日々愚案

歩く浄土274:複相的な存在の往還-幼童について6

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グレゴリー・ベイトソン(以下GBと略)もまた解けない主題を解けない方法で解こうと生涯を費やしたとてもおおきな知の賢者として存在している。そのGBのどこに思想の未然があるのか。GBの思索をたどりながらさらに幼童の世界に踏み込んでいく。
コロナ禍のなかで不安や恐怖を煽る専門家やメディアのうそを剔抉する知者はいないのか問うて、GBの知の営為は知の擬制に耐えうる。ゲーデルが不完全性定理であきらかにした事実よりも広範な科学の基礎とはなにかということを根源的に問い続け生涯を終えた。ダブル・バインド理論や論理階型(ロジカルタイプ)、さらにメタ・メッセージについてGBほど徹底して科学の科学性を明証的に解き明かそうとした知者はいないように思う。かれGBは同一律を存在の分裂生成と考えていたように思う。つまりGBは少しも読み解かれていない。みなわが身の甲羅の形から導かれる講評を開示しているにすぎない。そんなものはコロナ禍で吹き飛んでしまった。わたしもまたそのひとつの講評を内包論から試みる。

手元に若い頃読んだGBの本がある。再読し、コロナ禍のただなかで、いま、三木成夫や大橋力の系譜につながる巨大な才能のGBについて書くことの意義があると思った。GBの思想は難解で解読は一筋縄ではいかないが、内包論からGBの思想がどう見えるか書いてみたい。幼童の拡張はコロナ禍という科学知の専制が共同的な表象にすぎない擬制であることをあきらかにするだろう。

内包論を振り返ると、体系的な思索を重ねていくことには関心がなかった。ある明晰な論理があってその論理を定義の積み重ねで叙述しても、論理が躍動することはない。その典型がヘーゲルの思想だ。そんなものをつくりたい気などなかった。内発的ではあるが、たしかに触った熱い自然の体験をどう記述すればいいのかまったく分からなかった。その驚きをたどたどしく書くことしかできなかった。ぶれながら、その固有性をできるだけ普遍的に書く。それしかわたしにはできないし、それ以外に書く理由がない。

幼童によって同一律の分裂生成が矯められることになるという予感に駆られている。存在の複相性を往還すると内包自然という幼童の世界があらわれる。わたしたちが自明のこととして受けいれている思考の慣性がきわめて歪んだ意識のありかたで、そのゆがんだ意識のありかたを認識の自然としてきた。もちろん訳ないことではない。わたしたちの生命形態の自然が心身一如を可視化して世界をつくりあげてきたからだ。言い換えれば外延的な自然を粗視化してきたにすぎない。サイバネイティクスは機能的なものでもともと表現の理念とは無縁だからGBがサイバネイティクスに関心をもったのは時代性といってさしつかえない。IT社会の興隆も、クリスパーキャス9のゲノム編集も知らなかったのだから。「自我と社会的なものは二つの大きな偶像である」(『重力と恩寵』)ことを可能とする思考の型の淵源はどこにあるのか。わたしは内包論で、自同律という生の分裂生成が必然として自我と社会というふたつの擬制を同定したと考えた。
論理階型Ⅰ、Ⅱ、はおおむねヘーゲルの即時、対自と対応していると考えていい。わたしの読みではGBの論理階型Ⅲは同一性の思考の慣性からの脱出をめざし、複雑性の精神のありようをつかもうとして、自然もまた心的な世界の一部であるという思考の慣性に回収されている。GBのやろうとしたことはまだだれによっても読み解かれていない。

GB(グレゴリー・ベイトソン)には3冊の和訳がある。

①『精神の生態学』(1972年/日本語版2000年:新思索社)
②『精神と自然』(1979年/日本語版1982年:思索社)
③『天使のおそれ』(1986年/日本語版1992年:青土社)

おそらく②、③、①の順で和訳の本を読んでいる。

GBは『精神と自然』を一元のものとして考え、独特の認識論を切り拓いた。GBにあっては自然もまた精神の謂いにほかならない。ここでGBの独特の聖なるものへの探究が語られている。GBはダブルバインド理論や認識の階梯(ロジカルタイプ)を創作した独特の風情をした流浪の知の賢者として知られている。

