日々愚案

歩く浄土126:内包贈与論9-カール・マルクス考9

    1

マルクスの自然哲学は人間と人工的自然との相互規定が臨界を超えて高度化されるとき全面的に改定されることになる。いまでは自然の素子はビットと分子記号を中核としている。マルクスが考えた自然哲学は人工的な自然であるビットや遺伝子工学との相互規定性へと移行する。おそらくマルクスは自然がここまで生成変化するとは考えていなかった。そのとき人間が自然の一部であるとはどういうことか、自然とはなにかが問われる。わたしたちはそのただなかを生きている。それはあまりにも自然に起こるので、なにが起こっているのか意識されることもない。ネットの記事でamazongoを読んだとき、ディープラーニングがここまできていることに少し驚いた。
http://news.mynavi.jp/articles/2016/12/11/amazon/
この世のしくみは意識しないうちに大きく変わりつつある。それは社会の全領域において引き起こされることになるだろう。最後に残された自然はわたしたちの身体であるが、その身体もまたAIに管理され、すべてが可視化され生は全面的にシステムの属躰となる。利便性と快適さと効率として生は実体化される。それがいま起こっていることだ。支配のシステムそのものが人工的自然によって規定されるなかで、新自由主義か反自由主義か、あるいは国家の支配者やグローバルな経営家であるかどうか、反国家や反グローバリズムの立ち位置をとるかどうかは不毛な対立であり、そこに状況の核心があるのではない。富を至上のものとする社会の全体がビットマシンと結合し、わたしたちの生をシステムの属躰として再規定することになる。この世界史的な激変に当面してグローバリゼーションを推進することで国家を維持しようとする者らと、強い米国と国益を再建しようとする者らが、ともにグローバリストであるにもかかわらず、ポリティカル・コレクトネスとアメリカ第一をめぐって相克し、国家を内面化するトランプが勝利した。富豪政権が自らの私腹を肥やすことを第一義とすることは自明である。そこで争われているのは衆を人質とした支配者の権力闘争にすぎない。この閉じた円環をどうすればひらくことができるのか。そこにしか状況の課題はない。わたしの理解ではマルクスの自然哲学はこの問いに答えることができない。わたしはマルクスの外延的な思想を内包的に拡張したいと思う。わたしの世界認識の方法は、マルクスの構想した思想と、マルクス主義をソフトにした民主主義という適者生存の「社会」主義ともかなり違うものになる。

マルクスの自然論について内包論からふたつのことが言える。そしてこのふたつはマルクスの思想の未然としてひとつながりになって円環している。ひとつは、人間は自然の一部であるにもかかわらず、自然にたいして違和をなしているということ。ふたつめは、人間が自然と相互規定的な存在であるとして、その自然とはなにか。このふたつの根柢的な疑問にマルクスは答えきっていない。この不明のうちにマルクス主義という「社会」主義が胚胎し人類史に厄災をもたらし、滅んだマルクス主義の代わりに「民主主義」が擬制された。民主主義は人格を媒介に適者生存をなぞることしかできていない。肝心なところだから強調したい。民主主義を否定するのではない、民主主義は拡張しうるのだ。それがどういうことであるか、ヘーゲルやマルクスの思想の淵源を探るほかないとわたしは考えた。人と人のつながり方が変らないとこの世の仕組みはかわらない。1、2、3、では人はつながらない。わたしよりわたしに近いあなたがあるとき、自己は領域になる。それは還相の性ということだが、そのときだけこの世の仕組みはおのずから変わると内包論で言ってきた。生きていることのこのリアル以外にこの世のしくみが変わることはない。それはわたしのなかでは確信としてある。個人は内包存在であるといえばよかった。たったこれだけのこと。このシンプルなことが千年に一度しかこの世界にあらわれないマルクスにもわからなかった。個人は内包的に〔性〕として存在している。この生のリアルさのなかに人類史を跨ぎ超すおおきな潜勢力がある。

