、似たことを考えている人がいます、と勧められて『現実脱出論』を読みました。母が入所しているホームに行った帰りにジャレットというでかいマッキンのアンプとでかいJBLのSPが置いてあるお店で一気に読みました。とても寒い夜でした。ツイートに、どこかに天才はいないか、本物の天才はいないか。おれの携帯は×××、ワンコールでとる、と書いてあったので電話しました。かれがやっている命の電話にかけてきた変な人と思われたみたいです。まだ会ったことはありません。

 どこが似ているのだろうかと思い、『独立国家のつくりかた』と『躁鬱日記』も追加で読みました。たしかに似ているところもある、似たことを考えているという印象はあるのですが、そこを取りだそうとするとなかなか接点がないのです。かれが剥き出しで現実という虚構を生きていること、そして好人物であることはまず間違いないと思います。
 ふと、かれのあふれる才能は躁鬱からの贈与であるような気がしました。それとかれには独特の空間認知があることもわかりました。かれの表現論の根底にそれがあるように思います。

 片山さんとの討議の第2部のはじめは坂口恭平さんと佐々木俊尚さんの考えをとっかかりにしてやるのはどうだろうかとぼくが提案しました。なにをどう言えばいいのか・・・。。それで久しぶりに坂口恭平さんのツイートを覗きました。いいなと思うのがいくつかあったので書き写します。おそらく2015年1月27日のもの。

書くこと、つくることは死を遅延させくれるのだ。僕は自死するまでの時間を限界まで伸ばしたいと思っている。家族もそうである。フーがいてアオがいて弦がいて家族を形成するという行為は、僕の死を遅延させてくれるのだ。それくらい僕にとってこの社会は絶望なのである。

食っていくために書いている人よりも、書かないと死んでしまう人の原稿を僕は読みたいのである。作家になりたいと思っている人よりも、書かずにはいられないので毎日ずっと書いてしまっている狂気の人の原稿を僕は読みたいのだ。なぜなら僕がそうだからである。僕は書かないとおそらくすでに死んでいる。

僕は人の良いところしか見えない。悪いというところには興味がない。それが僕という装置の特性だ。僕は他者にしか興味が無い。僕は自分に興味が無い。僕が生きている意味は他者が存在していることを確認することにある。なぜなら僕の目には他者しか映らないからだ。死者でさえも。僕はそんな、ただの装置だ。

 この三つのツイートはとても好きです。現実を解釈して俯瞰するのでもなく、そこにいてそこを生きている稀な人物だと思います。著作もそうですが、借りものの言葉ではなく自前の言葉で世界を語っています。つまりかれは偉そうにしていません。躁転の万能感にあふれる時期と鬱転で墜落し絶望感から自死を願うありさまをそのままに生きています。むしろ躁鬱からの贈与としてかれの生はあるように見えます。
 現実に刃向かっては駄目だ、と繰り返し説きます。現実はさまざまな層によって現実の必要があってつくられてきたものなので、現実をすこし違った視線でめくり返すことをやろうと言うのです。

無意識の匿名化した社会システムレイヤーを認識し、ちゃんと区分し、独自のレイヤー同士を交易させながら、社会を形成する。これが僕にとっての「新しい経済(共同体の在り方)である。既存のシステムを転覆し、変えるという話ではない。意識の幅を拡げる作業である。(『独立国家のつくりかた』122p)

「社会を変える」などというと、これも先述したように、既存の社会をまったく別のものに取っ替えるという意味で受け取られることが多いが、これも違う。「社会を変える」ということは「社会を拡げる」ということである。独自のレイヤーを見つけるだけでは駄目で、それをもとに交易すること、これが社会を拡張する。(同前 130p)

 わたしがずっと考えてきた同一性の拡張と少しニュアンスが違います。無意識の匿名化した社会システムは、ひとつの生命体なのだという認識が考えの前提としてくりこまれているのです。どうも秩序の生のままの存在はかれにとって不動のものとしてあるみたいです。そうだろうか。

ただ、何度も言うように、学校社会、つまり無意識の匿名化したレイヤー、つまり社会システムは絶対に忘れてはいけない。このレイヤーから逃れたいと希求する人もいるけれど、それはとんでもない話だ。これがあるから社会は成り立っている。つまり、これは地面のようなものだ。アスファルトです。(同前 126p)

 では、どうすれば現実を脱出できるのか。僕はこんなふうに考えている。 元々、ヒト科のヒト亜科に属する動物であった「ヒト」は、それぞれに固有の空間を持ちながら生きていた。そこでは今よりも複雑な意思疎通が、言葉だけでなく、さまざまな知覚、見えない感覚などによって直接的に行われていた。
 しかし、群れが大きくなるにつれて、そのような一対一の複雑なコミュニケーションは難しくなってくる。そこで、群れ全体が理解できるような知覚だけが重視され、それ以外の個々が持っている独自の感覚は削除されていった。こうしてできたのが現実である。
 現実は、はじめはよちよち歩きだったはずだ。それが少しずつ立ち方を覚え、道具の使い方を身につけ、成人となっていく。今、僕たちが接している現実は、変化することを拒む、少し頑固なおじいちゃんのようなものに思える。 現実も僕たち人間と同じく意識を持っている。だからこそ、勘違いもするし、それにより思考も発生する。
 つまり、現実は無機質なモノではなく、一つの生命体なのだ。
 このように現実を空間ではなく、他者として捉える。
 現実の他者化。
 これが僕が言うところの現実脱出のための方法論である。(『現実脱出論』122~123p)

