日々愚案

歩く浄土277:複相的な存在の往還-幼童について9

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これから起きること。いやいま起きていること。伊藤計劃の『ハーモニー』のさらに先を行くことになるのかもしれない。アフター・コロナはビフォー・コロナとはちがうような気がする。近未来のこと。頭にはインプラントが挿入され、ドーパミンが多量に投与される。AI端末(人間)にARを装着させる。かなりシュールだけど、かなり現実的。要は現実の定義次第。仮想現実(VR)が拡張現実(AR)であるような世界。あるいはふたつが融合した世界。自然と人工ではなく、アナログとデジタルでなく、人工自然がもうひとつの人工自然を外延的に自動的に表現する。じゅうぶんにありえるのではないか。伊藤計劃の『ハーモニー』では現実をリセットして内面と共同性を同期し、それまでの人間のありかたを終焉させた。小説より現実ははるかに面妖であり、どうであれ、人間は生き延びさせられる。それがどんな自由であれ。近未来にポストヒューマンが現実味を帯びてくるかもしれない。いずれにしても、人間という概念は改編され、再編集される。これを避けることはできないと思う。むろん世界の変貌にはひとつの前提がある。同一律を公準とする外延知を前提とするかぎり、外延知はどこまでも人間を切り刻み、組み合わせ、人間という概念をシャットダウンする。手袋を裏返すように外延知を包み込めば、まったく未知の自然を粗視化することができる。小さな試みだが、外延知を覆す大きな出来事となると考えている。

佐川清和さんのブログ「鈍愚考(39)」(2021年3月20日)に次の一文があってはっとした。以下引用する。

<岡潔の研究家であり自身数学者の高瀬正仁さんのサイト「日々のつれづれ」に、〝岡先生の晩年の日記に出ている言葉〟が紹介されている。

“自然は映像である
 眞知の奥に眞情がある
 心情のおくに時がある
 時の奥に眞の自分がある
 私と彼女とがある”(1974、1、6)

高瀬さんも〝これだけでは意味をつかみにくいのですが、この時期の岡先生は『春雨の曲』の執筆に心魂を傾けていたことを想起したいところです。『春雨の曲』は恋愛を歌う一巻の歌集とぼくは思います〟と記されている。・・・岡潔は、映像のように移り行く自然の深奥にある情に触れ、その奥に真の自分を、私と彼女つまり自分らの言葉で言う〝二人の一人格〟の自分=〈性〉を見ているのだろうか。その性が本来の自分であるように感じられているのだろうか?>

数学において自然数の1とは何であるか、ということを数学は全く知らないのである、と読者を煙に巻くことが得意な、数学の本質は情緒であるといった数学者岡潔が晩年満72歳のときに書いた『春雨の曲』の一節である。死没の4年前である。

人には心が二つある、そのふたつをふたつながら数学で表現することはできないか、というのが岡潔の生涯の数学研究の課題であり夢だった。見果てぬ夢を岡潔は追い続けた。このふたつの心は不一不二という。分けられないがおなじものではないということを意味している。空間もなければ時間もない、おまけに数学が使えない。期せずして岡潔は同一性の起源に触れようとしている。もとよりこの領域は数学の対象とする自然ではない。数学の手法では粗視化不能の領野に岡潔は挑みつづけた。その岡潔の最晩年にこの短文が書かれている。人に心が二つあるというとき、一つは理性の対象とするこころであり、それは西欧が得意とするところであるが、わが東洋は情緒という心がある。その岡潔の年来の主張と『春雨の曲』で書かれていることは少しちがう。東洋がふかくなって、不一不二から非可換な心まで到達しているのではないかと思わせる。眞知の奥のさらに眞情のおくに眞の自分が彼女と〔共に〕いる。はたして強いAIの二進法のビットはあるいは量子の重ね合わせはここで触れられている同一性の起源を記述することができるだろうか。シミュレートさえできないように思われる。

めずらしく「歩く浄土」にいくつかのコメントをいただいて考えることがありました。短いメモですが返信しました。「歩く浄土277」は読者からとどいたコメントと、コメントへの返信で取りあげたことから「歩く浄土277」の追いかけている主題に迫っていこうと思う。内包からフロイド、ライヒ、ラカンがどうみえるか書こうと考えていたけど、そのまえにミシェル・フーコーに絶大な影響を与えたハイデガーの哲学のなかにある胡乱なものを批判的に探究したいと思った。届いたコメントとどこかで切り結ぶはずだ。

①<倉田昌紀 より:2021年5月25日
こんにちは。「歩く浄土276」の言葉は、小生には、フーコーを小生自身に惹きつけて、小生が自分自身の考えてきたことは、このようなことであったのか、と感じ考える多くのヒントを頂きました。

一つ質問させてください。貴兄の感じ考え言葉にされた「身体」感覚についてです。
「初めてのことですが、不思議な体験をしました。浄土が歩かなかった。痛みと息苦しさでいっぱいになるとこころの余白ができません。こころがなくなってわたしは身体になります。自力の及ばない苦もまた浄土ではないかと考えると気持ちが少し楽になりました。というのはかなりうそです。」(歩く浄土273)
ここの「かなりうそです」という身体感覚の言葉から、276に続く左記の言葉の間にどのような身体感覚の言葉が、語られるのだろうか、と小生は自分自身の身体感覚を基準にしてですが、貴兄の身体感覚の言葉を参考にさせてもらって考えています。
上記の273の身体感覚の言葉と、276の言葉は、どのように繋がるのでしょうか。身体感覚の次元や、思考の次元が異なるのでしょうか。
「〔性〕は同一性の手前にしか存在しない。不思議というしかないが、存在の複相性を往還すると、おのずからいやおうなく根源の一人称と遭遇することになっている。」(歩く浄土276)
〈いま死んだ、どこにもいかぬ、あなたになる、があれば、なにがあっても大丈夫です。〉という言葉が、273の言葉から276の言葉へと、小生にとって繋がり埋める言葉の間の感覚を、話していただけないかと。
急ぎませんので、いつか体調のいいときに貴兄の〈繋ぐ〉言葉を、聞かせて貰えると、ありがたいです。参考になる貴兄の言葉が他のところにあれば、「ここを読め」と、伝え頂けると嬉しいです。(このメールの言葉が、上手く整理することができていなくて、わかりにくいかとも思っています。)よろしくお願いします。>

①への返信(公開されているサイトのコメントにたいする返信に少し手を加えた-森崎注)
よく読み込まれているなと感心します。数少ない読者にここに気づいている人がいるだろうかと思っていました。2018年5月の半ばの入院先の夜のことだったと思います。脳の不穏で命がどんどん細くなっていくのを感じました。フーコーにも似た状態があったと思います。この場面をわたしの想像でフーコーに即しひとつの比喩として語ります。フーコーの情熱の人がフーコーの眼をじっと見て、腕を握り、もう少し長く生きて欲しいけど、それが避けられないことだったら、今晩でも、今でもいい、なにも心配しないで安心して死んでいいよ、と言ったら、言われたフーコーは往生できます。内包のとても通じにくいところですが、〔わたし〕は、わたしという自己と、〔あなた〕という自己にまたがってしか〔存在〕できないのです。厄介なことに心身一如に還元できないところに〔わたし〕は存在するのです。どうやっても同一者の思考のフレームに落とし込むことはできません。わたしはこの内包を生きています。ドゥルーズのフーコーについての分身論には、概ね長く、好意的にこだわってきましたが、同一律というフレームの枠内で内部と外部を差異性としてキャッチボールしてたことに今回気づきました。どうであれ、フーコーのその生もまた面々のはからいです。
これも比喩ですが、『guan02』の辺見庸の感想に出てくるナサカやファルヒア(67~68p)のことになりますが、わたしなら彼女らを前にして、あんたの分は俺が腹一杯喰ってやるから安心して死んでいいよとまちがいなく言ったと思います。これは有縁による内包親族に相当します。
フーコーが情熱の人と根源の一人称をともに生き、この一人称を分有し、フーコーがフーコーになることは、フーコーが究尽した主体の解釈学とはまったく無関係の出来事です。フーコーの背後で息づく熱いものを、かれは同一者の思考の認識の枠組みに閉じ込め、そのことにいくらか気づきつつ生涯を終えたと思えます。>

