日々愚案

歩く浄土148:交換の外延性と内包的な贈与1

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「ゼロよりもはるかに下」の深みを27年生きて、その切り立った崖の上で、NOBODY NOWHEREだったドナ・ウイリアムズは自問する。「わたしたちは、自分の中に自己というものがあることを、必ずしも初めから知っているわけではないのである」(『こころという名の贈り物』)そのだれでもなくどこでもない場所を生きてきたドナが、イアンと出会いSomebody Somewhereとなっていく物語は感動的だった。ドナの発見は自然から離陸した初期の人類がどうやって生を発見したのかということに重ねることができる。自然の一部であったドナはさまざまな「モノ」に憑依し仮面の人格を演じて生きてきた。あるきっかけでそこから脱皮し、人となる。そのときドナは戦慄的な恐怖に襲われパニックに陥る。歴史的には初期の人類がヒトから人となったとき性の光球に来襲されたことに比喩できると思う。自然から離脱するときの心的な混乱はユーラシア大陸の東ではアジア的停滞という精神風土の基で原始的な宗教であるアニミズムを生み、洗練されて自然への融即の術を競う仏教へ、大陸の西では精霊信仰は一神教へと昇華した。ドナの個性的な体験は初期の人類を襲った混乱に比喩される。ドナの激烈な恐怖は自然宗教よりふるい意識の起源をもっているように思う。ドナは錯乱のなかでなにを生きたのか。モノではなく、人間に帰属するという根源的な感情だった。この帰属感は独特のものである。「互いが相手に属している」と感じる世界だとドナは言う。イアンの存在によってドナの心身がかたちをもつこと。ドナの存在によってイアンがイアンになるという不思議。自己というものがあらかじめ存在して他者が存在するのではない。そこにはどんな神秘もない。親鸞はこの機微を他力と言い、フーコーは真理は他性が措定すると言う。内包論ではこの驚異を還相の性と呼んでいる。生が過剰なストレスにさらわれると、同一性の下で行使される観察する理性がつくったおおきな自然とちいさな自然は精神の古代形象に召喚され、身体の危機は原核細胞まで先祖返りすることで生き延びようとする。国家権力や内面という外延自然から内包自然という人類史の起源へ、さらには原核細胞という生命の源まで遡行する。ここに自然の根源がある。ドナという自我がイアンを招来したのではない。渾然一体となった熱いかたまりから身を引きはがしてドナがドナとしての輪郭をもったのである。ドナはイアンに属し、イアンはドナに属する。それがフーコーの真理は他性によって措定されることの意味である。意識を先端科学を駆使して同一性的な観察する理性が解明しても、そこにあらわれるのは空虚である。それはまちがいない。生存の知覚が根づいたときのドナの驚きを貼りつける。ドナの生涯にとっての、人類にとっての大いなる一歩が踏みだされた感動の場面。ドナはじぶんが人に属していることを発見する。この感情の発見から「帰属感」までは一瞬だった。

わたしは、全世界が自分に向かって開かれたような気がした。わたしの根は、新しい土の中に、しっかりと張った。わたしはその根に、「帰属感」 という名をつけた。

人が胸をいっぱいにしているのを感じると、こちらの胸までいっぱいになってきてしまいます。・・・人がなぜわたしを抱きしめようとするかが、わたしにはもうわかるのです。人は、胸がいっぱいになった時に、人を抱きしめるのです。

ドナはこのとき神や仏というモダン以前の精神の古代形象を生きている。ヒトという生命形態の自然のなかに名づけようもなく名をもたぬ善悪未生の熱いかたまりが知覚され、身が心をかぎり、こころが身をかぎる同一性がむくっと起き上がった。直視すると目が潰れるこの熱いかたまりは分有することで、はじめて心身一如の自然に自己という現象が生じた。ヒトが根源において〔ふたり〕という存在の事実は昔も今もこれからも変わらない。根源の性を分有するという存在のありようは、観念の身体性を粗視化した貨幣や国家や生を引き裂く権力が改変可能であることを示唆する。観念が身体化され、身体化された観念がさらに累乗されていく観念の遠隔対象性は、人という自然の輪郭に沿っていやおうなく自動的に更新されていく。マルクスの思想もこの生存の条理を外側から見事になぞったことになる。意識の外延表現によって貨幣という商品を分析したマルクスも例外ではなかった。

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マルクスが資本を分析して社会の行方を客観的に記述したとき、かれは自分の理論が主観的な意識の襞にあるのではなく科学だと考えた。「何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第一章、とくに商品の分析を含んでいる節の理解は、したがって、最大の障害になるであろう」(『資本論』第一巻・第一版の序文)『資本論』は科学なのか。科学だということでマルクスが読者に忖度したことは、私マルクスの信を述べたものではないとマルクスは言いたくてたまらない。なぜなら資本論は科学だから。ここで意識はどうどうめぐりをする。そしてマルクスの思想はきっちり過ぎた。マルクス以降の経済学はこの世の条理を適者生存に沿ってなぞる世俗の経済論だった。わたしはマルクスの経済学を批判するが野性のマルクスが生きたこの世のしくみを変えうると信じたマルクスのおおきな情熱を批判することはない。わたしの内包論において、マルクスの思想の公理は拡張され、マルクスの思想はもっとも深いところで継承されていることを信じている。なにが問題か。ある公理を前提にしてマルクスは資本論を書いている。ひとつはマルクスは意識していなかったが、同一性である。もうひとつある。内包論から資本論の価値形態論を共同幻想の一形態として読み解く。

