日々愚案

歩く浄土30:共同幻想論の拡張3

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歩く浄土29を書いてからふと気づいたことがいくつかあります。
吉本さんは『共同幻想論』のつづきをすでに書いていたのです。
迂闊でした。過去を踏み台にして『共同幻想論』を書き、現在を作者として『マス・イメージ論』を書いていました。

「いっさい過去を踏台にするってことをやめて、現在目の前に展開していることだけを素材として、『共同幻想論』と同じ方法といいましょうか、これを使ったらどういうことになるのか、何が見えてくるんだということをやろうみたいにおもって、それから場所の大転換をしたと思います」(『パラダイスへの道’90』所収「対幻想の現在」120~121p)

そうすると『マス・イメージ論』は1980年初頭の吉本さんが感受した共同幻想の世界です。その頃しきりに思想の大転換をしたと書いていました。「政治なんてものはない」や「重層的な非決定へ」として埴谷雄高との論争が1985年3月と5月にやられています。『ハイ・イメージ論』は1985年7月から1990年7月にかけて書かれ、そのあと『母型論』と『アフリカ的段階』へとつづいているのです。

表現のモチーフの転換について吉本さん自身が語っているところがあります。

 旧来のロシア的「左翼」の出発点と重点は、ひと口に要約すれば「都市と農村の対立」という着眼点に帰着します。近代の都市はもともと農村との対立から生み出され、都市の周辺に製造工場を設け、中央に本社を置くのが都市の発達の基本形だったわけです。この対立点を重工業を中心にした製造業などの方に、言い換えれば都市工業労働者の方へ引き寄せようとする考え方が、ロシア的マルクス主義のモチーフです。
 ところが現在、六〇年から八〇年の間のどこかで、「農村と都市の対立」「農業と工業の対立」は主要な課題からずり落ちてしまったのではないかと思えてきたのです。
 それは第三次産業に従事している人々が働く人の過半数を占め、国民総生産も第二次産業=工業をはるかに追い抜いたことからもわかるんですね。都市は工業を中心として生み出されたというかつての僕らの感覚とは、まったく食い違ったことがわかってきたわけです。
 そこで今度は、その「農村と都市の対立」が副次的になったのはいつなのかを、自分なりに突き詰めてみました。するとどうも日本の社会では七二年前後の二、三年だろうと思われてきました。
 まず七二年をピークにして、第三次産業の従事者の人数のほうが第二次産業よりも多くなってきます。また、ミネラルウォーターが初めて瓶に詰めて売られ始めた。実はこれはとても象徴的なことで、マルクスの『資本論』の基礎になっている経済認識は、空気や天然水はとても大切で使用価値は大きいが、交換価値、つまり値段はないということで象徴されます。ところが天然水が製造工程を経て商品として売られることによって、交換価値を生じました。
 超高層ビルが建ち始めたのもこの頃です。製造工業や重工業など第二次産業の本社機能だけならせいぜい十階ぐらいですんでいたが、第三次産業の本社も設けるとなると同じ狭い立地条件で造らなければならないから、超高層ビルにするより仕方がないのです。つまり第三次産業が第二次産業よりも多くなっていったのが、超高層ビルの出現の象徴であるわけですね。
 マルクスの時代の公害病は肺結核でしたが、現在の公害的な病気は、頭の病気に変わってきた。正常か異常かとか、障害か無障害かという境界がはっきりしない〝頭の公害病″が蔓延してきたのも、この時期からでしょう。 こうしたいくつかの兆候を考え合わせると、日本の社会では七二年を中心にした二、三年でとても大きな曲がり角を迎えたという認識に達します。
 七二年が一つの転換期だと気づいたことによって、僕の仕事の方向性もはっきりしてきました。
 一つは大衆文化を本気に論評しょうということ、もう一つが都市論をキチンと考えようということです。文学評論の余技として大衆文学を論じるのではなく、大真面目に大衆文化の問題を正面に据えなければいけないと思ったし、都市の実態をもう二回考え直さなくてはいけないということになりました。
 さきほど申しましたように、いまの都市は工業都市ではなく、第三次産業都市というか、「超都市」になっています。この、都市から超都市へ移っていく過程をキチンと論評しなくてはいけないと意識し始めたんですね。僕の著書としては、大衆文化論にあたるのが『マス・イメージ論』であり、超都市論は『ハイ・イメージ論』の中で、これはまだ完結していませんが、正面から論評してみょうと試みたわけです。これらは『共同幻想論』の続きとなっており、『共同幻想論』が、共同体のあり方を過去に遡って論じてみたとすれば、『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』は、現在から未来への共同体のあり方を把握しようとしたものです。
 多分、そこが旧来の左翼と僕らの分かれ道になったのです。それは旧来の左翼の「都市資本主義を肯定し始めた」という僕への批判にあらわれました。エコロティズム、ナチュラリズム、科学技術の単純否定、反都市、反文明、反原発の主張というように、旧来の左異はこの時期から退化、保守化に入っていきます。つまり僕などの考え方との開きは拡大していったのです。もちろん都市資本主義を肯定することが悪いわけではありませんが、僕の問題意識はいい悪いの問題ではない。要するに工業と農業との対立がいまの社会の主要な課題だと思っている考え方はもうダメだ、ということです。
 ですから、僕は「転向」したわけでも、左翼から右翼になったわけでもない。旧来の「左翼」が成り立たない以上、そういう左翼性は持たないというだけです。だから僕は「転向」したと言われても一向に構いません。これは僕らが旧左翼のすべてを保守化、反動化と呼ぶのと同じことですから。自分自身では「新・新左翼」と自己定義しています。
 そして「七二年頃にどうやら時代の大転換があった」と分析ができてからは、挫折の季節を経てなお、かつての考え方にしがみついている人々とのつきあいは免除してもらうことにしました。これまでは、責任がないわけではない、と思ってきましたが、時代が変わってしまったんだから罪償感もこれきりにさせてもらおう、つきあいにエネルギーを費やすのではなく、自分の考え方を展開して公にすることにエネルギーを使おう、と考えるようにしています。(『わが「転向」』17~21p)

