日々愚案

歩く浄土182:交換の外延性と内包的な贈与13:吉本隆明の贈与論3

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言葉の始まる場所についてずっとこだわってきた。もし言葉が当人にとって切実なことから始まらないとしたら、いつまでたっても言葉が始まることはない。言葉の始まる場所というのはわたしにとって表現の公理のようなもので、それがなくてはなにも始まらないものとしてあった。若い頃遭遇した出来事のさなかでわたしは傍観者であることはできなかった。言葉の始まる場所は出来事の当事者性とおなじことを意味する。ものすごく難しいことだが、言葉の始まる場所が普遍性をもつとはかぎらない。体験の重力に言葉が負けてしまい、閉じた世界をつくってしまうこともある。だから体験の個別性が普遍性をもつかどうかわからない。わたしは、わたしの体験の個別性を普遍性として語ろうとしてきたが、そのこだわりがどれだけ固有のものであるかどうかじぶんでは判断できない。制約されたじぶんの生が固有なものであり、体験をうまく抽象すればそのなかに普遍性があると考えて、考えることを持続してきた。わたしは言葉が根づくことはこの行為のなかにしかないと思っている。それは体験によって生を閉じるということを意味しない。生の傍観者になることができないことのなかにしか言葉が根づくことはないが、それがどれだけ普遍性をもっているか、当人には本当にわからない。

観察する理性という意識の呼吸法は観察する理性を行使することによって出来事の傍観者となる。この意識の型は人類史の発祥と共に知識人と大衆という生を分割統治する権力として行使されてきた。「例えばカール・マルクスは、このキリスト教(イエス)の倫理を肩からはずし、制度を逆転すればいいはずだと考えた。しかしそれを試みたロシアをはじめ社会主義は、その倫理を個々の人間の肩から集団に移しかえただけで、富んだのは制度を支える『官僚』の集団だけだった。これは人間が利己心を捨て得ない存在で、『聖書』のいうように『神』だけにしか私的利害の問題を放棄できないからだろうか。これが二千年前も、二千年後の現在も『社会』が孕んでいる疑問である」(吉本隆明『中学生のための社会科』所収「国家と社会の寓話」)この問いはまったく解けていない。ちいさな自然であるわたしたちの生のなかにある私性をひらくには世界を認識する理念そのものが改訂される必要がある。衆生を知によって統治する技術が知識人-大衆論であるが、内包論で提起してきた総表現者という理念は人類史を画することになる新奇な理念だとわたしは考えている。つまりわたしは観察する理性は権力だと考えてきた。出来事を一般化できると思って世界を解釈する者たちを唾棄してきた。この者らをわたしが許容することはない。また出来事を俯瞰し、観察する理性で世界を語る者が自身の生を生きることはない。内面と外界という世界認識そのものが生と表現の分離を不可避としたからだ。ほんとうは内面によって環界を記述することはできないのだ。それは出来事を内面化という表現の方法で言い尽くすことができないこととして表白されてきた。この思考の慣性はまだ根深くわたしたちの生を覆い尽くしている。この気づきをわたしが譲ることはない。わたしたちのちいさな自然のなかにある生を固有のものとして取りだすにはなにかまったくべつの生のさわり方が要請されている。

出来事の当事者性が普遍性をもつことがなければ言葉が根づくことはないという思いは痛切だが、そのことと言葉がどれだけ普遍性をもつかということは一意的には対応していない。わたしたちはだれも世界を解釈するために生きているのではない。ほかのだれでもないわたしに固有の生を生きたいから表現している。当事者性に徹することはさまざまな歪みを当人にもたらす。これまでもそうであったように意識の内面化や社会化することのできない出来事は残骸のように遺棄され打ち捨てられてきた。そうやって日々も歴史もすぎていく。すべてが忘却されるなかでこの国の伝統的な心性は、内面の自然と外界の自然が対をなし、いつも同期している。そうするとわたしたちが表現や思想信条の自由とみなしているものの大半は根拠のあるものではなく共同幻想であることに思い至る。先端医学の科学知は早期発見・早期治療という共同幻想を礎にして真理が仮構されている。この実感がない者だけが知識人の役割を行使し世界を解釈する。いうまでもないことだがこの意識の行使は紛いもなく権力である。総表現者という理念によって、だれの、どんな生にも固有の表現が可能となる。

