日々愚案

歩く浄土266:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理23/生と死はどこにあるか11

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ユヴァルの『ホモ・デウス』がデータ教なら、カルロの『時間は存在しない』はエントロピー教ということになる。エネルギーではなくエントロピーがこの世界を動かすというのがその教義だ。熱力学第二法則と共にわたしたちの物語があるわけだ。キリスト教のインマヌエルとどこが違うのだろうか。神がエントロピーに変わっただけで、おなじではないか。

カルロによればこの広大な宇宙には無数の物理系があって、それらの相互作用を考えるとさらに膨大な宇宙が存在する。べつの宇宙論を論じている者は多次元宇宙とか多元宇宙という言い方で解明しようとしている。百花繚乱の様を呈し、いずれも仮説であり確定できていない。カルロはループ量子重力理論として解こうとしている。カルロの主張をつづける。この無数の宇宙に「特別」な部分集合があったとしても驚くに足らない。わたしたちの物理変数は無限のなかの、たまたまエントロピーを低く定義する特別な変数をもつ物理系が存在する。この系の宇宙のエントロピーは絶えず増大する。この流れのなかで生命や意識が誕生するとカルロ・ロヴェッリは言う。この論理の運び方はペンローズが唱える「意識はマイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」によく似ている。

意識の起源を追及すると物質と意識がおなじ起源をもつというところに収斂する。物質と精神の一元論になるわけだ。ほんとうは物質と精神が一元であるという観念があるだけのことだ。中沢新一は<重要なのは、「内部視覚」が心的現象の物質的な素過程におこっていることの直接的な反映である(『神の発明』)と言い、池田晶子は<魂であるところの人間は、物質の側から見れば肉体、非物質の側から見れば精神である、したがって、魂とは、物質でもあり非物質でもあるような、それ自体は不可知な何らかの力もしくは動きである>(『2001年哲学の旅』所収「死は、どこにある?」)と言う。心的素過程と物質的な素過程が、あるいは魂が物質であり非物質でもあるという観念論が、物質と心的素過程や魂という観念の差異が強度の差異としてあるだけで、意識の起源はみごとに回避されている。むろん、ペンローズもカルロも意識の起源についてはなにも語りえていない。

カルロはエントロピーと生命についてつぎのように定義する。

①<この意味で宇宙のある部分集合が特別だとすると、その部分集合に関しては、過去の宇宙のエントロピーは低く、熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)が保たれる。そしてそこには記憶が存在し、痕跡が残り-生命や思考や進化が生じ得る。いいかえれば、もしも宇宙に何かそのようなものが存在したとすると-わたしは当然存在すると思っているのだが-わたしたちはそこに属している。ここで「わたしたち」といっているのは、自分たちが広く接することができ、宇宙を記述する際に用いている物理変数の集まりのことである。>(148p)

②<ところが、わたしたちがたまたま暮らしている途方もなく広大なこの宇宙にある無数の小さな系Sのなかにはいくつかの特別な系があって、そこではエントロピーの変動によって、たまたま熟時間の流れの二つある端の片方におけるエントロピーが低くなっている。これらの系Sにとっては、エントロピーの変動は対称でなく、増大する。そしてわたしたちは、この増大を時の流れとして経験する。つまり特別なのは初期の宇宙の状態ではなく、わたしたちが属している小さな系Sなのだ。>(155p)

③<同じように、無限の多様性を持つ宇宙に、最初のエントロピーを低く定義する特別な変数を通して世界の残りの部分と相互作用する物理系が、たまたま存在するのだろう。これらの系に関するエントロピーは絶えず増大する。さらにほかならぬそのあたりでは、時間の流れに特有の現象が起きる。生命が誕生し、進化が起こり、思考が生まれ、時間の経過を意識するようになるのだ。>(149p)

④<生命は、エントロピーを増大させるためのさまざまな過程のネットワークなのだ。そしてそれらの過程は、互いに触媒として作用する。生命はきわめて秩序立った構造を生み出すとか、局所的にエントロピーを減少させるといわれることが多いが、これは事実ではない。単に、餌から低いエントロピーを得ているだけのことで、生命は宇宙のほかの部分同様、自己組織化された無秩序なのである。>(161p)

暗黒物質や暗黒エネルギーの正体についてまだなにもわかっていない。さしわたし140億光年の宇宙のわずかな物理定数が違えば生命は存在できない。いずれも仮説の範囲を脱していないが、すでに宇宙論の最先端では多元宇宙や多次元宇宙が真剣に論じられ、カルロのループ量子重力理論も有力なそのひとつだ。カルロもそのことを繰り込んだ上で自身の宇宙論を語っている。①、②、③、④でそういうことが言われている。エネルギーではなくエントロピーがこの世界を動かして、低いエントロピーと相互作用をする小さな系Sのなかに、自己組織化された無秩序である生命や思考や進化が生じると言う。

