箚記

内田樹メモ5

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    1
 しつこくレヴィナス。
 読んでは忘れ、忘れては読んでを繰り返し、いつのまにか忘れてしまったレヴィナスの哲学について、内田樹の本を読みながら気づいたこと。善をだれよりも渇望し(ヴェイユもそうだった)、主観的な意識の襞のうちにある善悪の基準を包越したかったレヴィナス。いくら忘れても、そのことまで忘れたことはない。

 彼の哲学はおおまかにいってふたつの特徴があると思う。まずひとつめ。徹底した生の不全感が彼にあった。彼が生きた時代の時代性がそのことに拍車をかけたと私は思っている。実質的な彼のデビュー作『実存から実存者へ』はハイデガー批判の著であり、ギリシャ以来の哲学の伝統への批判である。心意気としていうならヨーロッパ文明の批判も射程に入れている。
 『実存から実存者へ』を読むとすぐ気がつく。〈ある〉のざわめきに捉えられることの戦慄がレヴィナスにある。

 捕囚の境涯で記述され、大戦明けに世に出たこの著作に呈示された〈ある〉の起源は、子供のときから胸に秘められ、不眠のさなかで沈黙が響き渡り空虚がみなぎるときに再び現れる、あの奇妙なオブセッションのひとつにまでさかのぼる。(『実存者から実存へ』西谷修訳 第二版への序文)

〈ある〉への融即は主体を非人格化し死の不可能生をもたらすとレヴィナスはいう。〈ある〉とは〈イリヤ〉のことだが、〈ある〉を知覚するとき、そこにレヴィナスに固有の生得的な性分にナチのユダヤ人虐殺が色濃く影を落としているのは否めないと思う。生の原質に、つまり天与の資質に逃れがたい体験がからみついてしまうと、悪夢を振りきろうとするほどに天与のものに引き寄せられていくという表現の宿命のようなものがあるのかもしれない。もがきながら考えていく当事者性の思考は、考えているじぶんを括弧に入れ俯瞰することができない。解釈を拒否するこの思想の方法は一般知や一般解(文化人特有の身ぶりや口舌)をなにより憎悪し嫌悪するから、個別に徹し普遍化をめざすしかない。

 パウル・ツェランなんかはこの困難をつきぬけたと思う。

 喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来、しかも、起こったことに対しては一言も発することができませんでした―しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けていったのです。抜けて行き、ふたたび、明るいところに出ることができました―すべての出来事に「ゆたかにされて」(ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶)

 ツェランの言葉は、コンパクトに大事なことが過不足なく言い尽くされていて、何度引用してもいいなあと思う。『歎異抄』の付録にしてもいいぐらいだ。言葉が「これらの出来事の中を抜けていく」ということは、その中にあってそこを生きるということで、およそ知解のおよばぬ領域である。人と人が繋がるとはどういうことか、人と人はどう繋がっているのか。どんなに切り裂き、破壊し、内閉しようと、伝わらないことしか伝わることがないという逆説によって、人と人は繋がっている。この逆理を可能とするものが、ことばなのだが、世間の言説とは異質のもので、まだ商品化されていない。開発されればこの世はおのずとひっくり返る。

 ドイツの捕虜収容所で、あなたはこの本(『実存から実存者へ』のこと―注)をお書きになりましたが、そのテーマはなんでしょうか―との問いに答えてレヴィナスはいう。

レヴィナス―そこでは、私が「がある」〔「それがそこにもつ=ある」〕ことI‘《il y a 》と呼ぶものが問題にされています。私はアポリネールが『がある』Il y aと題する作品を書いたことは知らなかったのですが、しかし、この言い回しは、彼にあっては、実存するものの喜び、豊かさを意味しており、ハイデガーの《es gibt》〔それが与える=ある〕とやや似ているところがあります。それとは逆に、私にとって「がある」は非人称的な存在、すなわち、非人称の《il》「それ」の現象なのです。この問題に関する私の考察〔反省〕は、子供のときの思い出に発しています。独り眠りについているとき、大人たちはまだ生活を続けています。その少年は、寝室の静寂が「ざわめいている」ように感じています。

