日々愚案

歩く浄土112:内包贈与論の予備的考察4

 

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内包贈与論の核になるものはなんだろうか。内包贈与論で、マルクスの価値形態論はどう拡張できるのか。わたしの内包論では価値の根源は還相の性にある。対幻想と言われてきた往相の性が往相の性それ自体にたいして表現をなすとき還相の性があらわれる。そこに未知があると考えた。わたしたちの〔自己〕はそのとき〔領域〕としてあらわれる。『guan02』を書いたときにはまだ気づいていなかった。気づく前に考えたことを再録する。

通常ひとびとは存在は自己が所有する出来事だと思っている。こういう臆見が人類の歴史をかたちづくってきた。ヘーゲルの「段階」という歴史の概念も、人間の社会の発展を自然史的過程と考えるマルクスの考えも、この臆見はすでに前提として繰り込まれていて、自己という存在の一義性が疑われたことはなかった。もちろんひとびとがこういった存在のありようを受け入れたことには充分な根拠がある。そのいわれを解かずにただ指摘するだけでは存在概念の拡張はありえない。この点に関して三木成夫の著作からいくらかの示唆を受けた。「いまのここ」に「かつてのかなた」の「面影」を感得し、生を情感ぶかく包みこむというのが三木成夫の表現のいちばんの特徴で、彼は天与の直感によって、生きているということを自然に還元して考える最良の思想を見せてくれた。内から湧きあがる広大な無償の気のうねりを、湧きあがるエネルギーのおもむくままに、解剖学の言葉でリクツをつけてみた、それが彼の自然学だ。吉本隆明が三木成夫の「初期論」的方法をマルクスになぞらえたがるのも無理はない。それほどの圧倒的な力が彼の言葉にはある。

ところで、生物の基本的な体制を「食」と「性」の双極性において見るというのが三木成夫の基本的な考えだが、私は、「食」と「性」の双極性を、あらためて対の内包という〔性〕で結びなおした霊長類が人間と呼ばれるものではないかと考えた。そこにおいてはじめて人間に固有なものが現象する。三木成夫に宿った天与のうねりがイメージする〈融〉の世界や螺旋になった〈流〉の世界を、対の内包という性を主体とする存在概念において結びなおしたら人間はもっと良いものになる気がしてならない。「いまのここ」に「かつてのかなた」を感得しても、「いまのここ」は「かつてのかなた」をいやおうなくはみだしまう。それが生きるということなのだから。つまり人間は「食」において動物と連なり「性」において断続し、ここにおいて言語が起源を成している。

ここを少し敷衍する。歴史の近代が発見するとどうじに隠蔽した罠にはまっているという点で、ヘーゲルもマルクスも吉本隆明も同じ轍を践んでいるといえる。ヘーゲルにとって意識は世界そのものだから、意識を実現することは世界を実現することに等しく、その体現が世界精神であると考えた。それが私たちの知るヘーゲルの意志論だ。揶揄するわけではないが、ヘーゲルにとって可愛いのはきっとじぶんだけだったのだと思う。マルクスは自然哲学ではそうは考えなかった。彼は思想の根柢に関係を据えた。男性の女性に対する関係のなかに人間の由縁である自然的な本質を洞察し、その精緻な外延化の総体を意志論を手放さずに表現した。「個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならない」(『資本論』)という確信を貫き、間然するところのない『資本論』という作品を創った。思想はいつも誤読される。しかしマルクスの思想の布教者がひき起こした人類史的な厄災の大半はすでに過ぎたといってよい。

吉本隆明は経済的な範疇の決定論にたいして、ある「前提」を設けた。人間の対象にたいする観念の振る舞いは、経済という下部構造が決定しうるものではなく、「ある構造」を介して関係するまで、その影響をしりぞけることができると彼は考えた。それが彼の幻想論、観念の位相的な三層構造である。この祖述のなかにどんな問題がかくされているのか。共同の意志の発現のなかに自由を見るヘーゲルの意志論が極限の自力思想であり、そこに観念の倒錯があると直感したマルクスは思想の根柢に〔関係〕をおいて、個と類を接合し、個と類との交通をせき止める疎外の打ち消しに現実の歴史の推力をみようとした。また吉本隆明には未曾有の集団発狂をもたらした太平洋戦争の暗い記憶があり、共同の意志の体現と個の恣意性のあいだの分裂や矛盾をどうしたら解消することができるかということに思想の命運を賭けてきた。

