日々愚案

歩く浄土268:情況論74-厄災としてのコロナ禍について2

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今世界でなにが起こっているのか、このひと月、気にかかってしかたないことを言葉にしようと、途切れ途切れにじぶんなりに考えた。世界で同時に多発したコロナ禍のど真ん中に死への恐怖がある。自分で体験することはできないが身近に起こる死は経験できる。その死が自己に重なり、死が自分を選ぶのではないかという戦慄が不安や恐怖となり、慄きが一瞬で共同化され宗教となる。なにより科学知が内含する真理を装った迷妄が共同の幻想としてある。科学知のなすがままにわたしたちの日々は翻弄された。手を打たないと42万人が死亡するという8割おじさんの怪しげな疫学理論が一人歩きした。このように新型コロナウイルスへの不安と恐怖はまず真理を装う共同的な迷妄として拡散され瞬く間に個人に憑依する。インターネットが公共的なインフラになった電脳社会の特質が遺憾なく発揮されたわけだ。死によって贖われる知とはなにか。BCの思考の慣性が意匠をあらたにしてACに引き継がれるだけで変わることはなにもない、というようなことを考えたのでそのことについて書く。これから科学知はさらに急峻な変貌を遂げる。今はまだその序章と言っていいのかもしれない。

BCとACを貫通する死を采配する知の由来を断つこと。困難だがここにコロナ禍を終焉させる核心がある。それは医学や医療の問題ではなく、人間とっての認識の自然、思考の慣性そのものの問題としてある。問題の核心に知と、知の処遇のありかたの不明が、深々と沈潜している。共同の迷妄が真理という名を詐称して、身体を貫く権力として機能する。死と知は分かちがたく結びついている。なにがこの畸形的な思考をあらためることになるのか。生の果てに死があるのではなく、存在の複相性の往還が内包という観念の母型に回帰するということ。わたしの言い方では、生の原像を還相の性として生きるとき、この観念は、知に対する非知ではなく、愚であること俗であること、卑小であること、無知それ自体となって、実詞化できないやわらかい生存の条理としてだれのどんな生のなかにもひっそりと内挿されていることになる。

「歩く浄土267」の最後の辺りでじぶんなりの手応えがいくらかあった。生誕と終命が内包という観念の母型に円環していることが、存在の複相性を往還することにつながり、そのことがリアルに感じられた。死が生の一部であることはたしかだが、では、生誕と終命のあわいの生涯、つまりわたしたちの個々の生ということだが、内包という観念の母型とどう関係しているのか。そのことがすこし言えたと思う。わたしの思惑としては、生と死という二項対立をわずかに組み替えることができた。存在の複相性を往還することで内包という観念の母型となめらかにつながる。この自然な過程のどこにも死はない。ここで言われる死は意識の外延性の終局の出来事である。どこに終命があるか。意識の外延性のなかにしかない。内包自然からすると死は生の一部でしかない。だから終命とは内包という観念の母型への生まれ還りである。性を内包した人間という生命形態の自然はそういうものとしてある。はたして加持祈祷は科学か。

前回に続くコロナ禍をめぐる状況への発言も、存在の複相性を往還しながら内包という観念の母型への生まれ還りを根幹としてなされている。新型コロナウイルス禍は医学の問題でありながら医学の問題のとどかぬ領域をどうじに含んでいる。宗教となった科学知でコロナ後を論じることはできない。もっというならば思考の慣性を引き摺った医学は科学ではなく土俗的な迷妄を本来的に内含している。古典的なニュートン力学にさえ到達していない。エビデンスという名の迷妄が世界を跋扈している。

だれということもなく、コロナ禍のただなかでなにかが変わりつつあることを多くの人が察知している。理念ではなく生々しい言葉以前の感覚として。それはまだ気配のようなものだが、もうコロナ前に戻ることできない、と。なにか肝心なことを括弧に入れてコロナ後の世界が論じられている気がしてならない。アフター・コロナは人々にとってひとつの指標となっているが、このひと月そのことがずっと気になってきた。

AC(アフター・コロナ)がBC(ビフォー・コロナ)と異なる世界をつくるのだろうか。違う。BCのなかにACを生み出す観念の生地があるのではないか。これからの精神の古代形象について片山恭一さんは次のように言っている。<やがて人も社会も疲弊し、アフター・コロナの世界がやってくる。そのとき世界を平定し統御するのは、70数億の人類をリソースや公共的身体として管理するシステムだろう。公共のリソースだから親切で思いやりのある管理がなされる。その親切や思いやりは「万人の万人にたいする闘争」の裏返しであり、一皮めくれば人が狼となって殺し合う世界が広がっている。>(「今日のさけび」2020.5.5)

BCもACも論理は同一性が支えており、BCのアルゴリズムを最適化したらACになる。意識の外延性をカスタマイズしたら人間という概念が消滅し、かつて人間であったものは家畜のような存在となり、自由や平等や博愛という擬制がさらに縮減した個人と共同性がほどよく調和する理念へと遷移する。新しい世界システムは規格化された内面と、その画一的内面が同期された総和を共同体と規定することになるだろう。もっと言えば、人間という概念は遺伝子の分子記号に還元され、心身は分子記号に帰属することになる。これが到来する新しい世界システムだ。その分岐点にコロナ禍の大厄災が位置している。

BCの世界ではそれが擬制とはいえ、心身の私権は暗黙に侵してはならないものとしてあった。コロナ禍のなかで新型コロナウイルスの遺伝子解析に貢献しているクリスパー・キャス9の手法を多田富雄は知らなかった。かれのパニックは牧歌的である。はるかに過酷なゲノム編集の現実にわたしたち一人ひとりが当面している。人為的な遺伝子編集によって人間が淘汰されるということ。

<かつてヒトゲノムの解読が完了したときパンドラの蓋がひらかれたと多田富雄は恐慌を来しました。パニックに陥ったのです。2000年11月9日号の夕刊読売に書いています。

1 人体のパーツ交換が可能になる。
2 人の欲望に火を注いだ。この流れは止まらない。
3 基本的人権はヒトゲノムの完結性と安定性にある。
そしてつぎのように発言しています。
「私は、ゲノム情報から生まれる科学技術をコントロールできるのは、ゲノムを基礎において考える哲学以外にないと思う」と述べ、「ゲノムの完結性や安定性の側から、人間存在や基本的人権などが再定義され、人間を人間ならしめているものの素性」をあきらかにすべきで、これが唯一遺伝子工学の暴走にブレーキをかけうる方法なのだと言いました。妄言というほかありません。典型的な文化人の言説です。
人の固有な生が損なわれているのにゲノムで人権を語れば修復されるというのか。そんなバカな話はない。>(「レヴィ=ストロース ノート1」)

現実は多田富雄さんが予測したよりはるかに速く呵責ないものとして到来した。いやおうなく人は分子記号で定義と評価をうけることになる。ヒトゲノムの完結性と安定性が分子記号一文字単位で任意に編集できるということ。ドストエフスキーも『ペスト』のカミュも想定したことがなかった。1953年にワトソンとクリックが提唱したDNAの二重螺旋構造はここまで来てしまった。早晩、伊藤計劃の『ハーモニー』で書かれたように、国境を越えた世界システムはシステムが属領する臣民を属躰として一望監視体制によって生を管理することになるだろう。わたしたちは生体に埋め込まれたチップとなりビックデータの端末にすぎなくなる。人々は強制されることなくすすんでその世界の住人となり、分に応じ、らしく生きる自由を得ることになる。適者生存を逍遙として受容することが平等の理念となる。そしてその平等に応じた自由を手にする。