ネモ―ざわめいている静寂といいますと。

レヴィナス―空の貝殻を耳にあてると、その貝殻の内に何かが一杯につまっているかのように、その静寂がざわめきのように聞こえることと、なにかしら似ているところがあります。たとえ何もなくても、「それがそこにある」という事実は否定し得ない、と思われるときにもまた、何かしら感じとることができます。しかし、存在の舞台そのものが開かれている、つまり、そこにあるのです。創造に先立つまったくの空虚のなかで、それを―il y aを創造することができるのです。

ネモ―つい今しがた、あなたは《es gibt》つまり、ドイツ語の「がある」、そしてハイデガーが行なった寛大さとしての《es gibt》の分析、この《es gibt》には、与えるという意味の動詞(*)がある(*)わけですから、―にお触れになりました。あなたにとっては、それに反して、《il y a 》になかに寛大さはないわけですね。

レヴィナス―ええ、その通りでして、私は《il y a 》の非人称性、つまり、《il pleut》〔雨が降る〕や《il falt nuit 》〔日が暮れる、夜になる〕と同じような《il y a 》の非人称性を強調しています。そこには、喜びも豊かさもありません。それは、このようなざわめきの全面的な否定の後に再び立ち戻ってくるざわめきなのです。無(*)  でもなく、存在(*)でもありません。私は、時折、除外された第三者という言い回しを用いることがあります。この持続する《il y a 》について、これを存在している出来事ということはできません。そこには何もないにもかかわらず、それを無である、ということもできません。『実存から実存者へ』はこの恐るべきものを記述しようとしており、さらにまた、これを恐怖かつ恐慌として記述しています。(『倫理と無限』原田佳彦訳p55~p59/ ルビは略。横文字の略は*で表記―森崎注 )

 起こってしまった出来事から目を逸らさずレヴィナスは考想する。だれにも看取られることのなかった死。それは創造に先立つまったくの空虚であること。それそのものをレヴィナスはイリヤ(「がある」)と名づける。それは非人称であり、喜びも豊かさもなく、無でも存在でもなく、ざわめきなのだという。非人称の戦慄。遺棄された残骸。イリヤ。むしろイリヤは無よりも仏教の空に似ている。現代物理ならイリヤを真空のエネルギーとでもいうだろう。

 レヴィナスの思想の根底には存在するということのどくとくの感触が横たわっている。それを彼は、〈ある〉のざわめき、不安、恐怖とか、自分に対する嫌悪感、やりきれなさだという。〈ある〉はなにか過剰なものであり、どこか重苦しいものであるという、気配のように浸透する、彼に固有の生のさわりかたがまずはじめにある。だれのどんな思想も、ある固有な天与の生を芯にして体験を巻きとりながら幹を太くするものだとしたら、他者に対する有責性を至上のものとする峻烈なレヴィナスの思想も彼固有の生の感受から去ることはなかった。

