日々愚案

歩く浄土65:情況論8-パリ同時多発テロ

マインドボム
    1
暗い衝撃。2015年11月14日、パリで同時多発テロ。多数の市民が無差別に銃撃をうけ殺傷される。フランス大統領が緊急事態を宣言。フランスには国軍が展開し、いま戒厳令下にある。
サッカー独仏親善試合の競技場でも自爆テロがあり、フランス大統領も観戦していたとのこと。会場から観客がフランス革命時のラ・マルセイエーズを歌いながら待避したという報道が印象に残る。アッラーアクバルに対してはラ・マルセイエーズしか対抗できない。そのフランス国家のまったき外部がテロを行使したわけだ。仏紙はテロ攻撃をkamikazeと書いていた。

これから各国首脳は対テロ戦争で共同歩調をとることになる。パリのISによるkamikaze攻撃の3日前に安倍が緊急事態条項について語りそのことを危惧していた。日本が対テロ戦に巻き込まれることは必至だから、ただちに苦もなく緊急事態条項は実現する。この国もやがて戒厳令が敷かれる。
そうやって西欧各国首脳もプーチンも習近平もオバマも我が安倍も、新冷戦構造も国益も横断して共同歩調をとることになる。流動化する国際情勢の中でアフリカに利権を求めている中国を自衛隊が駆けつけ警護することはなんの矛盾もない。尖閣の領有権をめぐる確執とは矛盾なく共同行動がとられるわけだ。テロ勢力殲滅に向けて統治者たちは連合する。世界もわたしたちの日々もあてどなく漂流する。

こう書きながらほんとうのところはわからない。事件の背景も報道にかかっているバイアスがどんなものであるかもわからない。間違いないことだけを云えば、電脳社会からのあおりを世界が被り、世界もわたしたち一人ひとりも変貌する世界についてビジョンを持ちえないと云うこと。それはたしかだと思う。そしてたしかなことはそれだけだとも云える。世界史の規模の鎌倉時代があるかと思うと、世界史の規模でのオウム事件がくり返されている。奇矯な安倍もイスラム国の倒錯もメダルの裏表のようで双生児のようにも見える。オカルトな安倍はアメリカを希望の国と言いながら愛国者を気取り、そのひずみを自覚する知性は皆無で空虚そのものであり、カリフ制を標榜するISISの建国運動もおなじだけ空疎なものだと思える。
各国首脳は解けない主題を解けない方法で解こうと民主主義のさらなる外延を図るが、けっきょくはグローバリゼーションが再編成する民主主義に身の丈を合わせていくほかない。それが当面しているわたしたちの現状だ。わかることをわかる範囲で云えば、この事件によってシリア内戦から欧州に流浪した膨大な難民が受け入れ国から排斥を受けることはまちがいない。

九州の地方都市で母の世話をしながら、新聞も購読せず、テレビも所有せず、PCとスマホからのわずかな偏ったネット情報のみで、だれと話すこともなく事件を再構成している。確実に言えるのは電脳社会の中核をなしているグローバルな経済からの煽りを、日々先行き不安なものとして皆が受けていると云うこと。この無慈悲な資本の運動によってだれもが不安な日々を送っていると云うこと。そのことによってなにか世界の地殻変動が起こっていると云うこと。それはたしかだと思う。

グローバリゼーションの猛烈な圧力が市民社会の外部に例外社会をつくってしまったことがテロを生み出す根因であるとずっと主張してきた。べつの言い方をするとハイテクノロジーと金融工学が結合したグローバル経済が民主主義社会の外部を疎外したということだ。西欧世界とイスラム世界の宗教対立は擬装された擬制であり、そこにテロの根因があるのではない。電脳社会のグローバル化が市民社会の外部を生んだということがテロの根因だと思う。

フランス在住の日本人イスラム研究者のツイートが雰囲気を伝えてくれる。

内田樹ツイート 2015年11月15日
パリの情報は野洲潤一郎さんのツイートがサンドニの移民の街に住む日本人ムスリムという立場からフランスの「空気」を伝えてくれます。夏にパリの多田先生講習会の折りに安保法制の勉強会をしたときに集まってくれた中のひとりです。

野洲潤一郎ツイート 2015年11月14日
シャルリーエブド襲撃事件の際もパリにいましたが、今回の一連の事件に対してはそれ以上にほんとうに悲しみと怒りと悔しさでいっぱいです。もう本当にどうしたらいいかわからないです。なんだこれは。この世界はどこかが大きく間違っている。わけのわからない無力感に苛まれます。

シャルリーエブド以来ずっと、もう二度とあんな悲劇が行らないような世界にするためにはどうすればいいか、そればかりを考え、何かその一助になればという思いで自分の研究を頑張り続けようと誓ったのに。本当にどこをどうすればもっと良い社会になるのか、まったくわからない。悲しい。