世界が途方もなく生成変化しているという感受はわたしのなかにもありました。1970年代の後半に世界は白い闇で覆われはじめました。世界視線という言葉でじぶんの過剰さが漂白されるようで気持ちよかった。

 記憶のなかの吉本隆明さんの言葉をたぐると、ぼくのなかでおおきなうねりがふたつあることをおもいだす。ひとつはぼくが一九六八年から直接関与した部落解放運動での絶対孤立の過程の、言葉にとおい、とおい言葉とともにあらわれる吉本さんの言葉である。その軌跡をぼくは〝おれにとっての連赤〟としてひきうけてきた。ぼくが呼吸するとそのたびに世界がドキンと脈うった。そんなぼくに吉本さんの言葉がしんとふってきた。ぼくのまだしらないかずおおくのひとびとにあっても、吉本さんの言葉はこうしておとずれたにちがいない。手に取るようにぼくはそのことを感じとることができる。
 ぼくは風や陽や音にさわるようにして吉本さんの思想に触れた。吉本さんの言葉をとおして、当人にとってはいのちがけの、それが過ぎるひとにあってどんな滑稽なことであったとしても、かけがえのないひとつの世界が、じかに体験された。思想を体験するということはそういうことだとおもう。いまもそのことをあらためたいということは、すこしもない。
 いまなんとか言葉にしてみたいとおもうことは、ふたつめのうねりについてだ。一九七O年代の中頃、世界がとてつもない変化をしていることが実感として感じられた。フーコーの『言葉と物』が、クラフトワークやフライング・リザードの音が、つまりその乾いた世界の風景がとてもここちよくひびいた。ぼくは仕事のあいまにヨックモックでウォークマンのトム・トム・クラブの音を聴きながら村上春樹の『風のうたを聴け』や『羊をめぐる冒険』を音にさわるように読んだ。ぼくのなかのえたいのしれない過剰ななにかがうすめられていくようで気分がよかった。(『内包表現論序説』184p)