このように世界を描くことは可能だし、つまりユヴァルのホモ・デウスの批判にもなるのだが、コロナ禍を前触れとしてやがて到来する文明史の転換は、意識の外延性の必然でしかない。そのことが事態の核心だとわたしは思う。意識の外延的な延長ではウイルス撲滅のさまざまな戦略が宗教的な迷妄として語られるだけで、そこには分子記号に還元された人であることの残滓しかのこっていない。ウイルスと気まずく強制するというwithコロナも科学的知の迷妄性をまぬがれているとはいえない。ウイルス殲滅のソフトな亜種だと思う。いずれにしても人はビックデータの端末にすぎないことになる。なにもかも変わるなかで意識の外延性という思考の慣性だけは変わらない。BCもACも便宜的な区別にすぎない。

渦中にあって起こっている出来事の正体を指摘するのは困難であるが、少なくともこれだけは言えると言うことはある。前回のブログでは次のことを前提として内包論からなにが言えるかを書いた。

1)はたしてウイルスは殲滅の対象か。むしろウイルスと人の心身との関係の表現としてCOVID-19があるのではないか。
2)非常時に命の選別をするのは不可避なのか。選別される命の尊厳を担保するものはなにか。
3)人類は生の果てるところが死であるという観念しかつくりえていない。科学知の宗教性がこの死をさらに鞏固なものにしている。

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今回は3つのことを書き加えたい。どうしても書きたいことが3つある。アフター・コロナはビフォー・コロナと違ってくるように予感されている。働き方の変化や日々の過ごし方は変わるだろう。社会や経済や生のありかたのパラダイムシフトがすでに始まっているのかもしれない。そのことを前提としてBCとACで不変のことについて考えてみる。新型コロナウイルスの引きおこした大災禍によってACへと世界のシステムが変わっていくようにみえる。ACがBCのなかに身を潜めていて一気に躍り出たのではないか。それがここで考えてみたいことだ。

1)死はどこにあるのか。このことは生はどこにあるかと問うてもおなじである。
2)自己を明け渡すということについて。(この語は「たがしゅうブログ」2020年4月4日の記事で印象に残ったので借用した。記事の内容としては進行がんからの生還者刀根健という人の『僕は、死なない』のなかで書かれた言葉。)明け渡しを内包的に読みかえるとどうなるか。
3)知の処遇について

いずれにしてもコロナ禍は社会のありかたを大きく変えることになる。おそらくだれもが予感していることだ。より過酷な自然が強要されるのではないか。この自然の遷移を思考の慣性として受容すれば、心身一如という私有地は解体される。すなわち、人間の終焉だ。わたしは惑星規模の自然生成もまた意識の外延性の畸形的な必然にすぎないと考えている。べつの、もうひとつの自然で意識の外延性を包んでしまおうというのが内包論の試みだ。かんたんなことなのになかなか通じない。内包とは、自己という同一性の明け渡しが可能だということ、わたしはわたしでなくあなたであること、そのことによってはじめてわたしがわたしになるという驚異をさしている。自己を明け渡すことは根源のふたりを分有することによってのみ可能だということ。自己が領有すると錯認された心身一如の荒地が根源のふたりによって明け渡されあなたの意識になるということ。その無限の反復が存在の複相性を往還することとして表現される。

存在の複相性を往還するということを少し言い換えてみる。自己を明け渡す、自己を放下する明け渡しが人間という生命形態の本来的な自然であるということ。明け渡しに棲まうのは自己ではない。自己の手前の実詞化できない根源のふたりだ。明け渡しは自己とは相関しない。相関しないから明け渡しなのだ。自己を明け渡すことなく根源のふたりに触ることはできない。自己ではない、明け渡された、名づけようもなく名をもたぬ他力のはるかな手前に、それはある。自己の意識や、自己の意識が穿つ内面があり、内面の総和としての共同主観的な現実がわたしたちの人類史がかたどった意識の外延史だ。

「歩く浄土268」で書きたいことのおおきなひとつは生存の価値はどこにあるか、そのことがコロナ禍をめぐる基点としてあるとわたしは考えている。わたしのなかではコロナの厄災は到来する文明史の大転換の予兆ということになる。先触れといってもいい。途方もない人類の文明史の転換が目前に迫っている。事の是非を言いたいのではない。赤裸々に言えばわたしたちの生は遺伝子の分子記号に還元され、分子記号として再構築される。それが新しい人間の定義だ。この不可避性にたいして、人間の価値はどこにあるのか。知とはなにか。到来する新しい世界のシステムにたいして、従来の知はまったく無効だと思う。感染と飢餓と戦争をほどほど解決し、人類はホモ・デウスの世界に向かうと斬新なことを提起していたユヴァルがあっというまにコロナ禍の渦に呑み込まれ、独裁による市民の監視ではなく、民主主義による市民の監視を優先するべきだなど空論を口走っている。「どうやって負け幅を最小化するか?」と衰退国の敗残の美学を語る内田樹と変わらない。是非を超えて知識人と大衆という世界認識の方法が無効であるということ。知に対する非知の方法的な対置も無効であるということ。過ぎ去った牧歌的な平時の社会では知的な言説にたいして非知を語ることも可能で、かれらは例外なく優れた思索者だった。急峻な変貌を遂げている転形期の世界で、非知もまた知の属躰化となるほかなく、非知の入り込む余地はどこにもない。非知を突きぬけた科学的な迷妄の対極にある生存の価値の根源を理念としてつくらないかぎり人間は惑星規模の自然生成の大海を漂う木の葉となるほかない。

わたしはだれがどう言おうと、もっとも無価値とされる生存のありかたに生きていることの価値の根源があると思う。知にたいする非知ではなくて無知それ自体に価値の根源を置くとき、かろうじて人間であることの価値がぎりぎり救抜されることになる。ひとはだれも生のどこかで内包という観念の母型に回帰する。わたしは内包という観念の母型に人間という生命形態の本然があると考えてきた。誕生と終命というふたつの不明にはさまれ、生涯を存在の複相性として往還しながら生きている。内包という観念の母型を有用性で測ることはできない。意識の外延性で計量すれば、価値はゼロだと思う。愚それ自体、俗それ自体、卑小であることそれ自体は生存の最小与件であるから、公共的なリソースとしては無価値である。わたしはその無価値であるということのなかに価値のすべてがあると思う。理念ではなく、ここを生き切らないと急峻な転形期の過酷を生き抜くことはできない。

世俗的な価値は無価値で、現世で無価値とされることが価値の根源であるということ。わたしの直感ではそう遠くないうちに襲来する人類の総無産化、総無用化にたいする、強烈な異義申し立てが存在の複相性を往還することで可能となる。適者生存の価値がもっとも粗野であり、宮沢賢治の『注文の多い料理店』の「序」に生の品位があるということ。通俗的な可視化された価値や実体化された価値のなかに価値はまったくなく、劣るもの、無用のものが価値の根源であること。もし、これが価値でないとしたら適者生存が誇らかに勝利を宣言することになるだろう。