野洲潤一郎ツイート 2015年11月15日
劇場・サッカー場・カフェ・レストラン・路上。今回銃撃や自爆がおこなれた場所は、毎日の暮らしで利用する場所。そこでいつ襲撃されるかわからないという恐怖。僕はわりと危険な場所でも平気で出かけるタイプなんだけど、今、集会に参加することには正直恐怖を感じる。つまり彼らのテロは大成功だ。

僕自身、シャルリーエブド襲撃の翌日の追悼集会には参加したけど、例え昨晩パリで追悼集会が大規模に行われていたとしても参加したかどうかわからない。今回は前回の時よりはるかに恐怖が大きい。シャルリーエブド襲撃はなぜそこが攻撃対象に選ばれた想像することが容易だったが、今回は違う。

野洲潤一郎さんの、「なんだこれは。この世界はどこかが大きく間違っている」や「本当にどこをどうすればもっと良い社会になるのか、まったくわからない」というのはあたっていると思う。民主主義の手直しでどうにかなるという事態ではすでにないのだ。電脳社会が民主主義の知解のおよばぬ、足下にある剥きだしの生存競争を露出させたと云うこと、それがいまわたしたちが当面していることなのだ。

それでもこんなこともある。佐々木俊尚さんのリツイートで知った。

アデル・トルモスさん、自爆テロ実行犯がモスクに侵入する際に羽交い絞めにして防ぎ、犯人と共に爆発に巻きこまれて死亡。彼は自身の命と引き換えに、モスクにいた何百人もの人を救った。パリでのテロの前日、レバノンの首都での出来事。

    2
一体なにが起こっているのだろうか。民主主義もひとつの過渡的な共同幻想にすぎず、いくら手当てをしてもその綻びを繕うことはできないということだ。
フランス革命で自由、平等、友愛の理念がつくられたと伝承されているが、自由や平等という理念と、友愛という理念はまったく次元が違う。人格に付与された自由・平等という理念を人は容易に受け入れるし、ひとはその理念を好むものであるが、友愛はいつも他人事なのだ。それは自我という人格の本質に根ざしている。自由で平等であることを自我の根幹をなす私利と私欲はおおいに歓待する。こう云ってもよい。民主主義は歴史の偉大な作品であるが、それはあくまでも人格の表出にすぎないものだ、と。そういう意味で民主主義という共同幻想もまた過渡的な概念だと云える。

民主主義は人格に与えられたもので、人格ではない無意識やヴェイユのいう匿名の領域には建前としてしか与えられていないので、そこにはいつも世界の無言の条理がぱっくりと口を開けて生を呑み込もうとしている。わたしは民主主義は絶えず末端がむき出しの生存競争に晒されていると言ってきた。民主主義の理念は日々の生存の足元にはとうてい届かないのだ。建前としては善意の人々によってそのことが語られたりはする。しかし間違った一般化によっていつも友愛という他者への配慮は詭弁と欺瞞によって隠蔽されつづける。ようするに友愛はいつも他人事なのだ。世界はながいあいだここで思考停止してきた。その間隙をアラーアクバルという精神の古代形象によぎられ恐怖している。それがテロの本質だ。

ラ・マルセイエーズを唱和し、国家へ身をよせることでテロがなくなるだろうか。移民者や難民への排斥がなくなるだろうか。そんなことはない。禁止と侵犯はこれからも絶えることなくくり返される。異民族や異端にたいする容赦ない殺戮と報復、それが人類史かもしれない。報復はさらなるテロを招くことになる。そうやってテロとの世界戦が始まるのだろうか。
民主主義をいかに強化してもテロが蔓延することを防ぐことはできないと思う。民主主義という念仏をどれだけ唱えようと事態が好転することは一切ない。わたしたち一人ひとりの生存はもっとはるかに追い込まれている。そこにわたしの生の実感がある。
ではテロは不可避か。違う。
そうではないと内包論では考える。世界のたいするビジョンがテロと空爆のない世界を可能とする。たんてきにいえばどうやれば人格に付与された自由や平等と友愛をひらくことができるかと言うことだ。そのことを内包論で考えつづけている。

わたしが想定する世界についてのビジョン。
擬装されたふたつの共同幻想の激突。ふたつの擬制の衝突。事態が急迫するとき第三者の立ち位置はありえない。どちらかに立つしかない。どちらも自分たちに正義があると身命をかけて主張する。では、どちらに義があるのか。閉じた信の内部にいるかぎり決定不能である。わたしは閉じた信を内包という理念によってひらくことができれば、精神の古代形象とモダンの相克は解決可能だと思う。それはどうじにグローバル経済をなめらかにひらくことにも通じる。

