日々愚案

歩く浄土267:情況論73-厄災としてのコロナ禍について

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2020年3月14日に施行された新型インフルエンザ等対策特別措置法の非常事態宣言が4月7日に発令。コロナ禍についてはいくつかの錯誤がある。そのことを抜きにしてなにを語っても卑怯であると思うので、なにをどう考えればいいのか、コロナ禍の倒錯を記したい。新型コロナウイルスの全貌は現在進行形でまだほとんどわかっていない。治療薬もなければだれが罹患しているのかも分からない。これからどうなろうと、これだけは言えることを、後出しじゃんけんではなく、取り急ぎ書く。

日々、未知とのウイルスのもたらす脅威が報道される。インターネットやスマホで世界のコロナ禍を知るほどに不安は増幅される。新型コロナウイルスに感染する前にコロナ禍パニックに感染している。日本的な言霊(ことだま)が惑星大に拡大したと思う。言霊とは自然生成の意識である。世界が一瞬にして同時多発に新型コロナウイルスパニックに感染したということ。心的に新型コロナウイルスに憑依され、事後的にコロナ肺炎を発症するということ。この過程は不可分だと思う。『時間は存在しない』のカルロ・ロヴェッリの言い方を借用すれば、まず科学的な虚構である共同的な譫妄に罹患し、しかるのちにコロナ肺炎が発症する。コロナ・パンデミックを冷静に分析すると、科学知という言霊が感染症の主人公だということになる。

ネットの情報をあれこれ探索しているうちに、白川静の甲骨文の研究が思い起こされた。殷の時代、合戦は前線の巫女たちが敵対する勢力に呪いをかけ、戦士がばたばた倒れ、それから兵士による戦闘が開始される。数千年前とおなじことが起こっている。いまは科学知が巫祝である。ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの』を読んだときの予感がいまコロナ禍となり人類史の厄災としてあらわれている。BECOMINGとBEGINIGが惑星の規模で自然生成として円環している。かつて2001年9月11日、米国中枢への同時テロによって、一週間のうちに世界が変わった。テロとの戦争だ。テロリストを早期発見早期殲滅することが国家の最優先の課題とされた。おなじようウイルスを殲滅することが諸国家の戦略になっている。はたしてウイルスは撲滅の対象か。ウイルスを敵とみなし殲滅をめざすことは間違った戦略ではないか。

昔、「テロと空爆のない世界」で、巨大ビルの崩壊とアフガン戦争の劫火のなかから巨大隕石に比喩される惑星大の、物それ自体のような狂気の異物があらわれるだろうと書いた。2019年11月武漢で未知のウイルス感染症が発症し、COVID-19と名づけられた。中国の独裁権力は武漢を封鎖し、1月23日に始まった「都市封鎖」が8日午前0時、約2カ月半ぶりに解除された。報道によれば新型コロナウイルス感染症は制圧されたということになっている。COVID-19は飛び火し今は欧米で猛威をふるっている。イタリアやスペインやアメリカの医療現場の凄惨な場面の報道に接するたびに戦慄的恐怖に襲われることになる。恐怖が恐怖を煽って制御不能になる。一瞬で世界が新型コロナウイルスパニックに感染し、人類を恐怖のどん底に落とし入れている。これは新型コロナウイルスパニックというある種の心身症ではないのか。

はじめから報道される出来事に違和感があった。人間という自然とウイルスという自然のそれぞれの全存在を賭けた殲滅戦なのだろうか。ウイルスを早期発見早期殲滅することでウイルスとの戦争に勝利することになるのだろうか。度しがたい思考の慣性の惰力が科学的な知に擬装された呪詛に憑依され、心身が疲弊していく。国家の枠を超えて共同的な譫妄が、ユヴァルの言い方では共同主観的現実という虚構として、あるいは吉本隆明の共同幻想として、科学知が宗教として人々に感染し、阿鼻叫喚の事態を招いているのではないか。いつの時代もその時代を生きる人々の信をめぐる迷妄の度合いは不変である。わたしたちが認識の自然とする思考の慣性を疑うことはないし、思考の慣性とはそういうものである。