言葉が言葉自身を生きはじめるとき、わたしたちが内面と思いなしている精神の層をつきぬけて内面より深い内包自然に行きつく。この自然はわたしたちが本格的にはまだ生きたことも表現したこともない未知にあふれている。なにかを伝えるための手段として言葉があるのではない。言葉はただ言葉自身を生きたいのだ。そこにどういう光景が出現するか。わたしたちの思考の慣性でこの内包自然を指し示すことはできない。なぜなら言葉が言葉自身を生きることは同一性の彼方の出来事だからだ。神仏と往相の性の彼方は自己という認識のすぐ手前に、もっといえば自己という認識のなかに同一性では語りえぬ出来事として内挿されているということだ。なぜ贈与が交換に遷移したのだろうか。わたしたちの生が社会化したからだと思う。人類史はこの過程を不可避のものとして疎外し、この粗視化された観念を自然とみなしているが、それは同一性的な必然であって、なんら普遍性があるわけでもない。わたしは内包自然という沸き立つ未知にこれからも果敢に挑戦していく。

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交換と贈与はまったくちがう生の行為である。生が分有されることがなければ贈与は生まれない。贈与は経済的なカテゴリーからは出てこないということだ。すぐふたつのことを思い出す。ここに「グスコーブドリの伝記」という宮沢賢治の作品がある。イーハトーボの大きな森で生まれたグスコーブドリのお父さんは巨きな木を別けなく伐る名高い木樵で、そのお母さんとのあいだにブドリとネリという子がいる。ふたりは毎日森で遊んでいた。ある年天候不順でみぞれが降り、飢饉がやってくる。ブドリのお父さんもお母さんも東奔西走して食べ物を手に入れようとするが、翌年はもっとひどい飢饉になる。ある日、お父さんは頭を抱えて考え込み、俄に起きあがり、「おれは森へ行って遊んでくるぞ」といって出奔する。二日経ってもお父さんが帰ってこないと、お母さんは炉に薪をたくさんくべて、わたしはお父さんをさがしに行くから、お前たちは戸棚にある粉を二人ですこしずつ食べなさいといって家を出て行く。お父さんも、お父さんをさがしに行ったお母さんも帰ってこなかったが、戸棚の中にはそば粉やならの実がたくさん入っていた。ブドリのお父さんとお母さんは自分たちの生をふたりの子どもに贈与した。

もうひとつのことが想起された。真木悠介は『自我の起源』(「補論2性現象と宗教現象」)で贈与が交換とどう違うのかを書いている。「1980年代後半のヴェトナムからの難民船のいくつかが日本にも漂着している。偶然そのうちの一つを見たことがあるが、小さな木の船に、考えられないくらい大勢の人が乗っている。漂流の月日の中で、いちばんはじめに死んでいったのは、小さい子供をもつ若い母親たちだったという話を聞いた。一人の個体としては、生命の力のおそらく最も充実した時期にある彼女たちがまっさきに飢えて死んでゆくまでに至る、船内の食物分配の流れや力関係は、どうしても,想像することができる。人間の個が、じぶんに固有の衝動に動かされながら、じぶんじしんを亡ぼしてゆき,類を再生産してしまう。反自然主義的な思考に固執したいなら、彼女たちを死に追いやったのは〈自然〉ではなく、自分に割り当てられた食物さえ幼児に与えてしまうことを強要する〈文化〉の「規範」なのだと想像してみることもできるが、〈自然〉の力は、このような幾重もの手のこんだ〈文化〉の装置を媒介としてさえも貫徹してしまうのだということもできる。わたしたちの欲望の中心に性の欲望があるということは、個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。性とは、個という存在の核の部分にはじめから仕掛けられている自己解体の爆薬である。個体は個体の固有の〈欲望〉の導火線にみちびかれながら自分を否定する」。「性現象と宗教現象は、フロイトが考えたような仕方でも、賢治自身が考えていたような仕方でも、一方を他方に還元することのできないものだ。つまり一方が本来の欲望であり、他方がその挫折や変態や昇華や代償の形態だというふうにぜんぶをとらえきってしまうことのできないものだ。もちろん別個のものでもない。自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと、その極限のところで必ず、自己を裂開してしまうという背理を内包しているという、おなじひとつの形式の、異なった位相をとった反復であるとわたしは仮設しておきたいと思う」。真木悠介は同一性の側から「自己を裂開する背理」を指し示そうとしている。この背理は、内包論では根源の性が分有される出来事としてすっきり言うことができる。根源の二人称を分有することは同一性的な意識からは自己を裂開する背理のようにみえるということだ。神仏と往相の性では贈与は交換へと遷移する。これは必然だと思う。真木悠介はとてもいいことに気づいていながら、自己を裂開する背理をそれ自体として取りだすことができていないから、鋭利な気づきは外延論の背理として記述されるほかなかった。

