日々愚案

歩く浄土149:交換の外延性と内包的な贈与2

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マルクスは『経済学批判』の冒頭で使用価値と交換価値をつぎのように定義している。

一見するとブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重性の視点のもとに自己をあらわしている。
 商品はまず、イギリスの経済学者たちのいい方にしたがえば「生活にとって必要な、やくに立つ、あるいは快適な、なんらかの物」であり、人間の欲望の対象であり、もっとも広い意味での生活資料である。使用価値としての商品のこのような定在と、その商品の自然的な、手につかむことのできる実在とは合致している。たとえば小麦は、綿花、ガラス、紙などのような使用価値とはちがったひとつの特定の使用価値である。使用価値は、使用に関してのみ価値をもち、ただ消費の過程においてのみ実現される。同じ使用価値はいろいろに利用されうる。にもかかわらず、その使用価値のおよそ可能な利用のすべては、一定の諸属性をそなえた物としてのその使用価値の定在のうちに総括されている。さらに使用価値は、質的に規定されているばかりでなく、量的にも規定されている。その自然的特性にしたがって、さまざまの使用価値は、たとえば、小麦幾シェッフェル、紙幾帖、リンネル幾エレ、などのようにさまざまな尺度をもっている。
 富の社会的形態がどうあろうとも、使用価値はつねに、そうした形態にたいしては、さしあたり無関係な富の内容をなしている。小麦を味わっただけでは、誰がそれをつくったのか、ロシアの農奴がつくったのか、フランスの分割地農民がつくったのか、それともイギリスの資本家がつくったのかはわかるものではない。使用価値は、たとえ社会的欲望の対象であり、したがってまた社会的連関のなかにあるとはいえ、すこしも社会的生産関係を表現するものではない。使用価値としてのこの商品が、たとえば一個のダイヤモンドであるとしよう。ダイヤモンドをみたところで、それが商品だということは認識できない。それが美的にであろうと機械的にであろうと、娼婦の胸においてであろうと、あるいはガラス切り工の手においてであろうと、使用価値として役立っているばあいには、それはダイヤモンドであって商品ではない。使用価値であるということは、商品にとっては不可欠な前提だと思われるが、商品であるということは、使用価値にとってはどうでもよい規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係なばあいの使用価値、つまり使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。この範囲内に使用価値がはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定であるばあいだけである。直接には、使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が、それでみずからを表示する素材的土台なのである。
 交換価値は、さしあたり、使用価値がたがいに交換されうる量的比率としてあらわれる。このような比率においては、これらの使用価値は同一の交換量をなしている。だからプロペルティウス詩集一巻とかぎたばこ八オンスとは、たばこと悲歌というまったくちがった使用価値であるにもかかわらず、同じ交換価値でありうるのである。交換価値としてならば、ひとつの使用価値はただそれが正しい割合で存在しておりさえすれば、他の使用価値とまったく同じねうちがある。ひとつの宮殿の交換価値は、靴墨幾缶かで表現することができる。その反対に、ロンドンの靴墨製造業者たちは、かれらのたくさんの靴墨缶の交換価値を、いくつかの宮殿で表現してきた。だから、諸商品は、その自然的な実在の仕方とはまったく無関係に、またそれらが使用価値として満足させる欲望の特殊な性質にもかかわりなく、それぞれ一定の量においてはあいひとしく、交換によってたがいに置きかえられ、等価物として通用し、こうしてその多様な外観にもかかわらず、同じひとつのものを表示しているのである。 使用価値はそのまま生活資料である。だが逆に、これら生活資料自体は、社会的生活の生産物であり、人間の生活力の支出の結果であり、対象化された労働である。まさに社会的労働の体化物として、あらゆる商品は同じひとつのものの結晶なのである。この同じひとつのもの、つまり交換価値で表示される労働の一定の性格が、いまや考察されなければならない。
 いま、一オンスの金、一トンの鉄、一クォーターの小麦、そして二〇エレの綿がひとしい大きさの交換価値であるとしよう。こうした等価物としては、これらのものの使用価値の質的区別は消えさっているが、こうしたものとしては、それらは同じ労働のひとしい分量を表示している。これらにひとしく対象化されている労働は、それ自体、同じ形の、無差別な、単純な労働でなければならない。この労働が、金、鉄、小麦、絹のうちのどれにあらわれるかということは、この労働にとってはどうでもよいことであって、それはちょうど酸素にとって、鉄の錆、大気、ぶどう汁、あるいは人間の血液のなかのどこに存在するかがどうでもよいことであるのと同じである。けれども、金を掘りだすこと、鉄を鉱山から採掘すること、小麦をつくること、そして絹を織ることは、たがいに質的にちがった種類の労働である。実際、物的には使用価値の差異としてあらわれるものが、過程のうえでは、使用価値をつくりだす活動の差異としてあらわれる。だから交換価値を生みだす労働は、使用価値の特定の素材にたいして無関係であるのと同様に、労働そのものの特定の形態にたいしても無関係である。さらにまた、さまざまな使用価値は、さまざまな個人の活動の生産物であり、したがって個人的にはちがった労働の結果である。だが交換価値としては、それらは、ひとしい、無差別の労働を、つまり労働する者の個性の消えさっている労働を表示している。だから交換価値を生みだす労働は、抽象的一般的労働なのである。(岩波文庫『経済学批判』21~25p)