新型コロナウイルス感染症がインフルエンザよりはるかに感染者数が多いということはなく、コロナ肺炎への恐怖が罹患者の免疫応答を悪化させているのではないか。公共的なインフラとなったインターネットとその端末(スマホ)が未知のウイルスの恐怖を煽りに煽って不安が極度に増強する負のスパイラルに巻き込まれている。おそらくユヴァルも日々がざわつき浮き足だってTIMEに「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか―今こそグローバルな信頼と団結を」(http://web.kawade.co.jp/bungei/3455/)寄稿した。記事での表明でユヴァル・ノア・ハラリはみぞおちに良心をもつ凡庸な文化人のひとりになっている。『サピエンス全史』を書いた頃の切れ味はどこにもない。『ホモ・デウス』で人類は飢餓と疾病と戦争をほぼ解決したと冒頭で書いているが、その釈明をTIMEに書いたわけだ。諸国家の対ウイルス戦略もユヴァルの見解もはじめからボタンの掛け違いをやっている。

コロナ禍という人類史的な厄災を前にしてどんな表現が可能か。可能だと思うからわたしの考えを書くが、その考えは怯える個人の内面や共同的な施策や、総じてわたしたちがその中にいて生きてきた思考の慣性とは異なる。新型コロナウイルス感染症は医学の問題であることは間違いないとしても、既成の医学の知見では解けない困難な課題を厄災の中に抱え込んでいる。うわずり引きつったその場しのぎの言葉ではなく、もっと重心の低い言葉はないのか。どうなるかはだれにも予測できないが、おそらくBefore Coronaと After Coronaでは世界の地政図が変容し、AIによる雇用破壊で大半の人類が無産階級になる先駆けの世界が出現するような気がしている。武漢封鎖は独裁下でAIとビックデータを駆使し、国民の徹底した追跡監視によって抑え込んだと理解している。公表されるデータの正否については判断する基準をもちあわせていない。いずれにしてもGAFAやBATと内面化する国家という世界認識の図式はさらに入り組んだものになり、自然淘汰を生き延びた人々にベーシックインカムの試みやさまざまな施策が講じられることになるだろう。
医療が崩壊するなかでイタリアやスペインで命の選別が行われたと報道されていた。野戦病院に負傷者が陸続と搬入されるとき救命するかどうか選別が行使される。戦闘を持続するには原隊復帰可能な兵士を確保するのが非日常の戦争の至上命題だからだ。重篤化したCOVID-19肺炎の患者の命の選別をするのに戦争の論理とおなじ論理が発動されるのか。

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なにがどう変わるのか、また爆発的な感染がどういう結末を招くのかわからないが、内包論から確実にいくつかのことを言うことはできる。

1)はたしてウイルスは殲滅の対象か。むしろウイルスと人の心身との関係の表現としてCOVID-19があるのではないか。
2)非常時に命の選別をするのは不可避なのか。選別される命の尊厳を担保するものはなにか。
3)人類は生の果てるところが死であるという観念しかつくりえていない。科学知の宗教性がこの死をさらに鞏固なものにしている。存在の複相性を往還することで意識の外延性を融解させる、生きられる死をつくることができる。

1)については神経内科医田頭さんの「たがしゅうブログ」がおおいに参考になった。2013年9月から欠かさず読んでいる。多田富雄免疫学や安保徹免疫学におおきな影響をうけたので、とくに安保さんの生活習慣病やがんの成り立ちには深く納得し、身体はまちがわないという安保医学の根本思想は安保さん亡き後もわたしのなかで息づいている。いろんな恩恵を被った。安保医学の根っこには三木成夫があると直感し、三木成夫の解剖学を免疫学に置き換えたのが安保免疫学だと思い、安保さん本人にお会いしたときそう申し上げた。突然死でいなくなった安保さんのことを思いだしながらかれの学問的な業績をふり返ってみる。

安保さんの学問的な業績は、1980年にモノクローナル抗体の作成し、1989年の胸腺外分化T細胞を発見している。のちにかれが免疫学の理論を腸管上皮の粘膜の炎症症状を理解する免疫現象として拡張した。リンパ球に生命発生以来の長い時間を挿入し、壮大なリンパ球の進化を論じた。でもなんといっても最大の業績は、リンパ球にアセチルコリンの受容体があることを発見し、白血球が自律神経の支配を受けていることを法則化したことだと思う。1995年の出来事で、「マウスの末梢リンパ球および胸腺におけるニコチン性アセチルコリン受容体の検証」(『Immunology』1997年)に論文が掲載されている。かれ自身この論文について述懐している。<本当は大変な世界なんです。みんな自己抗体とかで免疫亢進していると思って患者を薬で痛めつけるでしょう。それではだめなんです。みんなストレスで胸腺が縮まって、古い異常を回避するための自己認識の免疫系になって切り抜けている、そういう内容なんです。そんなに長くない論文で、十二ページですけれども、ノーベル賞三つ分くらいの意味のある論文なんですよ。何人かの、それこそ感性のある人はこのことは分かる。けれども、いまの時代では無理です。だから、百年とか二百年経って、こういう思想があったんだ、と分かる人が出てくればいい、と思っています。>(『免疫学宣言』)