複相的な存在を往還することと、自己という存在を明け渡すということはおなじことを意味している。明け渡すということがなければ存在を往還することはできないといってもいい。入り方の違いだけでおなじことを表現していることになる。レヴィナスやドゥルーズは明け渡しがどんな出来事なのか、いまひとつ、つかむことができなかった。かれらの印象的な言葉をとりあげる。たとえばレヴィは言った。<自分を他なるものとみなす私の他性が詩人の想像力を鼓舞することもありうる。が、それはほかでもないこの他性が〈同〉の戯れでしかないからだ。自己による自我の否定はまさしく自我の自己同定の一態様なのである。>(『全体性と無限』)なるほど。では、自我は起源に先立って他者へと結びついているとレヴィナスがいうとき、起源に先立って他者へと結びついているというそのことは同の戯れから免られるのか。自我を明け渡すことが同の戯れを峻拒する公準ではないのか。自我や同の残滓が残ってしまうから三人称が疎外されるのではないか。レヴィナスは先験的なユダヤの神を括弧に入れ、自力の信で自己と他者を語ったから国家の正義を要請することになった。

ドゥルーズは言った。<あるいはむしろ、つねにフーコーにつきまとった主題は、分身(double)の主題である。しかし、分身は決して内部の投影ではなく、逆に外の内部化である。それは〈一つ〉を二分することではなく、〈他者〉を重複することなのだ。〈同一のもの〉を再生産することではなく、〈異なるもの〉の反復なのだ。それは〈私〉の流出ではなく、たえざる他者、あるいは〈非我〉を内在性にすることなのだ。重複において分身になるのは、決して他者ではない。私が、私を他者の分身として生きるのである。>(『フーコー』)なるほど。では、<一つの性が存在するのでもなければ、二つの性が存在するのでさえもない、そうではなくて『n個の性』が存在するのだ。><愛をかわすことは、一体となることでもなければ、二人になることでさえもない。そうではなくて何千何万になることなのだ。>(『アンチ・オイディプス』)はどうか。きわめてあいまいなことを言っている。身勝手な自然生成の意識が恣意的に語られているだけだ。どちらも内包の至近まで来ているが同一性の残滓を払拭できていない。思想にとってこのわずかな距離が思考の慣性をクリスパー・キャス9のゲノム編集まで延長することになる。ドゥルーズのn個の性も内包的な親族への可能性を閉じ自力の信に閉じられている。

<この生きて流れている、流れが結び合う世界を私たちは抽象して、主語〔主体〕、目的語〔対象〕、述語、論理的諸関係からなる、生気を欠いた複製の世界をつくりあげた。私たちはそうやって審判〔判断〕のシステムを抽出してきたのだった。問題は社会と自然、人工的と自然的とを対立させることにあるのではない。人為かどうかなど大したことではない。自然の生身の関わり合いがただの論理的関係に翻訳され、象徴がただのイメージに、流れがただの線分に翻訳されるそのたびに、また生きたやりとりがただの「主-客」の関係に切り抜かれるそのたびに、世界は死ぬのだと、私たちは言わなければならないだろう。そしてそのたびに衆の心、集団の心もまた、民衆の自我のうちにせよ、専制君主の自我のうちにせよ、一個の〈自我〉のうちに閉じ込められてしまうのであると。>(ファニー&ジル・ドゥルーズ『情動の思考』)

問題は固い生存の条理にたいする批判ではない。なぜ生きて流れている生の応答が自我のうちに閉じ込められてしまうのか、根底的に問わねばならないのは、ここだ。レヴィナスもドゥルーズもみごとにこの困難を回避している。そう長い生ではなく57歳で急逝したミシェル・フーコーは思想としてはもう少し先まで生き通した。フーコーは予告された性の歴史の第一巻である『知への意志』を書いて8年後に、『快楽の活用』『自己への配慮』を出版し、すぐに亡くなった。『快楽の活用』のなかでフーコーは言っている。<私を駆りたてた動機は、ごく単純であった。(中略)つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めているていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。(中略)はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるためには不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。>沈黙の8年間にそのような機会がフーコーに訪れ、そこで表現の概念を拡張した。フーコーの言葉を借りると、端的にそれは〔情熱〕だった。フーコーの情熱についての発言を取りあげる。とても含みのあることが書かれている。

①<情熱とは何でしょう? それは一つの状態、頭の上から降ってくる何か、こちらをわし掴みにし、両肩をむんずと掴まえる何かであり、いっさい休みのない、そして起源もないものなのです。実際、それがどこからやってくるのかなどわからない。情熱はただ訪れる。それはたえず動き続けるけれども、しかしある決まった地点に向かうわけではない。強烈な瞬間もあれば弱まるときもあり、白熱の時もある。ためらい、揺れ動くものです。・・・情熱において、人は盲目ではありません。ただそうした情熱の虜となったとき、人はもはや自分ではなくなるのです。自分自身であることには意味がなくなってしまう。まったく別の見方をするようになる。>(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ』所収「ヴェルナー・シュレーターとの対話1981年12月)

②<私は十八年前からある人に対する、ある人に捧げる情熱のうちに生きています。あるときその情熱は愛に似たものとなったと言えるかもしれません。実際のところ、それは私たち二人のあいだの情熱であり、変わらぬ状態であって、それ自体以外に終わる理由はどこにもなく、私は何もかもをそこに注ぎ込んでいて、それは私を貫いて伝わっていくのです。彼に会いに行き、彼に話す必要が生じたなら、それを私におしとどめさせるようなものなど世の中には何も、何一つとしてないと思います。>(同前)

③<問題はまさに、さまざまな思考のあいだを結ぶような何物かを創造すること、それに名前を与えることが不可能であるようにして何物かを創造することなのであり、ゆえに、それが何であるかを決して明らかにしないような色調、形態、強度をそれに与えるべく毎瞬努力しなければならないのです。生きる術とはそうしたものです。生きる術、それは心理学を殺し、自分自身および他の人間たちとともに個体性、存在、関係性を作り出し、名前のない特性を作り出すことなのです。人生でそれを作り出せないなら、人生は生きるに値しない。私は自分の存在そのものを作品にしている人たちと、人生の中で作品を作っている人たちとを区別しません。>(同前)

④<西洋社会との関係において現在ありうる選択の重要な一点がそこにあります。二十世紀に入ってわれわれは、自分自身について何も知らないならば、自分で何をすることもできないのだと教えられました。自分自身についての真実は存在の条件であるというわけですが、一方では、自分が誰かという問題を解こうなどとしないに違いないと想像のつく別の社会もあるわけです。そういう社会ではそんな問いに意味はなく、重要なのは、自分のなすことをなすため、自分が自分であるためには存在をいかに活かせばいいかということなのです。自分自身とまったく対極にあるような自分自身の術。自己の存在を芸術品にすること、それこそが苦労に値することです。>(同前)