マルクスが思想の根柢においた自然哲学の未然についてわたしはつぎのように考えてきた。マルクスは人間という自然を心身一如のかたまりとして前提とし、その個的な現存が自然と交流すると考えた。マルクスは人間が自然に働きかけるまえに、すでに人間は心身一如な存在として、環界の自然と交流するまえに身体である自然と関係している。このもっともシンプルな関係を疑問の余地なく個的な現存のうちに内在として生きていることにマルクスは気づかなかった。エピクロスの霊魂というモダンな概念を継承したマルクスの自然哲学もまたモダンだった。中国「三星堆」遺跡の図録にある、目が茶筒みたいに突出した「大型縦目仮面」をみたとき、デモクリトスが物体から剥離体(エイドーラ)が流れ込んで視覚が生じると考えたことの意味がよくわかった。太古の面々は歴史のある時期に世界をそのようなものとして知覚していた。たしかに熱をある割合で組織にくまなく分布している霊魂が皮膜によって包まれていると考えたエピクロスの哲学はデモクリトスよりモダンである。そのモダンをマルクスは受け継いだ。マルクスさん違うんだよ。人間は環界の自然と相互規定として疎外の関係に入るまえにすでに心身相関として自然と関係している。人間は環界に対象的な世界をもつ以前に自然と関係しているということなのだ。

解剖学者の三木成夫は生物の基本的な体制を「食」と「性」の双極性においてみている。「胃袋とペニスに、目玉と手足の生えたのが動物。その上に脳味噌の被さったのが人間」(「南と北の生物学」)だとシンプルに定義する。この比喩に習えば、環界の状態がきびしくなれば、自己保存則にのっとり、背に腹はかえられず長いものには巻かれるという自然があらわれる。飢えや権力による制裁が身に迫ると、人間の被りもののアタマは身体につき従うということだ。権力の本質は暴力であると見抜いていたフロイトもこのことをよく知っていた。人間の個的な現存はそういうものである。あらかじめ身体は精神に関係しながら、心身のひとつながりとして外界の自然に働きかける。この二重化された自然との関係をマルクスはうかつにも気づかなかった。

人間が自然との対象化の過程に入るまえにすでに自然と関係しているということ。そしてこの関係の仕方のなかに人間が動物から受けついだ私性と捕食の根源があり、心身一如を実有の根拠とする意識が私性と残虐さを亢進させた。おおまかに精神の古代形象はそのようなものとしてあった。マルクスがここを考えた節はない。人間の個的な現存を社会的な存在であるとみなしたマルクスの類生活への希求がマルクス主義という人類史の厄災を招いたのは必然であったと思う。わたしたちはまだこの迷妄のただなかに生きている。衆に拠る理念がこの災いからまぬがれることはない。

ヘーゲルが有論で考えのこしたことがあり、それはマルクスに引き継がれ、吉本隆明にも遺伝した。精神の古代形象として究尽されていないことがある。この未然は連綿として歴史に重畳し現存する。人間は自己の観念を共同の観念と同期するようにしか自然をつくってくることができなかった。むろんそれは生存の余儀なさであり、同一性を実有の根拠としてわたしたちが人間の生命形態の自然を象ってきたということにほかならない。天皇のためなら死ねると思った吉本隆明の痛切な戦争体験にのこされたほの暗い虚偽。かれの戦争体験は内面化と共同化が可能であった。自己幻想と共同幻想が逆立することの根拠は自己幻想のなかにはない。自己幻想と共同幻想は同期するのが自然である。なんとならばそういう自然しかわたしたちはつくりえていないのだから。生が撃断されるとき体験は出来事を内面化することも共同化することもできない。そこに出来事の当事者性がある。わたしはじぶんの身に起こったことを人類史として普遍的に語ることが可能だと思っているから内包論を持続している。

わたしの生のリアルは存在しないことの不可能性として存在している。熱い自然は存在する。三木成夫の思想は伸びやかで無意識に日本的な自然生成を超える世界性をもっている。わたしは三木成夫の思想におおきな刺激をうけ、むかしつぎのように考えた。「生物の基本的な体制を『食』と『性』の双極性において見るというのが三木成夫の基本的な考えだが、私は、『食』と『性』の双極性を、あらためて対の内包という〔性〕で結びなおした霊長類が人間と呼ばれるものではないかと考えた。そこにおいてはじめて人間に固有なものが現象する。三木成夫に宿った天与のうねりがイメージする〈融〉の世界や螺旋になった〈流〉の世界を、対の内包という〔性〕を主体とする存在概念において結びなおしたら人間はもっと良いものになる気がしてならない。『いまのここ』に『かつてのかなた』を感得しても、『いまのここ』は『かつてのかなた』をいやおうなくはみだしまう。それが生きるということなのだから。つまり人間は『食』において動物と連なり、『性』において断続し、ここにおいて言語が起源を成している」(『guan02』)