この返信は誤読されやすい。「〔わたし〕は、わたしという自己と、〔あなた〕という自己にまたがってしか〔存在〕できない」というところは、自己にも他者にも還元できない対幻想の対幻想である由縁ではないかと切りかえすことができそうにみえる。自然的な性を媒介としてひとりの個体がもうひとりも個体とつくりだす観念の世界が対幻想だからだ。たしかに。でもちがう。ある個体ともうひとりの個体に跨がる根源の性の分有という出来事はむしろ、対幻想が対幻想自体にたいして内包的な表現を遂げていることを、この言い方が含意している。外延知の対幻想が内包知へと表現のありようを転位したとわたしは考えてきた。〔わたし〕はメビウスの輪になって反転して奥行きのある〔あなた〕となっている。あるものが他なるものに重なることがなければ、なぜあるものがそのものにひとしいということが起こるだろうか。この機微がなかなかつたわらない。この重なりの比喩のことを還相の性と名づけ、身が心を、心が身をかぎる生命形態が粗視化した自然をわたしたちは人類史にひとしい思考の慣性として同一性と呼んできたのです。倉田さんが訊かれている疑問は、いくらかユーモアをこめて、浄土が歩かないといってみたのです。「痛みと息苦しさでいっぱい」になるとき浄土が歩かないというのはこちらの主観で、主観は簒奪され、主観がどうであれ、主観と非可換的に浄土へと摂取されると思います。おのずからなる理(ことわり)です。

おなじように外延知がそれ自体にたいして表現を高度化するとどうなるか。ビットマシンと分子記号はAIで再編集され、天然自然にたいする人工自然を超え、べつの人工自然を祖視化することになるのは必定だと思います。そうなると、VR(仮想現実)とAR(拡張現実)の区別は判然としなくなります。その転機がたまたまコロナ禍をきっかけにあらわれていると考えています。外延知の途方もない勘違いによって人類の家畜化は止めようもなく進んでいく。科学知の信仰者の群れによって唱えられる科学教のマントラがコロナで死ぬぞと恐怖を煽るとみずから私権を制限して欲しいと身を投げ出す。国家は統治の極意をつかんだと思う。

VRとARが融合する社会で、資本主義社会は変貌するだろうか。存続するとしてどれほど変容するか。資本主義とはことなる社会のあり方になっていると思います。民主主義とおなじく資本主義も歴史のある段階での表象にすぎなかったといっていい。民主主義と資本主義社会がパラフレーズしていたとするなら、民主主義が変容するに従って資本主義社会も変容せざるをえない。民主主義も過渡的な共同幻想であり、ハイパーリアルな生存競争に呑み込まれて衰退することは避けられない。どう猛なハイパーリアルな剥き出しの生存淘汰のなかで共同幻想としての民主主義が復元することはない。それにともなって科学知の信仰者の群れに支えられたビットマシンと分子記号マシンの電脳による結合で、資本主義社会はいやおうなく変質していく。ベーシックインカムが現実味をもち、私権を制限された人びとにVRとARを施し、ビットコインが決済の手段となりブロックチェーンが紐づけする。おそらく世界はこの方向に漂流していくことになる。いずれにしても外延知の高度化がもたらす社会が固い生存の条理に貫かれたものであることはまちがいないと思います。削り取られ、かけらになった自由を恭しく拝領することになるだろう。

生存競争を自然なものとする透明な理念を民主主義と仮定してみる。この無色の理念は自由・平等・博愛として欧米を経由して世界に敷衍化された。この理念は資本主義社会が必然とする人間の格差を自由な競争によって埋めることができる最良の共同幻想だと考えられてきた。この認識では、いま、起こっている事を説明できない。民主主義はナチズムやスターリニズムとおなじく過渡的な共同幻想のひとつにすぎず、もっと言えば、人びとの生を世界に順伏させるための現実から目をそらすための詐術だった。すでに民主主義はすぎたものとしてある。

これまでの人類史を前史とし、前史を開き、前史と分かつものはなんだろうか。文明は存在了解から派生している。外延知による環界の粗視化と、外延知の思考の慣性を内包化することでやわらかい生存の条理へと世界を造りかえること。幼童の世界を逍遙游することといってもいい。わたしは外延史と内包史を想定している。内包史が現実性をいくらか帯びてきたということがある。言うまでもないが、外延史は国家や共同性を疎外するが、内包史は生の原像を還相の性として生きることで、人間の関係のありかたは内包親族までしかひろがることがなく、三人称を疎外しようにも疎外する対象が存在しない。そういう意味では内包史は歴史ではない。いずれにしてもおおきな人類史の岐路に歩く浄土は立っている。フーコーは古代ギリシアの文献を渉猟しついに自己への配慮という生存の美学を手にした。この驚きをフーコーはパレーシアと名づけ、知識人と大衆という生を分割統治する知の様式が消滅し、総表現者の思想が浮かびあがってきているようにわたしは感知しました。大きな幼童をフーコーもまた生きようとしたのです。

持続可能な自律分散型の贈与を基盤とする、国家をつくることのできない人間の関係のありかたが内包自然にあると考えてきた。エマニュエル・トッドが言うように初期人類が核家族であったとすれば、この核家族を表現として考えれば、根源の一人称が根源の二人称によって核家族となって分離し、さらに表現を重ねれば、喩としての内包親族の贈与による関係がみえてくる。内包自然は万人のなかに内挿されているものだから、内包自然の表現は無限の階調をもった生の固有値となってあらわれる。ここでどうしても総表現者という生の概念が要請されることになる。〔2〕を主格とする内包知は「1」を主体とする外延知を包み込み、やわらかい生存の条理をわたしたち一人ひとりにもたらすことになる。往相の外延知が還相の内包知に包み込まれる。いつでも機縁があれば生の原像を還相の性として生きることは可能であり、有縁によって内包親族が表現される。存在の複相性を往還すると、外延知の世界のシステムから折り返すことはいつもただちに可能である。還相の性の統覚に同一性は従属している。この単純な事実を一万年のあいだ人類はやむにやまれぬ暴威や飢餓や戦争や天変地異に囲繞されながら。なによりA=Aという同一性がわたしたちの生を古来よりなによりたしかなものとして担保してきた。もしもA=Aであり、A=Bであり、かつnonA=nonBであるとしたら、世界はどのようなものとしてあらわれるだろうか。愉しい空想がひろがってくる。内包論は少しずつその世界の彫像を刻みつつあります。

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今年はたちになるという若い読者からのコメントがきました。こんな若い人がぼくの文章を読んでくれている。コメントをもらって嬉しかった。

②<2021年5月27日 12:46 AM
こんばんは。
夜遅くにすみません。
蝦名陸と申します。
北海道に住んでいます。
今年はたちになります。
今年に入ってから、guanに出会いました。
内包に出会いました。包まれました。

じぶんはまだあまりにも勉強不足で、森崎さんの「ことば」に耐えることばを紡ぐことはできません。しかし、わかるのです。たしかに、わかるのです。わかるからこそ、もどかしくて仕方ないのです。片山さんが、「100年後にはスタンダードになる」とTwitterで仰っていましたが、100年後でいいはずがない。一刻一刻この現実という地獄の炎が誰かを焼き殺している。とても耐えられません。焦ります。これは若さだと思います。が、若さがなんでしょうか。私はまだ何も残していませんが、ラディゲの言葉を思います。

お話できませんか。できなくとも、構いません。思い上がりかもしれませんが、私には、わかります。それをお伝えしたかった。以上です。お騒がせしました。>

②への返信
<guan より:2021年5月27日 7:33 PM (編集)
コメント拝読しました。若い方からの応答でびっくりしました。蝦名陸さんが内包をわかるから、もどかしいということはよくわかります。なにも未来の読者に向けてGuanを書いているわけではなく、現在の焦眉の課題の真芯に向けて書いています。そこで世界の新しいシステムのなかで人間が二進法と分子記号に還元され、些末な情報端末になることを避けることはできないと主張してきました。やがてVRとARは融合され、それが現実になるのではないかという気がします。コロナ禍の壮大な勘違いも新しい世界システムの序章にすぎないと思います。伊藤計劃さんの『虐殺器官』や『ハーモニー』よりもっととらえがたいなにかが進行しています。
ハイパーリアルな剥き出しの生存競争は外延知の必然で、この動きに抗する文化人のふがいなさはあなたもよく知ることだと思います。かれらにもうひとつの世界をつくる力などあるはずもありません。
世界が途方もない地殻変動を起こして急峻な変貌を遂げているのに、この過程に真正面から抗し、この事態をもっとおおきな世界の転換の一部にする闘いは、世界を見渡してもわたしの知るところ皆無です。人文知の文化人は眼前で起こっている善悪の彼岸を察知できず唯々諾々とおとなしい羊となり事態を追従しています。かれらに期待することはなにもありません。
わたしはわたしの生存感覚を貫通した体験を普遍性として語ることで、人間を新しい世界システムの属躰にする巨大な力に抗し、その動きを封じ、むきだしの生存を包み、外延知ではなく、内包知という、ありえたけれどもなかった人間の関係のありかたを現にあらしめる内包表現によって、地獄の業火のただなかで、舞いあがり匂い立つ、音色のいい風が吹く歩く浄土をつくろうとしています。それは地軸が傾くような考えとなるように思います。
あなたがわかるといわれることは、わたしのはたち頃のこととして考えるとよくわかります。わたしの場合はそれがなんであるかじぶんの言葉にするのに長い時間がかかりました。機会があればお話しすることもあると思います。>