ドナの「互いが相手に属している」という同一性以前の原感情から人間は分割されたということ。フーコーが真理は他性によって措定されると言い遺したこと。同一なものに回帰しない同一律の源が根源の二人称として存在する。歴史の概念としても現存性としても共に言いうる。人は根源的に〔ふたり〕であるという人間の存在の原型からマルクスの資本論を読むと、どう読みかえられるか。わたしによってはじめて試みられる。これまで飽くほど引用してきた『経済学・哲学草稿』からいつもの場所を貼りつける。これまで明確には言ってこなかった知見をつけ加える。科学についてのマルクスの感度と経済現象についてのマルクスの理解の深度が験される。なによりマルクスの人間理解の深さが問われることになるだろう。

①人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な類関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間に対する〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質かが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間に対するもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されてる。また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係になかに示されているのである。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』)

②人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ。君が芸術を楽しみたいと欲するなら、君は芸術的教養をつんだ人間でなければならない。君が他の人間に感化をおよぼしたいと欲するなら、君は実際に他の人間を励まし前進させるような態度で彼らに働きかける人間でなければならない。人間にたいする-また自然にたいする-君のあらゆる態度は、君の現実的な個性的な生命のある特定の発現、しかも君の意志の対象に相応しているその発現でなければならない。もし君が相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生みださなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。(前掲書)

③それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は二つの受苦的な存在であり、自分の苦悩を感受する存在であるから、一つの情熱的な存在である。情熱、激情は、自分の対象にむかってエネルギッシュに努力をかたむける人間の本質力である。《しかし人間は、ただ自然存在であるばかりではなく、人間的な自然存在でもある。すなわち、人間は自己自身にたいしてあるところの存在であり、それゆえ類的存在であって、人間は、その有においても、その知識においても、自己をそのような存在として確証し、そのような存在としての実を示さなければならない。したがって、人間的な諸対象は、直接にあたえられたままの自然諸対象ではないし、人間の感覚は、それが直接にあるがままで、つまり対象的にあるがままで、人間的感性、人間的対象性であるのでもない。自然は-客体的にも-主体的にも、直接に人間的本質に適合するように存在してはいない。》そして、あらゆる自然的なものが生成してこねばならないのと同様に、人間もまた自分の生成行為、歴史をもっているが、しかしこの歴史は人間にとっては一つの意識された生成行為であり、またそれゆえに意識をともなう生成行為として、自己を止揚してゆく生成行為なのである。歴史は人間の真の自然史である。(前掲書)

おおまかにはマルクスの資本論は暗黙の公理を前提にし、3つの定義によってくみ上げられている。マルクスの思想には人間の個的な生存は社会的なものであるという公理がある。この公理を疑うことがマルクスになかった。マルクスの公理とはなにか。類生活である。この類という概念は神という超越の代替物であるがマルクスは類生活を至高のものとみなした。類という理念を信仰したマルクスにはおおきな迷妄があった。神が虚妄であるとすれば類もまた迷妄である。そのことに気づいた気配はない。男性の女性にたいする関係のなかに人間にとってもっとも本質的なことがじかにあらわれるという本質直観がマルクスにあった。マルクスの思想で唯一生きのこるのはこの本質直観だけだと思う。だから男性の女性にたいする関係が人間の人間にたいする関係になることも、人間の自然にたいする関係になることもない。男性の女性にたいする関係や女性の男性にたいする関係のなかにもっとも本質的な自然があらわれるとして、その余の観念は共同の幻想として疎外されるのだ。自由と平等を実現するはずであった類生活は私利と私欲にとってだけ相性がよく、友愛や博愛はまったく関心のなかにはなく、赤の他人なのだ。フランス革命の人権宣言も自由や平等はおおいにけっこうなことだったが、友愛と博愛は自由と平等の理念と断絶している。それが適者生存という世界の無言の条理だった。

「人間を人間として、また世界にたいする人間の関係を人間的な関係として前提してみたまえ。そうすると、君は愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他同様に交換できるのだ」とマルクスが熱く世界を語るとき、人間は信頼という関係を共同幻想として疎外する。交換は共同幻想の歴史そのものなのだ。人間のつくった自然は共同幻想の歴史としての自然であり、この生存の条理は資本主義の恐慌の予測を先取りし人間にとっての自然を少し改変することで回避できた。それが戦争という自然の条理だった。主観的な意識の襞にある信が歯が立つものではなかったと言えよう。マルクスの思想にあるこの牧歌性はいったいなにに由来するのか。マルクスの思想は現実をまえにして木っ端みじんに吹き飛ばされた。それはマルクスが資本を交換として粗視化したからである。マルクスの構想した「歴史は人間の真の自然史である」は外延的な自然現象そのものである。

わたしが試みるマルクスの思想の読み替えは、マルクスにみえていないものがわたしにみえているから可能となっている。マルクスの思想の暗黙の公理である同一律はマルクスにはみえていなかった。かれは神の代わりに類という超越を可視化し、それを信じ、社会へと敷衍した。人びとの私性と他者への配慮は断絶しているにもかかわらず、かれはこの深淵を目を瞑って跳び越し、理念を「社会」化した。それがどれほど無惨なことであったかわたしたちはしっている。マルクスが歴史の必然とした資本論という科学は経済政策や戦争によって回避された。マルクスが夢想した歴史を真の自然史とみなす世界は無言の条理をなぞることとして機能した。意識の外延史はおおきな自然と人びとの内部にちいさな自然をつくることしかできなかった。根源の〔ふたり〕という生の知覚でマルクスの価値形態論という外延自然をこれから包み込んでいく。価値形態論を共同幻想の遷移として組み換える。マルクスの思想を語ることは現在を語ることと同義である。この試みによって人類史は転換する。(この稿つづく)

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