もうひとつの画期的論文「自己免疫疾患の免疫学的病態」(『Immunologic Reserch』2005年)もまわりの人の力を借りて翻訳し安保さんにお送りした。誤訳はないですよと連絡を頂いた。この頃が安保さんの研究生活の壮年期にあたると理解している。このあとの安保さんの活躍にはめざましいものがある。がんは、膠原病やリウマチなどの難病とおなじく、免疫抑制の極限で起きる疾患であるとかれは主張するようになりました。2001年に『医療が病をつくる』でデビュー。すでにこのとき慢性疾患に対症療法を施すことは9割が有害無益と言明している。

現代医学は間違った方向に進んでいるという危機感が安保さんにある。とても好きな安保さんの根本思想をとりあげる。<世の中、医療界だけでなく「専門家」が氾濫しています。「専門家に任せる」という精神は、自分の主体性を放棄した生き方に繋がります。究極には「お国のために死ぬ」といったことにも到達してしまう、それこそ怖い思想なのです。専門家というのは、「そのことしか知らない業界人」です。森を見ず、木の枝葉ばかりにやたら詳しいだけの人種。医師だって同じです。あなたの大事な生命を、たかが医療界の業界人に全権委譲して、身も心も委ねる愚かさ―。そろそろ本気で気がついてもいいころではないでしょうか。言い換えれば、あなたのことを丸ごと知っている人は、この世の中にあなた以外にいないのです。つまりは、あなたの専門家はあなた自身なのです。そのことを、常に忘れずにいてほしいと思います。>(『長生き免疫学』)

言いたいことをもう一度祖述する。医学には、がんは、あるいは病気は悪だから、それを取り除くという近代由来の大きな観念の動きがまず前提とされ、ここに、単なる近代由来の諸科学のひとつである医学を超えた問題が陰伏されていることになる。コロナ禍としてあらわれる敵はウイルスで殲滅するとして国家も人々も譫妄状態に陥っている。がんは早期に発見し早期治療をするように、悪であるウイルスを駆除し殲滅することになる。悪を除去し隔離する、それが現代社会の通念として、身体を貫く生権力としてわたしたちの生を覆い尽くしている。医学もそのひとつだ。ここまで生権力に奪われたわたしたちひとりひとりの生の固有性はどうやれば復元できるのか。かんたんです。じぶんの生き死にはじぶんで決めればいいのです。

安保さんは<ガンになるということも含め、それは生命の働きの一つです。表面的な善悪の観念をとりはらえば、ガンもまた体の知恵であることがわかってきます。><ガンはストレスによって低酸素・低体温の状態が日常化したとき、体の細胞ががん化してうまれるもので。><ガンは自分の体に悪さをする存在ではなく、生きにくい状況のなかで適応しようとする体の知恵そのものです。低酸素・低体温の状態に適応し、最大限のエネルギーを発揮する存在といってもいいかもしれません。><ミトコンドリアを持っているのは、細胞内に核を持った真核生物(動物、植物、菌類など)だけ。核を持っていない細胞のような原核生物の多くは酸素を必要とせず、分裂だけ、つまり解糖系だけで増殖をくり返します。その意味では、細胞がガン化するということは、低酸素・低体温でも適応できる原核細胞への先祖返りということもできるでしょう。>(『人が病気になるたった二つの原因』)

そしていまわたしたちの前に田頭さんがいて、コロナ禍の倒錯について日々強力な発言をし続けている。かれはたったひとりで75億人の人類の思想の慣性を向こうに廻して医学の認識を革命しようとしている。固唾を呑みながらかれの発言を注視している。怒濤のような田頭さんの一連の発言を抜き出しながら、時系列的に追いかける。ハンス・セリエ(1907- 1982)のストレス学説が心身相関の巨大な医学思想として安保さんから田頭さんへと脈々と受け継がれている。生理学者セリエは、外部からもたらされる物理的、科学的、心理的ひずみ(ストレッサー)に曝されると、生体はホルモン分泌や自律神経を調律することで、その有害性に適応し、ホメオスタシスを維持する。セリエは適応症候群を、(1)警告反応期、(2)抵抗期、(3)疲憊期の3つの時期に分けた。田頭さんは抵抗期を「過剰適応」、疲憊期を「消耗疲弊」と読みかえ、田頭医学をつくろうと奮闘している。長い引用になるが<>の中が田頭さんの発言である。時折わたしの感想を交えていることも付記しておく。