    3
ここで今回のフランスへの同時多発テロを事態の根源から思考してみる。
グローバリゼーションによって引き起こされた急速な世界の地殻変動のひずみが事件を喚起した。人間の歴史にとってこれまでのところ最上の作品とも云える民主主義という制度の外部に、グローバル経済が歴史の無意識としてつくりあげた例外社会に加重される力への応力がテロという非道であると考えている。この事態を根源的に考え尽くすにはわたしたちがすでに識っている理念では歯が立たない。この事態に言葉や知識はまったく無力である。
むかし内田樹と平川克美が往復書簡本のどこかで「ま、やめましょう。暗い話は」と言っていた。胸の悪くなるどぎついこと。かつてわたしは無援の戦争をひとりでかいくぐった。言葉はまったく無力であり、苛烈な出来事が現前した。地獄は果てることがなく、その地獄の底板を踏み抜いたら、ふと熱い風が吹いていた。わたしのこの生存感覚から今回のテロを語る。

「反政府的な人間を説得してころんと転向させる方法なんか無数に思いつきますから」(「内田樹による2015年6月13日ツイート」)と語る内田樹はテロリストを「ころん」と転向させることができるのだろう。かれの処方箋をみてみる。

①TLを見ると、テロについてのコメントは「知性的」なものと「感情的」なものがあり、この二つはなかなか一致しないということがわかりました。歴史的原因を論じると犠牲者個人の顔が後景に退き、個人の痛みや悲しみにフォーカスすると「なぜこんなことが起きるのか」という問いは切実さを失う。

②それぞれの立場に踏みとどまり、「自分とは違う考え方」を否定する限り対話は始まりません。あるときは「分析的」に、あるときは「共苦的」に、というふうに一人の人間がモードの切り替えを繰り返し、二つの立場に引き裂かれているということを常態として受け入れるしかないのだろうと僕は思います。(2015年11月16日)

ご高説を賜り余は恐悦至極にてまことにかたじけなく候、とは云わない。どこにも凜乎とした言葉はない。今回のテロという無惨からもっとも遠く隔たった文化的言説の見本だと思う。かれのいう知性とはこんなものか。テロの根源に何も届いていない。またこんな知性の言葉でテロリストを打ち据えることができるはずもない。内田樹の発言には凜然とした言葉のかけらもない。吉本隆明はオウムの無道に接して親鸞の順次生を借用し「存在倫理」を語った。麻原らの不埒な出来事になんとか言葉を届かせようとしたのだ。苦しまぎれだったがとても誠実だったと思っている。

自己同一性にはどんな人格もない。おそらくテロリストもグローバルな経済の担い手も自らがなにを為そうとしているのかわかっていない。自己同一性権力によぎられ、モダンであることに憑依し、ただそこに身の丈を合わせているだけなのだと思う。かれらグローバルな戦略家も事態の推移をみながらただ時代を遊弋しているだけなのだ。
一方でグローバル経済によって市民社会の外部に例外社会をつくられ憎悪に駆られたテロリストたちは精神の古代形象に憑依し非道と無道のかぎりを尽くす。

テロの根源に迫りたいので、事件にたいして少しだけ間合いを深くとる。あらゆる宗教的理念―むろん民主主義の自由・平等・友愛もそのひとつであり、アラーアクバルを唱えkamikazeを敢行するテロリストのカリフ制もまたそのひとつである―これらのすべての宗教的理念はどこで廃絶されるか。殺戮と報復という閉じた円環や、奇形的な倒錯した理念や錯乱はどうやれば熄むのか。自己を実有の根拠とする身が心をかぎる生存のありようを拡張することでしか超えることはできないとわたしは考えている。

西欧近代に発祥する自由・平等・友愛というモダンな理念が、ほんとうは概念の根柢にすきまや断裂を含みもっているにもかかわらず、ひとつながりに接合されてしまった繕いようのない矛盾が、いま世界大に拡がってしまったとわたしは考えている。西欧近代が達成した偉大と逆理はここにひそんでいる。民主主義をどう改変しようと同一性に監禁された生をひらくことはできない。事態が切迫すると余裕のなくなった自己という観念は共同幻想に憑依する。ラ・マルセイエーズが生まれたその血塗られた歴史を想起せよ。

かつてマルクスは『経哲草稿』で、男性の女性にたいする関係のなかに、人間の人間にたいする関係があらわれ、それは人間の自然にたいする関係となると書いている。初期マルクスの鋭い気づきと直感は、経哲から経済学批判を経由し、資本論へと考究が深まるに従いどんどん論理が痩せていっているようにわたしには見える。資本主義社会を貫通する理念を普遍的に語ろうとすればするほど論理が硬くなっている。なぜそうなるのかということを長年考えつづけた。マルクスの思想とマルクス主義のロシア的展開はべつものであると言った思想家がいた。ほんとうにそうだろうか。