人間が自然に関係するまえに人間はすでに自然と関係している。口から肛門へと至る腸管のなかに外界の天空が内蔵されている。身体は自然と関係する以前に身体という自然と関係している。マルクスの自然哲学の手前に人間は自然の一部をなす自然がすでにある。マルクスの自然哲学は、自然が自然と関係する相互規定にすぎない。そうではない。意識は自然と異和をなしている。「歴史は人間の真の自然史である」とみなすときマルクス主義が、あるいは民主主義という「社会」主義が胚胎する。ビットマシンと結合したハイテクノロジーや金融工学の猛威にポリティカル・コレクトネスは対抗することはできない。この危機感に迫られて国家が内面化する。それがいまわたしたちの眼前で起こっていることだ。意識を外延的にたどるかぎり、生も世界も同一性に収斂していく。むろん内面化した国家も新しい環界に呑み込まれていく。それは外延的な自然の必然としてあるとわたしは考えている。わたしは「社会主義」は「社会」主義の変態だったと思う。個人を社会的な存在とみなすかぎり個人の生が「社会」主義からまぬがれることはない。外延表現は規範として個人を社会的な存在とするが、ほんとうは個人は内包存在が領域として表現されたおまけのようなもので、生を言祝ぐように存在している。マルクスの構想した自然と別の、内包的な自然をつくること。

    2

吉本隆明はかつて大衆の原像をつぎのように考えた。「生まれ、育ち、婚姻し、子を産み、子に背かれて、老いて死ぬ」。それはわたしたちの生の自然的な基底といっていいが、統治による生の簒奪は、つまり生政治によって基底としてある自然はすでに徹底的に改変されている。統治による生の管理とビットマシンと結合したグローバル経済はこの自然基底を破壊しつつある。マルクスが構想した類生活や吉本隆明の大衆の原像の牧歌性の存在する余地はまったくない。生を可視的なものに改変することで生の価値を序列化し計測すること。この変化のなかにわたしたち一人ひとりは競技者としていやおうなく巻き込まれている。それだけではない。心身のすべてが健康という善に収斂し、そのなかで生の意味が言及される。言うならば生権力によって心身の最後の一片に至るまで計量され商品化されるということ。生のすべてが、生に侵入する権力と結びついた経済活動として組織されている。医学という生権力の生への侵略のすべてがグローバル経済によって商品化される。その風圧のなかにわたしたちの生は晒されている。そしてわたしたちの個々の生はシステムの属躰として訓育され効率的であることが善であるとされる。熱工学者エイドリアン・ベジャンの「同じ進化の方向性やデザインは、勝利するという共通のゴールを目指す人のさまざまな集団で別個に現れる。本当の目的は速度ではなく勝つことで、勝つとは社会的地位を上げること、より良い暮らしをし、より長く生きること、そしてより遠くへ移動することだ。その目的は人生そのもので、その背後にあるのは、生きたいという衝動だ。その衝動は保存(あるいは自己保存)の本能としても知られ、何ものにも優る」(『流れとかたち』)という考えも、ピーター・シンガーが『生と死の倫理』で問いかけた、「人格だけが生存権をもつ」ので「教育を受けること、人間関係を培うこと、家庭生活を送ること、経歴を身につけること、貯蓄をすること、休日の計画をたてること」ができない「意識のない生命はまったく価値がない」という考えにわたしたちの生が吹き寄せられているということ。

人間が自然に働きかけ自然を加工すると自然は人間化され、応力として人間は自然化される。人間と自然とのこの相互作用が最も根源的なことだとマルクスは考えたが、自然が全面的に人工化されるときマルクスの自然哲学は改定されるほかない。そのただなかをわたしたちは生きている。

マルクスは自然についても意識についてももっと根本的に思考すべきだったと思う。資本論を書く傍らで微分学のノートをとっていたマルクスも時代の申し子だった。微分学はすでにわたしたちにとって認識の自然でありマルチユニバースとAIと分子記号学がいま時代の先端をなしている。自然とはなにか。意識とはなにか。地軸が傾くほどには考えていない。牧歌的な時代だったんだなと思う。親鸞の自然法爾の深さがマルクスの自然にはない。同一性を超えることができずに憤死したニーチェの壮絶な狂気がマルクスの意識にはない。マルクスさん、あなたは『経済学・哲学草稿』のなかで、男性の女性にたいする関係のなかに人間の人間にたいするもっとも本質的で直接的な自然的な規定があらわれると書いていますよね。その関係の自然と人間の共同体にたいする関係は類を絶して乖離していることに気づいていません。マルクスさん。それは内包存在なのですよ。性の関係の自然だけが自己という自然とも社会という自然ともまったく違う出来事である。性の世界は自己と社会を媒介するつなぎ目ではない。衆を媒介とする理念は、それがどんな理念であっても政治を引き寄せる。