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<それでもウイルスと戦わない(2020/03/30)
新型コロナウイルスは人類史上最悪の感染症だという認識が多くの人々の中でさぞ広がっているであろうと思われます。

それは風邪の原因となるウイルスにはライノウイルスだとか、アデノウイルスだとか、コロナウイルス以外にも無数に原因ウイルスが存在し、それを測定したとして特異的な治療法があるわけではないので、一般的な対症療法(解熱薬、去痰薬、総合感冒薬など)が施されて、それで終わりになっていることがほとんどだったと思います。

そしてその中で高齢者を中心に一定の割合で肺炎に移行し重症化する人達は医療現場の中で観察されていましたが、それがまさか何らかのウイルスが原因だと調べられるはずもなく、不幸な転帰をたどった人に対しては肺炎に対する一般的な治療(抗生剤、ステロイド剤、年齢など状況に応じて人工呼吸器など)が行われてきたと思います。

というよりもむしろインフルエンザとの比較で考えれば、感染者数は決して多くはないとさえ思える推移です。

私はこのウイルスに対する恐怖心、全ての原因がウイルスという外来物にありだとする考え方そのものが間違った認識だと考えています。
事情はどうあれ、この新型コロナウイルス感染症において重篤化の現象をもたらしているのは自身の免疫反応(炎症反応)である以上、コロナウイルスのせいで重篤化するというよりも、コロナウイルスがきっかけで駆動された代謝システムが自力で収束できなくなっていることに焦点をおくべきだと思います。
そのときに現代医学が見落としがちで、なおかつ病態に関わる見えない大きな要因の一つが「恐怖」という慢性持続性ストレスです。

ウイルスもがんも、敵だと認識して乗り越えようとする限り、それを乗り越えられない状況にストレスを感じ続けてしまいますが、それを自分の無理に気付かせてくれた味方だと解釈し、ただただ身体の声に従うように仕向ければ奇跡的にがんが治ったというケースは少なからず報告されています。
皮肉なことにがんと戦えば戦うほど、がんが治らない状況へと陥ってしまう構造があるのです。

どんなウイルスにも効く抜本的治療法(2020/04/02)
相手が何ウイルスであろうと、ウイルスに感染するもしないも自分次第、誰のせいでもありやしない・・・と、ウイルスを移されたわけではない…、自分の身体と心に知らないうちに無理をかけ続けてしまったことの表れなのだ…と。
ウイルスはむしろその自分の無理に気付かせて強制的に今の状況を休む方向へ身を挺して教えてくれている仲間だと心の底から納得できた時に、世界の見え方が変わるとともに、もはやウイルスの恐怖にとらわれることのない世界に一瞬で切り替わり、結果的に最も幸福に生きることができる心身の状態をも手に入れることができるのではないかと私は考える次第です。
…なんだか、高HIV血症でNK細胞が対応しきれない状況と、末期がんでNK細胞が対応しきれない状況はとても似ているような気がします。>

今日のブログの記事にも深く感銘を受けました。
世界が同時多発的にコロナウイルスパニックに感染しています。初めからボタンを掛け違えた戦略、テロリスト殲滅と同じ論理で、ウイルス殲滅を目指しています。いまこの戦略の過ちを的確に指摘しているのは、おそらく世界で唯一田頭さんだけです。極めて貴重な発言です。一連の状況への発言は、歴史的な価値があります。明言しないことには何が問題であるかはっきりしません。みな、この難関を避けて、間違ったウイルスとの戦いを追認しています。

ところで、いま世界で最も影響力のあるユヴァルという歴史学者がいます。僕はこの人に注目してブログで何回も感想を書いてきました。タイムへの寄稿の感想も近く書きます。ユヴァルが田頭さんの、たとえば昨日の論考を読めばなんと言うだろうかと、尽きぬ関心があります。彼もまたボタンを初めから掛け違えています。

ご参考までに寄稿された記事の日本語訳をお送りします。

新型コロナウイルスとACE2に関する私の意見(2020/04/06)
新型コロナウイルスはこの身体保護的な物質変換を起こす酵素であるACE2を介して体内に侵入するという事が基礎研究で判明しています。

新型コロナウイルス感染症は臨床的に見て明らかに呼吸器を中心に起こる感染症です。
一方でACE2が発現しているのは呼吸器だけではなく、消化器、腎臓、心臓などにも他にも広く発現しているのに、臨床症状が肺炎に偏っているのはやや話が合いません。
なのでおそらくはACE2以外にも気道細胞に親和性を持つ何らかのメカニズムが存在していると考えた方が妥当なのではないかと考えています。
また基本的に新型コロナウイルス感染症によって起こされている現象は炎症を中心としたストレス適応反応です。この反応が過剰適応となっているのがいわゆる感染症と判断される状況だと思いますが、昇圧というのもストレス適応反応の一種です。>