マルクスの『経済学批判』は1859年に、その8年後の1867年に『資本論』が出版される。なぜいまさらマルクスなのかと自問しながらこのブログを書いている。人間の意志を歴史に体現し、この世のしくみを変えようとしたマルクスの壮大な試みがマルクス主義という人類史の規模の厄災を招来したのはなぜなのか。だれも試みたことのないマルクスの価値形態論を共同幻想論として読み解く。
空気や水は人間の生存の自然的な基底をなし、交換価値をもつと当時のマルクスは考えた。いまは水はペットボトルでコンビニの商品となっている。やがて空気も商品になるだろう。なにが価値形態論の核心だろうか。マルクスは商品は使用価値と交換価値の二重性として自己をあらわすといっている。この商品としてあらわれる自己とはなにか。マルクスの労働価値説からは交換価値を生みだす労働は、どのように労働がなされたのはではなく、抽象化された一般労働だとされる。貨幣の運動を科学的に記述することはマルクスの主観とはべつものであることをマルクスは前提としている。資本の運動は疎外された労働の必然として恐慌を招き自壊するとマルクスは科学的に予言したが、恐慌は回避され資本のシステムは延命することになった。グローバルな金融経済は世界を席巻している。なぜマルクスの予測は悉くはずれたのか。貨幣の謎を外側からなぞることしかできなかったからだと思う。国家が共同幻想であるように、貨幣もまた共同幻想であるにもかかわらず、貨幣という共同幻想をよい共同幻想に取り換えればこの世のしくみは変わりうるとマルクスは考えた。この世の無言の条理も人間という自然が生存の余儀なさとしてつくりあげた共同幻想であるが、その共同幻想を貨幣論という共同幻想でなぞったのがマルクスの資本論だった。解けない主題を解けない方法でマルクスは解こうとした。交換価値という概念は共同幻想を前提としないかぎり成り立たない。抽象的な労働一般とはそういうものだ。貨幣をマルクスは経済論として考えている。マルクスの思想のど真ん中には、人間の個的生存は社会的な存在であるという強固な信がある。類生活への希求があると言ってもいい。なんどでも言う。人間は社会的な存在ではなく内包的な存在である。人間は根源において〔ふたり〕であり、この自然を分有するかたちで身を引きうける。それが同一性ということだ。マルクスは資本論を存在論として構想すればよかった。国家とおなじように貨幣という商品は共同幻想なのだ。ビッグサイエンスやハイテクノロジーもまた真理の顔をした共同幻想としてわたしたちの眼前にあらわれている。

諸学の知の大半は共同幻想ではないか。ふと目にしたネットの記事をとりあげる。
http://mainichi.jp/articles/20170325/k00/00e/040/228000c
がんの6割は遺伝子の複製ミスというものだ。がんは老化であり撲滅の対象ではないという近藤誠さんのがん理論を彷彿とさせる。このニュースが、がんという病理を粗視化するひとつの考えとしてあることは理解するが、どうじに身体はまちがわないという思想も成り立ちうる。ストレスにさらされて生命が生き延びようと原核細胞まで先祖返りしたものが、がんの本態であると安保徹は主張した。がん細胞がブドウ糖を細胞分裂のエネルギーにすることはわかっている。グルコーススパイクが酸化ストレスの最たるものだから、食後の高血糖を抑え、糖質控えめの食事をしながら、がん細胞を兵糧攻めにし、免疫を活性化するというほうが理にかなっている、とは大半の人は考えない。たんなるひとつの仮説に過ぎない科学知に身を委ね、がんの早期発見が理にかなっていると医療に走る。医学知という迷妄にやすやすと人ははまり込む。ピダハンが、がん治療をするだろうか。どちらが迷妄だろうか。健康という抽象化された一般性は共同幻想である。やがてすべての人が生誕と共に死をカウントする医学知に取り囲まれることになる。金と健康という共同幻想がすべてとなる。宗教や法や国家だけが共同幻想ではない。大半の科学知が共同幻想であり、わたしたちは科学知の属躰となることで生を保証される。最後に残された天然自然であるわたしたちの身体は遺伝子編集の対象となり、厖大な潜在的商品である。おなじように貨幣という商品もまた共同幻想である。というようなことをマルクスが考えることはなかった。