対談の、自分が自分でなくなるがおもしろい。おなじことを、会ったこともないフーコーが言っている。翻っていえば、心ここにあらずという心境は、精神風土や時代を異にしても、おなじことを感得する。じぶんがじぶんでなくなってしまうとはどういうことか。情熱の関係のなかではおのずから同一性をはみだしてしまう。言い換えれば、同一性が成り立たなくなるということだ。いうならば、じぶんがじぶんでなくなることの体験を抜きに、じぶんに回帰することはできない。じぶんがが薄くなっていくに従ってじぶんが濃くなってくる相反する自己についての現象が生じるということだ。じぶんが明け渡され、そこに性が侵入し、性が自己を簒奪し、その性が自己であるように感じられるとフーコーは言っている。まさに存在の複相性をフーコー自身が往還しているスリリングな体験だ。わたしたちが自明のこととしている思考の慣性がべつの認識の自然へと遷移している。生の歴史をめぐる8年間の沈黙はフーコーに思想の決定的な成熟をもたらした。死を直前にしたフーコーはやっとそのことに気づいた。じぶんを全面的に明け渡すこと(親鸞でいえば他力に身を委ねること)なく生のあたらしい様式が現前することはない。牧人司祭型権力の起源を知の考古学的な方法で遡っていっても、どういう遡り方をしようとも、性は自己と三人称に回収されることになる。最期のフーコーはそのことを認めることができなかった。

引用の③でフーコーが言う、「私は自分の存在そのものを作品にしている人たちと、人生の中で作品を作っている人たちとを区別しません」という箇所は、内包論では総表現者に相当する。フーコーのいう自己の存在を芸術品にするべつの社会は、わたしの内包論では喩としての内包的な親族という概念にあたる。あたらしい生の様式への強い渇望がフーコーに内在していた。それはフーコーのつぎの発言からうかがえる。<諸々の性の実践を経由していかに関係の体系に到達するのか?同性愛的な生の様式を創造するのは可能なのか?というわけです。生の様式というこの観念は重要だと思います。社会階級、職業の違い、文化的水準によるのではないもうひとつの多様化、関係の形態でもあるような多様化、すなわち「生の様式」という多様化を導き入れるべきではないのか? 生の様式は、異なった年齢、身分、職業の個人の間で分かち合うことができます。それは、制度化されたいかなる関係にも似ない、密度の濃い関係を数々もたらすことができますし、生の様式は文化を、そして倫理をもたらすことができると私には思われます。>(『同性愛と生存の美学』)フーコーのいう友愛のつながりは存在の複相性を往還するとき、そのあたらしい生の様式は社会ではなく内包的な親族としてあらわれる。

フーコーの言説に不満がのこるとすれば、あたらしい生の様式を渇望しながら、「自分が誰かという問題を解こうなどとしないに違いないと想像のつく別の社会もある」という凡庸な世界に着地することにある。「シュレーターとの対話」で看過できない微妙なことをさりげなく語っているところがある。ドゥルーズのn個の性を彷彿とさせる。フーコーの思想の未遂だとわたしは思う。そこを取りあげる。

<相手が愛していなくともおかまいなしに愛することができるものです。孤独なものなのですよ。だからこそある意味で、愛は常に一方から他方への懇願に満ちているのです。そこに愛の弱さがある。なぜなら愛は常に他方に何かを要求するものですが、二人、あるいは三人のあいだの情熱においては、それは互いに激しくコミュニケートすることを可能にしてくれるのですから。>

なにかがごまかされている。いや、フーコーはどこか踏み外している。べつの場面を挿入して考える。吉本隆明が島尾敏雄の『死の棘』について語っているところがある。吉本隆明の『死の棘』とその後の消息についての語りが腑に落ちた。

<現代に属する小説家で、いちばん避けなかったのは誰かというと、島尾敏雄という人です。かれの『死の棘』というのが、恋愛を書くということに真正面から取り組んだ典型的な作品です。

 けれども『死の棘』の中で、ぼくにはどうしても理解できないというか、納得できないぶぶんがあります。それは、愛人の女性が島尾さんの家にやってきて、奥さんと対決するみたいになってしまう場面なんですが、愛人とつかみ合いをやっている奥さんが、島尾さんに向かって、この女を押さえておけとか、あなたも殴れみたいなことを命じるんです。
 そうすると島尾さんは、奥さんの言うとおりにする。で、二人してその愛人を痛めつけるようなことをするんですね。

 ぼくは疑問に思ったから、島尾さんに会ったときに直接聞いてみたんです。「あそこの場面はおかしいんじゃないですか」と言ったら、あの人は「そうかなあ」と言って考え込んでいました。

・・・しつこく尋ねたぼくに「そうかなあ」と言って真面目に考え込んでいたことは事実です。

 もうひとつ、ぼくが『死の棟』を読んで思うのは、この愛人の女性がどうなったのかというところまでは、やはり書かないのかなあということです。

 しかし島尾さんは、愛人のその後にはまったく触れていない。さっきの、玄関先で島尾さんが奥さんと一緒にその女性を殴ったりなどしたというエピソードも事実ですから、本人はそうとうな精神的ダメージをこうむったと思われます。その後、かなり悲惨な人生を送ったという話もあるようなのですが、島尾さんはそれについてはぜんぜん書いていないんです。ほかの作品でも触れていません。これはいったい何なのか、とぼくなんかは思ってしまいます。

 ぼくがいつも考えさせられ、わからないなあと思うことは、文学というものはそこまではやれないものなのか、ということです。
 では、そこまで書くのが文学だとおまえは考えているのかと訊かれたら、ぼくはそうだと答えたいと思います。>(『超恋愛論』)

関係が表現であるような関係が三人称を疎外しない、そのような人と人との関係はどうすればつくることができるのか、ほんとうはこの問いを突きぬけないと、コロナ禍も、これから訪れる事態にも対抗できない。内包自然の深奥に根源の性を相互に分有可能とする還相の性が内包自然を統覚するとき、はじめて喩としての内包的な親族が三人称を疎外しないべつの生の様式をもたらす。その近傍までフーコーが到達したことはまちがいないと思う。

    3

心身一如の自己が分子記号に還元され生体の一望監視社会が世界のシステムとして機能することと、生身が硬い生存の条理に晒されることのあいだになにか根本的な差異があるだろうか。差異のありようが現代的に変容するというだけではないのか。意識の外延性が粗視化する思考のあらわれ方が自己を構成する分子記号に還元されるだけで適者生存の生のありようは何も変わっていないということもできる。コロナ以前の世界の固い生存の条理が、さらに高度になった意識の外延性によって粗視化されるだけで、意識の外延性そのものが拡張されることはない。

人間が長い歴史のなかで培ってきた内面と共同性という理念や、知識人と大衆という理念が、現実の変容に耐えられなくてまるごと消滅してしまった。この間隙にビックサイエンスや生物工学と結合したアルゴリズムが侵入し、世界の成り立ちを変貌させつつある。その前触れが今回のコロナ禍だと思う。みぞおちに良心を持つ者たちは鈍感だからいま起こっていることに目を瞑り、あるものの使い回しで負け幅をどれだけ少なくできるかと考えることを転調する。思想的な敗残の徒の喉ごしのよい弁明に過ぎない。