スマホは便利なもので、なにげなく、蝦名陸さんを検索してみました。ツイッターやnoteをやっているようです。別人でちがっていたらすみません。

<note 風のうた えびな りく
2021/04/05
(内包と外延という表現は、思想家の森崎茂氏から勝手にいただいた。きっと、誤解していると思う。しかし目指すところはおなじなのだから、おおめに見ていただけないかと思っている。森崎氏は、おそらく吉本隆明経由の親鸞上人がモチーフとしてあって、「歩く浄土」をこの世界に実現させようと、内包という立場から人類史をひっくりかえそうと言葉をつくっているひとである。)

(略)

森崎茂さんの内包の着想に、タイトルは忘れたが、とある絵本がある。
あおちゃんときいろちゃんがあそんでいたら、みどりちゃんになっちゃった、というおはなし。
これはどういうことか。もちろん、青と黄色が混ざったら緑になるということである。では、それだけだろうか。この、「青と黄色が混ざったら…」という思考方式を、疑えないか。青は青である。黄色は黄色である。緑は緑である。…ほんとうか。
青に黄色を志向する緑性がある
黄色に青を志向する緑性がある
というのはどうだろう。ただ、青があって黄色があって、混ざったら緑。ではなくて、混ざるべくして混ざるのだ。先天的に論理的に混ざるのだ。
はじめにことばがあった。
ことば は風のように…>

内包の由来がうまく指摘されている。あたっているな。それにしてもすごい。たしかに内包はこの世のしくみを転倒しようとしています。引用の後半も面白い。ずいぶん昔に書いたことで細かいことは忘れてしまったが、あおくんときいろちゃんとみどりくんのことで言いたかったことは、ある対象Aとある対象Bが関係するとき、対象Aでも対象Bでもない対象Xが出てくるしくみのことを言いたかったのだと記憶している。えびな りくさんの着想が新鮮である。外延から内包への思考の必然が期せずして抽象されている。青と黄色は同一性的な世界の出来事である。おなじように黄色と青も同一的世界の出来事である。えびなさんは青は黄色を志向する緑性があるという。緑性はわたしの言葉では内包の圏域に属し、根源の性や還相の性と言うことになる。そうすると同一性という意識の外延性は内包を志向することが言われている。すごいな。ここまではっきり言われたのは初めてだ。なるほど。たしかにそうだ。外延性という意識の同一性は先験的に内包を志向する。はじめに内包のことばがあったと、えびなさんは言っているようにみえる。なるほどわかっとるなあ。こんなことがあるんだ。そうなんです。いまの人類史での人間の関係のありかたとべつのもうひとつの人間の関係のありかたをえびなさんもつくろうとしています。すっかり忘れていたけど、きいろくんとあおちゃんの物語も貴重な幼童です。コメントのおかげで思いだしました。ありがとうございます。

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サイトにまたコメントが寄せられた。聞かれていることを大づかみでいうと、内包知を統覚する還相の性と外延知を統覚する同一者の思考、あるいは内包知が外延知に相転移したときなにが起こったかと訊かれているような気がしました。ここしばらく「終命」は内包という観念の母型に回帰するだけであると考えています。死ねば死にきり、自然は水際立っているという、日本的自然生成の境地がありますが、同一者の思考がなせる身勝手で奇怪な観念ですね。追い越し得ぬ死の先駆性とおなじでニヒリズムの極致です。

③<倉田昌紀 より:2021年6月2日
こんにちは。体調はいかがでしょうか?「生は内包と共に始まり、ある時間を外延的な生として生き、再び内包に回帰する。個人の生涯も内包から外延を経て内包に回帰し、歴史もまた内包から生まれ、一時期、外延史の世界を描き、やがて喩としての親族から内包という母型に回帰する。誕生と終わりのふたつの内包にはさまれて自己と歴史という外延的な表現が存在している。」(歩く浄土273)ここで内包と内包にはさまれて当事者として生きて生活する現場性としての〈外延的〉という現場の言葉に少しばかりこだわってみる。
「メビウスの輪となった性をメビウスの輪にそって一人称と二人称と三人称に切り分けていくと、ふたひねりした輪っかができる。三人称は消えて喩としての内包的な親族が親鸞の有縁によって還相の性とつながることになる。」(歩く浄土275)ここでまた、内包と外延という生を生きる当事者としての総表現者の現場性の一人称に照らして内包を、考えてみる。

「この世のしくみをどうやれば生まれてきて丸儲けにすることができるか。ある時期からわたしは人間という概念はフーコーが焦がれたように終焉するものではなく、人間という概念の幹を太くすればいいと考えるようになり、存在の複相性を往還する幼童の世界をつくろうとしている。ここに世界の可能性があると思えるからだ。」(歩く浄土276)。ここで〈生まれてきて丸儲け〉という当事者の現場性の生そのものを、外延と内包から現世の今ここを生きて生活している〈外延的〉とは、という現場性について考えてみる。

「誰かの創作行為をその人の倫理的活動の核と結びつけて考えるべきだというとき、誰かとその人は同一であり、倫理的活動の核に結びつけて考えても同一なるものが差異性として再生産されるだけで、フーコーの虚偽意識としては可能でも、天与の才をもつかれがそのことに気づかないのが同一者の思考の逃れがたさになるわけで、而してフーコーの生が作品となることはない。情熱のなかで自分が自分でなくなるということは自分が理不尽に簒奪されることであり、それこそが〔性〕である。〔性〕は同一性の手前にしか存在しない。不思議というしかないが、存在の複相性を往還すると、おのずからいやおうなく根源の一人称と遭遇することになっている。そこにはどんなはからいもない。」(歩く浄土276)必然性としての同一者を生きるフーコーの〈虚偽意識〉と同時に同一性(差異性を)の外延性の現場性について、考えさせられている自分自身を振り返ってみる。

同一性の手前を生きるということと共にである。すると、「生の原像を還相の性として生きながら内包親族のひろがりのなかですきに生き、やがて内包という観念の母型に回帰する。ここでは内包の生は政治や国家や貨幣という外延表現の対抗原理ではない。それ自体がまるごと生きられる世界である。そんなことができるかだって?できると書いてある。」という言葉が、甦ってくるのである。ヘーゲルからハイデガー、ニーチェとフーコー、ドゥルーズからまたヘーゲルヘと回帰し、Da-seinの存在を塞ぐことの不可能な穴が、プラトンのイデア以来、穴を塞ごうと、穴を塞ぐそれヘの代理の不在として、書かれないことをやめられない不可能性と、書かれることをやめられない必然性として、ニヒリズムの限界が同一性の持つ外延的思考の始まりの不明の不安の穴として続いている。そこで小生は、内包と内包のあいだにはさまれた外延的な現場性を生きて生活する当事者としての総表現者を考え、内包論から外延的な死を、再び生と共に内包論から考え学ぶのである。>(森崎が長い文章を読みやすく改行した。)

③への返信
すぐに思いつくことから書いてみます。問題はDa-seinです。すべての問題はここに収斂します。神というメタレベルの超越的存在ぬきに存在が存在に触れようとするといやおうなく存在に空いた穴に直面します。もともと存在に空いた穴を充填していたのが神ですから。この超越がなくなると存在はがらんどうになります。夥しい、天与の才をもつ者らが数千年のあいだ、この穴を埋めようと獅子奮迅の孤独な闘いを敢行しました。芳しい結果は出ませんでした。この試みの不毛さはハイデガーによってもっともみごとに体現されました。どうやってもDa-seinを塞ぐことはできない。神を媒介にすると-仏でもいいのですが-この穴は共同幻想によって容易に埋まります。〔と共に〕という外延知の人類史をまたぐ巨大な思考の慣性が粗視化された効能です。存在者と存在の存在論的差異が意識されることもない。ところが存在から神を脱落させると、Da-seinには非人称の風が吹いています。ニーチェが気づき、のちにフロイドがエスとして繰り込み、ハイデガーが神の到来をまつ愚鈍な生きものと定義した人間が棲まうところです。