これからから書くことに気づいている者はいないのではないかと思う。GBが若い頃人類学者として研究して発見した分裂生成(シズモジェネシス)という概念が、かれがそれに気づくことはなかったが、生涯最大の発見であるとわたしは理解した。ほんとうはこの分裂生成をダブルバインド理論に昇華するのではなく、第Ⅱの論理階型の全体に拡張すればよかった。GBはノーバート・ウイナーのサイバネティクスや、フォン・ノイマンのゲーム理論のプラグマティズムに幻惑された。それらは記号論であって表現の理論ではない。知の賢者GBはウイナーやノイマンらとの知の饗宴に安住することはなかった。ヴェイユは言った。「自我と社会的なものは二つの大きな偶像である」と。おそらくGBも無意識にそのことに気づいていた。対象となる自然をそこまで粗視化することにおそれをなし、ダブルバインドというわかりやすい理念に収縮したのだと思う。

GBが分裂生成という概念を手にするに至った経緯をかんたんに要約する。GBは生命のホメオスタシスを不安定にする正のフィードバックのことを分裂生成(シズモジェネシス)と考えている。戦後、ノーバート・ウィナーのサイバネイティクスのシステムを制御する再帰的な数学にGBは惹きつけられ、負のフィードバックによってシステムが安定することを理解する。年来GBの脳裏に分裂生成する文化がなぜ崩壊せずに持続するのかという疑念が渦巻いていた。
2つの集団の間に対称性や相補性があるとしてもやがてこの集団は強圧と服従に分裂し、この過程が亢進すると文化は崩壊に向かう。もともと対称的であった相補的な集団の関係が分岐してカーストを生むことをGBは分裂生成と呼んでいる。1936年、32歳のとき、ニューギニアの未開種族を探訪し著した『ナヴェン』のなかで分裂生成(シズモジェネシス)という理念を提起した。
大戦が終わってすぐ、ノーバート・ウイナーやフォン・ノイマンらとともに史上初のサイバネティクス学会が賢者たちの知の饗宴として開かれた。のちに人類学と精神医学とサイバネティクスの学際領域へ没入し統合失調症のダブルバインド理論を創出する。2つの相反する価値観にはさまれると精神は裂開し、態度決定ができなくなることを言う。

GBはそこに安息の場所をみいだすことができず、ハーバード大学教授職を解かれ、知を放蕩するなかで、ラッセル・ホワイトヘッドの『数学原理』の論理階型(ロジカルタイプ)の影響を受け、1956年にダブルバインド理論を発表する。二重拘束の矛盾は学習Ⅱ(論理階型Ⅱ)で発症する。あのパブロフの犬である。識別しないと電気ショックを与え、識別不能の2つの図形を同時に与えられると、この相矛盾する状況に判断が保留され、噛みついたり昏睡しながらホメオスタシスを維持する。あるいは統合失調症の患者の観察から「これをするとおまえを罰する」「これをしないとおまえを罰する」にはさまれると行動することができず精神が引き裂かれる。フロイトやユングによらない精神分析の手法をGBが編みだし、D・レインらに大きな影響を及ぼし、家族療法いうメインストリームの精神分析への対抗文化をつくり、のちにデリダやドゥルーズの『アンティ・オイディプス』や『ミルプラトー』に引き継がれることになる。