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真木悠介のモダンな意識が外延的意識の逆理として出会う性の奇妙さを、片山さんは長編新作『なお、この星の上に』(http://katayamakyoichi.com/)という野心的な作品でおおきく拡張している。「グスコーブドリの伝記」の木樵夫婦の子どもたちはブドリとネリと名づけられている。名をつけるということは身が心をかぎり、心が身をかぎる生のありかたを受容していることを意味する。赤の他人同士が惹かれあって対となり子が生まれる。意識の外延は世代を超えて継承され、それにもかかわず一世代ごとに必ず内包が挿入される。ここには壮大な意識の営みがある。時代の移り変わりと共に変わるだけ変わって変わらない内包がここに存在している。意識の外延性と内包性は一世代ごとに生成する。意識の外延性としてある家族の根源は二人称である。ヴェトナムからの難民船が漂流し母親が子に食べ物を与え餓死することも家族の根源が二人称であることに由来する。ここでは贈与の表現としての交換はありえても、交換のための交換はありえない。内包の力によって表現される生の贈与を片山さんは性の交歓をともなわない生の可能性として『なお、この星の上に』を構想したのではないかと思う。『なにもないことが多すぎる』や『新しい鳥たち』が『愛について、なお語るべきこと』とすこし違うように、『なお、この星の上に』も前二作と微妙に違う。言葉が濃くなっている。それは性のイメージが片山さんのなかで輪郭を持ち始めたからではないか。還相の性という表現がこの作品によってはじめて可能となりつつある。つまり同一性では語りえない性の世界が未知の文学として姿をあらわし始めている。

戦後間もない村落社会がこの作品の舞台となっている。停滞するアジアの象徴のような村落社会に戦後が訪れエランという鉱物を採掘する会社が入ってくる。予定調和の文学に対する新しい文学のいくつもの野心的な試みが作品に伏流しているがそのことは括弧に入れる。わたしはこの作品を小学生のころからの幼馴染だった清美という少女と天涯孤独の戦争の遺児である「アツシ」という少年と主人公の健太郎の物語として読んだ。この作品は最後の数行を書きたくて書かれたものだと思う。その数行はわたしたちが知らない文学の可能性そのものを暗示している。なによりそのことが作者において生きられている。

清美と健太郎の還相の性という出会い
健太郎は傍らに横たわる清美を見た。顔に当たっている光は、彼女の内部より現れ、宇宙へ解き放たれている。これはいったいなんだろう。このキラキラと輝くものは。清美の顔や身体全体から放たれ出ているもの。それは彼のなかにもあった。清美から放たれ出たものが身体を通過し、自分のなかにある同じものとぶつかり、混ざり合い、共振し、落ち着かない気分にする。これまでは気がつかなかった。こんな輝かしいものが自分のなかにあることに。それは彼のなかにありながら、彼のものではなかった。

