日々愚案

歩く浄土22

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ネットの記事を見ていていらいらすることがある。先の衆議院選挙で言えばわずか25%の得票数でこの国をやりたい放題やって壊している安倍の悪政をなぜ国民は批判しないのかという論調です。異議がある。安倍晋三が言いなりになる奴だけをまわりにはべらせ、政府がメディアをコントロールし、メディアが国民を洗脳しているという構図だ。

一昨年秋からの日本社会の急激な変質が異様であることは事実で、いまはそのことでさえも日常となっている。安倍の悪政を批判するネットの諸氏の苛立ちはわからぬでもない。安倍晋三が稀代のアホであること、第一この自己愛男はなにを自分がやっているかさえわかっていない。まして自分がなしていることを理解する知力もない。こういうアホにしきられ、この国が漂流していることも事実だ。
もうひとつある。正真正銘のバカである安倍晋三が国粋主義を気取りながらアメリカの手のひらの上で、美しい国日本、強靱な国日本を取り戻そうとほざいていることも紛れもない事実だ。幼稚な寝言を現実と取り違える妄執に苛立つ。内心そう思っている人はたくさんいると思う。ほんとうに困難なことや考えることはこの先にある。

ではなぜこの切迫感や焦慮感が安倍政権の批判として表に出ないのか。なぜ人々は立ち上がらないのか。ネットの諸氏は日本人の民度が低いからだと言っています。民度の低さを指摘する中にメディアに洗脳されているということが含みもたれています。違います、それはまったく違います。安倍の批判をするネットの諸氏の視線は痛くも痒くもない統治者とおなじ睥睨する視線です。批判の言葉がマルクス主義みたいに平板です。

わたしは、戦後70年経ち、共同幻想が動き始めているのだと理解しています。先鞭をつけたのは安倍の狂気です。狂気によって誘発されたことはあると思います。しかしどこにも行き場がなかった共同幻想が鳴動しているように感じます。だれもがこの先どうなるか不安です。無力感が底にあります。この無力感は政権に反対の意志を表明しても解消されないものとして諦念のうちですでにひとりひとりが生きようとしています。それがこの国特有の同調圧力として外在的に語られるのです。ひとりひとりの絶望は道理のわかったふりをするネットの諸氏よりはるかに深いのです。

だれもがひとりでは支えきれない生の重量を背負って生きています。小さな身体ではつぶれそうな言葉にならない多くのことを抱えて生きています。長いものに巻かれて背に腹はかえられないのは生の余儀なさです。上から目線の民度の低さという批判はまったく生の根底に届いていません。固有の生は一括りにできないのです。安倍はもとより、安倍を批判する政治的言説は上っ面のものでしかないのです。もっともっと生は味わい深いのです。批判的言説よりは地軸が傾くほどにふかい言葉を欲しいと思っています。元気の出る言葉があれは現実はいやおうなくそこになびき、その言葉のなかに吸い込まれていきます。それが表現です。

自己と共同性は裏腹でよく似ています。出口の見えない自己の回路は共同幻想に同期することに身を任せようとしています。致命的な病を告知されると、怯えて、どう考えていいかわからなくなり、医療という共同幻想に身を委せます。そのほうがじぶんの生き死にをじぶんで決めずにすむので楽なのです。考えなくて済みますから。それが真理という生権力です。おなじように出口の見えない自己のゆくえを共同幻想に預けることで生を延命しようとしています。そこに生の現在があると考えています。わたしはその途を選びません。

ある特定の時代を生きるひとりひとりがその時代との関係でもつ迷妄の度合いはいつの時代も変わらないと考えています。明晰は迷妄からひとを救いはするが生を熱くしないというわたしに根づいた考えから派生する理念の系です。啓蒙的な文化人の言説と啓蒙をうける側とで迷妄の度合いは不変です。いまは電脳社会に煽られてグローバリゼーションという新しい生権力が登場しています。ボーダーレスな圧力と国内の同期の圧力と二重の力が作用してます。国内の同期の圧力でさえボーダーレスな力は易々と平定するとわたしは考えています。そういう意味ではさかしらな言説と民度が低いとされる国民の迷妄の度合いはおなじです。なにより批判の言説になんの世界構想もありません。それが不満です。安倍をあげつらって済むことではないのです。安倍が退陣したらこの世のしくみは変わりますか。

政治に対する見識と医療に対する見識はおなじ生権力の真理の上に成り立っています。上から目線の言説も啓発される側も共同幻想の囚われのうちにあります。自己を自然な基底とする考えでこの囚われから逃れることはできません。どんな美しい自力作善の物語をもってきても外延表現の堅固を崩すことはできません。なぜなら人と人はこの物語でつながることはないからです。そうではなくて人と人はもともとつながっているのです。そこをていねいにつかみだすことでしか未知のわくわくする生を手にすることはできません。
たとえたったひとりで野垂れ死にをしたとしても、非業の死を遂げたとしても、その死は、とともに、を現成する生きられる死としてあります。内包論ではそうなります。

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ネットで安倍を批判する諸氏より現実はもっと先まで進んでいます。1%の富裕層や99%の貧困層という紋切り型の図式よりむきだしの生存競争ははるかに苛烈だと思います。そのなかで生きているとそのことを自覚することさえないのかもしれません。
すでに新しい生権力が登場しています。この力に翻弄されていて、なにしろその渦中にあって、それがなんであるのかまだわかりません。