    2
 『実存から実存者へ』についてのインタビューの引用を続ける。

ネモ―そのとき、あなたが提出なさったのはどんな「解決策」だったのでしょうか。

レヴィナス―私の最初の考えは、指でさし示すことができるような「存在者」、「何かあるもの」(*)は、おそらく、存在のなかに恐怖を呼び起こす《il y a》の支配に対応する、というものでした。ですから、私は《il y a 》という恐怖のなかでの光の射し初め、つまり、太陽が昇るその一瞬―そのとき、事物は自分自身にたいしてその姿を現わし、《il y a》によって支えられるのではなく、《il y a 》を支配するのです―について語るのと同じように、存在者や特定の実存者について語りました。テーブルがある〔存在する〕(*)とか、事物がある〔存在する〕(*)とか、言わないでしょうか。そのとき、存在は実存するものに結びつけられ、また、すでに我はそこで自分が所有している実存するものを支配しているのです。そういうわけで、私は実存するものの『転換』〔品詞転換〕《hypostase》、すなわち、存在から何かあるもの(*)に至る移り行き、動詞の状態からもの(*)の状態への移行について語ったのです。私は、そこに据えられた存在は「救済」される、と考えていました。実際には、その考えは最初の段階でしかなかったのです。というのも、実存する我は、自分が支配しているこれら実存するもののすべてによって塞がれているからです。実存の閉塞は、ハイデガーのあの有名な「配慮」が私に対して形をとったものでした。
 そこから、ひとつのまったく別の運動が生じてきます。《il y a 》から抜けでるためには、自己にとどまるべきではなく、自己を脱却しなければなりません(ここでは触れないが、ヨーロッパ中世の偉大な思索家マイスター・エックハルトも似たことをいったが、レヴィナスのそれとはニュアンスが違う―森崎注)。つまり、廃位された王について語られるような意味で、廃位〔脱却〕を実行しなければなりません。我によるこの至上権の廃位〔剥奪〕とは、他人との社会的な関係、無私無欲な〔存在するものの-間(にある利害関係)を-無にした(脱した)〕(*)関係ということになります。このような関係が意味している存在からの脱出ということを強調するために、私はそれを三語に分けて書いています。私は汚濁にまみれてしまった「愛」という言葉には気をつけていますが、しかし、私には当時から、他人に対する責任、他者に対する存在〔対他存在〕(*)が、存在の匿名で無分別なざわめきをさえぎるように思われました。まさしく、このような関係の姿をとって、私に《il y a 》からの解放が見えてきたのです。このようなことが私に生じ、私の精神のなかで明確なものになったときから、私は《il y a 》について、それ自体としては、自分の本のなかではもう殆ど語ったことがありません。しかし、《il y a 》の、そして、無意味の影は、無私無欲(*)の試練そのものとして、なお依然として不可欠なものであるように、私には思われます。(同書p62~p66/ ルビは略。横文字の略は*で表記―森崎注 )

 どんな読み方をしようと難解であることに変わりないが、ところどころレヴィナスの素顔が覗いている。生きているのでもなく、かといって死んでいるのでもない、ただ〈ある〉そのものが波及するざわめき。イリヤという遺棄。イリヤからの脱出。存在者なき存在を引きうけることの不気味さからレヴィナスは抜けでようと試みた。「太陽が昇るその一瞬―そのとき、事物は自分自身にたいしてその姿を現わし、《il y a》によって支えられるのではなく、《il y a 》を支配するのです」。「そういうわけで、私は実存するものの「転換」〔品詞転換〕《hypostase》、すなわち、存在から何かあるもの(*)に至る移り行き、動詞の状態からもの(*)の状態への移行について語ったのです」。イポスターゼ(hypostase)によって、指さされたものは「救済」されるとレヴィナスは考えた。

 「実詞化」(hypostase)とレヴィナスの思想の根幹である「存在の彼方」は密接に結びついていて、彼の思想を理解する要をなしている。精神医学者の木村敏は「実詞化」(hypostase)を「実体化」と訳している。「光の世界で認識の対象となるのは、一般的にいって『存在者』である。この存在者以前に、存在者から自由な、純粋な『ある』こと、つまり『存在者なき存在』がある。存在者がこの『存在者なき存在』を『引き受ける』出来事を、レヴィナスは『実体化』と呼ぶ」(「レヴィナスの他者論」(『分裂病と他者』所収)。木村敏は「がある」が「である」をみずからのもとに凝集する作用をイリヤの実体化と考えた。