体験的にだれでも思い当たることのある思いがけない生の場所だと思う。この生の場所が切り裂かれ、生を苛む夥しい作品がつくられてきた。生木を裂くように生が引き裂かれる。それが文学であるという悲劇と倒錯。ある意識の型をたどるかぎり例外なく生も性も断ち割られる。作者は戦争孤児で天涯孤独の村の外に住むアツシという健太郎の分身を世界の無言の条理の象徴として創作した。家畜が野犬によって食い殺される事件がつづき、村人は銃を持ち大規模な野犬狩りで対抗する。白眉のひとつがここにある。映画「ハクソーリッジの戦い」を想起せよ。健太郎はどう身を処したらいいのか。父を食い殺そうとする野犬アツシを健太郎は銃で撃つ。アツシを撃ったはずの銃弾は健太郎にあたり、一命を取り止める。相手を撃つことは自分を撃つことであるとして危機が回避される。

健太郎を清美が見舞う場面
「世界の果てまで行ってきたのよ。世界の果てには、二つのものが一つになる場所があってな。あのとき鉄砲を向けられた一匹の犬が自分に思えた。自分と一つのものが撃たれると思うた。なせそんなことを思うたのか、うまいこと説明はできん。とにかくそういうことで、撃った者が撃たれとった。それが世界の果てで起こったことで、帰ってきたらおまえがおった。清美とわしがおった。二つで一つのものが、わしとおまえになっとった。鉄砲の弾が当たったときは一人やったのに、いまここにおる自分を一人とは感じん。なぜやろうな」
  問いかけられたほうは途方にくれた顔で問いかけた相手を見た。しばらく難しい顔をして考え込んでいたが、
 「健太郎の言うことはちいともわからん」投げ出すように言った。
  伝わっている、と彼は思った。何かが通い合っている。言葉にできないものが。この世界でいちばん善いものが。
 「雪になりそうやね」
  いつのまにか清美は窓辺に立っている。健太郎もベッドから降りて並んで立った。外では冷たい雨が降りつづいていた。暗い窓カラスに清美の顔が映っていた。その顔が振り向いた。
 「春になったら海を見にいかん。うち、まだ海を見たことがない」
  軽やかで休むことのない生き生きとしたものを感じた。それは部屋を満たし、溢れ出し、空を移ろう雲と、暖かい日差しと、草の上を吹き渡っていく風と一つになって世界の果てまで広がっていく。
 「連れて行ってくれるか」
  再び眼差しが重なった。清美の瞳に自分が映っている。すべてがここにある。楽しいことも悲しいことも、何もかもが息の通い合う距離と、重ね合わせた眼差しのなかにある。すべてがあり、何も欠けていない。いまここで生まれているのだ。春が待ち遠しい、と健太郎は思った。

『なお、この星の上に』を読みながらなぜかブランショの「謎の男トマ」を思いだした。文学という予定調和の商品ではなくあたらしい観念をつくろうとするモチーフが読者に伝わってくるからではないかと思う。根源の二人称を表現の基軸としないかぎり世界はもうどこにもゆけぬことを作者はよく識っている。自己を実有の根拠として表白された貨幣という共同幻想も、文学という制度も海綿状態で思考の慣性に犯されつくしている。鳳仙花の実を思いだそう。実(同一性)の中に健太郎とアツシがいる。鳳仙花の実に触れるとなかから種が飛び出してくる。健太郎であるアツシと、アツシである健太郎から、内包的な健太郎と清美がはじけてくる。原始宇宙のごく初期でクオークと反クオークが衝突すると対消滅して2個の光子が生み出されることに比喩してもいい。内包的な意識の表出が文学としてはじめて語られる場面だ。おなじ時期に書かれた「小説のために(第九話)」で、「なぜ、このようなことが起こるのだろう?」と問い、「それは『この私』のなかに普遍性に応答する場所が」「誰のどんな生のなかにもある」からだと言っている。そしてこの意識の表出にふれるときわたしたちはじぶんをじぶんにとどけることができる。このときわたしたちの生の不全感は革まり、一切のなぜは消える。「誰もが、この不思議を生きることができる。なぜなら、誰のどんな生のなかにも『一切のなぜが消える』場所があるからだ。たしかに『ある』ことを、ベートーヴェンの音楽が図らずも可視化してくれたのだと思う。ぼくたちが共同体的に同定された私とは別の固有の私を生きるとき、一人ひとりの『この私』とともに不思議な場所は出現する。なぜなら固有性のなかに『なぜ』はないからだ。『なぜ』が入り込む隙間がないくらい、自分が自分にぴったり重なっている。自分が自分に届いてしまっている。そんなふうにして『この私』はある」。