世界的な自然生成は、これから起きる出来事の前触れとして、人類が入眠状態に入ったのだと考えている。コロナ禍はその前哨戦だと思う。吉本隆明の共同幻想論は、禁制論、憑人論、巫覡論、巫女論、他界論、祭儀論、母制論、対幻想論、・・・と入眠状態から展開されている。吉本さん自身も勢いに駆られて論が進み、どうこんがらがっていたのか、おそらく自覚してなかったように思う。入眠状態から共同幻想は始まっている。夢現の状態で共同幻想が自己をあいまいに規定している心的な状態だ。吉本さんの共同幻想論の大半は内包という観念の母型に吸収することができると思うようになってきた。親族がなぜ氏族に転化したのか充分には考えられず、そこには思考の慣性が無意識に導入されていると思う。むつみ語や仲間内の聴覚言語が意識の外延性の流れに沿っていつのまにか日本の古語や神話へつながり、つながりから言語の起源を探る手法になっている。フーコーは牧人司祭型権力の起源を明かすことに意義をみいだすことができず、自己の陶冶を生の技法として語り、晩年の吉本隆明もアフリカ的段階についての考察で思考を変換しようとした。男女の性の世界を特殊な共同幻想として、個人から、親族、親族から氏族制を考察したとき、吉本隆明の共同幻想論はいくつも倒錯を含意することになった。わたしは吉本隆明と違い、男女の世界は内面化も共同化もできないそれ自体として抽出可能だし、このそれ自体を内包自然と名づければべつの生の様式が可能となり、内面と共同性は内包自然に包摂されることになると考えた。オノマトペは外延とは異なる意識のながれであり、外延的な意識を疎外することができない。わたしはコロナ後の世界を人間の観念にとっての未知として取り出すことで、意識の外延性を超える世界がひらけてくると考えた。

それはともかく人類が科学知という宗教を戴く共同の迷妄に罹患する前触れがコロナ禍ではないか。やがて人類の大半が無産層、無用層となり、電脳社会に放牧された家畜となり、管理されることになるその前哨戦が始まっている。既成の思想はすべて無効になる。この過酷をやり過ごそうとして、人々が一気に入眠状態に入った。ここにコロナ禍という未曾有の事態の核心がある。

迫り来る文明史の大転換を直視したくなくて目を瞑り人類がまるごと入眠状態に入った。それは内面を削除して科学知という共同の迷蒙に自己を委ねることを意味する。共同幻想の属躰を自己とするということ。この倒錯があたりまえのように目の当たりに起こっている。それが共同幻想としてのコロナ禍だ。

辺見庸はブログでこの事態をつぎのように言っている。親和するが同意はしない。<不気味で、しかもなお一面においてさわやかな・・・の後はなんだったっけ? そうだ、「期待の感」であった。東京大空襲の焼け野原にたって堀田善衛が感じたこと。「焼けてこれであたしもサッパリしました」という者もいたらしい(『方丈記私記』)。「私は人間存在の無責任さを自分自身に痛切に感じ・・・」。他人の不幸になんの責任もとれぬ存在物・・・といった自己譴責はいまない。不気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待感・・・といふ知性も見あたらない。猪八戒=エダーノまで「コクナン」とかぬかしやがる。堀田はゆるゆるだが、さすがに「国難」なんていわなんだ。猪八戒はなしていうか。ブタだからではなひ。低級なスターリニスト的感覚がいわしめるのだ。いてまえ、いてこましたれ! ひとりくらいそういったっていい。いおうがいうまいが、終わりは終わりだ。>(「stayhomepee」20200430)

ところがどっこい終わらない。終わるのは辺見庸の内面であって世界ではない。世界は終わらない。やっといまから始まる。神経内科医田頭さんは世界でただひとりこの巨大な錯認に医学の立場から気づいている。田頭さんの気骨は並大抵ではない。人類がコロナパンデミックの恐怖や戦慄にかられて自発的に入眠剤状態に入ったということがなにより大きな出来事だと思う。田頭さんは今回のコロナ禍について次のように言っている。<自覚症状がないのに他覚所見があるというこの奇妙な状態を生み出しているのは、社会にはびこるとめどない不安/恐怖情報です。新型コロナウイルス感染症はそのほとんどが人災であると私は確信しています。>(「自覚症状がないのに他覚所見がある理由」2020043)

民主主義は機能不全に陥りとっくに消滅している。民主主義の土台になる国家も崩壊し恣意的にしか機能していない。いわんや経済をや。この前提から状況を考えている。民主主義に未練がある者たちやみぞおちに良心があると思いたい者たちは、わたしが論じたいことの圏外にあることをあらかじめ申し上げておく。国民国家や、その下での国民主権は人類が数千年間の畸形的な倒錯の末に可視化した偉大な作品と言えるが、コロナ禍という世界同時多発の感染パニックによって召還された戦慄的な原始的恐怖に憑依され、国民主権も民主主義もまったく機能していない。不安に駆られた者たちによる津波のような憎悪や排外主義や村八分が自粛警察の名を借りて横行している。そうあって欲しい現実と、そうでしかない現実との埋めがたい落差、ここから思考を思考する根源的な考えを発現するしかない。

意識の外延性として許容されるものは生のすべてを監視され肥育される家畜としての自由である。コロナ禍はそのことをまざまざとわたしたちに感じさせているが、そんなものはこれからわたしたちが直面する管理された家畜の自由の前哨戦だと思っている。そんなことにはならないという祈念はことごとく反故にされる。適者生存の敗者の境涯はそれほど過酷だということ。だれもこの過酷から免れることはない。生きていることは家畜であり、たんなるささいなデータの端末である。ここにこれからの生のリアルな現実がある。では鬱々としてその現実を受け入れるしかないのか。ある思考の慣性を認識の自然とすればそれ以外の道はない。もうベーシックインカムしかないのではないかと内心が囁いている。

人類史的に、もうひとつの観念の可能性がある。内包という観念の母型から舞いあがり、流れくだる、豊穣な生の源泉を生の価値とする、内面や共同性を疎外しない観念のあり方を、それ自体として表現し、硬い生存の条理を包み込んでしまう、人と人の関係を、自由や平等や友愛という、できももしない擬制によって人間の関係を縛らないことだ。わたしは内包の観念を実現できると思うから考えることを持続している。

コロナ禍のただなかで世界はどんなふうにドライブしているか。片山さんは書いている。<つまり現在の世界は、70数億の自己中心的な「トランプ」によって構成されているのである。70数億の「トランプ」がネットワークによってつながっている。これは相当に異常な事態と言わねばならない。>(「今日のさけび」2020.4.25)そのとおりだと思う。言い換えれば、人はこれから獣になるということだ。文明の皮膜をひとめくりすると倫理が介在する余地のない裸の生存が露出する。自然なことだと思う。コロナ禍をきっかけにむき出しの生存のありようがなまなましく迫ってくる。日々がごんごんすぎていく。生きるとはこの渦中にあることだ。むき出しが恒常的な生だということ。

この世界がどん詰まっていることが、コロナ禍をきっかけに、世界を同時多発にみなを脅迫していると考えている。医学的な知をはるかに超えた知の問題があらわになっている。認識の自然とされている思考の慣性がどれほどいい加減なものか。どちらも擬制だから戻ろうと戻らなくてもどちらでもいいが、コロナ前に世界が戻ることはもうないと考えている。死にたくないは、パンがひとつしかなければ、奪い合う自然を受容する。いま起こっていることは、これから起こるはるかに深刻な事態の前哨戦だと思っている。親鸞は疫病と飢餓と戦乱と天変地異の日々の中で浄土を語った。獣がどれほど跋扈しても、浄土は歩くと親鸞は考えたし、内包も同じことを変奏しながら考えている。