レイヤーという概念をよく見かけます。佐々木俊尚さんだけでなく坂口恭平さんも多用します。コンピューターとインターネットによるIT革命が電脳社会の中核をなしています。理念ではなく現実です。いま電脳革命のまっただ中です。ボードリヤールなどが言ってきたシュミラークルが現実化しています。
グーグル帝国やビッグサイエンスが興隆しています。これらも電脳革命ぬきには語れません。iPS細胞による人体の部品交換も現実味を帯びてきました。
そのなかで、生のしのぎ方として、新しい生の様式である生権力を、自己をレイヤー化することで迎え撃つという生の範型ができあがりつつあります。それが佐々木俊尚のいう「レイヤー化する世界」です。そして希薄になった生を『進撃の巨人』で実存化する。この見取り図のうちにいま起こっていることは収まるのではないかと思っています。
前者は意識的にレイヤーという概念で生をかたどり、後者は作者や編集者や多くの若者の無意識が表現されているように思います。

グローバリゼーションを支えているテクノロジーは科学と技術の自然過程として実現したものでそこにはなんら倫理的な意味合いはありません。自然に発展したというだけです。いちはやくそのことをシステムに取り入れた者たちが覇者となっているわけですが、主観的には善としてそれは為されていると思います。なにより新しいシステムをつくることは、表現として魅惑的だと思います。富の獲得を一義的なものとして批判するのは的外れです。結果としてそこに富が加重されているということです。ここはとても強調したいと思います。ここは大事なところだと思うのです。意図的に世界が悪に向かっているということは絶対にないと思います。
より虐げ、より収奪するために、この世のしくみが変貌しているのではないということは、はっきりしています。超格差社会の到来が生んだ現実の歪みはどうであれ、その溝をうめるべくひとびとの英知を結集してやられると思います。内包はその先の話です。

佐々木俊尚さんの『レイヤー化する世界』は刺激的です。理念としてどうなのかということより、いまこの世界で現に起きていることをよくつかんでいます。

 〈場〉とレイヤーは、国のありかたをどう変えていくのでしょうか? そもそも〈場〉の世界で、国民国家はこれからも続いていけるのでしょうか?
 権力は、国民を法律と道徳でしばる国家から、人びとの行動の土台となる〈場〉へと
移っていくでしょう。上から人びとを支配するのではなく、下から人びとを管理する、そういう形に権力のありかたは変わっていきます。
 権力は、国民国家から奪い取られるのです。国家の権威は消滅し、最終的には国という形そのものさえもなくなっていくかもしれません。すべては〈場〉に吸収され、〈場〉こそが国家に代わる権力になっていくと私は考えています。
 つまり、〈場〉を運営している新しい企業体こそが、権力の源泉になるという世界がやってこようとしているのです。(『レイヤー化する世界』214p)

佐々木俊尚さんの考えの特徴がよくでています。かれは現実の圧倒的な変化を受容しています。とりあえずそのことに好悪はありません。実感的によく理解できるからです。かれのいうことは理念といういうより実感です。だれもがそのことを実感しています。一義的に善と悪があるのではなく悪との共犯関係として人は生きているという感受もやわらかくていいです。
ひとはだれも無数の属性をもって生きていますが、そのひとつを取りだせば、要素還元主義の方法によって、容易にそのことはデジタル化できます。その要素はA=AかA≠Aだからです。だからひとはさまざまなレイヤーの重なりとして生きているということもできます。逆にそのさまざまなレイヤーの集合体は生きていることをまるごと表現することができるでしょうか。
レイヤーへと分解された生を総合化してみます。生を再現することは原理的にできないと思います。良いとか悪いとか言いたいのではないのです。大脳生理学の最前線の知見でも人の意識の起源についてはまったくわかっていません。流動的知性とかがいまは流行りですが、意識を機能的に説明することしかできていません。人が生きているという不思議には、まったくべつの原理が要請されているとわたしは考えています。

ということを考えながら、『進撃の巨人』の11巻から15巻を読みました。北方謙三の『水滸伝』の作風によく似ていて、滅亡に瀕した人類の近未来版としてあるんだなと思いました。北方水滸伝19巻は完読しました。北方「三国志」も読みましたが、吉川英治のものよりずっと面白かったです。北方謙三は中国の戦国時代を書きながら、現在の性の感受性を入れ込んでいます。そこが面白いと感じるいちばんの理由だと思っています。井上雄彦の『バガボンド』の方が吉川英治の宮本武蔵より面白いです。こういうのって、理屈でなく感覚です。Oh、Rock!なんて説明しても仕方ありません。

『進撃の巨人』はまだ先が見えないです。『バガボンド』もそうですが、『進撃の巨人』も売れ方が半端ないです。はじめ1巻から3巻まではらはらどきどきして、岩明均の『寄生獣』を読んだときと似た感じをもちました。岩明均のマンガも好きでぜんぶ読んでます。どちらも作風と作画が異様なのです。惹きつけられました。なんといっても、『進撃の巨人』の巨人がヘンです。これは読まないとわかりません。
内面のマンガというより革命をめぐる大河マンガです。ここまで現実とガチで勝負するとはすごいです。若者の無意識がそこに反映されていると強く感じます。レイヤー化する現実に対する抗命のマンガだと理解しています。

『進撃の巨人』という人類の絶滅を目前にした革命とそれを担う個々人の内面の葛藤がどこにゆきつくかまだわからない。『風の谷のナウシカ』のアニメ化していない後半の物語を思いだす。宮崎駿の作品の後半は映画化されないだろうし、物語が批評を拒んでいます。ナウシカの後半はそれほど暗いのです。『進撃の巨人』はここをどう突きぬけるのか。
生をレイヤー化して伊藤計劃の『ハーモニー』の世界で生き延びるのか、それともまるごと実存として生をひらくのか。このマンガは佳境にさしかかっています。

いずれにせよ摩擦係数ゼロまで世界はゆきつくとわたしは考えています。どうであれそれが同一性の必然だからです。わたしが生きたい歩く浄土がそこにないのはたしかです。わたしは生きているということまるごと、ひりひりじんじんするのが好きです。

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