 この感受性の極ではにんげんもこころも無限遠点から地上に降りそそぐ一条の雪の切片のようなものだ。にんげんがみえない、こころがみえない。にんげんやこころに化合した湿度も温かさも晴れあがり、いきものの気配さえ蒸散した無機そのものがここちよい。ふわふわしてとおい目になる。〈世界視線〉の始点から幾条もの雪の切片が地上に降りそそぐ。ブランアン・イーノの『鏡面界』の音がはるかな地上に放射する。かつてクラフトワークの『アウトバーン』でこれと似た体験をしたことがある。フーコーの『言葉と物』に接したときも同じだった。
 観念の自然史に、ジャンキーのようにからだを融解させてもいい。原始の海水もウミユリも三葉虫もピテカントロプスもぼくのからだにふくまれて有る。〈世界視線〉のうちにある高度な表出性が近未来の「映像都市」なのだ。(同前 205p)

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この思想の大転換をしたときの吉本さんの心象風景はつぎのようなものだった。

 すでに知的な資料や先だつ思考の成果を〈読む〉ことだけが〈考えること〉を意味する段階に(段階というものがあるとして)はいってしまったのではないのだろうか。それ以外に〈考えること〉などありえないことになったのでは。ほんとはいつもこの危惧をどこかでいだいているのだ。眼のまえにおこる生々しい出来ごとに出あいながら、その場で感じたことを〈考える〉とか、現実におこった事件について〈考える〉ことが〈考えること〉の主役だった時代は、過ぎてしまった。そうでなければ、眼のまえにおこっている生々しい出来ごとでさえ、書物のように紙のうえに間接に記録して、それを読んで出来ごとを了解しているのではないか。精緻に〈読む〉ことがそれだけでなにごとかであるような現在の哲学と批評の現在は、この事態を物語っている。このなにかの転倒は、すでに現在というおおきな事件の象徴だとおもえる。(略)この現状では〈わたし〉はただ積み重ねられた知的な資料と先だつ思考のなかに融けてしまって、すでに存在しないものにすぎない。そして〈考えること〉においてすでに存在しないものである以上〈感ずること〉でも、この世界の映像に融けてしまって、すでに存在しないものにすぎない。(『言葉からの触手』所収「考える 読む 現在する」)

 内面的なものの表現である文学というものについての考察を、内面的な表現でやるというのではなくて、もし象徴的に理解するのでなければ、もう内面的な表現などはどこにも入る余地がないよ、入る余地がないよというところから、極めて内面的な問題というものをやってみたいという衝動と言いましょうか、それが自分の中で多いものですから、内面を無視したり、無限遠点から四捨五入したりするようなやり方と主題というのを、僕自身はやっていると思います。
 それは内面に対する関心がないからではなくて、内面の問題を内面的にやるというやり方は、ものすごく不毛に見えてしかたないのです。(『幻の王朝から現代都市へ』)

吉本さんの「世界視線」という言葉は当事ぴったりきました。かれの言いたいことがわかりました。理念というより知覚としてわかるという感じでした。世界視線という感覚がわからない人とは話をしたくないというくらいによくわかったのです。
この時期、吉本さんの言葉を追いかけながらしきりに、吉本さんの表現論の根っこにある特異点をひらこうとしていた。両肩に世界を背負って疾走する思想家吉本隆明のこころには渺々と風が吹いているような気がしてならなかった。吉本さんとは親子ほどにも歳は違うのですが、じぶんのことでもあったのです。生の不全感。引きうけた負債のあいだで引き裂かれ、死と隣り合わせで、殺伐とした日々にあってもがくようにして吉本さんの言葉を追いかけていました。
人間の内面を内面として扱うことは不毛であることにはいまでも同感します。吉本さん、違うのですよ。人間という概念は終焉するのではないですよ。人間という概念を内包という概念で拡張すればいいのです。吉本さんの言葉は現実に負けています。言葉が現実をつくれなくなっています。