①のコメントへの返信で、「〔わたし〕は、わたしという自己と、〔あなた〕という自己にまたがってしか〔存在〕できないのです。厄介なことに心身一如に還元できないところに〔わたし〕は存在するのです。どうやっても同一者の思考のフレームに落とし込むことはできません」と書きました。この機微を洋の東西の叡智の持ち主は知覚することができなかった。そう、いかなる叡智をもってしても、です。ここにある倒錯をひとつ取りあげます。フロイドはエスが自我を措定すると自我論を唱えましたが、逆倒しているのです。猟師が雪に穿たれた小さな星形の記号をうさぎという獲物の足跡だと思うように、フロイドは自我の変形をエス(it)だと裏返しに理念化したのです。この呪縛はラカンに受け継がれ逆倒した自我とエスの関係は変わることなくつまらぬ思弁を弄している。奥行きのある〔わたし〕や〔わたし〕を越境して、あるいは跨いで〔あなた〕という存在に触れることは同一者の思考では不可能なのです。自己-対-共同幻想を統覚するのは同一性であり、〔あなた〕に延長された〔わたし〕を統覚するのは還相の性です。

外延知は自己と自己のあいだに、対幻想は自己ともうひとりの自己とのあいだに、共同性は自己と第三者のあいだに、すきまをもちます。それは同一性に起源をもつ外延知の必然です。どの観念もそれ自体にとどくことはありまえん。生はつねに不全感として修飾される。このすきまがなかったら文学や芸術は存在しません。また自己の内面と外界である共同体の観念は自然に同期する。身が心をかぎり、心が身をかぎる心身一如の存在のあり方に自己の実在の根拠をおくかぎり、どうやろうと自己の内面の言葉が自己にとどかないのは同一者の思考という存在了解の初期不良に起因します。その全体が精神の内在史と文明の外在史を重畳してきました。この線状地上の堆積を人類史と呼んできた。外延知のそれぞれの観念はどの観念とも乖離する。乖離をつなぐ共同の幻想を民主主義とわたしたちは名づけてきたが、世界の地殻変動によって存在の複相性に根をおかない仮構の民主主義は縮減され消滅しつつあります。民主主義の自由・平等・博愛という過渡的な共同幻想で人と人が結びつかないことが世界史の変動によって剥き出しになってきた。民主主義という擬制はまったくこの現実に歯が立たない。もともと民主主義は弱肉強食の世界を擬制的につくろう理念としてのみ機能してきたのです。

同一律の世界では、自己と自己のあいだ、対を構成するそれぞれの自己のあいだ、三人称の他者のそれぞれのあいだには、むしろ斥力が作用し、その斥力を埋めようと、自己は自己に引きこもり内面化する。おなじように対幻想は解体の危機にさらされ、三人称相互の関係の齟齬は宗派となってあらわれる。ここにはいかなる例外もないように思います。

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内包はいつどんな理由で外延に転化したのか。ずっと考えつづけているが、この問いはまだ解けていない。存在了解の始原的な遅れが存在の本質をなしていると内包論では考えてきた。そうすると、存在の複相性が、身が心をかぎり、心が身をかぎる自同律の存在了解に遅れてしかとどかなくなったとき、外延知の歴史で言えば、初期人類がちいさなバンドからやや大きなバンドに編成される頃、氏族制度以前に、その始原の遅れを忘却することによって、内包から外延への斥力として分岐が起こったと考えてみる。おそらく人類初期のさらに早期、自他未詳の内包家族がわずかにふくらみを持ちはじめた頃、内包から外延への観念の移行はすでに終わっていたように感じられる。人間についてのもっとも根本的な関係のありようはこの時期につくられとわたしは考えている。自他の分離がない根源の一人称を生きた人類初期の早期に根源の二人称になって人間の生命形態の自然が心身一如に分離していくときに人間の原型はできあがっていた。

わたしたちの知る古代はモダンで現代へと直通している。釈迦も孔子もソクラテスも現代人と変わらない。かれらの思想は国家を前提としている。つまり国家が誕生した後の人はどう生きるべきかと倫理が説かれ、善悪の彼岸の人倫についてはなにも語られていない。もうひとつの生の原理である人類の黎明期の存在の複相性を往還することは、いま、ここで、可能である。だから浄土が歩くのである。その余は同一性を公理とする外延的なさまざまな観念がモダンな様式で人類史として累層化された。この時期のことを比喩的にユヴァルの150人問題と呼んできた。暮らしの空間的拡大を同一性に起源をもつ共同主観的虚構によって支えるようになったと言いかえてもいい。それはすでに起こったことであり、そのままわたしたちに人類史として現前している。

人類が手にした最高の民主主義でさえ過渡的な共同幻想として過ぎつつあるとき、未曾有の人類史の転換期に内包という人間の関係のありかたで、人類史を折り返すことができるのか。わたしはできると思う。少しずつその手応えが増している。わたしたちがつくろうとしている存在の複相性を往還することで手にする生の原像を還相の性として生きることと、おのずと成る内包親族は、べつの人類史へ分岐することではない。外延史にたいして内包的存在を対置するとき、その内包自然は外延的な人類史がどうであろうと、またどうなろうと、そのあり方とは無関係に、いま、ここで、ただちに、可能となる内包的な人間の関係がありうるということ。そのことをわたしは歩く浄土と比喩してきた。重畳されてきた長い人類史を切断するものを内包と定義する由縁だ。ただこのあたらしい生の思想が可能となるには、生を引き裂き、生を睥睨する知識人の権力を無化する総表現者という観念の位相が要請される。この思想なくして一人ひとりの生の固有値からの無限の階調をもつ表現が乱舞することはない。それはなによりたしかなことだと思っている。その可能性を実感としてつかみ取っている。

<親子が有情であり、インマヌエルが有縁であることはいうまでもないが、比類を絶する竪超の信が説かれて入る気がしてしかたない。神を媒介にしてはじめて個人が個人であることの各自性が出てくる。それはよく理解できる。エックハルトも登場する古井由吉の『神秘の人びと』でもこのくだりが無名者の信仰の告白として頻出する。わかるが不満である。親子の関係よりインマヌエルが隔絶しておおきいということは、むしろ根源の一人称を神と人の関係を第一義とすることを可能とした、同一性に縮減したことの斥力として表現されているのではないだろうか。この斥力は信を媒介に自己と社会という擬制を不可避に疎外した。それにもかかわらず「問いに先立つ」根源の一人称は曲率ゼロの同一性の平面上に無限小となった根源の性の痕跡をのこす。この痕跡のことをわたしたちは神や仏と名づけてきた。これもまた稀な幼童のひとつといえる。>(「歩く浄土275」)

根源の一人称が神との関係を第一義をする同一者の思考に収縮したとき、存在者が存在にたいして斥力をもつことになった。むつみ語から共同主観的虚構への飛躍は環界を拡大するとどうじに、自己とのすきま、もうひとりの他者とのすきま、三人称相互のすきまは、同一律に縮減された超越によって、すきまを突き放す斥力として機能するようになった。ここに自同者の生の不全感の起源がある。超越によって禁止と侵犯が二律背反するものとして自同者の前に現前するのは外延表現の必然としか言いようがない。還相の性から同一性へと環界を統覚する力が逆転移するとき、同一性が内在的に孕む脆弱さがあるにもかかわらず-AがAで〔ある〕ことにどんな根拠もない-あたかも人倫に超越するひとつの擬制が内挿された。全ての人倫は神という超越のしばりをうけ、この拘束が至高性として聳え立ち、そうやって粗視化された思考の慣性は数千年のあいだ人びとのくらしの秩序を統御してきた。古代においては司祭層、近代以降は知識層がその統治を遂行し、いまなお当事者性をぬきにした世界を代弁する唾棄すべき残滓の信仰者たちがのうのうと生き延びている。