このあたりについて福岡伸一はつぎのように発言している。「今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。」(「ウイルスは撲滅できない」福岡伸一朝日新聞デジタル2020年4月6日)これはいったいどういうことかと問い、高等生物の遺伝子の一部が外部に飛び出したもので、もともと私たちのものだったウイルスが家出をし、どこかから流れてきた家出人を宿主が優しく迎え入れている、と答える。ウイルスは私たち生命の不可避な一部だから根絶したり撲滅したりすることはできないと福岡伸一は言う。

ウイルスが入る以上に身体が暴走する理由(2020/ 04/ 08)
新型コロナウイルス感染症に対する心の在り方を整えて免疫機能を最適化して、ウイルスとの共存を目指すというのが私の基本的な考え方です。

慢性持続性ストレスによってストレス対抗ホルモンであるコルチゾールが持続分泌刺激され、抗炎症作用が働き過ぎて免疫力低下へとつながるというのはその根拠の一つですが、今回はそれとは別の観点から「心の在り方」が感染症の経過に影響しうることをお示ししたいと思います。

多くの「細菌性肺炎」は「肺胞性肺炎」という形をとります。
ところがウイルスは細菌と同じように外部から入り込んでくるにも関わらず、細菌のように「肺胞性肺炎」をきたすわけではなく、「間質性肺炎」という病態をきたすのです。

一つはアレルギーの病態が関わっている可能性が指摘されているということ、もう一つはインターフェロンが過剰にあるような状態の時に間質性肺炎は起こりやすいということです。
アレルギーとは一言で言えば、「免疫システムの誤作動」です。攻撃しなくてもよい相手に攻撃性の生体反応が過剰に引き起こされてしまう現象のことです。
またインターフェロンというのは、以前の記事でも紹介しましたように、「他者」だと認識した病原体を効率的に攻撃するためにヘルパーT細胞というリンパ球の一種が産生するサイトカイン(細胞間情報伝達物質)です。
このインターフェロンが過剰に出ているというのも、言わば免疫の過剰反応状態です。
いずれにしても「間質性肺炎」という状態は免疫反応が過剰駆動されている状態にあるという事が言えそうです。

つまりウイルスによって引き起こされている肺炎は、ウイルスという病原体と直接ぶつかり合って起こっている炎症反応ではなく、きっかけは何であれ、身体の免疫反応が過剰に駆動されることによって引き起こされている現象だということができると思います。
本来であればウイルスを排除するために、過剰ではなく過不足のない免疫反応が駆動されればそれで問題はないはずです。
しかしなぜウイルスを排除するという目的以上に、過剰に免疫反応が駆動され続けてしまう状況が生み出されてしまうのでしょうか。
それはウイルス以外に免疫反応を駆動させる要因があり続けているからと考えるのが妥当です。そうであるならば、目に見えない不安・恐怖といった精神的ストレスだと考えるのは自然な話ではないでしょうか。

正しく免疫が働いていれば正常に排除されるはずのウイルスが、まるでいつまでも居続けるがごとく、あるいは実際に排除され切らずに実際に居続けることになってしまうことの背景には、見えない精神的ストレスがかかり続けると考えるのが妥当で、それが故にアレルギーやインターフェロン過剰(サイトカインストーム)といった病態が引き起こされると考えれば説明がつくように思うのです。>

このブログを読んで田頭さんへ次のようなメールを返信した。取り急ぎの感想です。4/8のたがしゅうブログいいです。免疫の過剰応答が今回のコロナ肺炎の特徴ですが、恐怖がストレスとなり、コルチゾールやインターフェロンが分泌されサイトカインストームを起こすしくみが書かれています。なるほどおれもそう考えていた、そのことが書かれています。後出しじゃんけんではなく、いま、そのとき、このことを発言するのがどれだけたくさんの人にとっての希望であることか、田頭さんの発言を追いながら、朝そのことを書いていました。

何がECMOでも救えなくさせているのか(2020/ 04/ 10)
今回この話に関して私が注目したいのは、結局新型コロナウイルス感染症で患者を死に至らしめているのは、突き詰めれば患者自身の持っているシステムのオーバーヒート、言わば自己治癒力の暴走とも言える現象なのではないかと思うのです。

たとえどれだけ異物をも排除できるクリーンルームの中であっても、決して排除することのできない不安や恐怖といった慢性持続性の精神的ストレスではないかという考えに私は至るのです。