1980年3月、死の直前にGBは最後の講演をする。そのなかでGBは、一個の受精卵からさまざまな機能分化が起こり、こうして私は話をしている。私は心身の長い長い進化の全過程も精神のプロセスと考えると述べている。デカルトの心身二元論を超えようとしてはるか遠くまでGBは思考の旅をした。サンフランシスコ禅仏教センターで禅道によって葬祭された。わたしの読みではGBは同一律を分裂生成と考えていたように思う。分裂生成のロジカルタイプを一段階高度化すると精神と自然ではなく、自然は精神(こころ)の過程になると本気で考えた。論理の第三階型では精神が破綻することが多いと考えたが、その根因は論理の第Ⅱ階型の粗視化のなかにあるとわたしは考えた。論理の第Ⅱ階型そのものが統合失調症ではないか。正常という観念が分裂する精神を疎外しているのであって、狭義の精神の破綻が異常なのではない。論理の第Ⅱ段階全体が分裂しているのだ。もう一度ヴェイユの言葉を引く。必要であればなんどでも。「自我と社会的なものは二つの大きな偶像である」。自我と社会的なものに裂開するそのありかたが分裂生成ではないか。解けない主題を解けない方法で解こうとしても解けないのは意識の外延性が粗視化した思考の慣性の必然である。斯様に生は易々と分裂し正常とされるアルゴリズムと異常とされるアルゴリズムが錯綜しながら相互に同期する。なぜ個人が同時に社会的なものなのか。この分裂的な擬制そのものをわたしたちの思考の慣性は認識にとっての自然とみなしてきた。

まったく解読されていないGBの思想のなかに科学という名の宗教が引き起こしたコロナ禍を読み解く鍵が隠れている。その衝迫感がGBの思索についてのメモを書かせている。書きたいことはふたつ。ひとつはGBが科学を極めてあいまいな観念のあり方と考えていたということ。かれ自身がデカルトの二元論を批判するのは骨身にしみて堪えたと『天使のおそれ』で書いている。ふたつめはGBのダブルバインド理論は学習の第二段階に属する論理階型の全体に適用できるということ。GBはそのことに気づかずにロジカルタイピングの第三段階を論じている。わたしの理解では論理階型の第二層と第三層は非可換であるのにGBは論理階型の第三層を第二層の外延としてしか記述できていない。個人が個人でありながら共同体の一員であるということはもっとも統合失調的と言えるのではないか。意識の第二層における正常は思考の慣性によって公認された理性という狂気だと内包論は主張した。むろんだれに通じるとも考えてはいない。そのような感受のなかでわたしはヴェイユと同行しているという実感がある。ただGBの科学に対する触感は独特のもので数学者のゲーデルやドイツのエニグマという暗号を解読したアラン・チューリング(1912-1954)よりも科学について鋭い感受性を持っていた。GBは科学は何も証明しないと言う。

  2

GBの科学への鋭敏な感受性を引用する。長くなるが肝心なところをそのまま引く。『天使のおそれ』の執筆動機とねらいについてつぎのように書いている。

①<どちらかというと、わたしが何を探し求めていたのかを説明するよりは、本書が何についてでないかをいいあらわす方がたやすい。それらがあるもっと大きな知識体系の一表現だという点をのぞけば、これは心理学や経済学や社会学に関する本ではない。これは厳密にいって生態学や人類学についての本でもない。他のあらゆるものを超えたところに、認識論というさらに広い対象領域があって、わたしが人類学的および生態学的秩序という事実にふれたとき、こうした諸分野のどれよりも高次のある秩序が垣間見えたように思う。
 すなわち本書は、人類学とローカルな認識論とから生ずるさまざまな事象の比較研究といっていい。人類学者はあらゆる民族の倫理観を調べ、そこから比較倫理学の研究にはいる。他の多くのシステムに関する知識を背景として、各部族特有のローカルな倫理をみてとろうとするのだ。同様に、あらゆる民族の認識論、つまり知の構造と演算経路とを研究することが可能であるし、実際つとに流行の兆しをみせてもいる。この種の研究を進めて、ある文化システムに内在する認識論と別な文化システムのそれとを比較することは自然ななりゆきだ。
 だが、比較倫理学と比較認識論を並べてみたときに何がわかるだろうか? さらに、その二つと経済学とを結びつけてみたら? そしてさらに、その全部を形態発生や比較解剖学と比べてみたらどうか? 
 このような比較は、研究者をいやおうなくことの基本的詳細へと連れ戻す。これら研究領域すべてが重なりあうさいの普遍的最小公分母は何かについて、立場を明らかにしなければならないのである。その公分母はしかしどれか二分野の部分要素ではない。それらは行動科学の部分要素でさえもない。それらはいわば〈必然〉の一部なのだ。そのあるものは、聖アウグスティヌスが「永遠の真理」と呼んだものであろうし、またあるものはユングが元型と呼んだものであるかもしれない。・・・(略)・・・科学は十分わけあって、曖昧な定義やもやもやした論理階型分類(ロジカルタイピング)の混乱を嫌うのだが、そうした危険を避けようとしたために第一級の、まさに本源的な重要性をもつ議論を排除してしまったのだ。>(『天使のおそれ』25-27p)