ここで、わたしたちの人類史をひとつの観念の球体と比喩してみる。古代の知が褶曲しながら中心部から球面の表面へと層をなして洋の東西を問わず年輪のように積み重なっているはずだ。この観念の球体の球面を考えてみる。球面に類別された観念の総体を人間の精神現象とさらに仮定する。さまざまな精神現象はその時代性によって布置される。過剰につくられた観念の諸相がわずかのすきまもなく敷きつめられている。壮観な光景だと言える。ある精神とべつの精神の関係は時代的な必然はあっても普遍のものではない。粗視化された自然の思考の慣性が途切れることがある。断続的に知の布置やパラダイムシフトは急激に起こる。その中核には数学的自然が普遍として位置し、さらにそのなかに自己同一性が隠れている。若い頃から対象にたいしてもっとも切断力の強い観念が数学だと考えてきた。数学の抽象力の切れ味のよさは対象を粗視化するときの捨象力に連動している。数学をそういうものだと考えるとき、ではこの数学という自然を対象とした観念はこの球面のどこに位置するのだろうか。そのことがはたちまえからわからなかった。おなじようなことをフッサール(1859-1938)も考えた。フッサールは数学者として出発し、数学の確実な基礎をつくろうとして現象学という学問を創建した。1891年、『算術の哲学』を出版する。

ともあれ観念の球体にはこれまで人類が考案してきたあらゆる観念や叡智がひしめきあって存在している。これらの観念は相互にどう関係しているのか。知の布置はどうなっているのか。おおくの思索者がそのことを数千年に渡って究尽し無量の発見をしてきた。わたしは人類史に比喩される観念の球体の全体を統覚する公準が同一性だと考えた。球体の中心に同一律が鎮座し、ここからすべての知が派生した。このことをヴェイユはよく識っていて、匿名の領域を生きた。わたしの理解では彼女は外延知から無意識に内包知へ跳躍している。<人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない>(『ロンドン論集と最後の手紙』)。もうひとつの観念の球体がある。外延知という同一性が彫刻した観念の球体は内包という観念の球体に内接し、相互に往還することができる。本質的に名をもたない匿名の領域のことをわたしは内包知を名づけ、匿名の領域という内包知は総表現者として万人にひらかれている。ここにコロナ禍に象徴される二進法のビットや文明の外在史のゲノム編集をはるかに超える、新しい世界の機転がある。内包知を統覚しているのは根源の一人称であり、根源の一人称が根源の二人称に分極したとき、根源の二人称を統覚する還相の性が表現されたことになる。

〔付記〕「同一性の命題」と注

    #1

フーコーに何トンものメモをとらせたハイデガーとは何者か。ハイデガーもまた解けない主題を解けない方法で解こうとした思索者だった。ハイデガーのナチ加担に失望したレヴィナスは存在論を書き換えようと、存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へと同一律の転換を図ったが、意に反して、けっきょくはハイデガーの存在論の罠に回帰した。なぜ存在と存在者の―この存在者が人間であってもかまわない―存在論的な差異が存在の忘却としてしかあらわれないのか。わたしにはとても単純なことに思えた。存在は単層ではなく複相として存在し、その複相的な存在を往還すれば、ハイデガーの存在に固執する迷妄もレヴィナスの苦悶も即座に解決する。神や人間を前提にせずに存在について語ることができるかとハイデガーは問い、できる仮定して難関を突破しようとし、まずゲルマン共同体の共同幻想に躓き、躓いた空虚を存在の開けた明るみというニヒリズムで充填した。虚偽の上塗りである。(*1)

あるものとそのものは同等であるという素朴なあり方のなかになにか格別なことはないし、そのことを意識することはまずない。あたりまえのことだからだ。しかしよくよく考えてみると、なぜあるものがそのものに重なることができるのか。A=Aで〔ある〕という事柄の順接があたりまえなのは、〔ある〕のなかに観念の往還が内挿されているからなのである。ふつうそのことを意識することはない。ヘーゲルもハイデガーもニーチェもフーコーもこのことに気づかなかった。もちろんマルクスやフロイドも。自同律は聖道門の信を支えにして自同律を完備なものとしてみなしている。現代からするともっとも素朴でためらいのない時代遅れの自己同一性はヘーゲルが吠えるように勝ち誇って唱えた。ハイデガーはその不備をかなり改善している。たとえば今回の私の不祥事は私の不徳の致すところであり、皆様にお詫びするとともに二度とこのようなまちがいを侵すことがないように精進します。これがナチに加担したハイデガーの弁明だった。国会答弁と変わらない。この稚拙な例も同一律によって成り立っている。反省が主観的にどれだけ誠実なものと表明されようとその発言をにわかに信じることはできない。A=Aで〔ある〕が主観的な自力の信として表明されているからである。ほんとうは、A=Aで〔ある〕ことは二層になった認識のしくみをもっている。そのことについてハイデガーは次のように考えた。

<同一性の命題は、周知の形式に従ってA=Aと表わされる。その命題は最上位の思考法則と見なされている。我々はこの命題について、しばらく熟考を試みよう。何故かというと我々はこの命題によって、同一性が何であるかを知りたいと思うからである。

同一性の命題が一般に表わされる仕方A=Aという型式は何を言い表わしているのであるか? この型式はAとAとが相等しいこと〔相等性〕を表わす。等しいということには少なくとも二つのものが属している。一つのAが一つの他のAと等しいのである。同一性の命題はそのようなことを言い表わそうと欲するのであるか?明らかにそうではない。

それゆえにAはAである(A ist A)という同一性の命題に対する一層適当な型式は、ただに各々のAはそれ自ら同じであることを言い表わすのみならず、更にそれ自らと各々のA自らは、同じであることを言い表わしているのである。この自同性のうちには、それ自らとの関係、従って媒介、連結、綜合、即ち統一性への合一ということが存している。西洋的思考の歴史を通して同一性が統-性の性格をもって現われることは、以上のことに由来するのである。しかしながらこの統一性は決して、それ自らにおいて他との関係を有せず、ただ一つの無差別なものに固着しているという気のぬけた空虚さではない。けれども同一性の内で支配し且つ古い時代から既に知られている関係、つまり各々のAとそれ自らとの関係を、かかる媒介として確立し且つ特徴づけられて現われるに至るまでに、更にまた同一性の内における媒介がかく出現するために一つの土台が見出されるまでに、西洋的思考は、二千年以上を要しているのである。>(『同一性と差異性』1~8p)

自己同一性が避けようもなく抱え込んでしまう意識の自閉性について同一性を超えるモチーフも契機も持たないハイデガーがきりきりまいする。元はと言えば神ぬきに存在を語ると言いながら、泥縄式に存在を貶めてきたハイデガーの無残な成れの果てということもできる。読み込むにつれて論述は痛々しく、いったい自分がなにを語っているのかそれさえもわからなくなっている。むろんハイデガーの崇拝者にそのことがわかるはずもない。存在を諸存在者たちの象徴として、その内部に、媒介、連結、綜合、合一という刻み目を入れても、存在者たちは存在と離反し乖離する。なぜならば単層である存在をどういじろうと、存在は意識についての意識を外延的に延長することでしか存在を再措定できないからだ。二千年以上を要して意識は意識についての第二層までしか粗視化しえてない。内包が意識の第三層を可能としつつある。内面化も共同化もできないそこにそれ自体として意識の第三層が存在する。わたしは変わらずひとりの読み手に向かってこの記事を書いている。

『同一性と差異性』(1957年)に収録されている「同一性の命題」はなんど読んでもハイデガーの存在をめぐる堂々めぐりが手にとるようにわかっておもしろい。存在者と存在の存在論的差異の落差をどうやって埋めようかとハイデガーは四苦八苦している。(*2)存在と同一性を駆使して存在のなぞに挑戦する。神やかれが関心をもつことがなかったヒューマンぬきに存在と存在者はどう記述できるか。最後は諸手を挙げて降参し、これからはサイバネティックスの技術の時代(*3)となるであろうと言い遺した。これだけはみごとに的中した。

「同一性の命題」を祖述をつづける。ハイデガーはパルメニデスに語らせる。「存在は同一性から、この同一性の特質として規定されている」。つまり存在は同一性に従属し内属すると言われている。べつのところでは、同一性は存在の特質として表象されているとハイデガーは言っている。同一性という器に存在が盛られ、存在という器に同一性が盛られる。同一性の下僕である存在がいつのまにか存在の下僕として同一性が位置している。いったいどういうことなのか。ハイデガーは次のように考えた。パルメニデスの語る思考と存在の自同性は、形而上学によって存在の特徴として既定された同一性よりも遠くに由来している。なかなかいいことに気づきかけている。ここから一気に思考と存在の対称性の破れに突き進めばいいのに、さすがに学者でその勇気はない。ニーチェに憧れてもけっしてニーチェのように天に唾する蛮勇はなかった。「遠くに由来」するという意表を衝く考えで、同一性のなぞを回避する巧みな方便だと思う。また同一性のなぞを遠ざけるために、自同律のしくみを開陳する。自同性はそれ自らとの関係のうちに媒介・連結・結合・合一をもっているとヘーゲル由来の常套句に帰順する。つまり遠くに由来する思考と存在の自同性を存在の複相性を往還することでひらけばよかった。ニーチェの超人を彷彿させる転回以降のハイデガーに弁明にみるものはない。