友人が亡くなって久しぶりに郷里に戻り、清美が認知症になり施設に入所していることを旧友から告げられ、健太郎は清美に会いに行く。それぞれべつの生涯を送り、一度も一緒に暮らすこともなかった健太郎と清美。自己という奇妙な生のすこし手前に、神仏という超越でもなく、対幻想や往相の性でもない性が存在する。

施設を訪いあの野原のことを清美に一心に話す健太郎
「あの春の野原からはじまったんだ」健太郎はもう一度語り直しはじめた。「遠い春の日の、ほんの一瞬の出会い。あれが最初だった。最初の不思議な出来事だった。あれからいろいろなことがあった。幾つもの野原を通ってきた。そのたびに自分というものがはじまった。誰かと眼差しを交わして、眼差しのなかに新しい自分を見つけた。いつも誰かが見てくれていて、その眼差しに包まれて生きてきた。だが、あれが最初だった。多くのことが変わっても、いろいろなものが消えてなくなっても、何も変わらない、何も消え去りはしないと思える。変われば変わるほど変わらない。わしもおまえも。だから清美、安心していいんだよ。おまえが少しずつ消えていき、他の誰になっていこうと、おまえはおまえだ。清美のままだ」
  食堂や談話室のあるエリアを離れてしまうと建物のなかは静かだった。他の入所者にも施設のスタッフにも会わなかった。健太郎は静かに車椅子を押しつづけた。ひとまわりするあいだに魂が抜けて、地の果てまで広がり出ていった心が再び戻ってくると、いろいろなことが甦りはじめた。外にあったものが内に吸い込まれていく。これまでに通ってきた場所が、生きてきた時間が、いまここにある。消えた自然は手つかずのままに、いなくなった人たちは損なわれぬまま、何も変わらずにありつづけている。
 「不運なことや悲しいこともあったが、自分を不幸せと感じることはなかった」漂白されたような気持ちで彼は言った。「不幸ではありえなくなった。夢を見たから。夢のなかに、不幸は入り込めない。不幸をもたらすものは何一つ入り込めない。そんな夢を清美、わしはおまえと一緒に見た。束の間の夢だったが、夢の余韻は残りつづけた。いまも残りつづけている。これまでも、これからも大丈夫だと感じる。どんなことが起こっても、あのときの温もりが、あのときに触れたものが包んでくれているから」

「健太郎」と声が追いかけてきた。
  彼は振り向いた。
 「お花を摘んできてくれるか」
  無邪気にたずねている人は、おれよりも近くにいる。

つけ加えることはなにもない。なにかうるうると流れるものがある。作品の結びの数行で生と性の可能性が一気に拡張されている。還相の性が、根源の性を分有するという出来事の深奥にあるから、対幻想や往相の性が可能となるのだ。その逆ではない。対幻想や往相の性はいつも還相の性のあらわれとしてある。どうじに還相の性が可能だから、信の共同性は根を抜かれ、生の原像が自己と社会を包むことになる。そのことが新作の最後の数行で言い尽くされている。自己という現象も社会という制度もこの〔性〕のなかに呑み込まれていく。〔性〕はそれほど広大なのだ。世界とは〔性〕のことにほかならない。還相の性を実体化することはできるか。できない。ビットマシンのアルゴリズムによって可視化することのできない世界が 、変わるだけ変わって、変わるほどに変わらない世界が、ここにある。人の生が根源において二人称であるとはそういうことなのだ。『世界の中心で、愛をさけぶ』の作者も『なお、この星の上に』の作品世界に到達するのに十数年を要している。アキが「また見つけてね」と言い、朔太郎が「すぐに見つけるさ」と応えることがなぜ可能なのか。それは還相の性があるからだ。交換ではなく贈与の可能性もここにある。