GBの言う「普遍的最小公分母」は意識の外延性の必然として粗視化された認識の公準である同一性のことである。

②<古い神秘にかわって、新しい一群の課題が登場してきた。本書は、それらのいくつかを描き出そうとする〔なかでも、非二元論的な世界観のもとで、新しい聖の概念がどう立ち現われてくるかを探る〕試みである。本書のねらいは、読者の眼にそれら新しい課題が見えるようにし、願わくば新しい問題にいくつかの定義を与えることにある。それ以上先に進むことをわたしは期待していない。アリストテレスが提起し、デカルトがいっそう難しくした問題群を解くのに、世界は二五〇〇年かかった。新しい問題群の解決が古いものより簡単だとは思えないから、わが同輩の科学者たちにもこれからまだ長いこと仕事の分け前がまわるにちがいない。
 本書のタイトルには、ひとつの警告を与えるという意図が含まれている。重要な科学的進展というのはかならずといっていいほど、応用科学者やエンジニアが心待ちにしていた道具そのものを提供してくれるようにみえるもので、連中はふつう一も二もなくそれらに飛びついてゆく。彼らの善意の(ただし少々あさましい、心穏やかならぬ)努力は、一般に益をなすと同じくらい害をなし、次なる問題群の層をはっきりさせてくれるのが関の山である。このことを理解せずして、応用科学者が大損害をもたらさないという保証は得られない。あらゆる科学的進展の裏には、かならずひとつの母体、つまり未知なるもののなす主脈があって、新しい部分的解答というのはそこからわずかに削ぎとったものにすぎないのだ。ところが、飢えて、人口過剰の、病んだ、覇気満々たる、競争心旺盛な世界は、それ以上のことが自然にわかるのを待つわけにはいかず、天使おそれて立ち入らざるところに殺到しないでいられないらしい。世界の要請がそうさせるのだというその手の議論には、わたしはまったく与することができない。そうした要請にこびる連中は、おうおうにしてけっこうな見返りをいただいているではないか。自分たちのやっていることは必要で役に立つのだという応用科学者たちの主張を、わたしは信用しない。しかし、彼らのせっかちな意欲、飛び出したくてうずうずしているその様子は、ただの短気やあこぎな野心のあらわれではなかろう。それは、深い認識論的恐慌を覆い隠すためのものであるようにわたしには思えるのだ。>(『天使のおそれ』33-34p)

ここでGBが「アリストテレスが提起し、デカルトがいっそう難しくした問題群を解くのに、世界は二五〇〇年かかった」という引用の箇所は、ハイデガーが触れた存在の触感とみごとな対応をし、個性的な言葉の用語法はちがうがおなじことが着想されている。<それゆえにAはAである(A ist A)という同一性の命題に対する一層適当な型式は、ただに各々のAはそれ自ら同じであることを言い表わすのみならず、更にそれ自らと各々のA自らは、同じであることを言い表わしているのである。この自同性のうちには、それ自らとの関係、従って媒介、連結、綜合、即ち統一性への合一ということが存している。西洋的思考の歴史を通して同一性が統-性の性格をもって現われることは、以上のことに由来するのである。しかしながらこの統一性は決して、それ自らにおいて他との関係を有せず、ただ一つの無差別なものに固着しているという気のぬけた空虚さではない。けれども同一性の内で支配し且つ古い時代から既に知られている関係、つまり各々のAとそれ自らとの関係を、かかる媒介として確立し且つ特徴づけられて現われるに至るまでに、更にまた同一性の内における媒介がかく出現するために一つの土台が見出されるまでに、西洋的思考は、二千年以上を要しているのである。>(『同一性と差異性』大江訳)