たしかにもともと歪んでいた世界がますます変形している。科学という宗教が世界を順伏し、人々がその信を準拠にして生を営むという畸形。GAFAやBATと諸国民国家の対立という擬制のすきまに新型コロナウイルスが忍び込み、対立を和解する非倫理的な主体を演じている。コロナ禍以前に世界が崩壊に向かっていることは人びとに広く察知されていた。GAFAかトランプか。ローカルな出来事としていえば、安倍か反安倍か。そのうそをだれも指摘できないのに人類が滅亡に向けて逍遙として進んでいるように見える。そのことをだれも認めたくなかったが、どうすることもできない。では擬制を批判する者たちにどんな世界構想があるか。まったくない。その証しとして責任の主体を免れる非倫理的な新型コロナウイルスが宗教的な科学知としてわたしたちの前にも現前した。そういうことだと思う。ウイルスに道徳や倫理を説くことは無効だから、新型コロナウイルスを殲滅すべき敵とみなすことで世界の滅亡の是非を問うことからだれもが免責される。新型コロナウイルスは、対立という解決のない擬制を和解させる象徴を演じている。感染拡大や感染防止は無条件に絶対的な善となる。科学知はCOVIC-19を殲滅の対象とみなしCOVIC-19に対して総力戦が発動される。異議の唱えようがない。なぜなら対ウイルス戦は人間という種の生存に向けた生き残り戦略であり正義の戦いであるからだ。崩壊する医療のなかで効率的な命の選別をすることは善なる行為となる。この現実に当惑することはないか。

生がアルゴリズムの属躰となり、むき出しになった生存は家畜と変わらないことになってしまう。グローバルな経済が生物工学とAIと結合するとき国民経済も、国家を前提にした自由や平等という擬制が崩壊し、裸の生存に晒されることをわたしたちのだれもが潜在的に感じていた。科学知がつくる生のありように順伏するほかにない。だれもがそう感じてAIによって人類の大半が無産階級に、無用階層になることが識閾化で感得されていた。むろんそれは意識の外延性の共同的な譫妄にすぎないのだが、まず第一義に科学知という強烈な共同幻想の洗礼をうけることになる。内面など吹っ飛んでいる。消滅した内面に科学知というアルゴリズムが侵入する。ここまでが新型コロナウイルスパンデミックが登場する前景としてあった。そこに新型コロナウイルスが忽然とあらわれ、科学知という宗教が一世紀か数世紀ぶりの重篤な感染症であるとして恐怖を煽る。狩られながら、食べられながら、進化してきた霊長類の旧脳に刻み込まれた戦慄的な恐怖がオーバーヒートする。すでにインターネットが公共的なインフラだから、世界のどこで起こったことも瞬時に知ることができる。斯くして科学知の信が原始的な恐怖を喚起することになる。人類にとって未知のウイルスの災禍が科学知によって煽られ、そのたびに人びとは恐怖そのものに憑依される。最先端の科学知と大脳辺縁系の見事な結合。これがわたしたちが遭遇している日々だ。

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性とはなにか。シンプルに言える。じぶんがなくなること。じぶんのかけらをのこして他へ融即すると、他はいつのまにか多になり、共同化される。例外はない。じつに人類史がそうではないか。〔性〕とはじぶんを明け渡すことである。この性は実詞化することも可視化することもできない。自己を明け渡すことがなぜ可能かと言えば、空っぽの心身一如の自己を行き道の意識の自然性で埋めることができないからだ。空虚を埋めようとして、知る限りあらゆる文学的営為が傾注され、悉く反故にされた。どうやっても空虚を埋めることはできない。むしろその徒労が文学的な営為と別称されてもいい。

根源の性によぎられ還相の性を佩くことは、生の原像を還相の性として生きることを意味する。けっして内面化も共同化もできないこの圏域に世界のどんな深いものより熱い未知が存在する。自我や我執を自然に融即するのではまったくない。自然と一体になる生の技術はわが島嶼の国はもとより、古代中国の老荘や孔子のモダンな思想としてすでに極められている。けっして内面化も共同化もできないそれ自体とは自己が根源の性によって全面的にあけ渡されるという驚異である。古代の思想の先達たちはこの驚異を生きることなく思想を自然に融即することで、帝力、我において何か有らんやという精神の棲家をつくった。数千年を生き延びた思想もまた意識の外延性に閉じられているから、自然に同期する生の技法は一瞬にしてBCとACに直結する。なにも変わらない。

科学知というビッグサイエンスの宗教性にどう抗すればいいのか。知識人と大衆という生を分割統治する権力の視線が無効であることは前提である。文明の発生以来、体制的なものと反体制的なものの意識の相同性は、内面という自然とその共同的な符丁の規範化を認識の自然としてきた。わたしたちの文明は内面と共同性という意識の外延性に閉じられ、この閉じた意識の範型を思考の慣性としてきたと言い換えてもよい。いまこの思考の慣性が科学知というアルゴリズムによって意識の外延性の必然として崩壊しつつある。思考の慣性に従えばこの世界システムの属躰の端末になるしか生の行方はない。内面を科学知の共同的な迷妄のなかに埋め込むこと。そこにしか生きる余地はないようにみえる。そのあからさまなあらわれがコロナの厄災だ。どの立場に立とうと新型ウイルスを殲滅の対象とすることに変わりはない。がんを撲滅の対象とすることの是非が根底的に問われたことがあるか。むろん科学知とその技術の恩恵をだれもがうけている。高度な三次救急医療の技術がなければわたしがこうして文章を書くこともないし、インターネットの普及によってサイトに記事を投稿できる。ゲノム編集やAIが計り知れぬ冥利をもたらすこともあるだろう。そのことはよく承知している。到来する世界システムはその恩寵を超えてわたしたちの生を変えてしまう。

わたしの生存を貫通したけっして内面化も共同化もできない体験を内包自然と名づけ、いくつかの手づくりの概念をつくってきた。コロナ禍という人類史的な厄災の前触れは、司祭層や知識人が科学知が内含する迷妄のなかに自ら没入することとしてあらわれている。対象を粗視化する認識の自然とってこの倒錯はむしろ可能性ではないか。どんな可能性をわたしたちの生に提示しているか。生の原像を還相の性として生きるわたしたち一人ひとりの生のなかに無効性の観念の根づきを促す契機があるようにわたしには思える。公共的なインフラになったインターネットが世界同時多発の新型ウイルスパニックを引き起こしたが、それはどうじに観念の途方もない可能性でもある。わたしたち一人ひとりが総表現者という表現の無限の階調のひとつを生きることを可能とする契機がそこにあるからだ。

知が世界の規範であるとき、非知を生の可能性であると主張した少数の思考者がいた。バタイユやブランショや吉本隆明がそうである。多数を獲得することはなくても非知という観念に生きる余白があったことはたしかだ。この思考することの余白が全面的に科学知が内含する共同的な迷妄に呑み込まれつつある。ユヴァルのコロナ禍についての発言はそのことをよく象徴している。科学知に担保された圧倒的真理に既成の思想は対抗できない。非知を突きぬける観念のありかたはないか。知と非知の対立は知識人と大衆という思考の慣性を前提としている。

今更なぜ吉本隆明か、と問われると、じぶんでも意外だが、著書『敗北の構造』のあとがきの感覚をもつ思想家が、かれしかいないことに尽きる。そのことは好悪の是非を超えている。吉本隆明は日本「民衆」の総敗北の構造を明らかにしようと生涯を費やした。コロナ禍のただ中にあって人々の総敗北の構造はいま惑星規模の自然生成に拡大されている。安倍的なものと反安倍的な意識の相同性。内田樹は言う。