 肝心なところだから木村敏の発言を続ける。「〈分裂病〉をめぐって」の座談会のなかで木村敏は言う。

・・・レヴィナスが言っているイポスターズということをしきりに考えました。イポスターズというのは、どう訳していいのか全然わからないんだけれども、とにかく存在が存在者によって引きうけられる出来事を指しています。存在というのは、〔もの〕としての存在者とは絶対的に違ったレベルの事柄であって、レヴィナスは「イ・リ・ヤ」(Il y a)という言い方を使う。そしてこれはハイデッガーのザインよりももっと深いんだと言う。深いというのはおかしいけれども、ハイデッガーのザインはあくまでザイエンデスに縛られているとレヴィナスは考えるわけですね。存在者の存在。そうじゃなくて、存在者というものの一切ない、ただ「ある」という、本当に〔こと〕でしょうね。〔こと〕だけというものを、イ・リ・ヤというふうに彼は言って、そのイ・リ・ヤが、ある〔もの〕に引き受けられて、そこではじめて「あるもの」という存在者が成立することになる。そのイ・リ・ヤが凝集して、一個の存在者の形をとることをレヴィナスはイポスターズというわけですね。(柄谷行人編・著『シンポジウム』―原文の傍点がふられた「こと」と「もの」を〔こと〕と〔もの〕として表記した―森崎注)

 この国のものにとってはなじみ深い、論旨としては明快な木村敏の解説だといえる。「がある」というイリヤの様態を、「である」という〔こと〕ととらえると、そこに〔こと〕の端(は)があらわれると木村敏はいっている。〔こと〕の端として名づけられた言(こと)の葉、即ち言葉、だという木村敏の考え。すっきりしているぶん、なにかが削ぎ落とされる。たとえばレヴィナスの戦慄や恐怖や倦怠。イリヤという超越の名状しがたさ。ことほどさように〈ある〉は厄介なものだ。〈ある〉の奇怪な謎に取り憑かれ、池田晶子は生まれて、生きて、夭折した。アインシュタインの宇宙方程式にトミマツ・サトウの解をもたらした物理学者佐藤文隆が退官講演でいったことにはっとする。「しかし、素粒子という『こと』は、あくまで場の量子論で記述されるものである。(略)力学はしょせんは、存在に関与せず、運動を扱うものである」(『量子力学のイデオロギー』)。力学を哲学と言い換えてみよう。運動はもちろん存在の顕勢化された現象にほかならない。佐藤文隆とレヴィナスは専門の分野も世代も国籍も違うし、知り合いだと聞いたことはない。それでも「哲学はしょせんは、存在に関与せず、現象を扱うものである」と読めてしまう。不思議な気がしないか。

 イリヤを顕勢化(西谷の実詞化より、木村敏の実体化より、私は顕勢化が妥当だと考える)し、一瞬そこに救済を見出したレヴィナスは「実存する我は、自分が支配しているこれら実存するもののすべてによって塞がれている」と即座に諒解する。「がある」という無名性を「である」と引きうけ、指さしたその刹那、そこは自我によってすでに占領されている! なんということだ、元の木阿弥ではないか。これではハイデガーを踏襲することにしかならない。整列して行進する「と共に」はなにがなんでも厭だ。厭だ嫌だイヤだ。苦心惨憺してレヴィナスが考えついたこと。「《il y a 》から抜けでるためには、自己にとどまるべきではなく、自己を脱却しなければなりません」。

 ついにレヴィナスは自我や主観を統覚する自己同一性という根深い呪縛や悪循環から脱出するひとつの手がかりをえる。「私には当時から、他人に対する責任、他者に対する存在〔対他存在〕が、存在の匿名で無分別なざわめきをさえぎるように思われました。まさしく、このような関係の姿をとって、私に《il y a 》からの解放が見えてきたのです」。そうそうあと一歩。何か特別のことをレヴィナスが創見したというわけではない。ほんとはあたりまえのだれでも知っていることだ。ここを生きたことのない人はまずいない。このありふれたことを私たちの文明はまだ充分に知覚しきっていない。せっかくいいところにレヴィナスは気づいたのに、彼の体験の過酷さが、いやハイデガーの同一性を克服したい性急さが、やがて、直感した狙い所を逸らしてしまう。それはともかく、いまレヴィナスはその可能性の中心にいる。