同一性はあたりまえのようで本当はぜんぜん自明ではない。即自性としていうならばA=Aはあたりまえである。しかしそこに同一性の底のみえない深いなぞはない。二分心とその崩壊のありようをジェインズは詳細に記述した。かれの世界は二分心ぬきには成立しない。神という媒介ぬきに存在を語ることができるか。ひどく驕慢な人物だったハイデガーはできると考えた。同一性と差異性を論じるとき、媒介という概念がいちばん難しい。媒介が定立するとさまざまな差異性を連結し総合することができる。ハイデガーは同一性と差異性の分別について媒介という概念の設定の仕方のはじめから躓いた。同一性と差異性は同格ではなく、差異性は同一性を可能とする意識の外延性の派生態にすぎない。そのことに気づくのに二千年以上かかったということだ。GBはアリストテレスが当時の知の制約のなかで記述した知の全円性がデカルトの二元論によって覆い隠され反って知の理解を複雑にしたという。GBの渾身のデカルトとの激突の箇所を引用する。

③<しかし、現行システムに対するわたしの異存はこれとは種類がちがう。わたしの異議申し立ては、個々の断片に対してのものではなく、貨幣、数学、実験行為といったそれ自体はまっとうな文化の構成要素をひとつにまとめ上げるまとめ上げ方全体への反応にほかならない。
 これまで並べた超自然論者のさまざまな迷信のどれよりも重要なものとして、二つの基本的な信仰があげられる。これらは互いに密接に結びついており、どちらも時代遅れであり危険であるとともに、現代の超自然論者と、世の信望あつい機械論的科学者が共有するところでもある。今日、行動科学者や物理学者にまでもてはやされている巨大な迷信は、これら二つの根本的で、しかも誤った信仰の組み合わせから生ずるものである。この二つの信仰がそろって、哲学思想の巨人ルネ・デカルトに結びついているというのは不思議な事実だ。これらの信仰は二つともわれわれにとって非常になじみが深い。
 その第一は、近代の幅広い迷信の基礎をなす考え方で、この世界には「精神」と「物質」という二つのはっきり異なった説明原理があるとする。このような二分法の必然として、この名高いデカルト二元論は、それ自体に負けず劣らず奇怪な分裂を数多く生みだしてきた。心/身、知/情、意思/誘惑、などがそれである。一七世紀の時点で、心的な現象に超自然的でない説明を与えることは困難だったし、また当時、天文学の物理学的説明が大成功をおさめるであろうことはすでにはっきりしていた。そんななかで、「精神」という問題を払いのけるためにもう一度昔ながらの超自然論に頼ることはごく自然ななりゆきだったのだ。そのうえでこそ、科学者たちは彼らのいう「客観的」探求にのりだすことができた。といっても彼らは、感覚器官が、いやそれどころか「物質」の研究にむかうわれわれのアプローチ全般が、「客観的」にはほど遠いものであるという事実を見のがすか、でなければ無視していたにすぎないのだが。
 デカルトのもうひとつの功績にも彼の名前が冠せられていて、子どもが科学実験室に足を踏み入れたり科学書を読んだりすればかならずそれを学ばされる。科学的に考えるにはどうしたらいいかにはいろいろな説があるが、なかでもこれまで一番有力だったもののひとつに、いわゆるデカルト座標という直交座標を使って、二つ以上の相互作用変数をあらわしたり、時間の経過にともなうある変数の変化をあらわしたりする方法がある。解析幾何学はこの考え方から生まれたものであり、その解析幾何学からさらに極限微積分学と、われわれがものごとを科学的に理解するさいの〈量〉の重視が生まれた。
 もちろん、このすべてにけちをつけることはできない。しかしなおかつ、それこそ霊能者のよくいう「指先の微妙な感覚で」わたしにははっきりわかる。科学的手段のなかでももっとも唯物的で強固なデカルト座標を発明したその同じ男が、精神と物質の分裂を主張することによって二元論的迷信をも絶対化したというのは、けっして偶然の一致ではないはずだ。
 この二つの観念には密接な関連がある。そしてその関係は、物/心二元論を、説明を要する問題のうち、よりたやすく説明のつく半分からもう半分を切り離すための方便と考えれば一番はっきりしてくる。いったん切り離したあとは、心的現象など容易に無視することができた。しかし、この切り離し作業によって、説明のつく方の半分が極端に唯物化し、もう半分の方が徹底して超自然的なものになってしまったのはいうまでもない。その結果双方に生々しい切り口が残ったのだが、唯物論的科学は独自に一連の迷信をつくりだすことによってこの傷を隠してきた。唯物的迷信とは、〈量〉(純粋に物質的な概念)がパターンを決定できるという信仰(ふつうは表明されない)である。いっぽう反唯物論者は、精神が物質を支配する力をもつことを主張する。量がパターンを規定するというのと、精神が物質に対する支配力をもつというのとは厳密な補完関係にあり、しかもどちらもまったくのナンセンスだ。>(『天使のおそれ』105-107p)