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もしも内包論を着想することがなければマルクスの資本論のなぞを解くことはできなかったと思う。自己意識の外延的な表現は不可避にふたつの自然を生むということ。外界のおおきな自然と内面というちいさな自然。それが人類史ということだった。環界のおおきな自然は国家権力といわれ、ちいさな自然は内面と呼ばれてきた。内面というちいさな自然は外界に共同的な信を疎外し、神や仏、あるいは大衆という理念が表現されたことになる。マルクスは貨幣の運動を観察する理性によって詳しく分析し、貨幣の謎を解いたとマルクスの理性は驚嘆した。それはうそではなかろう。ただしこの驚きはマルクスという人物の主観的な意識の襞にある信である。そしてこの信は個人の私性によって共同的な信へと疎外される。なんと、それが貨幣の本態であったわけだ。つまりかれは貨幣という共同幻想をかれの観察する理性の主観的な信として語った。『経済学批判』でつぎのように述べるときマルクスはどこにいたのだろうか。「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」。マルクスは資本論の分析を自然科学に模している。マルクスは貨幣の謎を自然科学のように解きうるという前提を設けた。かれの念頭にはダーウィンの『種の起源』の進化の概念があり、当時の最先端科学である微分学に震撼された。あまり知られてないが事実マルクスは資本論を執筆する傍ら『数学手稿』という厖大なノートをとっている。微分学という概念がどれほど画期的であったか、どれほどマルクスに衝撃をもたらしたのか、手に取るようにわかる。マルクスが驚いた微分の概念はわたしたちの認識にとっていまはあたりまえの自然にすぎない。マルクスにとって『資本論』は科学であった。マルクスが思い描いた資本論という科学は現実によって裏切られた。マルクスの大才をもってしても貨幣の謎が解かれることはなかった。

 何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第一章、とくに商品の分析を含んでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。そこで価値実体と価値の大いさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。完成した態容を貨幣形態に見せている価値形態は、きわめて内容にとぼしく、単純である。ところが、人間精神は二〇〇〇年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗しているのに、他方では、これよりはるかに内容豊かな、そして複雑な諸形態の分析が、少なくとも近似的には成功しているというわけである。なぜだろうか? でき上った生体を研究するのは、生体細胞を研究するよりやさしいからである。そのうえに、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ。しかしながら、ブルジョァ社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である。素養のない人にとっては、その分析はいたずらに小理屈をもてあそぶように見えるかもしれない。事実上、このばあい問題のかかわるところは細密を極めている。しかし、それは、ただ顕微鏡的な解剖で取扱われる問題が同様に細密を極めるのと少しもちがったところはない。
 したがって、価値形態にかんする節を除けば、この事には、難解だという非難を受けるようなところがあるとは思えない。私はむろん、何か新しいことを学び、したがってまた、自分で考えようと志す読者を想定しているのである。(岩波文庫『資本論』第1版の序文 11~13p)

おなじ問いは吉本隆明のなかにもあった。

例えばカール・マルクスは、このキリスト教(イエス)の倫理を肩からはずし、制度を逆転すればいいはずだと考えた。しかしそれを試みたロシアをはじめ社会主義は、その倫理を個々の人間の肩から集団に移しかえただけで、富んだのは制度を支える「官僚」の集団だけだった。これは人間が利己心を捨て得ない存在で、『聖書』のいうように「神」だけにしか私的利害の問題を放棄できないからだろうか。これが二千年前も、二千年後の現在も「社会」が孕んでいる疑問である。(『中学生のための社会科』所収「国家と社会の寓話」90p)

わたしは貨幣は身体の延長態であると言ってきた。この私性は抽象化された一般性として疎外され、私所有の観念は共同幻想として担保される。交換という行為は共同幻想を媒介にして成り立つということだ。国家という観念と共に人類の大発明だった。のちに書記の体型がこれらの観念を整序していくことになる。私利と私欲は共同幻想を介してしか他者と結びつくことはない。それがわたしたちの知る人類史ということでもある。つまり利己心を満たすものは共同幻想をおいてほかにない。「歴史」が「人間の真の自然史」であることを実現するには青年マルクスが性の世界に直観した本質をそのまままるごと概念として取りだし、意識を内包化し、内包自然をつくるしかない。マルクスは資本主義的生産様式の分析を観察する理性によって自然科学であるように擬することができると錯覚した。マルクスも認めるように価値形態論が難解であるようにみえるのは人間の精神のなかにある私性の根源をつかむことができないからだった。この錯認を吉本隆明も踏襲している。意識を外延的に表現するかぎり、ここまでしかくることができない。それは才の多寡とは関係ない。神や仏の代替物として鉄鎖以外失うもののない労働者を仮構しようと、大衆の原像を繰り込もうと、衆を語る思想のなかに生の固有性はない。ましてや貨幣が分有されることもない。(この稿つづく)

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