日々愚案

歩く浄土184:交換の外延性と内包的な贈与15:吉本隆明の贈与論5

この3年半、片山さんと言葉のやりとりをしている。過酷だが楽しい。やっと佳境に入りつつあるという実感がある。ひとつの達成が片山さんの公式サイト「小説のために(第十話)」に書かれている。是非お読みいただきたい。片山さんは最新作『なお、この星の上に』でとてもいい言葉をつくっている。「お花を摘んできてくれるか」だ。「歩く浄土182」と「歩く浄土183」でそのことについてすこし書いた。おなじ感触の言葉を偶然ネットの記事で見つけた。相模原殺傷事件で娘さんを亡くした父親が、いなくなった娘さんを回想する言葉に、深い、とても深いものを感じた。35歳だった長女を奪われた父親は家族だけで静かに悼みたいと言う。母親ががんになり入院と治療のために娘さんは施設に入所する。翌年母親が亡くなる。49歳で早期退職した父親が娘さんと過ごした日々のことが記事に書いてある。毎朝、娘さんが好きだったコーヒーを仏壇に供えて、元気か?と声を掛け、元気ってことはねえか、とつぶやくのが日課になった。その父親も今春、がんと診断された。延命を拒否し、「もうすぐいくよ」と言う。はやく娘さんに会いたいのだと思う。かれは巻き込まれた事件の当事者として、ここではないどこかを求めることはできない。ここではないどこかではなく、もうすぐいくよということで、ここがどこかになっていく。引きうけるということのなかにはからいはない。生は根源において二人称だからはからいによらず浄土は歩く。わたしは父親に歩く浄土が訪れ、娘さんと再会するのは必定だと思う。
もうひとついい記事を見つけた。朝日新聞デジタルの2017年07月29日の記事。記事に掲載されていた女性のいい顔に惹きつけられて吸い込まれるように読んだ。脳性まひのため言葉を話せず、寝たきりのベッドで、わずかに動かせる手で22歳の堀江菜穂子さんは詩を書く。周囲からはなにも考えていないと思われていたと記事にある。発売した詩集で「このしをよんでくれたすべての人たちに いきることのいみ みたいなものがつたえられたらうれしい」「わたしのこのいのちがだれかの心をあったかくできたらうれしい」と言う。うれしくなって涙が出た。

<せかいのなかで>

このひろいせかいのなかで
わたしはたったひとり
たくさんの人のなかで
わたしとおなじ人げんは
ひとりもいない
わたしはわたしだけ
それがどんなに ふじゆうだとしても
わたしのかわりは だれもいないのだから
わたしはわたしのじんせいを
どうどうといきる

<たくさんのビスケット>

たくさんあるから はんぶんあげるね
はんぶんになっても まだたくさん
まだあるから はんぶんあげるね
すこしへったけど まだあるから
そのまたはんぶんあげるね
とうとうあとひとつになってしまったけど
それでもはんぶんにわってあげるね
つぎにきたこには もうわけてあげられないからのこったはんぶんの ビスケットをあげるね
ぜんぶあげちゃったけれど
ビスケットとおなじかずの
やさしさがのこっているよ

たまらなくいい詩だと思う。感想を書くことが余計なことに思えてくる。彼女はどこにも行けない。だからここをどこかにするしかない。詩を書いたらここがどこかになってしまった。言葉は不思議だと思う。言葉をつくった瞬間に内面ができる。言葉はすごいな。彼女の詩は内面を突きぬけている。言葉が言葉を生きると、内面より深い場所をおのずと彫琢する。精神のこの場所で、彼女はひとりでいてもふたりである。三人称がなんであるか彼女は知覚できないと思う。言葉が浄土を歩いているのだ。詩人の谷川俊太郎さんは「菜穂子さんが書いたものは、詩なのに詩を超えて、生と言葉の深い結びつきに迫っている」と、詩集の感想を寄せている。生きることの意味が生きられている。言葉が言葉を生きるとはこういうことだと思う。堀江菜穂子さんにとって、いのちをいきることと言葉をつくることのあいだにはすきまがない。<せかいのなかで>、わたしがわたしであることが表現され、生きる意味は<たくさんのビスケット>としてほかの人に贈与される。「ぜんぶあげちゃったけれど/ビスケットとおなじかずの/やさしさがのこっているよ」は内包自然ではないか。内包自然がなぜ可能か。だれのどんな生も根底において二人称であるからだ。そのあらわれをだれもが〔わたし〕として生きる。生は根源の性を分有することで順次に内包として贈与され連綿と日々を継いで行く。浄土からの視線によぎられた詩も彼女は書いている。

<いけないことをしてみたい>

わたしは
いままでのじんせいでいちども
じぶんのいしで
いけないことをしたことがない
つみのいしきにさいなまれる
けいけんがしてみたい
いけないことをいけないと
わかってやるとは
どういうことだろうか?
してみたいけど かなわない
しかたがない

<せかいのなかで>同一性として生きながら、根源の二人称によぎられて<たくさんのビスケット>はおのずからほかの人に贈与され、いつのまにか浄土を生きている。ああ、浄土が歩いている。「つみのいしきにさいなまれる」「いけないこと」を「じぶんのいし」ではなく「けいけん」するとき、詩人の「わたしはわたしだけ」は、浄土そのものとして現成するだろう。そのとき浄土はもっと動く。(この稿つづく)

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