これだけ目を通せばGBの思想の全貌をかいま見ることができるようにしたい。そのために長い引用をつづけている。科学の明証性についてのGBの考えは熾烈なものだ。コロナ禍の科学という名の加持祈祷が前時代のGBによって徹底批判されている。GBは科学は何も証明しないと明言する。

④<科学には仮説を向上させたり、その誤りを立証したりすることはできる。しかし仮説の正しさを立証することは、完全に抽象的なトートロジーの領域以外では、恐らく不可能である。純粋論理の世界では、これこれの仮定なり公理なりの下で、これこれのことが絶対に成り立つ、という言い方も可能である。しかし知覚される事柄や知覚から帰納される事柄の真実性となると、話は変わってくる。
 真実というものが、われわれが行う記述とそれによって記述されるものとの間の厳密な一致を意味する、あるいはわれわれの抽象と演繹の全ネットワークと、外界に関する全理解との厳密な一致を意味するとしよう。そのような意味における真実は、われわれはけっして手にすることができない。われわれの記述が言葉や数字や図でなされるという状況を今仮りに無視して、血と肉と行為をもって記述することで記号化の壁を一応取り払い、さらに血と肉へ翻訳する際の障壁さえ無視することにしても、絶対確実な知識を手にすることは、どんな事柄に関しても永遠に不可能なのである。>(『精神と自然』35-36p)

生が縮減するコロナパンデミックがまるごと虚偽であることをどう伝えたらいいのか至難である。生がA=Aに漸近していくことをGBの著作を読み返すなかであらためて今回のコロナ禍で思い出し、ベッドでかれの本を読み直した。いまなぜGBか。ふたつある。科学の信憑性に対する根源的な、ゲーデル以上の厳密さと繊細さを彼の思想がもっていて、科学とはなにかについての根底的な懐疑をもたらしているということ。もうひとつはロジカルタイプ、論理階型の第三は内包の近くまで来ていたというわたしの直感があった。かれの独創的な思想はまだまったく読み解かれていないが、かれの思想は聖道門の竪超までは到達した。それにもかかわらず卓越した才能は居場所を定めることがなく生涯の最期まで未知の思考を探求しつづけた。論理階型はどうなるのだろうか。古代ギリシャの詩人であったクレタの人のエピメニデスが言った「クレタ人はみなうそつきである」の真偽は決定できるか。いわゆる自己言及のパラドックスと言われる命題だ。このパラドックスはクラスのメンバーという論理階型を挿入することで一見回避できるようにみえるが、矛盾を先延ばしするだけだ。GBの論理階型はどこにいくのか、それを語っている。ロジカルタイプはそのなかに矛盾を含むと論理階梯を高次化し、矛盾を回避する。そのことについてGBはつぎのように言っている。言い換えればどれほど構造のしくみをこまかに記述してもそのロジカルタイプには必ず存在の切れ目が残ることになる。斯くして論理階型は無限に遡及するほかない。意識の外延性による自然の粗視化は外延表現の閉じた円環の外にでることができない。GBはそのことをよく知っていた。