ハイデガーによれば、思考を人間の特質として理解するとき、突如、存在とは何かという問いが押し迫ってくる。人間とは何者であり、何であるか。存在への本質的な問いかけをやっているようにみせかけながら、ハイデガーはすでに答を用意している。かれの存在の忘却や存在の開けた明るみは自同律の自閉性を隠蔽するための巧みな能弁にすぎない。かれの思想の全体がニヒリズムによって隈取られている。なぜ稀代の詐欺師に惹かれる思索者があとを絶たないのか。

急がずにもう少し「同一性の命題」を追いかける。人間は或る存在するものである。石や樹や鷹のように、存在の全体に属するが、人間は思考する本質として、存在に関与せしめられ、応答する。存在は人間に語りかけ、人間に関わるゆえに現成する。なぜならば人間こそ存在に向かって明𤄃に、存在を到来させるからである。即ち、人間と存在は相互に委ね合い、相互に合することによって形而上学的に把握されると身勝手な妄言を弄する。いったいなにを言っているのか本人も理解していないはずだ。ところがこの「同一性の命題」は後半飛躍する。言葉が生き生きしてくるのだ。

かれは言う。我々はなおいまだ存在と人間の結合の内へ帰入しえないし、自己離脱することもできない。だから、諸君、跳べばいい。飛び去るのだ。ではどこに飛躍するのか? そして存在へ合するのである。人間と存在、その結合を明瞭に経験するために飛躍が必要になる。この飛躍は技術によって可能となる。ただ礼賛するだけでは駄目である。技術世界の全体についての表象を人間に帰属させ、それを倫理にまで高めることによって。ハイデガーは技術にたいして心がけることをあれこれ述べながら、熱に浮かされるようにして技術のもたらすものに没入する。もうこの時点でノーバート・ウイナーのサイバネティックスやフォン・ノイマンのゲーム理論の虜になっている。哲学の終焉をかれは実感している。のちにフーコーが人間の終焉を語り、いま人間は二進法と分子記号に還元されている。技術に思想的な関心が移りゆくなかで、ハイデガーは出来(しゅつらい)という概念を編みだし、技術的な世界が存在と人間の合一をうながすと主張する。技術は人間と存在の結合を極度に近づける。即ち、人間が存在に適応するが、存在は人間本質に供与され、そのしくみは適応と供与が支配している。

<我々が存在と人間との布置としての仕組みにおいて現代技術世界を通じて経験することは、出来(しゅつらい)と名づけるところのものの前ぶれである。けれどもこれは必ずしもそれの前ぶれに固定しはしない。何故かというと出来においては、それが単なる仕組みの支配を、一層始源的に生ずること(出来)の内へと服従させることの可能性が、語りかけているからである。そのように仕組みを出来から一層始源的に生ずることへ服従させることは、出来として最も固有なる、-従って人間だけで決してなしとげ得ないところの、-技術世界の支配から奉仕へと技術世界を載り戻すことを、実現するであろう。しかもこの実現は、人間が一層本来的に出来の内へ達するところの場面である領域の内部においてである。

思考の方途は何処へ進んだのであるか? 我々が厳密な言語の意味において出来と名づけるところのかの単純なるものの内に我々の思考を帰入させることへ進んだのである。

我々は今や、我々の思考があまりにも無頓着に何か遠くはなれた普遍的なものへ向かって行く危険に遭遇しているように思われようが、しかし実は、出来という語が示そうとする事態によって、我々が既にその内に居住しているかの近さの最も近きもののみが、我々に直接に明らかに自ら語りかけるのである。何故ならば、我々がそれに合しているそのもの-それの内への我々は合一者である-に、我々を近づけるもの即ち出来よりも、なお一層近い何がありえようか?>(『同一性と差異性』所収「同一性の命題」25~27p)

なにがここで言われているのか。存在と存在者の存在論的差異のずれを技術が先取りすることで、わたしの言い方では外延知が外延知を先取りすることで、存在論的差異の構造が埋められるという詐術である。自然科学知や技術にたいする無知そのものが表明されている。形而上学の喪失を代償として技術が存在と存在者の乖離を相互になにより近いものとして合一者となる。まったく逆だと思う。存在了解の始原的な遅れが存在の本質をなしている。自同者の存在了解に遅れてしか内包存在はとどかない。存在は複相的な存在であるから、延長された領域としての自己が自己にとどく存在了解に始原的な遅れが存在の本質として内包される。その始原の遅れのなかに、人間が人間であることの可能性が、存在の複相性の往還として、まっさらな未知としてひろがっている。外延知の倒錯を以下見ていく。

<出来は、人間と存在とをそれらの本質的結びつきの内へ適応させる。我々は仕組みにおいて、出来の最初におそいくる閃光を見る。この仕組みにおける閃光が、現代技術世界の本質を成すのである。我々は仕組みにおいて人間と存在との結合を見、その結合の内に合一させることが、初めて結ぶ仕方と結ぶことの統一とを規定する。我々は合することが結ぶことに対して優位をもっている結合についての問いへの導きを、我々はパルメニデスの文によって、我々に与えたのである。その文《同じものは即ち思考であるとともにまた存在である》であった。この同じものの意味に対する問いは、同一性の本質に対する問いである。形而上学の理論は、同一性を存在における根本特徴として提示する。ところが今は次のことが示される、即ち存在は思考とともに同一性に合する、そして同一性の本質は、我々が出来と名づけるところのかの結合化〔人間と存在とを結合させること〕に由来する。同一性の本質は出来の所有である。>(同前28p)

存在と存在者が技術によって媒介されると、存在と人間のあいだがらに不意に閃光が走り、この光によって存在と存在者の結合と合一がみられるとハイデガーは言う。たしか二進法のビットと分子記号のゲノム編集で存在者たちは存在の素記号へと分解され、再編集される。畏るべき先見の明というべきか。存在と存在者の存在論的差異は斯くして外延知のさらなる外延化によって乗り越えられると仮構される。ハイデガーはこの外延化されたものこそが「同一性の本質は出来の所有である」と、問いの本質を逸らした。AがAで〔ある〕ことは、外延知の極限で、ものそれ自体のように還元されることになる。神やヒューマンぬきに存在を語ろうとしたハイデガーの壮大な試みは倒錯した奇形的な観念となって完成する。ハイデガー曰く。存在は同一性を前提とする。この同一性はその根拠そのものから飛び立ち、存在から離脱する。抜け殻となった存在は、この底のない深淵は、空虚な無でも、薄暗い混沌でもなく、存在の振動として、存在の明るみへとひらけている。―というハイデガーの言説の全体が空無であり、ニヒリズムに隈取られている。

思考が技術を媒介に遷移し、存在と人間の布置を観取し、存在は科学という一神教に帰依することになる。科学の出来によって自然と歴史の全体が一掃始原的なものとして開かれる。ハイデガーが哲学の終焉で感知したことは、いま、ここで、起こっていることだ。「思考は、同一性の内部における媒介の如き極めて単純な関係を明瞭に把握するために、二千年以上もの時を必要とした」。存在と存在論的差異の外延知による解消のなんと単純なずらしかただろうか。技術を媒介にする哲学のなんいう軽さ。なんという風見鶏。なにより外延的な科学知の肥大により哲学は存在する余地もなく終焉していた。西欧の二千年以上の思索は科学という共同幻想に同期することで存在のなぞへの問いを放棄した。いま、その無惨な、なれの果てに、わたしたちは立ち合わされている。この領域の急峻な興隆は資本主義社会のありようそのものを変えてしまうだろう。