いわゆる時間の矢については次のことに尽きていると思う。

<・・・また人間の脳を構成する原子や分子、有機化合物という物質は宇宙の膨張期につくられたものであることもはっきりしている。そうすると当然のこととして論理は次のようにはこばれる。宇宙に存在する物質のふるまいが熱力学の法則に合致するのなら、人間の脳を構成する有機化合物もまたエントロピーの法則にしたがうことになるにちがいない。人間のもつ観念の作用も脳の生理過程に基礎づけられるわけだから、脳の生理過程とのなんらかのズレによって生じる〈考える〉という人間の観念の作用が熱力学の時間の矢に沿うことになるのは必然である。つまり人間の心理的な時間の矢は宇宙論的な時間の矢と同じ方向をもつことになる。>(『内包表現論序説』所収「自然論」)
<ホーキングの時間の矢についての理解を韻を踏むように追従しているだけだとわたしは思う。この世界では神に取って変わって熱力学第二法則にしたがう事象のふるまいが自然な真実の光景だとされる。そうだろうか。エントロピーからつくられる生きていることの説明は同一性が共同化された虚構や譫妄にすぎないことを払拭しえているか。内面化や共同化できない存在の複相性のなかにしか生の固有性はない。それは存在しないことの不可能性として存在している。量子重力理論の解釈によって神という同一性の権化が量子のふるまいに憑依し転遷しただけである。だいいち人間の精神現象のひとつにすぎない力学で万象を説明できるはずがない。>(「歩く浄土264」)

カルロは、生命はきわめて秩序立った構造を生み出すとか、局所的にエントロピーを減少させるといわれることが多いが、これは事実ではなく、生命もまた自訴組織化された無秩序でエントロピーの法則に従っていると言う。エントロピー教の信ではそうなるというだけで、生命の定義は面々のはからいにしかならない。ある特定の系をもつ特別な系の相互作用によってつくられたこの宇宙が生命の誕生に都合がよかったことと、思考や意識の誕生とのあいだには目の眩む距離がある。人間が認識しうる宇宙だけが我々が対象として粗視化しえた宇宙であることと、意識のあいだにはなんの相関もない。

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カルロ・ロヴェッリのエントロピー教は、意識の発生が共同体と脳のしくみに結びつけられて、自然科学的思考の必然が語られることになる。

自己という概念はどこから来たのかとカルロは問い、自分と似た人々と相互作用することによって人間という概念を形づくり、この相互作用から「己」という概念が生まれたと、カルロは言う。あまりに粗雑な、なにも言っていないに等しいそのことには目を瞑って、さらにカルロの考えを祖述する。カルロによれば、なぜ自分という概念をもっているかというと、グループ相互が数千年かけてヒトの概念を自分自身に投影する技術をある時点で身につけたからである。私たちは同類から投影されて己という概念を獲得した。その己は記憶によってアイデンティティが保たれている。また記憶である精神は脳の機能によってもたらされる。人間の脳全体がニューロン同士をつなぐシナプスに残された過去の痕跡の集まりを台座として機能している。そしてこの痕跡は物語となって保存される。

<わたしたちはとくに、自分とは「別」の人間と呼ばれる生命体を構成する過程を集め、一つのまとまった像を作る。なぜならわたしたちの生活は社会的で、ほかのヒトと盛んに相互作用を行うからだ。彼らはわたしたちにとって、きわめて重要な原因と結果の結び目なのである。わたしたちは、自分と似た人々と相互作用することによって、「人間という概念を形作ってきた。思うに、己という概念はそこから生まれたのであって、内省から生まれたわけではない。「人」としての自分を考えるとき、わたしたちは仲間に当てはめるために自ら開発した精神的な回路を自分自身に適用しているのだ。>(172p)

<思うに、わたしたちが「自分」という概念を持っているのは、自分たちのグループのほかのメンバーと関わるために何千年もかけて発展させてきた付加的な特徴としてのヒトの概念を自分自身に投影する術を、ある時点で身につけたからなのだ。わたしたちは、自分自身の同類から受け取った「己」という概念の反映なのである。>(174p)

<人類は、この壮大なエントロピー増大の歴史の一つの結果であって、これらの痕跡がもたらす記憶のおかげで一つにまとまっている。一人一人がこの世界を反映していればこそ、まとまった存在なのだ。なぜなら自分たちの同類と相互に作用することでまとまった実在のイメージを形作ってきたからで、それが、記憶によってまとめられたこの世界の眺めであるからだ。・・・ここから、わたしたちが時間の「流れ」と呼ぶものが生まれる。これが、過ぎ行く時間に耳を澄ましたときに聞こえるものなのだ。>(192p)