マルクスは男性の女性にたいする関係のなかに人間にとってもっとも本質的なものがあらわれると言いながら、なぜ唐突に個と共同性がつながるようなことを、なぜ個即類というということを言ったのだろうか。たしかにマルクスは宗教をアヘンだと言って批判はした。しかし無意識としてはキリスト教の精神の型を影のように引き込んでいた。ばらばらな個人が恣意的に生きながら、なぜ類生活をするものであるとつながるのか。それはマルクスにとって意識しなかった暗黙の公理のようなものだった。自由や平等という理念と友愛という他者への配慮はまったく次元を異にするものなのだ。それは神の見えない手によって采配されていた。そのことが経哲から資本論へと論理の筋道が太くなると共に隠匿されてしまっている。
神という超越が仲立ちするということにおいて人はみな平等であるという理念が、マルクスの無意識には影を落としていた。もしそうでなければ、気ままに生きているそれぞれの個人が類としてつながるはずはない。暗黙の公準としてマルクスの思想もまた神という超越を可能とする信の型を引きずっていたということだ。
どう考えても、ふつうは一人ひとりの生存と共同の存在はたがいに矛盾するものとしてあらわれ、それにもかかわらず危急存亡のときは同期するものだ。それが洋の東西を問わずわたしたちがつくりあげた自然だ。
わたしはマルクスの個的なものが共同的なものとして、つまり個は類としてあらわれるという理念にはキリスト教の信が無意識的なものとして表現されていると思う。おそらくマルクスはそのことに自覚的ではなかったように思う。その間隙に人類史の規模の厄災が流れ込んだ。あらゆる大義というものが不可避に孕むこの謎はまったく解けていない。手を変え品を変えいつまでも順延されこの思考の型は生き延びている。

近代が勃興するマルクスが生きた時代は、あるひとつのすぐれた思想があればその理念で善き社会ができるという牧歌性がありえた、そういう時代でもあった。おっとどっこい、人間の業ははるかに深かった。マルクスという熱い野生の思考者はそのことを識らなかった。そういうことだ。
『キリスト教の精神とその運命』でもの書きデビューをした、ナポレオンに憧れたあまり整列するのが好きだったヘーゲルにもこの精神の傾きがあり、マルクスにも引き継がれた。なぜ人は自由で平等であり、かつ友愛という他者への配慮が存在するのか。依然としてこの問いは解けていない。この思想の未然のうちに苛烈な現実が燃えさかっている。

わたしたちは内包存在を存在の原基とすべき時代にきているのではないか。根原の性を分有する分有者を世界の基点にすべきではないのか。根源の性の分有者の真芯にある還相の性と、還相の性を淵源とする根源の性のそれぞれの分有者のつながりが共同幻想を外化することはない。生の根柢を貫くリアルはこの不思議な驚異が、内面化することも、間違った一般化である共同化することもできないこととしていつもわたしの前にあった。そしてそこにわたしたちのおおきな生の可能性がある。またそのことはどうじに人類史というモダンを超えることでもある。
青春期にふかくブルースやロックンロールにかぶれたとは云え、わたしはユーラシア大陸の東に浮かぶ島嶼の国に生まれ育った。
天親の浄土論と曇鸞の浄土論註があり、法然の浄土教解義と親鸞の浄土教の解体を経て、800年後、マルクスの経済論と吉本隆明の幻想論を総合する内包浄土論というものが可能ではないかと思い始めている。もちろん激烈な世界の状況に抗命するひとつの情況論として受け取ってもらっても一向に構わない。
内包親族論や内包贈与論をやりおおせてないのに来年の事を言えば鬼が笑うかもしれぬが、親鸞の自然法爾を内包自然(じねん)に、正定聚を還相の性に拡張するならば、そこに未踏の内包浄土論というものが可能となるような気がしている。

わたしは見果てぬ夢を構想する。マルクスの経済論と吉本隆明の幻想論を総合すること。親鸞の自然法爾にしても、マルクスの経済論も吉本隆明の幻想論も、ともに同一性を実有の根拠としてつくられた外延思想である。内包親族論が可能であれば、内包贈与論も可能となり、マルクスの資本論は根柢から拡張される。おなじように親鸞の自然法爾が還相の性に拡張可能であるなら、それは親鸞の他力という信を拡張することと同義であり、吉本隆明の共同幻想論もまた還相の性によって拡張されることになる。外延思想の一群の偉大な思想家たちとまったく異なった世界がそこに出現することになる。わたしはこの思想でグローバリズムと精神の古代形象に憑かれたテロ勢力をともに組み伏せることができるとひそかに夢想している。
苛烈な新しい戦後をわたしは内包論で生き抜こうと思う。内包浄土はだれにとっても可能な生だから、人びとが内包を生きるなら、カミカゼもテロも空爆も熄む。世界の無言の条理は音色のいい言葉によってかならずひらかれる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です