後ろから「健太郎」と呼びかけられ、清美が「お花を摘んできてくれるか」と問う場面で、ふと親鸞が村人に言葉を投げかける情景を想起した。命あるものはむかしから家族である。それはあたりまえのことであるから、まず有縁あるものを度すべきなりと親鸞は言った。親鸞でさえもそれがどういうことであるか充分には言えなかった。ここで過誤の人類史が露わになる。『なお、この星の上に』という作品がこの難所を跨ぎ超そうとしている。村人のひとりが親鸞におなじことを呼びかけたとしたらどうなる。それが「お花を摘んできてくれるか」という言葉の意味であり、作品の価値である。〔内包〕という存在しないことの不可能性のなかで、親鸞は呼びかける者から呼びかけられる者へと遷移する。いったいなにがここで起こっているのか。仏である親鸞が衆生のひとりである村人から他力を説かれるとき、仏である親鸞は還相の性をおのずと生きることになる。なぜならば生は根源において二人称だから、還相の性に邂逅することによって神仏より古い精神の古代形象に先祖返りすることになるからだ。おそらく親鸞の自然法爾は還相の性が巻き取る内包自然へと拡張される。他力を説く者が他力を説かれるということはこういう不思議を生むのではないかと思っている。他力の信をもつ者同士が世界を並び見る(このありかたが信の共同性をつくる)のではなく、向き合うとき他力による自然法爾は還相の性へと必然的に転化する。この機微のことを親鸞が識っていたかどうかは遺された言葉からはわからない。最後の親鸞にとって法語はどうでもいいものとしてあったように思えてならない。そのうちまた親鸞さんとの架空対談をやってお訊きしたいと思う。わたしの構想のうちではここで確実に人類史はおのずと動く。すでに仏である親鸞に衆生のひとりが他力の信を呼びかけたと考えてみる。親鸞もたまにお花を摘んできてくれるかと言われたくてたまらなかった。然り、ここが浄土であると言ったにちがいない。それを言ったのは親鸞か、衆生のひとりか、定かではない。この自然(じねん)は沙汰すべきにあらざるなりとたしかに親鸞は言った。

自然法爾が他力の領域化したものであるとすれば、呼びかける者が呼びかけられる者へと転位するとき信の共同性は本当の意味で解体されることになる。このとき親鸞の自然法爾はわずかにふくらむことになる。このふくらみのことを内包自然と言っていいような気がしている。他力を語る者はまた他力を語りかけられる者でもある。それが可能であることが清美の言葉によって語られている。わたしは「お花を摘んできてくれるか」という清美の言葉の意味を瞬時に理解した。血縁によらぬ有縁もまた喩としての内包的な親族となりうる。親鸞ならば直ちにこの道理を解すると思う。健太郎と清美は「お花を摘んできてくれるか」という言葉をはさんで還相の性の関係を生きている。「無邪気にたずねている人は、おれよりも近くにいる」とはそのことにほかならない。このとき一切のなぜは消滅し、浄土が歩く。わたしは片山さんの『なお、この星の上に』は、まだだれも成しえていない、まただれも気づくこともなく表現された、世界的な広がりをもつ、意識が内包的に表出された初めての作品だと思う。内面の表白という文学の思考の慣性が根底から拡張されている。なにより生きられる生と性の萌芽がここに示唆されている。ありえたけれどもなかった表現の可能性がこの作品で実現しかかっている。この作品の試みが容易に理解されるとは思わないが、できるだけたくさんのひとがこの生と性のありようを感受したらいいなと思う。(この稿はまだまだつづく)

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