ウイルスを取り除くことに世の中は精一杯になっていますが、本当の敵は自分の頭の中にいるように私は思います。
なぜならば私達の身体はもともとは正常に機能しさえすれば、難なくウイルスを排除できるシステムがデフォルトで備わっているからです。
そのすごさを心から信頼して、せっかくの素晴らしきシステムを最大限活用できるように、心身だけは「未知のウイルス感染症」という恐怖の概念に支配されることなく、健全な経過をたどれるようにしておくためにも、
心の在り方を整える行為は、すべての病気を克服するために大切なことだと私は思います。

無害なウイルスを有害化させてはいないか(2020/ 04/ 11)
健康な動物では感染症を起こさないけれど、免疫力が低下した動物に対しては感染する病原体によって引き起こされる感染症のことを「日和見(ひよりみ)感染症」と呼びます。
例えば、「真菌」というのは私達日常的な言葉でいう「カビ」のことですが、健康な人はこれが原因で感染症が引き起こされることはまずありません。
ところが何らかの理由で免疫力が低下している人(例:ステロイドの長期高用量内服者、免疫抑制剤の内服者、HIV感染者など)が「真菌」に感染すると、非常に重篤な感染症をきたすことへとつながってしまうわけです。
なぜ重篤になるかと言えば、真菌自体にすごく凶悪な能力があるというわけではなくて、それに対抗する動物の身体のシステムの方が非常に弱っているからです。
なので「真菌」を叩く「抗真菌薬」という薬を点滴で用いるような状況の患者は、状況的にかなり厳しい状態にあるということを我々医師は経験的に知っています。
ところで、この健康な人には無害だけれど、免疫力が低下した人にとっては重症となるという話、どこかで聞いた話ではないでしょうか。
そう、新型コロナウイルス感染症の特徴です。「大部分の人に対しては無症状か軽症で済み、一部の人達に重篤化する」という特徴のことです。
私はこの新型コロナウイルス感染症の特徴が、まるで健康な人には特に悪さをしていない「真菌」に対して世界中が一丸となって恐怖を抱いている状況だと思えてしまうのです。
なぜならば、もともとコロナウイルスというのは無数にあるかぜを起こすウイルスの一つだと捉えられていました。

要するに見かけ上は今までわかっているコロナウイルスと違った所は特に見受けられない、ということです。違いがないからこそ「コロナウイルス」のカテゴリーに入れられている、とも言うことができるでしょう。

しかしながら、様々なデータや報道を見ていると死亡者は高齢者に多い傾向がある一方で、それまでは健康だとされていた人が死亡に至っているという話も散発的に聞かれます。
もし新型コロナウイルスは今までの旧型コロナウイルスと同じように弱毒だと仮定すれば、重症化する人はこれが「日和見感染症」になるように急激に免疫力を低下させる要因が加わったとしか考えられません。

そうなると急激に免疫力低下をきたす要因としては「未知で新型の脅威のウイルスである」という概念によってもたらされた不安や恐怖に伴う急性ストレスしか考えられないのではないかと私には思えてくるのです。>

ブログに書かれた6箇の文章から田頭さんの胆力がつたわってくる。いま、この発言を世界に発することの重大さ。はじめからボタンを掛け違えたウイルスに対する戦略が発動され、世界がコロナパニック神経症に罹患している。テロリストを殲滅するのが善で正義であるように、あるいはがんの早期発見早期治療が強く推奨されるように、おなじ観念の拘束下で、対ウイルス戦が惑星規模で敢行される。1918年-1920年のスペイン風邪に重ね、恐怖がパン種のようにふくらみ悪性の進行がんの様相を示している。スペイン風邪の百年後の倒錯したウイルスとの全面的な戦争は諸国家が国民全員をひとつの方向に誘導し、ゲノム編集とAIとビックデータを駆使した国民総監視を可能とする形で制御しようとするだろう。

人類史的な厄災である新型コロナ禍は近い将来AIによる雇用破壊で人類の大半が無産階級に移行する前哨戦ではないかと考えている。がんを早期に発見し治療することが科学知の善であるとすれば、ウイルスを殲滅の対象として戦うことは、すでに意識の外延性としてアルゴリズムとなっている。科学知の真理にひれ伏し順伏するほかに生の余地がないことはあきらかだ。そのことを諾とするならばその道しかなかろう。人間という生命形態の自然からはみだしたウイルスと人間との関係の表現が新型肺炎だとしたら、ウイルスを遠い友だちとして医学思想をつくりつつある田頭さんの実践の中に希望がないだろうか。殲滅でも撲滅でもない未知に横溢する豊穣な生の源泉を田頭さんは探り当てようとしている。6箇の引用のなかでその可能性を余すところなく田頭さんは披歴している。田頭さんは最晩年のフーコーが掴み取ったパレーシアを若くして身につけているのかもしれない。