世界視線という概念がフーコーの人間の終焉にインパクトをうけてつくられたものであることはわかりますが、ランドサットからの視線が人間にまつわるもろもろの煩雑さを省いてくれることはわかりますが、この抽象は捨象であり切断にすぎません。無限遠点から人間をみると、岩石も樹木も人々の生も区別することはできません。熱い社会がうっとうしくて、俯瞰視線で未開種族を観察したレヴィ=ストロースの理性も、代数的に同型であるという数学でしか未開種族の婚姻の規則を記述できませんでした。
アフガン空爆やイラク戦争とのときの映像を記憶しています。闇に浮かびあがる空爆はクリスマスツリーのようで、花火みたいにきれいでした。多くの人がそう感じたと思います。軍事衛星の無限遠点からの遠隔操作で安全な軍事基地からそれは行われました。抹殺の標的をドローンで殺戮するのもおなじです。殺害の実行者に悪を為しているという認識はないと思います。そこにはたんたんと仕事をこなすアーレントのいう凡庸な悪があるだけです。

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世界視線という思考変換の内部でなにが起こっているのか。分析したい対象の抽象と捨象が空間化されているといういうことです。じつはこのことはレヴィ=ストロースの『遠近の回想』を読み返していて気づきました。かれの生涯を決定づけた西欧近代の厄災と起源を異にするべつの社会を分析することでかれを根底から変えた事を相対化したかったのです。自己を領域とする方法を持ちえなかったのでレヴィ=ストロースは出来事を空間化しました。そのことに自覚的であったかどうかはわかりません。
おなじことをフーコーの思想の方法に触発されて吉本隆明は人間を徹底して相対化したのです。それがかれの世界視線という言葉です。若い頃にこの言葉に出合ったときは胸が清々としました。いまは、同一性をなぞり空間を刻んでいるだけだと理解しています。当事者性として世界に向かう意志は括弧に入れられています。

吉本隆明は『わが「転向」』で述べています。

 人間の造るものは、どれも煩わしいといえば煩わしい。煩わしい人間が沢山寄り集まって、ごちゃごちゃ住んでいるのが都市です。僕はランドサット写真を東京論のために挙げましたが、ランドサットまで視点を高めてゆくと、全部人間が消えてしまいます。
 ある意味で「内面の時代」はすでに終わっています。ミッシェル・フーコーは、「人間」という概念は十九世紀に作り上げられたもので、すでに時代遅れなんだと言いますね。ランドサットの視点から見れば、「人間」なんて実にお粗末な、空虚な観念です。人間の内面性も同じことです。ゆくゆくは廃棄処分になるというのが、これからの人類の未来じゃないですか。
 視線の高度をぐんぐんと高めて、無限遠点へもってゆく。そうするといろんなものが見えてきます。たとえばエコロジーの党派が叫ぶ、縁の重要性についても、無限遠点から見ればかなり怪しい。彼らの線は、あくまで都市との対比における線なのであって、原型的な緑ではないということです。結局、重要なのはあくまで「人間」なので、緑はあくまでその反射的価値を持つにすぎないわけです。
 そうではなくて、いったん「人間」を消して、緑そのものを見ることはできないか。無限遠点に視点を高めるというのは、いったん人間の効用から森林を切り離して、無文明の立場に自分を置いて、そこから眺めなおしたときに、何をすることが本質的なのか考えることです。「人間」はいずれにしても、将来、ゼロに近づいてゆくのですから。(121~122p)

生きているということに膨らみをつくることができなくなり、言葉が痩せていくとき思考がたどるある意味の必然が表明されています。わたしはこの意識の型を外延表現であるとか同一性に象られた生と名づけてきました。いま世界は吉本隆明が言明した世界のほうに雪崩をうって進んでいます。グローバリゼーションの猛烈な旋風に煽られてもはや言葉が言葉自身にたいして奥行きをつくることができないのです。オウム真理教や麻原彰晃のなしたことを通して親鸞悪人正機説のべつの理解を得たというときの吉本隆明も対象に対しておなじ思考の操作をやっています。しかたなく心ある言論人は民主主義を未完のプロジェクトとみなすことでやり過ごそうとしているのが現状です。