〈どうしてこんなに国民的反対があるのに政権は検察庁法改正を強行するのでしょう?とさきほど訊かれたので、こうお答えしました。国民が喜ぶ政策を、ていねいに議論して、すみやかに実施すると、国民はそのような「よい」統治者に対しては畏怖の念を抱かないようになります。
逆に、国民が反対する政策を、議論もせずに、怒号のうちに強行採決するようなことを繰り返しているとそのうちに国民も役人も与党の議員たちも「こんなに理不尽なことができる政治家には、何かわれわれの想像もつかないすごい力があるに違いない」と推論するようになります。
彼らのうちの相当数は「なんであれ力のあるものに従うのが生存戦略上最も合理的である」と信じています。だから、国民が嫌がることをすればするほど国民の中に熱狂的な支持者が生まれるという倒錯が起きる、とご説明しました。〉(2020年5月16日ツイート)

安倍的なものと反安倍的なものがまったく同一のものであることの典型的な見本になっている。ここで問うべきことは、なぜ人びとの多くが妥協や忖度をするかということだ。それ以外に問うことはない。問わないことによって空疎な言説が意味あることとして機能する。この過程のすべてフェイクだ。

吉本隆明の『ハイ・エディプス論』に苛立っていた時期がある。この本の通奏低音をなしている「無効性の観念」という奇妙な観念は、断言として言えるが、おそらくひとりの読者に伝わることもなかったと思う。意識の外延性からする超絶的な神に比喩される理念で、それを理解しているのは世界で吉本隆明ただひとりではないか、そんな思いがあった。30年経ち、いま違う理解が可能ではないかと思う。総表現者のひとりを生きる者としていえば、あたりまえのことが書かれている。日本のすべての人々の総敗北の構造と知を語りながらかれ自身に内在した放棄の構造のリアルは、時代がすぎてもすぎないこととしてわたしたちの課題でありつづけている。ふり返って考えると、おそらく吉本さんは、自身の表現の理念では言えないことを言おうとしていた。無効性の観念を生に根ざす観念として表現するには無効性の観念を入れるべつの器が必要だった。外延自然ではなく内包自然という観念を吉本さんがつくることができていたら、そのなかに無効性の観念はほどよく収まっただろう。それは非知ではない宮沢賢治のデクノボーだ。

吉本隆明は無効性の観念についてつぎのように発言している。<逸脱というものの本質は、どこにあるんだといえば、〈無効性の観念〉のところにあるんじゃないのか。〈無効性の観念〉というのはなんなのか?それは、党派でないといえましょう。ほんとうのことはなんなのかと、かかわりがあります。〈無効性の観念〉ということ自体を、真なるものだというふうにはいえないでしょうが、ただ関連はあるんじゃないか。それはたぶん逸脱ということのいちばん最後の段階にやってくる問題です。なぜ無効なる観念が、逸脱として、いちばん本質的なのかといえば、逸脱でないものと、ハーモニーがあるといいましょうか。ある共鳴性、一致性があるからなんだろうなとはおもいます。ごく自然に知の輪郭と、生活の輪郭とが一致した逸脱のなさと、〈無効性の観念〉とは、そこでなら共鳴を生じるでしょう。そこでならば、人間と人間じゃないものとのちがいと、究極的な観念の無効性みたいなもの、成人とか死に近づいた時に問題になってくるようなものとが、一致しうる。観念の無効性をいうとすれば、そこのところにいちばんの問題があるとおもいます。そういう関連のさせ方はできるんじゃないでしょうか。「ほんとうのこと」というのはなんなんだという問いにたいして、乳胎児段階における人間と人間でないものとのちがいと、人間の成人期以後の権力とか親和とか違和とか、制度の共同性とかいうものとが円環して一致しうるところにほんとうのものを想定できる。そういう問題に帰着してくるような気がします。そこを微細なところまで追求していければ、いいわけでしょう。>(『ハイ・エディプス論』)

根源の性を分有する出来事の基底に吉本隆明の最深の思想である生存の最小与件をおけば、知に対する非知ではなく、生の与件は、無知それ自体となる。どういうことか。知の頂きから微かに非知に降り立つのではなく、卑小・愚・俗それ自体が無効性の観念で、これから迎える文明史の転換にたいしてもっとも強力な、文明史の転換を包み込んでしまう強度をもつことになるとわたしは思っている。生の原像を還相の性として生きるとき、存在の複相性の往還の根に還相の性があり内包的な自然を統覚しているが、それは内包化された生存の最小の条件である無効性という観念が世界を統覚するということを意味する。わたしの理解では、無効性の観念として生存の最小与件があらわになると吉本隆明は考えた。この理念は最晩年の吉本隆明のアフリカ的段階についての考察と通底している。無効性の観念とは、非知を突き抜けた、無知そのものを暗喩していると理解することができる。吉本隆明がそのことを自覚していたかどうかはほんとうのところはわからない。いまそのことはどうでもいい。世界を覆っているコロナ禍の過誤が引きおこす無惨を目の当たりにして、あたらしい観念を粗視化したい気持ちが激しく湧きあがってくる。それほどに事態は切迫している。過誤の科学知という迷妄によって世界の崩壊が可能となることへの嫌悪と戦慄がある。さまざまな科学知がおおくの迷妄として、あるいはアルゴリズムの強化として知の装いをしてわたしたちの生を家畜化するとき、世界システムの属躰から逸脱するもっとも強力な生の技法が存在の複相性を往還する内包的な無効性の観念だと思う。この理念がどれほど現実にたいして強力に作用するかしだいにすがたをあらわしてくるだろう。無効性の観念の可能性を開く鍵が吉本隆明の『フランシス子へ』にある。少し言い換える。

あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという命題は三人以上の人間の関係を共同幻想と呼ぶという定義によって裏切られる。この矛盾を吉本隆明は延々と考え続け、アフリカ的段階についての考察のなかでつぎのようなところにたどり着く。無効性の観念が生きる場所を、わずかに、おそらく、無意識につかもうとしていた。それは最期のフーコーが生きた生を作品とする場所であり、フーコーの思想と吉本隆明の思想が邂逅し、内包がふたたびふたりの思想家の言葉を折り返す場所でもある。どうすれば三人称のない世界が可能となるのか。吉本隆明もフーコーも至近の場所にいて、いまひとつそれがどういうことであるか剔出することができなかった。

<「無限に遠い以前からちゃんとそういうふうに考えると、おまえの分は何もないんだから、生命と取りかえっこ、存在と取っかえっこすることは、いってみれば、倫理の最も根本のところに点として、核としてあるものであって、宗教的なものとは取っかえられるということが出てくることはあり得ますね」。ここに最期の吉本思想の高まりが表明されている。吉本隆明が自覚することはなかったが、思わず意識の外延性から意識の内包性へ越境しかかっている箇所だ。倫理の根本に点として核として存在するとはその点が奥行きをもってはじめて可能となることで、表現や主体の概念を転倒しようと生涯格闘したフーコーの言葉と響き合うものがある。フーコーは死の直前に言い遺した。「つまり、誰かの創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではなくて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです」(「ひとつのモラルとしての性」もうひとつすごいことをフーコーは遺言のように語った。「最後に私が強調しておきたいのは以下のことである。すなわち、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ」(『真理の勇気』慎改康之訳)「主体は実体ではありません。それはひとつの形式であり、とりわけこの形式はつねに自己にたいして同一になることはないのです。」(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅹ』所収「自由の実践としての自己への配慮」)すごいです。フーコーに30年近く遅れてようやく吉本隆明も思想の転回を遂げつつあった。かれのなかで親鸞の還相の知を歴史として表現することも可能ではないかと、ある手応えがあったと思う。おそらく吉本隆明のなかで親鸞の他力が相対化されつつあったはずだ。>(「歩く浄土250」)