    #2

(*1)
存在と存在者のあいだには余白があることをハイデガーは発見し、その余白はヒューマニズムではけっして埋まらないことを直観していた。レヴィナスはハイデガーのこの発見に驚愕し震撼された。彼はハイデガーについて言う。「私にとって、ハイデガーは今世紀のもっとも偉大な哲学者です。おそらく、千年という単位で考えても、傑出した哲学者のひとりでしょう」(『われわれのあいだで』)続けて言う。「しかし、そのことに私はずいぶんつらい思いをしています。というのも、私は1933年に彼が何者であったかを忘れることが決してできないからです。たとえ、それが短期間のことであったとしても、です」。なにか出来事に完膚無くまで打ちのめされることはハイデガーにはなかった。ほんとうにつぶれ、這い上がるしかないとき、どうするか。考えたからどうなるということでなくても、考えているその考えていることを考えるほかに手立てはない。ただ考えつづけること。なぜ、こういうことになったか、腑に落ちるまで考えること。レヴィナスはそれが表現だと思った。ハイデガーにとって存在の神秘を解くことにくらべてホロコーストで無数のひとが殺戮されることなどどうでもよかった。この理念の恐ろしさに耐えうる誰かがいるか。過ぎ去った過去の出来事ではない。いまわたしたちの眼前で起こっていることだ。

<しかし、それにしても、存在というもの―、この存在とは、いったい何であろうか。それは、〈それ〉〔存在〕そのものである。このものを経験すること、そして言い述べることを、来たるべき思索は、学ばなければならない。「存在」―それは、神ではないし、また、なんらかの世界根拠でもない。存在は、あらゆる存在者よりも、より広く遙かなものでありつつ、それでいて人間には、どんな存在者よりも、より近いのである。たとえ、この存在者が、岩であろうと、動物であろうと、芸術作品であろうと、機械であろうと、はたまた、その存在者が、天使であろうと、神であろうと、それらにかかわりなく、それらよりも、より近いのである。存在は、最も近いものである。(中略)「存在の問い」は、つねに、あくまでも、存在者への問いにとどまっている。>(『「ヒューマニズム」について』58p:1947年)

ハイデガーは問うた。「この存在とは、いったい何であろうか。それは、〈それ〉〔存在〕そのものである」。この問いの立て方で存在を語ることができるか。先験的にできない。自己同一性を表現の公理とするかぎり、「より近い」は自閉的にしか表現できない。自同律とは自らのうちに引き籠もると同義である。存在と存在者について考えるときなにより決定的なことは、自己に先立つなにかが〔ある〕という思念以前の知覚の有無になると、幼少の頃から考えてきた。思い返すと空想科学少年の自然への触手とも自己に先立つ超越の感覚は矛盾しない。科学を含みもって存在するなにか。それが〔ある〕ということ。自己というなにか実体があって環界と関わるのではない。自己はつねに事後的であること。その非可換的な感受性と知覚。理念ではなくリアルな感覚としてあった。このリアルは観念やりくつとは無関係である。あらゆる存在者より広く遙かで神よりも天使よりも深く人間に近いものが根源の一人称であることにハイデガーはまったく気づくことがなかった。

「ヴェルナー・シュレーターとの対話」(1981年)で、情熱とはなにかとフーコーは問う。こちらをわしづかみにし、起源もなく、どこからやってくるのかわからない、と言う。「情熱の虜となったとき、人はもはや自分ではなくなるのです。自分自身であることには意味がなくなってしまう」。その情熱の存在とはなにか。いつも根源的な問いは前触れなく背後で一閃し、問いに先立って、ふいに直覚される。存在に先立つ存在と非可換的な、なにかが、存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの手前で律動している。あるものがそのものにかさなるから(根源の一人称が存在するということ)、はじめて事後的にフーコーがフーコーとなる不思議。じぶんがじぶんでないのだから内面化することもできない。むろん共同化などできるはずもない。しかしそれにもかかわらず、それは実在する、同一性とはことなる生の形式である根源の性を分有する内包者としてフーコーは存在した。同一性の下での主体の解釈学とは無関係の出来事である。フーコーにとってなによりリアルな出来事だった。

ハイデガーの能弁の空しさにもいくらかの謂われはある。神という超越なしに〈在る〉ということを記述しようとすると、影踏み遊びのもどかしさに襲われるからだ。影はどうしても存在という本態を踏むことができない。自己意識から存在を語るかぎりこの矛盾から免れることはない。問いに先立つ存在を生きるとき、自己意識の用語法は事後的なものでしかない。西欧は二千年以上かかって、わずかな思索者以外、そのことにさえ気づかなかった。さすがにフーコーは賢かった。人間という概念から意味を抜き取り、人間を秩序の狭間にある影のようなものとして挿入したのだ。意志論を削除すればこの困難は回避できるとフーコーは考えた。ヘーゲル?、そんなものよう知らん、だれのことかね、とフーコーは言った(ような気がする)。

わたしたちが有理数しか知らないとしよう。有理数を超越する数をどう表現したらいいだろうか(それがたしかに存在するということは大昔からわかっていたが、どういうものであるか表現することができなかった)。数学者デデキントは、有理数を切断するものを無理数と考えたらいいじゃないかと言った。わたしたちが考えようとしていることに即していうと、存在と存在者の存在論的差異の構造として存在に内在する矛盾を解こうとした。解けない主題と持ち前の才知をいかして能弁のかぎりをつくして語り尽くそうとし、しだいに迷路に陥っていくことになった。ハイデガーがとったのはこの方法にほかならない。レヴィナスの「存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方」のほうがはるかに存在のなぞに迫っている。わたしはあらためて存在と存在者の存在論的差異の構造を切断するものを内包存在と定義する。

(*2)
1946年にフランクルが『夜と霧』を、1947年にレヴィナスが『実存から実存者へ』を、プリーモ・レーヴィが『アウシュビッツは終わらない』をホロコーストの当事者としてそれぞれの思惟を公言した。同年ハイデガーも『「ヒューマニズム」について』を公刊する。言葉を論理の形式の内部で論じるときはごまかすことができても、言葉がふと息をつくとき、化けの皮がはがれる。素顔のハイデガーは醜い。愚鈍な動物を特別に重要視するいかなる理由もないというような思想からどんな生きる力が生じるというのだ。こんな傲慢なだけの俗物を神棚に祀って20世紀最大の思想家と崇めるわけか。ハイデガーの著作の頁をめくって、一言批評らしきものをいえば、華麗なレトリックで厚化粧された壮大な空虚ということに尽きる。『「ヒューマニズム」について』でかれは言う。ハイデガー58歳。還暦前のこと。ヒューマンかどうかはハイデガーにとってどうでもいいことだった。存在者に付着した何かによって、それをヒューマニズムと呼べば、そういうことどもによって人間が人間であるのではないとハイデガーは考えた。

<断じて、人間は、まず最初に世界のこちら側にいて、「自我」であれ「我々」であれどう考えられようとも、ともかくなんらかの「主観」として、人間であるのではまったくない。>(『「ヒューマニズム」について』)

たしかにハイデガーの言う通りだ。しかしそれはわたしをよぎるリアルとは似ても似つかぬ代物だ。この考えは偉大なゲルマン共同体の復興を夢想したハイデガーの思想の核心にあるもので、『存在と時間』以来受け継がれている。そういう意味では一時期とはいえナチに加担した第二次世界大戦をはさんで、後期の思想に至るまでハイデガーの思想は一貫しているといえる。身に貼りついた心を自己が領有することの権能にヒューマニズムの根拠をおく理念と、ハイデガーのつかんだ〔存在〕の触知はまったく異なるものだった。のちにハイデガーは自身の不如意を技術に譲位する。

1953年に書かれた『形而上学入門』でハイデガーは言う。

<宇宙の茫漠として果てしない空間の中にある地球を思い浮かべてみよう。たとえてみれば地球は小さな砂粒であり、同じおおきさをした隣の砂粒との間は一キロメートルもそれ以上もあって、そこには何も存在しない。この小さな砂粒の表面にうようよとはいまわる愚鈍な動物の一群が生きていて、それがほんのしばらくの間、認識するということを案出して、賢い動物だと自称している。(略)全体としての存在者の中では、われわれ自身が偶然その一人である人間と呼ばれるこの存在者を特に重要視するいかなる正当な理由も見あたらない。>

もう少しハイデガーの言うことを聞いてみる。技術が世界を導いていくときに哲学はなにができるかとインタビュアーに聞かれて答える。ニーチェの超人がハイデガーのなかでグロテスクに変身している。

<哲学は現在の世界の状態に影響を及ぼしてこれを直接的に改変するというようなことはできないでしょう。このことは哲学についてだけではなく、すべてのただ人間的でしかない意図思惑についても言えるのです。かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことができるのです。われわれ人間にはただ一つの可能性しか残っていません。すなわち、思惟において詩作において、この神の出現のための、あるいは没落期におけるこの神の不在のための一種の心構えを準備するという可能性です>。