エロスのうちでこそ、〈超越〉は根源的に思考され、存在に囚えられ避けがたく自己へと回帰していく自我に、その回帰以外のものをもたらし、自我をその影から解放することができる。(『実存から実存者へ』)

有責性は他者性の覚知のうちで重大ななにものかを正しく見てとりますが、愛はもっと先まで進みます。それはかけがえのない唯一のもの(*)との関係です。私の愛している他人がこの世界で私にとってはかけがえのないものであるということ、それが愛の原理です。恋愛に夢中になると、他人をかけがえのないものだと思い込むから、というのではありません。だれかをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ、愛があるのです。(『暴力と聖性』レヴィナス/フランソワ・ポワリエ 内田樹訳 p125)

自我は起源に先立って他者へと結びつけられているのです。(略)
最後にパウル・ツェランの言葉を思い起こしておきましょう。「私が私であるとき、私はきみである」(『神・死・時間』合田正人訳 p246/引用のツェランの言葉には傍点がふられているが略して表記―森崎注)

 引用したところは、峻厳なレヴィナスの顔からやわらかさがのぞいている好きな箇所だ。一度も会ったことはないのに私と同じことを考えているではないか。
 「私が私であるとき、私はきみである」、その刹那、「自我は起源に先立って他者へと結びつけられている」とするなら、この驚異の出来事を、はたして自我という自己意識の用語法で語ることができるのだろうか。できぬ。こう語るかぎり存在論の初期不良を根源的に拡張することはできない。ここがレヴィナスの思想の核心だ。レヴィナスの思想では同一性の影を払拭することはできない。自己の脱却を渇望しながら、自己同一性に回帰することになる。ありえたかもしれないことを、現にあらしめるために、思考をもう一捻りすること。困難だが私はそこを目指している。

 先の引用(内田樹メモ4)で「世界全体は無意味か、それとも意味を超えているか」というクロイツァーの問いにフランクルが答えたこと。「信じるということはいつもそうなのです。信じるというのは、ただ、『それが』真実だと信じるということではありません。それ以上、ずっとそれ以上です。信じることを、真実のことにするのです。というわけで、一方の考え方の可能性を手に入れるということは、たんに一つの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです」(『それでも人生にイエスと言う』)。なぜそういうことが可能となるのか。フランクルは「ただそうせずにはいられないからだ」と言い、そしてそれこそが「価値の実存的根源」なのだと断言する。

 すぐに滝沢さんのインマヌエルという言葉を思い出した。彼はなにもムツカシイことを言っているわけではない。滝沢さんは、1+1が2であるぐらいに、じつにかんたんなことを言っている。あまりシンプルすぎてあっけないほどだ。私たちの数千年の文明の叡智は、こんなかんたんなことを、相も変わらず自我というつまらぬところに閉じ込めて愚劣を繰りかえしている。今も愚行のさなかにある。彼、滝沢さんは言った。「信じる、信じないに先立ってすでに結びつきがあるから、信じるということが起こってくる」。明けても暮れても、歳を重ねても、彼が生涯を賭けて言ったことはなんとこれだけ。たったこれだけのなかに私たちの数千年に渡る歴史の錯誤のすべてが含まれている。皆さんは1があって2があると思っているでしょう。それは違うのです。2があるから1があるのですよ。それが彼の「結びつき」ということなのだ。フランクルは「そうせずにはいられない」「価値の実存的根源」といい、レヴィナスは「だれかをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ」といい、滝沢さんはインマヌエルという。皆おなじことを言っている。それは、つながりのことで、私は根源の性であるとこの驚異を知覚する。根源の性が結ぼれて、自我とは他なる〈わたし〉という現象が立ちあがるのだといってきた。もはや自己表現は放下されている。だから繰り返し、内包表現だといってきた。私の内包の知覚は、滝沢さんやフランクル、そしてレヴィナスの思想よりプリミティブで根源的なものだと思っている。そしておそらく親鸞の〈信〉よりも。(つづく) 

( 2008/05/03 )

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