⑤<同じような不連続性が記述的言明の階層構造のなかにもあらわれる。経済性という理由で、記述者(ないしDNA)はどうしてもディテールを束にして扱わざるをえない。カーブした輪郭は、近似的に何らかの数学的形態へとくくられる。ある形の無限の細部もひとつの方程式に押し込まれる。そうして、あるひと束のディテールをうまく記述しおおせると、われわれは必然的にもう一歩一般化を押し進め、それらの束どうしの関係を要約することになる。たとえば、木の葉やカニの足(あるいは核酸でもいいが)どうしのちがいを述べるためには、比較される両者に共通の形式的類似性を取り出す必要がある、といった具合だ。しかしそのさい、ディテールから複数のディテールの束への飛躍や、さらにその束から複数の束の束への次なる飛躍は取り上げられないまま残る。これらの飛躍は、多くの理由で明確化されず取り上げられずに残ってゆくのである。われわれにはこのような抽象的な不連続性をいかにして記述したらいいかわからない。これに関する数学的定式化はまだまだ拙いものである。だが、たとえもっと強力な数学ができたとしても、われわれはたちまち無限遡及に陥ってしまうだろう。論理階型でいうといっぽうが高くもういっぽうが低いような階層関係にある二つの記述命題を立てた場合、その脇に立ってこれら両者の関係を記述するなら、この新しい記述は第三の論理階型に属すことになって、われわれはこれと前二者の関係を記述せざるをえなくなり、結局第四の論理階型が出現して、これが無限につづいてゆくのである。>(『天使のおそれ』284p)

なにが問題なのか。論理階型の無限遡及性があるだけで、存在に空いた空隙はいつまでも埋まることがない。じぶんがじぶんにとどくことは論理階型の階層のどこにもない。科学という名の宗教が効率の最適化競争からまぬがれないかぎり、科学は何も証明しないというGBの命題はリアルにいまも生きている。GBについては、①GBの科学に対する認識と②分裂生成を拡張すれば読解したことになると考えた。コロナ禍のなかで不安や恐怖を煽る専門家やメディアのうそを剔抉する知者はいないのか問うて、GBの知の営為は知の擬制に耐えうる。ゲーデルが不完全性定理をあらわした出来事よりも広範な科学とは何かという問いにGBは生涯を掛けて真正面から取り組んだ。ダブル・バインド理論や論理階型、さらにメタ・メッセージについてさまざまな解釈があるとして、GBほど徹底して科学の科学性を明証的に明かそうとした知者はいないように思う。かれGBは同一律を存在の分裂生成と考えていた。

GBの学習の第Ⅰ段階から第Ⅱの認識階型の飛躍は、ヘーゲルの即自、対自、におおまかに対応していると考えてよい。いかなる思想家も第Ⅰ段階の認識階型から第Ⅱの認識階型に転位するときに粗視化した認識の自然のなかに即自態と分離できない思考の慣性を内含してしまう。この世のしくみを剔抉しこの世ならざる人と人の関係を現成しようとしても、解けない主題が解けない方法で解かれることになる。自己言及のパラドックスが思想それ自体のなかに含まれているからだ。GBが書くように、認識の階型は順次高度化し、さらに無限の階型を踏むことになる。認識の第Ⅲ段階へのジャンプは危険であって、まれにこの段階に到達する者もいるが、おおくはその過程で精神が崩壊することになるとGBは言う。任意にあげれば『精神の生態学』(415~416p)がその言及の箇所に相当する。わたしはGBの俗耳の理解とは異なって第二段階の、比喩で言えば対自の観念の構成のなかに第三段階の論理階梯が思考の慣性として胚胎されていると考えた。GBの論理階梯の第Ⅲは学習のⅡの外延的な拡大として構想されている。わたしの考えでは、論理階型の第Ⅲは論理階型の第Ⅱの相転移として表現され、論理階型が高次化するのではなく、ラッセル・ホワイトヘッドのロジカルタイプを可能とする認識そのものが拡張されることになる。