存在者が存在に隷属する。愚鈍な動物の一群が惑星の上を這いずり回って人間と称しようがそれがどうした。ホロコーストがどうした。すべてが存在の戯れだ。諸神を統べる神の出現のために棲息しているだけだ。このように存在と存在者の存在論的差異は乖離している。その感触の驚きに『存在と時間』は縁取られている。『存在と時間』から『「ヒューマニズム」について』の二〇年間に彼の思索は熟成したのだろうか。ナチ加担の狡猾な言い逃れを緻密にとり繕ううちに彼という人間の地金が露出したという気がしてならない。こう指摘されることさえ〔存在〕の為す業とハイデガーはいうだろう。存在論には、神という観念ぬきに存在を語ることの総毛立つような恐ろしさがある。それをだれより知っていたのがハイデガーだった。

<存在の開けた明るみのうちに出現する、無傷の健全なるものと深い激怒に駆られたものとは、存在の争いに起因し、存在の「歪む働き」から、「非ず」や、「いいえ」を言い述べる「否定」がでてくる。>

<無傷の健全なものと同時に、存在の開けた明るみのうちには、憤怒に燃えた悪事も出現する。憤怒に燃えた悪事の本質は、人間行為のたんなる背徳性のうちに存するのではない。むしろ、憤怒に燃えた悪事の本質は、深い激怒の邪悪さにもとづくのである。しかし、無傷の健全なものと、深い激怒に駆られたものという二つのものが、存在のうちに生き生きとあり続けることができるのは、実はただ、存在そのものが争いを含んだものであるかぎりにおいてのみ、である。争いを含んだもののうちにこそ、歪む働きの本質由来が隠れ潜んでいるのである。(中略)ところが世間の人は、歪む働きなどは存在者そのもののうちのどこにも見出されることはできない、と思い込んでいる。(中略)歪む働きは、存在そのもののうちに生き生きとあり続けるのであって、そうであるからこそ、私たちは、歪む働きを、存在者に付着する何か存在者として、けっして見つけることはできないのである。(略)存在というものが初めて、無傷の健全なものに、恩寵のうちで立ち現れることを許してくれ、また、深い激怒に、災禍へと向かって突き進むなだれのような殺到を許してくれるのである。>(『「ヒューマニズム」について』)

 深い激怒の邪悪さは存在の本質に内在する歪む働きであり、災禍に向かってなだれをうって殺到するとハイデガーは言う。言うまでもなく民族浄化をさしている。ハイデガーの心の襞をめくってみる。ハイデガーは見えない言葉で、おれは存在に触ったのだ、ユダヤ人のホロコースト、おうそれがどうした、と轟然と言い放っている。民族浄化を許容しても痛痒を感じずにすむ怖ろしいものがハイデガーの思想に棲まっている。慄然とするおぞましさはたんにハイデガーの卑俗な性格に還元できるものではない。存在論がもつ本来的な恐さなのだ。厄災は決してあの時代に特有の出来事といってすむことではない。存在と存在者のあいだの亀裂はかたちを変えていまも生々しく息づいている。もっと言うと、ハイデガーの存在の触知はアウシュビッツもナチズムもスターリニズムも必然とする。存在を先験的に祭りあげ、存在者たちを存在の属躰-地上を這いずる愚鈍な動物の一群-であるとするなら、その処遇がいかなるものであれ、神のようなものの到来をまち、砂粒に過ぎない存在者を、神のようなものが救うことができる。後期ハイデガーの思想の転回はニーチェの超人を模造して語られている。なにが問題か。ハイデガーのような存在に根ざすことのない自同律の戯れが、現代の二進法のビットと分子記号マシンのゲノム編集の精神とおなじものであり、すでに粗視化された自然は思考の慣性として実現されていると言うことだ。つまり哲学がこの世のしくみに寄与したことはない。ハイデガーの哲学の野卑とシモーヌ・ヴェイユの絶対的な善を比較する。

<二つの善がある、どちらも同じ名称をもつが、根本的に相異なっている。悪の反対としての善と、絶対としての善と。絶対というものにはその反対がない。相対は絶対の反対ではない。相対は絶対から派生したものであり、両者の関係を交換することはできない。われわれが欲しているのは絶対的な善である。われわれが到達できるのは、悪と相関関係にある善である。われわれはそれをわれわれが欲している善であると思いあやまり、そこにおもむく。>(『重力と恩寵』 268p)

ハイデガーが生きた存在の開けた明るみと深い憤怒が存在の両義性だとしてヴェイユ生きた幼童との決定的な違いをなんと形容すればいいのだろうか。ヴェイユの存在は律動しているが、ハイデガーの存在は生きる前にすでに死んでいる。非業の死にたいする哀悼も哀惜もない。

会ったこともない異国の、まして異なった時代の思索者の言葉を、懐古趣味で取りあげたいのではない。今、この時代を生きようとするリアルな意志がここを素通りしてはならぬと言うのだ。彼の地ゲルマンの没落期、人間の可能性はどこにあるか、とハイデガーは問う。「かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことができるのです」「この神の出現のための、あるいは没落期におけるこの神の不在のための一種の心構えを準備するという可能性です」(「シュピーゲル対談」)レヴィナスは言う。「なぜ神を放棄してはならないのか。絶滅収容所で神が不在であった以上、そこには悪魔が紛れもなく現存していたからだ」(『われわれのあいだで』合田・谷口訳)ハイデガーとレヴィナスの決定的な落差!!埋める言葉はない。

(*3)
1976年ハイデガーの逝去にともない『シュピーゲル』誌の1967年9月に行われた対談が公開される。ハイデガー存命中は公開しないことになっていた。

ハイデガーの思想はなぜナチと共存できたのか。とくに転回以降のハイデガーの考えについて素朴な疑問が昔からある。なぜハイデガーはナチ加担を内省しなかったのだろうか。周囲はごまかせても自分にうそはつけないのではないか。彼はナチ権力の大学内への介入にたいして闘ったと言明し、その自分を連合軍の権力はまたも迫害すると居直り続けた。ここに貴重な資料が公開された。解禁された公文書によると真っ赤なウソであることがわかる。

<もし彼女が、1929年10月にハイデガーが「つのりゆくユダヤ化」への警戒をうながす書簡を文部省の高官に送っていたと知っていたならば、彼の姿勢にいまさらびっくりすることはなかっただろう。そこにハイデガーはこう書いていた。「これに劣らず重要なのは、われわれは一つの選択のまえに立たされていると、緊急に認識することです。―われわれのドイツ的精神生活に純粋な土着の人材と教育者をふたたび供給するのか、それともこの精神生活を、広義においても狭義においてもつのりゆくユダヤ化にこれっきり身をゆだねてしまうのか、という選択であります。」アーレントは結局のところ、ハイデガーから見れば、ドイツの若者の魂を「ユダヤ化」する将来の学者の一人なのだ。しかし彼女はこの書簡を読んではいなかった。それは一九八九年になってから発見されたのである。>(『アーレントとハイデガー』)

エティンガーはハイデガーを意図的に貶めているが解禁された公文書の改竄はないと思われる。シュピーゲル対談の終わりの方でハイデガーは、哲学はサイバネティクスに引き継がれると言う。世界の趨勢に哲学が寄与することはないことを敏感に察知している。簡単に言うとノーバート・ウイナーのサイバネティックスやフォン・ノイマンらのゲーム理論に打ちのめされたということだ。哲学が世界に影響を与えることはないのかとインタビュアーが問う。

<哲学がという意味においてでしたら、もはやできません。従来の哲学の役割を今日では諸科学が引き受けています。思惟が「影響する」ということを十分明らかにするためには、一体ここで影響するとか影響を及ぼすとかいうのは何を言っているのかをもっと立ち入って究明せねばなりません。その場合、われわれが根拠律を十分に究明しているならば、機縁、衝撃、助長、後援、妨害、加勢ということをそれぞれ根本的に区別する必要があるでしょう。哲学は個別諸科学へと解体します。すなわち、心理学、論理学、政治学へと。>

哲学はすでに終結してしまっているという諦念がハイデガーにある。存在と存在者の存在論的差異をどう解釈しようと、世界はそういうことになんの関心ももっていないということだ。そのとおりだと思う。昔から、いまも、これからも同一性を公準とするかぎり、人間という存在者は科学と技術の属躰でありつづけるしかない。コロナ禍を先触れとする惑星規模の変事がこれから頻繁に起こるだろう。問いに先立つ答を生きるとき、どんな大災禍が襲ってこようと、もうひとつの生の原理によって、浄土は、業苦のただなかを、これからも悠然と歩く。

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