典型的な自然科学的思考によって、人間や自己や意識についての起源が語られている。べつの言い方をすれば、巨大な集団的譫妄が共同体を媒介に科学的とされる宗教的信を生みだす様子が描かれている。いずれにしても社会的な、共同的なありかたから「己」が出てきたことになる。それもまた譫妄という擬制にすぎないではないか。

時間の起源について心理学者ジュリアン・ジェインズが『神々の沈黙』で述べている、<私たちの肉体という自己が物理的な現実の世界を動き回る様子のアナログだ。現実世界の空間的な連続性が投影されて、〈心の空間〉における時間の連続性になる。この結果、「空間化された時間」という意識的な時間の概念が生じ、私たちはその中に様々な事象や自分たちの人生さえも位置づける。空間以外のものになぞらえて時間を意識することは不可能だ>のほうがはるかに説得力がある。

内包とジェインズの二分心のあいだには千里の径庭があるが、そのことのついてつぎのように書いたことがある。この考えはカルロ・ロヴェッリの自己や時間の起源についての批判にも妥当すると考えている。

<それにもかかわらず、肉体を持つ「私」が環界を動き回る行動の比喩や類推をアナログな〈私〉として写像したとジェインズが語り、空間以外のもので時間を意識することは不可能であるという考えに惹きつけられた。根源の一人称を意識の外延性で根源の二人称と名づけ、根源の二人称は領域としての自己をつくりだすとしても、内包的な意識を統覚する還相の性は実詞化できないにもかかわらず往相の性や対幻想として空間化されるほかない。この認識のしくみは是非を超えている。親鸞もまたこの機微についてよく識知していた。
「この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります」(親鸞「末燈鈔」石田瑞麿訳)
わたしは親鸞の自然法爾をふくらませてもっと奥ゆきのある出来事として還相の性と呼び、形もないこの上ない出来事の湧出を実詞化できないにもかかわらず根源の性と名づけている。自然法爾にしても他力や横超にしても言葉である。このような表現の逆理を通してかろうじて実詞化できない出来事が一瞬空間化される。ここには存在するということにどういう裂け目を入れるのかという根源的な問いが深々と横たわっている。

存在しないことが不可能な還相の性によって領域としての自己が可能となり、同一性の用語法の一人称と二人称が相等となる不思議によって三人称の世界が喩としての親族となり共同幻想が消滅する。この機微に意識の外延性が触れることはできない。ジェインズの身体の「私」と身体が写像されたアナログな「私」は類推やアナロジーによって成り立っている。二分法の神の声とその声に隷従して声の実現に帰順する意識の型は二分法の神が消えた後に王権を行使する神聖政治を虫木草魚にふるまう祭祀層として実体化された。数千年にわたる知識人と大衆の二項図式によって人びとはこの意識の範型の虜囚となった。いずれにしてもジェインズの世界は同一性の世界によって細かく記述される。そうではない。自己の手前にある実詞化できない根源の一人称の核となる還相の性は「自己が関係が関係それ自身と関係するような関係」(キルケゴール)に内包化され自己は領域となる。ありえたけれどもなかったものがこのようにして現にあるものとなる。自己の手前を可能とする公準によって意識の外延性はまるごと包摂される。往相の性や対幻想として空間化されてもその核のは実詞化できない還相の性が内包的な世界を統覚している。自己の手前という概念は宇宙のインフレーションの指数関数的膨張に比喩されてもよい。空間内を運動する物質は光速を超えることができないという光速度不変の法則は空間自体が指数関数的に膨張するときには適用されない。なんとなれば根源の一人称という自他未分の出来事のなかに同一性によって分割される時空の構造そのものが存在しないからだ。>(「歩く浄土254」)

またカルロは脳内の記憶の痕跡を時間と定義する。カルロによれば低いエントロピーの痕跡は至る所にある。月のクレーターも化石も望遠鏡で過去の銀河をみることができる。そしてわたしたちの脳には記憶がぎっしり詰まっている。過去の痕跡があるのに未来の痕跡がないのは過去のエントロピーが低かったからだ。つまり生命は自己組織化された無秩序である。

<わたしたちは物語なのだ。両眼の後ろにある直径二〇センチメートルの入り組んだ部分に収められた物語であり、この世界の事物の混じり合い(と再度の混じり合い)によって残された痕跡が描いた線。エントロピーが増大する方向である未来に向けて出来事を予測するよう方向づけられた、この膨大で混沌とした宇宙のなかの少しばかり特殊な片隅に存在する線なのだ。記憶と呼ばれるこの広がりとわたしたちの連続的な予測の過程が組み合わさったとき、わたしたちは時間を時間と感じ、自分を自分だと感じる。・・・ 自分たちが属する物理系にとって、その系がこの世界の残りの部分と相互作用する仕方が独特であるために、また、それによって痕跡が残るおかげで、さらには物理的な実在としてのわたしたちが記憶と予想からなっているからこそ、わたしたちの目の前に時間の展望が開ける。あたかも明かりに照らされた、小さな空き地のように。時間はわたしたちに、この世界への限定的なアクセスを開いてくれる。>(184~185p)