条理をつくした彼らの思想のどこに落とし穴があるのだろうか。あるいはヘーゲルやマルクスの思想を吟味し、周到に配慮された吉本隆明の思想のどこに欠陥があるのだろうか。いうまでもなく、自己を一義とする存在論の制約が、共同の意思と個人の意思の対立や離反という近代が孕んだ逆理をもたらすのである。存在をどんなに外延しても―社会化しようと内面化しようと―ほんらい自己=意識という一枚のコインが表裏をなしてもっている我欲と空虚をうめることはできない。〔自己=意識〕という〔存在〕のがらんどう。がらんどうをうめようとする表現の衝動を、自己意識の外延表現と私は呼んできた。問題は共同の迷妄以前にこそある。(『Guan02』47~48p)

三木成夫はそのなかにいてそこを生きるまれな解剖学者だった。わたしはうなずきながら「『いまのここ』に『かつてのかなた』を感得しても、『いまのここ』は『かつてのかなた』をいやおうなくはみだしまう。それが生きるということ」だと考えた。対幻想という往相の性がそれ自体にたいして表現を遂げることをそういうふうに考えたわけだ。そのことは川満信一さんの言葉と重なるところがある。たしか『guan02』のまえがきと最後はおなじ時期に書いた。田中一村の描いた情景が浮かびあがってくる。

 私の好みの情景だが、陽炎たつ熱帯の大洋に、巨大な夕陽が沈んでいくと、紺碧の空と海は、放射状に輝やく茜の薄絹をまとい、清澄なかなしみがあたりを充たす。移りゆく彩色のなかに、もう何時間もまえから、ただ一人の人間が佇んでいる。そのヒトは、いまだ名づけ得ない赤々と熟れた木の実を見つめているのである。おそらく形容詞のない、母音変化だけの語彙で、最高の緊張度をもった対話が木の実とのあいだで交わされている。やがて、おそるおそる木の実をもぎとり、その感触をたしかめながら、言葉の原形をゆらめかせる。飢えにせかされて幾度か口元へもっていき、その香の感触から新たなことばの胎児を育む。そして、もろもろの物象に宿る神々へ、単純な母音の祈りを奉げながら、ついに木の実をくちびるにあて、存在を賭けての決断を下す。そのとき、かわききった舌に、口腔にみぶるいするような甘味が、芳香とともに染み全身をつっ走る。その驚きとよろこびから噴きあげる感嘆の声音。それが幾人も幾世代ものヒトの体験と反省意識を経て、一個の果実に奉げる指示名称として誕生するのである。
 毒あるものについても、また同様の体験の累積から、怖れと忌の名称が名づけられていったことだろう。このように想像するとき、ことばは、その発生において、どんなつまらない指示名称さえもヒトの全存在を賭けた感動と怖れ、愛と忌の過程から迸り、神々に奉げるものとして胎動してきた、と考えねばならない。(『沖縄・根からの問い』「ミクロ言語帯からの発想」292~293p)

 言葉という超越の経験は表現論を欠落した現象学の理念の彼方の出来事だ。三角形の内角和が一八〇度であることのたしからしさとはまったく次元の違う出来事であり、各自的にしか訪れない。それは一切共同化されることなく言葉ではない固有なものとしてじかに経験されるなにかだ。同一性原理ではここが思考がゆきつく究極の場所なのだが、ここを終わりとしてまたあらたにひとつの思考が胎動を開始する。ヴェイユやレヴィナスの見果てぬ夢の続きをわたしは内包と分有として夢見ている。
 おそるおそる木の実をもぎとり、ためらいながら、飢えにせかされて、口元にもっていき、そして、ついに木の実をくちびるにあて、全存在を賭けてくだすその「決断」を、他なるものに捧げるとき噴きあげる感嘆の声音が発生のことばなのだ。ここでは、あるものは他なるものにそのまま重なり、ただこの驚異を分けもつことにおいてはじめて、あるものがそのものとして立ち上がるのだ。ことばが本来、同一性の彼方の出来事に属しているということはこのことを意味している。