 現実も意識を持った生命体であるというのは面白いです。宗教から法・国家へと流れ下る共同幻想はさまざまなレイヤーの重なりとしてあります。国家はよくても災いであるという共同幻想はじつにやばい生きものです。『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子)という本のタイトルは重いです。日中・太平洋戦争の集団発狂はそういうものとしてあります。それは過ぎたことではありません。いまのこととしてもあります。
 生命体という最強の秩序であるレイヤーと、意識の幅を拡げることでその秩序を相対化しようとするレイヤーの相克という意識の型は、自己幻想と共同幻想は逆立するということとおなじです。つまり現実を他者化するということは、リクツとしては理解できますが、現実はそうはなりません。怖いことに、自分の中にぽっかり空いた空隙にはなんでも流れ込んできます。

 かれ自身は先のツイートで、「僕は自分に興味が無い。僕が生きている意味は他者が存在していることを確認することにある」と言っています。かれの方法意識では彼の意図することとはべつに性が隠れてしまうのです。命の賛歌にはいつもこの危険があります。イスラム国の野蛮を指弾する意識と水俣を賛歌する意識は位相的には同型です。この同型の意識の中に性は陰伏されるのです。

 戦時にかつて青年だった吉本隆明は文学を内面として愛好し、そのことに矜持がありました。戦後、「マチウ書試論」で、そんなものは木っ端みじんに吹き飛んだとかれが言っているのです。そこに凜乎とした美しい言葉が書かれています。

人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ち切れないならばだ。

 この関係の絶対性をかれは生涯をかけて幻想論として描き出しました。
 長い歳月をかけ、わたしはかれの幻想論が同一性を陰伏しており、同一性を拡張しないかぎり生は同一性の罠から脱出することはできないと考え、内包論をつくってきました。まだその途上にあります。

 坂口さんは脳の誤作動が躁鬱であると言っていますが、違うと思います。脳の故障が精神病だという観念があるだけだと思います。精神の奇妙な動作を臓器の脳に還元するのは、人間の精神作用が身体を座として現象するという意味合いでは妥当ですが、それだけに還元するのは逸脱だと思います。そこにある差異は長い歴史の年月のなかで、言い換えれば生の余儀なさのなかでつくられてきた、正常と異常という観念の強度の違いだけだと思っています。

 正常も制度によって馴致された異常のひとつです。同一性に監禁された生があります。そこを言葉でひらくこと。いつもすでにその上にたっている、ひとであることのうしろにひっそりかくれた熱い情動があります。それを言葉でとりだすこと。精神はそこではじめてひらかれます。

 坂口さん、今度会って話をしませんか。

〔追記〕
坂口恭平さんの脳の故障が躁鬱病ということについて理解が浅かったので、追記を付します。かれが精神のふるまいを器械や脳の動作不良ととらえるのはかれのサバイバルであって比喩として言われているのです。そして精神のふるまいの如何ともしがたい日々を病院医療に依存することなく暮らしているのは勇気づけられます。かれのひねりを理解し損ねていました。反省します。

かれの交易という考えや経世財民という考えはとてもおもしろいと思っています。いつかそのことについてちゃんと書いてみたいと思います。

 僕は長いこと、自分の感覚を勝手に調整している犯人を探し続けていた。僕の体を操っている悪の組織を見つけ出し、それを駆除すれば、晴れてこの生きづらさから解放されるはずだ、と思っていたのである。
 しかし、この考え方では、いつまで経っても原因を見つけることができないどころか、最終的には自分自身の「精神」が悪いという結論に至ってしまった。「こころ」 のような人間的な発想で解決しようと思っても、こじらせるばかりで一向に改善しないのだ。
 そこで操鬱病による症状を、僕は昆虫的に考えてみたり、車や超合金ロボットにたとえてメカニックに観察するようになった。もちろん、このように発想を変えただけで、症状が軽くなるわけではない。実際、症状自体は今でも変わらない。しかし、そうすることで、今まで「症状」だと思っていたものを、「一つの機械の運動」として捉えることができるようになった。(『現実脱出論』105~106p)

 それを放置していると、ブレーキをかけているつもりなのに、急発進したりする。これが「死にたい」と思う時である。本当はただの故障なのである。精神的に暗い人とか、駄目な人間、なんてものは本来存在しないのだ。
 我が家では、「死にたいと思うのは脳の誤作動のせいである」という家訓を作っている。 苦悩を覚えた時、僕らはしばしば怒ったり、悲しんだりと感情的に対応してしまう。しかし、機械であると思えば、こちらが感情を露にしたところで何の反応も起こらなくて当然だ。フリーズしたパソコンに向かってイライラしたところで、パソコンの作動には全く関係ない。だから、そんなことをしても無駄だと諦められる。
 このようにして、僕は何とかして消したいと思っていた「症状」を、生まれつき搭載された「機械の運動」であると認識するようになった。これも現実脱出の一つの方法論である。(同前 107~108p)

             

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