日々愚案

歩く浄土23

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内包論をすすめていて徒花かなと思うときがあります。そんなときは好きな音を聴きます。バッハであったりストーンズの Playing The Blues ( Complete )であったり。。。ストーンズのブルース集、ユチュブですけど、いいです。

じぶんのさわった知覚をためらいながら言葉にしています。

じぶんのなかでなにかが流れはじめました。不思議な感覚です。ながく悶絶した三人称のない世界が手応えのあるものとして見えるようになってきたこともあります。その驚き。根源の性という内包の知覚と、根源の性を分有する分有者との関係や、分有者から表現された還相の性という考えに手応えがあります。自己でもなく、共同性でもなく、それ自体として名づけようもなく名をもたぬことがどういうことであるのか、はっきりしてきたからです。手にしたいくつかの概念でじぶんに固有の世界を、内包論として描いている最中です。

「ロックがすばらしいのは、政治を超えているからだ」とパティ・スミスは言う。
ユチュブで彼女の音を聴いていたら、音を背景に、はにかみながら激しい意志が語られていました。字幕を書き写します。かっこいいです。「ロックは最高の瞬間に/神の舌にふれようとする/」。どこの国にもある話としながら、やせっぽちで死にそうだった小さいときのことを語る。「少女の頃/ロックを聞いた/ロックを聞いて/生きたいと思った」。パンクスはロックは死んだというけど、「私は31歳だが/燃えつきてはいない/私はいま/出発したばかりだ」。Oh、Rock!です。

娘が若い頃、ヨーロッパをうろついて、ベルギーで、彼女のライブを見に行ったと言っていました。「たぶん日本人は私ひとりだったと思うけど、パティ・スミスがいちばんの前の席にいた、私の手を握って、私の目を見て、ドント、ギブアップ、ビリーブ、アット、ユアセルフと言ってくれたよ。私がおばあちゃんになってもぜったいそのこと忘れんと思う」と言っていたのを思いだしました。わたしも若い頃、『ラジオ・エチオピア』を聴いて元気がでたのです。このアルバムはいまも好きです。

そういう言葉をつくることができたらいいなと思います。

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「歩く浄土19」でこれからの世界について少し書きましたが、大事なことを書き忘れていました。そこを加筆します。佐々木俊尚さんの『レイヤー化する世界』の論点とも重なります。
記号A=Aとわたしがわたしであることはまったく違う出来事なのですが、わたしたちの生は次第に記号A=Aに漸近していくだろうという直感があります。
佐々木俊尚さんのレイヤー論はわたしたちが生きている生の現在をよく象徴しています。もともとレイヤーという概念はパソコン用語です。重ねるという意味です。いくつものシートを重ねて画像をつくります。身体の具合を診るCTの画像に似ています。生きていることを種々のレイヤーに分けることはできますが、それを合わせて合成しても生は再現できないと思います。双方向的な概念ではなく機能的な概念にすぎないという気がします。

グローバリゼーションの土砂降りの荒天のなかで、やむなくレイヤーという傘をさしているだけではないのか。雨が降るとき傘をさすのはあたりまえです。いいも悪いもありません。ハイテクロノジーによって可能となったグローバリゼーションの猛威が自然なら、その流れに沿って傘をさすことも自然ではないのか。どちらも自然生成そのものだと思います。私にはレイヤーという概念は豪雨から逃れる傘のように思えるのです。経済にはトリクルダウンという考えがあります。ピケティはそれが機能していないと言います。グローバリゼーションの猛威にたいするささやかな風雨をしのぐやり方としてしてしかレイヤーは機能しないのではないかと思います。猛烈な世界の変貌からのわずかなトリクルダウンがレイヤーです。そしてそこをすでにわたしたちは生きています。フェイスブックはうざいけど、アマゾンは頻繁に利用してます。ほんと便利です。
グローバルな圧力に対する生活の知恵がレイヤーという考えではないのか。そう思えてなりません。かんたんに云うと、レイヤーをどれほど巧みに使いまわしても、やはり、人と人はつながらないと思います。趣味や利便や実利としてつながることはありますが、それは自然な生成です。これまでと違ったつながりかたですが、未知をあまり感じません。