マルクスの思想の叙述の特徴について少し。マルクスという思想家は類推と対応の魔力を駆使し、じつに息の長い文章を書く。男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいする関係とおなじであり、それは人間の自然にたいする関係と同義であるという。三つの推移律を一気に同期してしまう。読んでいるとなんとなくそんな気がしてくるから不思議。わたしの生のリアルはマルクスの推移律を虚偽だとみなした。男性の女性にたいする関係は対幻想だから自己の自己にたいする関係とも自己の共同性にたいする関係ともちがうと言いたいのではない。自己幻想と共同幻想のつなぎ目に性の関係があるのではない。性の関係だけが自己幻想とも共同幻想ともちがう可能性を秘めていると長年内包論で主張してきた。

これはマルクスだけの特長ではないが、ヘーゲルにしても、吉本隆明にしても言葉をつくるとき、おそらく意識はしていないと思うが、自己と世界が対座している。いつも問題の立て方が自己と世界なのだ。ドゥルーズやフーコーが新しい主体という概念をつくろうとしたのは、ヘーゲルやマルクスの思考の息継ぎがとても息苦しかったからだと思う。これは理念というよりは生理的なものだと言っていい。ヘーゲルやマルクスの強靱な論理におなじ窮屈さをわたしも感じていたからよくわかる。確乎とした自己がなければ書きえない文章なのだ。それほど自己はゆるぎないことなのだろうか。フーコーも強靱な論理力をもった書き手であったが意志を括弧に入れ、知の考古学について詳細に論述した。死の間際にフーコーは思考を転回するところにいたが、最期に到達したフーコーの思想のつづきを読むことができない。ドゥルーズも『情動の思考』を書いたときはしなやかな思考の持ち主だったが、どこかで論理の強靱さが途絶したように思う。そういう意味ではヘーゲル・マルクス・フロイトを超えようとした試みを貫通した者はひとりもいない。かれらのだれとも違ってわたしは自己を性の世界からのおまけ、余録のようなものとして感じてきた。親鸞の自然法爾は自己を超脱している。エックハルトの「私が神である」も自己は付録のようなものとして感じられていた。わたしは親鸞やエックハルトの考えたことをそう理解している。

根源の性を分有するということから明らかになることがある。外延表現では対幻想は特殊な共同幻想とされるが、それは自己を実有とする意識が同一性的に形象化されたものであって、自己幻想と共同幻想の継ぎ目を便宜的に表しているにすぎぬということだった。対幻想は自己幻想と共同幻想を媒介にするものだったと言っていってよい。わたしの考えでは対幻想は根源の性の分有者が可視化されて往相の性としてあらわれたものだということになる。そうではなくもし男性と女性の固有な関係があるとしたら往相の性ではなく還相の性にある。対幻想というのは生の縮減なのだ。性はもっと広大だとわたしは思う。

人間が自然に働きかけて自然を人間化する、マルクスの言葉で言うと、自然を人間の非有機的身体にするという作用のなかに、私性と貨幣の起源がある。はるかな精神の古代形象に思いを馳せると、動物的な反射による生存への適応が、自然の一部でありながら、自然に対する異物であるという認識を巻き込んだと思われる。精神の古代形象を考えると、性は心と身体がひとつきりのありようのなかに閉じ込められたのではないかという気がしてくる。精神の系統発生を古代形象に例えるとき、わたしたちの生の現存性はその系統発生がいま、ここに、折りたたまれたものとしてあらわれる。そうすると、性の現存性の起源をたどることは、精神の古代形象を想起することとおなじことになる。このことは次のように言い換えることもできる。文学という形式を可視化し共同化すると政治になる。意識の外延的な範型でしか内面という文学が語られたことはないので、文学という内面化と政治はパラレルであり意識としては同型であるということはなかなかつたわらない。じつは個人の内面はたやすく共同化できる。文学という意識の内面化と政治という意識の社会化は人々の信憑を横断して、意識としてはじつは同型なのだ。わたしたちはまだそういう意識の自然しかつくりえていない。内包はここをおおきく包越しつつある。マルクスの信と違い個人は社会的存在ではない。