 マルクスが『経済学・哲学草稿』で直観した性という関与的な存在は、彼が思いえがいたものよりもはるかに深い根源をもつ。まさしく、人間の人間にたいする最も直接的で本源的な関係は、根源の性にたいする分有者の関係としてあらわれるのだ。この自然的なおのずからなる関係のなかでは、根源の性にたいする分有者の関係は、根源の性という内包存在を分有する内包者の内包者にたいする関係であり、同様に、内包者の内包者にたいする関係は、内包者の内包自然にたいする関係となってあらわれる。このときなにが起こるか。禁止と侵犯に閉じられた生が同一性による監禁から解き放たれるのだ。あらゆる悲惨とあらゆる苦海が、あらゆる空虚とあらゆる孤独が、あり続けようと意気込んでもおのずから一切の地上性を剥奪されてしまうのだ。わたしは想像力によってここに架けられた夢のすべてを生の原像とよびたいとおもう。いま、それを語るのがどんなに荒唐無稽なことにおもえようと、ことばという起上り小法師に導かれて生の原像を実現していく過程が内包としての歴史であり、ことばという虹に立つ夢が、主観や客観の彼方にある内包という生なのだ。

 〈存在〉概念の根底からの転換によっておのずからなるこの世の革めが可能となる。それはわたしたち一人ひとりのあり方が変わることによって自然にもたらされるものであり、目の前に、内包と分有の思想による広大な思考の余白としてひろがっている。わたしはじぶんの体験を内面化することや社会化することを拒み、つまりどんな一般化もせずに、当事者であることがひきよせるさまざまなひずみを存在の根底から組み替えることで、この世の革命が思想として表現可能だとかんがえるようになった。わたしたち人間がまだかんがえたこともそこを生きたこともない同一性の彼方からの革命をめざしていこうとおもう。これが可能性でなくてこの地上のどこに希望があるだろうか。
 わたしたちがじかに性であるからこの世がどうであれ革まるほかないのだ。わたしたちのささやかな道行きは、むしろ同一性の世界からは、自力の計らいというより、他力による世直しとうつるに違いない。これまでの革命の概念とはまったく異なるわたしたちのちいさな試みは、やがてこれまでの人類史を終わりの始まりとする内包史として語られることになるだろう。(『guan02』293~294p)

 再録した部分は2002年9月30日に書かれたことになっているから、いまそのつづきを書いていることになる。以前書いたことについて大枠の変更はない。対幻想が対幻想自体に表現を遂げたということがどういうことかわが身を通してわかるのに、なんと10年余かかった。対象Aと対象Bが関係してAでもBでもない対象Cがあらわれ、そのことによってAは変容するといううねりのことが言いたい。たとえば原始宇宙のごく初期でクオークと反クオークが衝突すると対消滅して2個の光子が生み出される、つまり放出される光子が往相の性と還相の性に比喩される。対幻想が自体にたいして表現を遂げ、往相の性は変容され、ついに還相の性を内包的に表出したと比喩してもいい。川満信一さんの考えをわたしの考えていることに置き換えるとつぎのようになる。

はじまりの不明のはじまり。食と性が分有されたということ。深雪の凍原で一緒に暖をとり、おおきな葉っぱで一緒に雨をしのぎ、はじめて手にしたひとつの果実を恐れおののきながら一緒に食べ、いつも一緒、どこでも一緒。この驚異のなかで初源の意識が内包的に表出された。ここに意識の起源があり、ここに表現としての精神の古代形象のはじまりがある。内包というささやかな贈りものは同一性によって引き裂かれたようにみえる。そうではない。リトル・トリーのおじいさんが、今生はなかなかよかった、来世はもっといいだろう、また会おうな、と孫に言葉を託す。その心ばえ。内包の面影がここにもある。生の原像を還相の性として生きるとき、生は内包の贈りものとしていつも生きられる。そのことを歴史としてつくることも可能だ。なぜならば内包がいつもわたしたちのなかにきりのない善きものとして存在しているからである。他者をじぶんのうちに認める内包という情動が世界をつくった(『喩としての内包的な親族』215~216p)