    3

わたしの推測では死を目前にしたGBは禅仏教の思想を超えようとしていたようにみえる。長い進化の過程も精神的なプロセスだとGBは話している。果たしてカルトだろうか。そうではない。意識の外延性を極限まで拡大すると全自然はGBの考えるような美しい物語として粗視化することもできる。前言語的な認識でのソクラテスの三段論法「人は死ぬ。/ソクラテスは人である。/ソクラテスは死ぬだろう。」という命題を踏み抜き、草の三段論法と呼ぶメタファーの三段論法「草は死ぬ。/人は死ぬ。/人は草である。」のほうに明らかにのめり込んでいる。相同というメタファーが観念のつながりを伝えあう主なコミュニケーション様式にちがいないと言う。メタファーの三段論法をつなぐのは「相同」だとGBは考えた。特異だが美しい最晩年のGBの発言を引用する。

⑥<例えば一個の受精卵だった私が、鼻の両側に一個ずつ眼をつけることに成功し、今あなた方の前に立っている複雑な形をした二本足の講演者になった。このことをグレゴリー・ベイトソンの精神的成就とお考えいただきたい。私が〝精神過程″と呼ぶものの中には、この生体組織を獲得するプロセスがみんな-さまざまな指令を受け、間違いを犯してはそれを直し、環境の言うこともちゃんと開いていく、そういう発生のプロセスがみんな-含まれるわけです。そればかりではありません。進化も含まれる。私の体を分解してご覧になれば、そこにはちゃんと馬の設計図も鯨の設計図も、蛙の設計図さえ見てとることができる。そういう結果をもたらした長い長い進化の全過程も私は精神プロセスとして考えます。その進化が残した今の〝相同″という現象も、それ自体一つの精神プロセスであり、精神的成就である。さらに言えばメタファーである。単なる物質は-物質などというものについて語ることができるとしての話ですが-そんなことはしないのであります。>(『精神と自然』所収訳者あとがきから「イェール・レヴュー」1981年秋季号)

まるでかつての彼方の遠を感得した三木成夫の面影ではないか。いや三木成夫が傾倒するゲーテの形態学、原型のイメージが澎湃として起こる。甦るゲーテ。GBの自然論はゲーテの形態学によく似ている。三木成夫のゲーテの解説を敷衍する。生物の根底を流れる生命の根源の波は螺旋になったリズムとなって動いている。食と性によって刻まれ、この生の波に乗って、あるときは葉に、あるときは花びらに変身する。植物のメタモルフォーゼは動物にも及んでいく。ここでもGBの相同という概念を重ねることができる。メタモルフォーゼは植物の茎節は垂直方向に重ねられ、動物では水平方向に融合し、その全体が食と性の二相に分かれて、刻々と造られながら造り変えられていく。この遷移の過程をなぜ進化論と呼ぶ必要があるのか。たんに螺旋になった命のリズムではないか。進化もまた心的なプロセスにすぎないのではないか。これがGBのたどりついた思想だった。

長い観念の旅程を経てGBの一元論はここまで到達した。進化の全過程を精神プロセスとして考えることができるなら、淘汰圧や適者生存という自然論や進化論も理性という名のひとつの狂気ではないのか。観念一元論で進化の全過程まで略叙した者がほかにいるか。自然への融即の術である聖道門の竪超それ自体をメタファーとして包み込み融解してしまった。しかしロジカルタイプの矛盾そのものが解けたわけではない。無限の彼方に順延されただけである。論理階梯の第Ⅱ段階の分裂生成を論理階梯を高次化することなくそれ自体としてひらけば、論理階梯の複相性を往還し、内包的な自然を手にすることができる。なぜこの世のしくみは変わらないのか。GBの第Ⅱの論理階型をまるごと開包できないからだ。自我と共同性という分裂生成を前提とするかぎり、この世のしくみとしかけは遷移するとしても、適者生存の生の条理がひらかれることはない。(この稿つづく)

 

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