わたしもまた半世紀孤立して考えることを持続してきた。ひとりの読者に向けて。ほんとうに本質的なことはそれだけ伝わりにくいということだ。孤絶した道行になるかもしれないがメインストリームの医学の王道に叛旗を翻す田頭さんが、他の誰でもない田頭医学を構想することを希求してやまない。かれの気骨と膂力に驚きながら、このさきは内包論が引きうける。おなじ時期に友人の高倉さんと濃密なメールのやり取りをした。その経緯の中で、じぶんのこととして、死ぬのは悪くないと思います、と初めて表明した。こういう言い方をすると誤解される。回心や悟りや諦観ではない。そういうことではまったくない。内面化も共同化もできないそれ自体が存在する。ある思考の慣性をべつの粗視化された認識の自然へと組み換え拡張することが可能であると内包論は主張している。

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鮎川誠がシーナを回想しながら語る言葉が深い。

<シーナはいつも僕のギターを見守ってくれた。サンハウスというバンドを好きになってくれて、その中でもオレを選んでくれた。「歌う」と言ってくれたのも、今思えばオレを一番近くで応援するためだったと思うんです。一緒に新しい曲を作り、レコードを作り、本当に楽しかった。NYでレコーディングしたいねと言えばその夢がかない、大好きなウィルコ・ジョンソンとレコードを作り……。二人で話していたことが、二人やったからたくさん実現できた。

オレがギターを弾くのはファンのため、なんてかっこつけて言うたこともあるけど、全然違った。オレはシーナに向けて弾いていた。シーナに褒められることがうれしかったんです。オレよりも5つも年下なんだけど、母親みたいな存在やった。シーナが僕のギターソロに振るとき、「ヘイ!ワオ!」とか言うてくれるその一言一言のおかげで僕のギターがカッコよく聞こえたりする。シーナマジックやった。>(「ステージに立ち続けると心に決めて」:「朝日新聞デジタル」2020.03.23)

おなじことをわたしも考えてきた。ひとりの読者をもつこと。ここから内包自然も喩としての内包的親族も総表現者も生まれてくる。コロナ禍のただなかでハイリスクな高齢の持病もちだから、新型コロナ肺炎が蔓延し、集団感染することで集団免疫をもつことになれば、おそらくわたしは淘汰されることになる。では、コロナ禍鬱になるか。ならない。内包では生の果てるところに死があるのではないからだ。存在の複相性を往還すると、おのずと死は生の一部になる。新型ウイルスパンデミックの恐怖に駆られ、人類がその恐怖に憑依されている世界同時多発な怯えは、わたしたちが外延的な死ではない死の観念を発明できていない不明に発症している。意識の外延性は生と死の観念のなかに閉じ込められている。科学知という宗教的な迷妄もまた。なにがここまで人びとを追い込むのかと言えば、コロナ禍は医学ではなく、人間がつくってきた観念が拘束しているその強度にある。わたしは人類史的な厄災として現前しているコロナ禍のほんとうの正体はここにあると考えている。死は貨幣という共同幻想よりはるかに深い迷妄の中に囚われている。

親鸞の自然法爾が性であることに気づくのに長い年月がかかった。親鸞と話をする機会があればまずそのことを親鸞に伝えたい。親鸞は自然法爾が性であるとは考えていなかったと思う。むしろ自然法爾という言葉のなかにどれほどの人間にとっての可能性があるか、親鸞はそれほど自覚的でなかったのかも知れない。親鸞は親鸞を不意打ちした固有の体験を書き遺すことはしなかった。ただ、わたしには親鸞の自然法爾は仏と懇ろになった親鸞の、理念ではなく生々しい感情があったのではないかと思う。

イタリアやスペインで命の選別が行われ、米国や日本でも遠からずそうなると報道され、わたしたちの思考の慣性ではいやおうなく是となる。そうだろうか。持病もちの高齢者より若くてこれから長く生きる者をトリアージして救命するのは疑いの余地なく余儀なさと言っていいのだろうか。長く生きた人よりまだ若い人のほうが生の価値があると、だれが、どういう理由で決めることができるのだろうか。わたしはこのありかたにたいして強い異議を表明する。むしろ無作為抽出で選り分けるほうが公平ではないのか。命の尊厳とはなにか。緊急時には問う必要のないことか。生を可視化して死という終命から逆に生を価値化すること、心身一如を自己が所有するということだけが唯一の基準となる。戦闘時、野戦病院に運び込まれた負傷者を戦闘を持続することを基準に救命の順番を決める。コロナ禍の非常時にそのことが適用されるのか。