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あるとき存在が存在に驚き、在るの不思議がたわんで重みを支えきれず、存在にちいさな亀裂が入り、そこからふいに意識の眼がひらいた。意識の目覚め。その刹那、不可解にも意識は存在者の心身一如に引き取られた。それは激烈な感情となって心身を荒れ狂い、内包という、それがあることによってヒトが人となったシンプルな情動は、ダウンロードの途中でインストールされてしまった。ブログでハイデガーについて書き、フロイトのことを思いだし、しきりにそういうことを考えた。意識についてハイデガーもフロイトも巧みな偽装を施している。ハイデガーもフロイトもおなじことに気づき内面化の形式に沿って個性的な表現を試みている。
フロイトはエスについて言う。

エスはわれわれの人格の暗い、近寄りがたい部分です。・・・比喩を云ってエスのことを言い現そうとするなら、エスは混沌、沸き立つ興奮に充ちた釜なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるかはわれわれには解らないのです。エスはもろもろの欲動からくるエネルギーで充満しています。しかしエスはいかなる組織も持たず、いかなる全体的意志も示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。(略)エスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。そして、これは極めて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。(略)言うまでもなくエスは価値判断をいうことを知らず、善を知らず悪を知らず、道徳を知らないのです。(『フロイト著作集1』人文書院446~448p)

再びハイデガーの言葉を貼りつける。

無傷の健全なものと同時に、存在の開けた明るみのうちには、憤怒に燃えた悪事も出現する。憤怒に燃えた悪事の本質は、人間行為のたんなる背徳性のうちに存するのではない。むしろ、憤怒に燃えた悪事の本質は、深い激怒の邪悪さにもとづくのである。しかし、無傷の健全なものと、深い激怒に駆られたものという二つのものが、存在のうちに生き生きとあり続けることができるのは、実はただ、存在そのものが争いを含んだものであるかぎりにおいてのみ、である。争いを含んだもののうちにこそ、歪む働きの本質由来が隠れ潜んでいるのである。・・・ところが世間の人は、歪む働きなどは存在者そのもののうちのどこにも見出されることはできない、と思い込んでいる。・・・歪む働きは、存在そのもののうちに生き生きとあり続けるのであって、そうであるからこそ、私たちは、歪む働きを、存在者に付着する何か存在者として、けっして見つけることはできないのである」(『形而上学入門』131~133p)

エスを発見したフロイトの昏さとハイデガーの存在のおぞましさはよく似ている。エスという混沌として沸き立つ釜のなかでは論理も時間もなくただ快感原則に貫かれているとフロイトは言い、健全さと邪悪は存在の二相だとハイデガーは言う。神なしで世界の条理を語ろうとしたニーチェの錯乱やヴィトゲンシュタインの語りえぬことについては沈黙せよのほうが正直だと思う。内面化の形式では出来事を語ることができなかったので奇矯なことを言ったのだ。ハイデガーもフロイトも饒舌すぎる。エスも異様な存在も同一性の形式で発見されたものであり、その刹那あたかも存在者や自我が存在やエスに帰属するように叙述される。観察する理性による権力の行使としてしか出来事は捌かれてこなかった。
人類史の厄災の根因ははじまりの不明を括弧に入れて意識の現象を学として書いたヘーゲルにあるのだが、フロイト(1856–1939)やハイデガー(1989-1976)は迫り来る世界の業火をなにをやっても間に合わないものとして生き、そのなかでじぶんが納得する便法を編み出している。それでも存在と意識の謎は究尽されていない。マルクスも吉本隆明もある意識の型を極北として表現しているが、おおくの未然がのこされている。吉本隆明は、はじまりの不明を生理的な過程の矛盾を観念として疎外したと考えた。だれも成しえなかったことで見事だと思う。かれは意識の型を三つに分別しそれぞれの観念が互いにどう関連するかということを抽出した。おおくの影響をうけたが、わたしは意識の眼がひらいたきっかけは〔性〕にあると考えた。人は還相の性を生きるときはじめて全人格的に登場する。わたしの理念のうちでは自己幻想も共同幻想も広義の性の派生態にすぎないと理解されている。どういう理念であれ、ある意識の型が時代性から免れることはない。内面化も共同化もできないが、存在しないことが不可能であるような精神のうねりがたしかに存在する。そのことは普遍として言いうる。この意識の目覚めを解明することは内包的な表現としてのみ可能だと思う。

 

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