では記憶という時間はどのようなしくみを経て形象されるのだろうか。カルロの言うことに耳を傾ける。

<わたしたちはこの広がり、ニューロン同士のつながりのなかにある記憶の痕跡によって開かれた空き地なのだ。記憶。そして、郷愁。わたしたちは、来ないかもしれない未来を切望する。このようにして開かれた空き地-記憶と期待によって開かれた空き地-が時間なのだ。それはときには苦悩のもとになるが、結局は途方もない贈り物なのである。>(198p)

ほんとうに途方もない贈り物なのだろうか。時間が流れるという意識の特有の感覚が低いエントロピーの記憶がシナプスの結合と消滅に起因し、未来を追憶できないのは、エントロピーの増大の法則に帰順することのあらわれなのだろうか。138億年前のビックバンに始まる初期宇宙が低いエントロピーだったので生命に適した環境が生まれたというのは、われわれが観測しうる宇宙のみをわたしたちが観測していることに違背はしないが、そのことと意識の誕生のあいだには深淵がある。この深淵をカルロが認識することはない。もう少しカルロが名づける「贈り物」について語ってもらう。

<そしてわたしは思うのだ。人生-この短い人生-は、さまざまな感情の間断ない叫びにはかならない、と。わたしたちを前進させる叫び、わたしたちがときには神という名のもとに押し込めようとする感情の叫び、政治的な信念や、最後にはすべてがもっとも偉大な愛のなかできちんと秩序立っていると請け合ってくれる儀式の名のもとに閉じ込めようとする感情の叫び、それは美しく輝いている。あるときは苦痛の叫びとなり、あるときは歌となり。
そして歌は、アウグスティヌスの指摘にもあるように、時間の認識なのだ。それが、時間だ。ヴエーダの賛歌自体が、時間の開花なのである。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」のベネディクトゥスに含まれるヴァイオリンの歌は純粋な美であり、純粋な絶望であり、純粋な喜びである。わたしたちは息を潜め、どういうわけかこれが意味の源だと感じつつ、宙を漂う。これこそが時間の源だと感じながら。>(205~206p)

あまりにも健全な時間という美にたいしてため息がでる。風の谷のナウシカのように美しいのだろうか。カルロの時間は美のシミュラークルであって美そのものではない。カルロがつかんだのは自同者が自同者にたいしてつくる関係で、この世のしくみに過不足なく回収される物語の時間である。かれは行き道の時間しか知らないし生きたことがない。レヴィナスに語ってもらう。かれは「私たちの文明全体が存在了解から派生した」と言う。存在了解の未遂が人類史の人為的厄災を悉く招来した。この修羅をカルロの甘美な自己という時間はかすりもしない。<自己を気遣う自我―存在への固執―「存在への努力」であるかぎり、たとえ自我が心の奥底から他者への「献身」を示そうとも、〈西欧〉という優雅な社会で深く感謝の念に満たされつつ互いに満足を与え合うというかたちでおのれのエゴイズムを消し去ろうとしても、おのれを虚しくしようとつとめても、それはことごとく徒労である。他者のために、他者の立場になって受苦することは、無私には至らない。愛他的意識は、それ自身へ帰還するからである。(略)わたしたちの偉大なる哲学においては、他者との関係は、究極的には自己意識の用語法で語られ、そこに回収されてしまうのである。>(『モーリス・ブランショ』)レヴィナスの世界についての知解はカルロのそれよりはるかに深甚である。『時間は存在しない』の原題は『時間の順序』であるが、ほんとうの意味ではカルロ・ロヴェッリの時間論のなかのどこにもに表現の時間はない。

科学知とは異なるもうひとつの知がある。世界への呪詛が呪詛まるごと往生する生の原像のなかに生きられる時間がある。言い換えれば、自同者の自同者についての知解が、存在のなぞや、存在から派生する時間の起源を証すことはない。自同者の存在了解に遅れてしか内包存在がとどかない、その始原の遅れのなかに、人間が人間であることの可能性が、存在の複相性の往還として、まっさらな未知としてひろがっている。内包は倫理の彼方の倫理からの世界への呼びかけである。おそらく同一性の手前にある内包的な存在の解読には幾世紀もかかるだろう。(この稿つづく)

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