    3

わたしが知覚する性は世間の性と半分重なり半分ははみ出していると長いあいだ感じてきて、そのことをどう言いあらわせばいいのかずっとわからなかった。根源の性の分有者という驚異は単独の自己ということでは言いあらわしえない。ふつうわたしたちは単独の個人が他者である単独の個人とつくる世界のことを対幻想と呼び習わしている。わたしは内包存在の分有者は往相の性と還相の性から成り立っていると考えるようになった。いまは、対幻想はおおまかには往相の性と対応し、往相の性の最奥にひっそりと還相の性があって往相の性を統覚していると理解している。つまり根源の性の分有者は往相の性と還相の性を素子としていることになる。わたしの性の感受からすると対幻想は同一性という意識の外延性によって性の可視化と実体化を付加される。そうではない。始まりがあって終わりのない、ますます深くなる還相の性が根源の性の分有者のなかに熱く息づいている。また還相の性は可視化も実体化も一般化もすることができない。そういう意味では根源の性の分有者という生のリアルは対幻想よりはるかな深度をもっているとわたしは考えている。だからこそわたしたちの生は日々あたらしく生きられる。もしも還相の性というものがないとしたら、特殊な共同幻想である対幻想は共同幻想への媒介となる。事実、個人から家族・親族、氏族から部族、そして国家をつくってきた。国家は書記の体系と貨幣を私性によってより高度なものとして歴史を重畳した。ビットマシンは貨幣への欲望をより効率よく実現できる。最後に残されたわたしたちの心身一如の天然自然は広大な市場を潜在するからビットマシンは科学技術と結びついてゲノムを編集するようになるだろう。国家の外部に新しい環界をつくろうとする猛烈な圧力に晒されて国家は一斉に内面化する。それがいまわたしたちが日々生きている現実だ。自然を粗視化することでこういう社会をわたしたちは連綿とつくってきた。個人は社会的な存在であるという命題がこの社会を不可避として招来した。わたしたちの知るどんな理念をもってしてもこの条理は変わらない。

外延表現と内包表現の違いとして、量子力学の二重スリットの観測者問題ということがよく浮かんでくる。内包論の〔わたしがわたしのままであなたである〕は、あたかも波に比喩され、波が収縮して粒子になることが自己というあらわれではないか。なぜ二重スリットを通る電子は観測者がいるとき干渉縞をつくるのか。人間の知覚として受け入れ難いこの不思議を解いた研究者はいない。おなじようなことが表現としても可能だとわたしは考えている。内包存在を波に比喩すれば、心身を一如だと知覚するとき、内包的な存在は自己へと収縮する。互いにわたしより近いあなたを知覚するとき、比喩としていうのだが、自己が領域化されることによりどうじに二重スリットを通り抜けることができる。量子力学の観測者問題では光電管から放出された電子は粒子であるとともに波でもあるが、そのことによって電子の性質が変わることはない。内包的な表現では同一性的な自己そのものをつくりかえてしまう。内包的な表現はレオ=レオニの絵本の「あおくん」が、とおりのむこうにいる「きいろちゃん」と遊びたくなって、あちこちさがしまわり、まちかどでばったりであい、ふたりともうれしくてうれしくて、交じり合ってしまい、とうとう「みどり」になったという話。ここは内包論の根幹にかかわる。「みどり」になるということは往相の過程から還相の過程に転位するということなのだ。そしてそのことを可能とする力が還相の性にある。

よく親鸞の他力によってもたらされた自然法爾のことを思い出す。この自然法爾を同一性の意識で指し示すことができるだろうか。往相廻向としてなら心身一如を起点として示し得る。自然法爾においては自力は絶たれ、自己はすでに領域化されている。最期の親鸞にとって他力が現成した自然法爾こそが意志論であったとわたしは思う。仏は親鸞一人がためにありというとき仏は親鸞として領域化されているということだ。このリアルのことを親鸞は自然法爾と言い、生を全うしたと思う。親鸞の自然法爾で信の共同性をつくることはできない。自然法爾は内包自然に向かってひらかれている。親鸞の仏の慈悲と自然法爾を根源の性と内包自然と読みかえることができる。親鸞の他力という意志論を共同化できないように還相の性は自己にも共同性にも還元できない唯一の観念の場所である。この観念は生きることにとっても、歴史としても猛烈な未知の潜勢力をもっている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です