 このオウムーサリン事件でぼくなりにいろんなことをかんがえましたけど、いまもかんがえてますけど、ぼくが獲得したのは、親鸞は、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と言ってるのは一種の逆説で、逆説のほうが通りやすいといいますか、持続しやすいということがあって、どんどん突き進んでいったというふうにかんがえてきていました。ところが結論からいいますと、親鸞はもしかすると、逆説じゃなくていまのオウムーサリン事件みたいな問題に現実に直面して、これを肯定してほんとにいいんだろうか、よくないんだろうか、と本気になってかんがえさせられたんじゃないか。そのあげくに、じぶんは造悪というか、悪をすすんでつくる「極悪深重の輩」をじぶんの〈善悪〉観のなかに包括できるという確信をもてるようになるまでかんがえぬいて、それで「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」ということを言ったんだというふうにぼくはかんがえてみました。浄土真宗の学僧は、源信のところまで〈善悪〉観を退化させたが、ぼくはぼくなりに〈善悪〉観というものをもうすこし先の方へ据えるというところでかんがえさせられました。(『宗教の最終の姿』吉本隆明vs芹沢俊介 202~203p)

オウムの事件をきっかけに悪人正機説の理解を進めたという吉本隆明は世界視線とおなじ思考の転換をやっています。「理想の社会のイメージを,善の方向にだけ暢気に考えてきたのが間違いだったかもしれません」(『宗教論争』吉本隆明vs小川国夫 224p)
これは奇妙な考えです。世界を解説したい旺盛な意志はあっても生身の吉本さんはどこにもいません。出来事を空間化するということはこういうことなのです。かれの身に起こったことではないのです。出来事を空間化するとき吉本さんの生は無限小まで縮んでいます。

同一性の矛盾は空間化することでしか語れないという思考の典型をここでも吉本さんは述べています。そう考えるとカリフ制を奉じる無道のイスラム国の野蛮も包括できるのでしょうか。世界視線から眺めると、米国のトマホークによる殺戮もイスラム国の殺戮もとるにたらないささいなことになります。なぜなら「『人間』なんて実にお粗末な、空虚な観念」だから。吉本さんのこの理解は間違っていると思います。わたしは、市民主義の人倫から吉本さんの言説を批判をしているのではありません。当事者性において世界を語るというわたしの原則から逸脱しています。これが還相の知でしょうか。吉本さんの考えは歪んでいると思います。むしろ吉本さんはわからないことをわからないという勇気をもてばよかったのです。読者の付託「に応えられないことを正直に表明するほうがよかったと思います。

吉本さんは若い世代の詩人の詩を真っ黒に塗りつぶされた無と解読しました。世界視線という概念で世界を解読しようとした吉本さんが代償として得たものはこの真っ黒な無だと思います。この途方もなく変貌する世界をつかまえようと吉本隆明さんは全力を挙げ、死にものぐるいで思考の転換を遂行したのです。しかしかれはなにかを生きそこねたのです。人間の意志を括弧に入れて、歴史を扱いうるという思想は、「〈わたし〉はただ積み重ねられた知的な資料と先だつ思考のなかに融けてしまって、すでに存在しないものにすぎない」という感受を不可避とします。徹底して大衆を基盤にし、そのことを帰りがけの理念で実現しようとした吉本隆明は、大衆という自然に自身を融即してしまったように見えます。その代償としてかれ固有の生は消失しました。生をかれは外延的にひらいたのです。べらぼうな思想だと思います。

いうまでもなく左翼の理念が棲まう余地はこの世のどこにもありません。そこまではまったく同感であり、共感します。吉本さんは理念の外延的な転換ではなく、意識の内包的な転換をすればよかったのだと思います。世界視線も真っ黒な無も内包ですっぽり包んでしまえます。たましいのモチーフではない。生の原像を還相の性で生きること。自己を領域として生きること。そこにしか固有の生はないと思います。未知の生を可能とする思想があるとわたしは思っています。

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