グローバルな圧力は怒濤の進撃をしてその勢いを止めることはできません。この圧力によって世界が変貌することは不可避です。その過程でいずれ人間という概念は再定義されることになると思います。テクノジーの進展にともない自然はより高度化します。この過程も不可避です。さきごろホーキングが人工知能の危険性について発言していることをネットの記事で知りました。再生医療も現実味を帯びてきました。人権の理念もほころびてきています。おそらく人間の概念をより外延化することで新しい人間の概念をつくることになると思います。そしてこの過程も不可避だと判断しています。生が大規模に改変されます。

無意識に予見される世界の変貌にたいする抗命の反乱が各地で起こっています。すでに電脳社会はこの世のしくみを大きく組み替えつつあります。自然過程としての変化であり、わたしたちの意志はそこに関与していません。この重力に対する周辺からの大規模な反乱の淵源は言うまでもなくアメリカの中東政策の失敗にあります。テロや反乱を武力で鎮圧するごとにテロの騒擾は広がっています。よく言われる宗教戦争の再燃ではありません。欧米に支配的な同一性から派生した理念と風土を異にする同一性から派生した理念の争闘です。わたしはそれが実相だと認識しています。

わたしは世界の変貌の主人公は覇者となった超国籍企業であると認識しています。西欧の人権の理念もイスラムの非道も抗することはできないと判断しています。欧米の理念はグローバルな展開が可能となるように、グローバリゼーションの後を追いかけ変化を追認します。人間についての理念を外延的に拡張することでほころびを繕っていくことになると思います。またイスラム圏からの非道な抗命は圧倒的な軍事力と経済力と技術力をもつ欧米によって、いかなる形であっても組み伏せられていくことになると思います。

拡張された人間という概念をひとびとは自然なものとして受けいれていきます。自己を自然な基底とするかぎり、イスラムのアラーへの信仰もおなじことですが、自己を実有と根拠づけるその同一性を拒めないからです。テクノロジーの進展にともない生はかぎりなく記号A=Aに近づいていきます。人工知能であれ、再生医療であれ、わたしたちの自己であれ、自己を自己と認知できれば、それが人間、あるいは生命というところまでゆきつくことになると思えます。おそらく人倫の概念や生の概念は外延的な拡張を遂げることになります。同一性を認識の自然な基底とするかぎりそうなるのは必然だと思います。倫理の介在する余地はないのです。

かつてフーコーは人間の終焉を宣言しましたが、人間は終焉するのではなく、外延的に拡張されて延命します。資本にとっても政治にとってもそれはきわめて合理的なのです。
再定義される生や組み直される人間という概念のもとでひとびとは自由に伸び伸びと暮らしていくことができます。始まりの不明に由来する生の不全感さえ消すことができるようになるのだと思います。すべてが予定調和の生の平安さのうちで心身は飽くことなく消費されます。残された最後の天然自然である身体も、そこに貼りついた心も、ともに、それが経済であれ、医療であれ、合理の対象となります。そしてそれを拒む根拠が自己にはないのです。自然にうけいれることになります。すべては自然生成として閉じた円環をなします。

生前父が戦争はやるもんじゃないな、無条件降伏をしたのだから日本はいまも植民地なのだ、なにが独立国家だと口癖のように言っていました。そのことでよく口論をしました。
大戦末期、学徒動員。海軍の特攻要員として配属。のち、陸戦隊として満州に転属。羅津で敵前上陸を受け、武装解除。軍属の母とともに抑留。脱走して難民として母と福岡博多港に帰還。
危篤のとき、戦闘中の出来事をいままさにそのことが起こっているようにありありとうわごとをいうのです。ぞっとするぐらいリアルなのです。母もびっくりしていました。ああ、父の生死をかけた青春がそこにあったのだなと思いました。

ひとは、だれも生涯のうち、何度か不条理に痛撃されることがあると思います。曰く言いがたく言葉にならないことです。天を仰ぐことしかできません。わたしはだれにもそういうことがあると思います。言葉はそのとき無力であり、出来事は言葉になりません。その刹那、ひとは無意識に同一性を超えているのだと思います。その感得は険しい渡世の途上で背後に隠れます。だれであれよぎられたことがあるのです。
内包論は、同一性に拠る外延世界の命運は尽きているという地平から、その覚知をすでに言葉として生き始めています。ありえたけれどもなかったものを現にあらしめるという内包論は、もともとあるものを、根源の性や分有者という概念を手がかりに、つかみだしてみたいという試みです。

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