死の直前にフーコーはあることに気づく。まもなく死が訪れるというときも、フーコー情熱のさなかにいた。ふいにフーコーの背後でなにかが一閃した。<情熱の虜となったとき、人はもはや自分ではなくなるのです。自分自身であることには意味がなくなってしまう。まったく別の見方をするようになる。>(『ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ』所収「ヴェルナー・シュレーターとの対話1981年12月)真理は他なるものによって同一ではないものとしてもたらされるとフーコーは言い遺した。同一でないものとはなにか。同一なる存在の手前にある、自分でない、根源の性の分有者という性をフーコーは生きたのだと思う。不思議なことだが、おなじようなことが吉本隆明にも起こった。

吉本隆明には書かれなかった対幻想論がある。吉本隆明は対幻想を特殊な共同幻想であり、性の世界のなかでは人間は部分的にしか登場できないと主張した。ところが、フランシス子という飼い猫とのあいだでは相反することが事実として、起きている。娘のハルノ宵子さんは『開店休業』のなかでフランシス子は父の〝愛人〟だったと言う。

<本当の猫好きになると、しまいには自分か、猫かってくらい境界線があいまいになって、お互いがさかさまになってしまうくらい一致して親しくなることができる。

もしかすると人間には、人類の枠組みではどうにも収まりきらない何かがあって、ふだんの生活では抑え込んでいる別の自分、本能的というか野性的というか猫類の自分がいるんじゃないか。猫さんと一致してるときだけ、そういうはみ出している自分がまったく解放されている。>(『フランシス子へ』)

<インタビュアーから、何か、魂が呼び合ったみたいな感じでしょうか、と聞かれ、「露骨に言えば、そういう感じで、やっぱり感心しちゃって、感激しましたね。これまで外部に求めて、そういういい気持ちになっても、何かあまり強固ではなく、すぐ崩れちゃうところがありましたが、やっぱり「小さな満足感というものはあり得るんだな」と思いました。外界と自分との関係は、内面と外面のつながりだけじゃなくて、国有値の中では何か違う関係もあるんだなあ、という感じでしたね。僕のその後の気持ちっていうのは、まるで違うんですよ。

つながりですね、そういう問題でしょうね。僕にとってはずいぶん救いでしたね。今も救いです。」>(吉本隆明『「反原発」異論』所収「東京にいると、暗いんです」)

人類の枠組みでは収まりきれない何かが人間にあるとは、文明の外在史と精神の内在史という意識の外延性では到達できない領域があるということであり、フランシス子と一緒にいるときだけ、「そういうはみ出している自分がまったく解放されている」。そこに「内面と外面のつながりだけじゃなくて、国有値の中では何か違う関係もあるんだなあ」と感じ、「僕だけでなくどなたでもそういうことは、きっとある」と言う。それが〔つながり〕という有縁であり、「今も救いです」とさりげなく述べられている。内面と外面のつながりではない固有値とは内包では根源の性を分有することで生の固有性があらわれるという言い方になる。存在の全円性を生きるとはそういうことである。内面でも外面でもない固有値のつながりは同一性の手前にあるとくり返し書いてきた。ほとんどおなじことを最晩年の吉本隆明も言っている。この到達した領域をアフリカ的段階についての考察で書き遺そうとした。わたしの理解では、知と非知という理念の枠組みを晩年の吉本さんは愚それ自体まで拡張し、そこを生きたのではないかと思う。

なんども書いてきたことをまた取りあげる。親鸞の他力を覚知したものが三人以上いるとする。その自然な関係は共同幻想を疎外しないか。必ず、個々の思惑とは違い共同幻想を生みだすと思う。フーコーも吉本隆明もそれぞれの個性的な言い方で、気づいたことを包越しようとしてうまく意識の外延性を相対化することができなかった。牧人司祭型権力の起源を仔細に解き明かしても、べつの生の様式をつくれるわけでもないし、自分ではなくなり、自分自身であることに意味がなくなってしまうとき、同一ではない他なるものからべつの生の様式の真理がもたらされる。この関係の核には還相の性が統覚する世界があり、共同性を包んでしまい、そのつながりは内包的な親族としてあらわれるとフーコーが考えていたかどうか、それはわからない。おなじようにフランちゃんとの関係で自分が猫か、猫が自分か、その境界があいまいになって、お互いがさかさまになって一致する。この領域となった自己はどれほど拡張しても共同性を疎外できない。

いずれにしても煩悩という人間的な現象をアルゴリズムによって記述することはシュミラークルとしては可能でも煩悩それ自体をコーディングすることは同一性の原理ではできない。言い換えれば、非知はどこで非知についてまわる胡散臭さを振り払うことできるか。生の原像を還相の性として生きる凡俗を煩悩そのままに生きることや、非知を突き抜けたところに現象する生の固有性や、喰い、寝て、念ずる生の原像や還相の性や愚そのものという同一的でない内包自然を、アルゴリズムが、その可視化された科学知が、論理式に置き換えることができるだろうか。存在の複相性を往還するとはこういうことだと思う。さまざまな科学的迷妄に世界がすっぽり覆われてしまうように見えても、虚像を無化することはかんたんにできる。意識の外延性の価値の公準の対極にある凡俗という生のべつの真理を生きればいいのだから。「僕だけでなくどなたでもそういうことは、きっとある」と吉本隆明は言い、フーコーは「私は自分の存在そのものを作品にしている人たちと、人生の中で作品を作っている人たちとを区別しません」と言う。実感に即して言えば同一性的なもので対象を粗視化できることはわずかな事象だ。そのわずかが意識の外延性としての貨幣や国家や科学であるということになる。同一的なものでは存在の全円性を往還することができないことはこの思考の慣性の根本的な欠陥だと思う。もっとべつのものを粗視化すること。

総表現者のひとりを固有のものとして生きるとき、その固有さは、観念の強度の違いとして無限の階調をもっている。鋭く尖った丸みも、曲がった直線も、真っ赤な白も存在する。ひとつながりとなったスペクトラムの無限の階調があり、そのひとつひとつに総表現者がひとつずつ固有な生として対応する。知を無化する観念の無為の場所をつくらないと科学知をしのぐことができない。それは制度の側からあたらしい行動様式として押し寄せてきている。知に対する非知のあり方では緩すぎる。ユヴァルのように圧倒的な世界システムの属躰として呑み込まれるだけだ。同一性的な思考は知の価値の序列をつくることしかできない。同一的でない、無為であること、愚鈍であること、凡俗であることを価値化することは、根源の性のなかにしかない。同一的なものを免れるあり方のなかに、セクシー・アニマル・コンピュータな人間の生命形態の本来性がある。この本然をだれが科学化できるか。だれもこの本来性を宗教的な三人称として疎外することはできない。

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