命の尊厳を担保するものはなにか。自己ではない。自己ではないとしたらなにか。若くて生き残りそうなものを救命して、高齢の持病もちを死に赴かせることは疑問の余地のない公平なことだろうか。わたしと子や孫を優先するのは自然である。なぜ自然なのだろうか。わたしと子と孫が家族であるからだ。古代中国では、敵に追われ荷馬車で家族が逃走するとき、迫る敵に子が馬車から身を投げ出し親を救うのが親孝行であると記されている。ぎょっとした。自然は遷ろう。では、他のそれぞれに家族であるものと、わたしはどう関係するのだろうか。三人称としか関係しえない。外延的な表現ではそれ以外の態度をとることはできない。平時のなかの不測の事態では戦争の論理が貫徹するのだろうか。わたしは根源の性を分有することのなかに余儀なさではない生きることの価値があると思う。そのことについて書いたことを再録する。

<存在の複相性を往還すると、この不思議は、はからいではなくおのずと生起する。国家へ向かう三人称の関係や貨幣の交換は内包的な親族と贈与の関係として内包的に表現される。こうやって親鸞の自然法爾をもう一度折り返し他力を包み込むことが可能となる。この事態をなんと言うべきか、まだふさわしい言葉はない。同一性的な外延知は還相の性が統覚する内包自然という観念の母型から派生していると明言できる。還相の性の派生態として同一的なものが言表されるということ。この関係は不可逆である。すなわち同一的なものは内包という観念の母型に回帰する。>(「歩く浄土259」)

<意識は内包という観念の母型を分有することで、自己に内包的に表出されたのであって、自己意識として自然から分離したものではない。自覚するしないにかかわらず、はじめから自己はふたりなのだ。内包という観念の母型から根源の性が弾けて心身一如の同一性的な生が表現され、自己の自己についての意識が分極し、自己の意識と環界が相互に規定し合い、さまざまな自然がつくられ、外延的な生は生の終わりに脱分極し、内包という観念の母型に回帰する。生は内包と共に始まり、ある時間を外延的な生として生き、再び内包に回帰する。個人の生涯も内包から外延を経て内包に回帰し、歴史もまた内包から生まれ、一時期、外延史の世界を描き、やがて喩としての親族から内包という観念の母型に回帰する。誕生と終わりのふたつの内包にはさまれて自己と歴史という外延的な表現が存在している。>(「歩く浄土260」)

意識の外延性が規定する死は内包という観念の母型のなかにはない。内包という自然から生誕し、存在の複相性を往還しながら、終命するとき内包という観念の母型に回帰する。どこにも死はない。今回人々に擾乱をもたらしているコロナ禍の思考の慣性の錯認はここに極まっている。意識の外延性を前提として科学知を擬装する共同の迷妄によって、コロナパニックという心身症に罹患し、その不安と恐怖が共振し、さらなる未知のウイルスの恐怖を煽り、世界的な悲劇を招来している。それほどわたしたちの文明は脆弱だと言うことだ。

辺見庸さんは最近のブログでコロナ禍について次のような発言をしている。<完璧なディストピアが文学をぶち破ってやってきたってこと。暗黒郷とはよく言ったもんだ。・・・全体主義がむっくりと起ちあがった。希望はひとかけらもない。もうもとにはもどらない。>辺見庸さんの世界は、それがかれの好みに合うのだとしても、暗い。科学知も含め意識の外延性のなかに希望はないから、希望を語らない辺見さんは正直だと思う。ある思考の慣性が粗視化した自然を認識の自然として受容する意識が根底から変わらないかぎり、科学知という宗教をいくつも可視化して乱立したアルゴリズムが相克することにしかならない。意識の外延性が描くポストコロナはそのようなものでしかない。この強大な渦のなかにユヴァルも呑み込まれてしまった。

わたしは、内面化も共同化もできない内包という観念の母型をそれ自体としてとりだし、そのしくみをていねいにたぐりよせていけば、歩く浄土をつくることができると思う。もっと朱色をした、たおやかな生が、わたしより近くにある。鮎川誠が言う、<オレはシーナに向けて弾いていた。>ここにだけあらゆる世界の可能性がある。コロナ禍がどんな事態を招こうと、この歩く浄土を、なにものも侵犯することはできない。浄土はいつもわたしより近くに根源の性とともにある。

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