日々愚案

歩く浄土255:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理13/同一性の形象化が必然とした観念の諸形態4

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思えば半世紀、存分に走り、いくらか世界に王手をかけた。わがこととして抱え込んだことをなんとかしたくて、わが身を貫通した生存感覚を、個人的なこととしてではなく普遍的に語ろうとしてきた。やっとなにかが始まるような予感がしている。ユヴァル・ノア・ハラリもケヴィン・ケリーも意識の外延性をさらに延伸し、マシンと融合した人がそのデータの一部となることで、これからの千年紀を迎えることになるという。わたしは内包の知覚でユヴァルのホモ・デウスやケヴィン・ケリーのデジタルツインの世界とも違う内包自然をつくることができると考えている。かれらとわたしたちに共通する問いを立ててみる。はたして意識を自然科学によって粗視化することができるのかと。できるとすれば人間は科学知によって分子記号の一文字に至るまで徹底的に改変されることになるだろう。そして科学知という宗教の属躰となる。人間至上主義を科学知のなかに融合するのではなく、人間の終焉を自己の手前でひらくこと。ここに親鸞や宮沢賢治やヴェイユの見果てぬ人間にとってのおおきな夢が、そのおおきな可能性が現前している。

ユヴァル・ノア・ハラリは来る千年紀のとば口で、自然の摂理としてあった飢餓と感染症と戦争のくびきから人類はかなり逃れることが可能となり、次に不死と幸福と神性(ホモ・デウス)をめざすことになると『ホモ・デウス』の冒頭で書いている。意訳や引用を織り込みながらこの本の概要をつかんでみる。
ユヴァルによれば、不死と至福と神性を獲得しようとする試みは人間至上主義の長年の理想の理論上の必然的な結論である。人間がホモ・デウスに至る上で最も重要な概念は「アルゴリズム」であるとユヴァルは確信している。そのかぎりでユヴァルもまた同一性の虜囚である。かれはアルゴリズムを特定の計算ではなく計算をするときに従うプロトコルと定義している。そしてプロトコルを度外れに拡張する。

<心は神秘的な不滅のものではない。目や脳のような器官でもない。心は、苦痛や快楽、怒り、愛といった主観的経験の流れだ><魂とは一つの物語であり、それを受け容れる人もいれば退ける人もいる。それに対して、意識の流れは私たちがどの瞬間にも直接経験する具体的な現実だ。この世でこれほど確かなものはない。その存在は疑いようもない><現在では生命科学は、すべての噛乳類と鳥類、そして少なくとも一部の爬虫類と魚類には感覚と情動があると主張している。ところが、最新の理論は、感覚と情動は生化学的なデータ処理アルゴリズムであるとも主張している><脳は非常に複雑な器官で、八〇〇億を超えるニューロンが結びついて無数の入り組んだ網状組織を形成している。そして、何十億ものニューロンが何十億もの電気信号をやりとりすると、主観的な経験が出現する。個々の電気信号の送信と受信は単純な生化学的現象だが、そうした信号の間で相互作用が起こると、はるかに複雑なもの、すなわち意識の流れが生まれる>

意識とは何かをユヴァルはしつこく問う。どういう問い方をしてもトートロジーを起こしてしまう。たとえば、脳で起こらないが心で起こることはあるかと問うてみる。ないと答えると、それならば、私たちはなぜ心を必要とするのか。では、あると答えてみる。それはどこで起こるのか? 脳で起こるとなり、振り出しに戻る。つまり意識の起源についてはなんの手がかりもないわけだ。そこでユヴァルは心的なものの起源に生化学的なアルゴリズムを導入する。
ユヴァルの思索の特徴は仮説に仮説を重ね、その仮説を共同主観的現実へと導いていく巧みさにある。大規模な人間の協同はすべて究極的には創造上の秩序を信じる気持ちに基づいているというユヴァルの発見に、生きものはアルゴリズムであり、たとえ旧脳由来の情動であっても数学的にあらわすことができるとユヴァルは考えている。わたしの知るかぎりユヴァルの仮説を痛撃し打ち砕いているのはペンローズの思想だけである。アルゴリズムで書かれたコーディング文のことをペンローズはゲーデル文と呼ぶ。この論理の力は強力無比である。

<(a)「知能」は「理解」を要求する。
 (b)「理解」は気づきを要求する。
私は、気づきを意識の現象の一つの側面-受動的側面-と捉えている。意識には、能動的側面すなわち自由意志の感覚もある>(ペンローズ『心の影(Shadow of the Mind)』)
<ゲーデルの定理が示しているように、自然数の性質を私たちが理解できるのは、規則によるわけではない>
<理解は数学に特有のものではない。人間は、一般的理解という特性を発達させているが、数学的理解が計算的でないのと同様、その特性は計算的ではないのである><以上のようなわけで、意識の″ある″局面における計算不可能性、特に数学的理解における計算不可能性は、計算不可能性というものが″あらゆる″意識の特徴であることを強く示唆している。これは、私の提案である>(ペンローズ『心は量子で語れるか』)

ある公理系によって成り立つ世界があるとして、その世界に矛盾がないことを使われている公理系によって導くことはできないというのがゲーデルの不完全性定理であるが、どれほど高度なAIであってもそのアルゴリズムがゲーデルの不完全性定理のくびきから逃れることはできない。アルゴリズムもまたゲーデル文であるからアルゴリズムが無矛盾であることを導くことはできないわけだ。ペンローズは語りうることを明晰に語っている。コンピュータにはアルゴリズムに従った計算可能なプロセスしか実行できない。意識は計算不可能な思考を実行できる。したがって、コンピュータは意識の下位概念としてしか存在できない。神経細胞の発火と電気回路のONとOFFが似ているようにみえても、ニューロンの発火は精神現象の主役ではなく、それは「心の影」にすぎない。だから強いAIが意識をもつことは原理的にありえない。ペンローズがゲーデル文をこまかく論じながら言っていることはこのことに尽きる。
わたしの理解では、ペンローズの、気づきが意識の現象のひとつの側面ということは、同一性を暗黙の公理にする心的な現象であり、アルゴリズムではない、非計算的な過程もそのなかに意識の外延性としてふくまれている。チューリングとゲーデルはおなじことにきづき、計算可能性と非計算的な過程の理解について離反した。意識の、ある気づきが同一性にすぎないとき、意識ははじまりの不明をいやおうなく抱え込んでしまうということだ。
ではペンローズにとって気づきの能動的側面はなんだろうか。かれは自由意志だと言う。この自由意志はプラトン的な世界が実在するということによって担保されている。それがペンローズの摂取不捨、第十八願だといってよい。わたしは根源の一人称が曲率ゼロの意識の平面に投射されたとき、人びとはこの気づきを同一性に封じ込め、外界と内面という自然をつくったのだと思う。神や仏という太陽感情はその痕跡である。

ではなぜユヴァルの主張を荒唐無稽とすることができないのだろうか。同一性によって意識を外延する観念の粗視化がわたしたちの認識する自然が自然のすべてであることをすでにわたしたちが識っているからである。スマホはわたしたちの身体の一部となっている。インターネットやスマホの次に来るものはなんだろうか。共同主観的現実をさらに高度化した世界の一部として生きるほかないとユヴァルは考えている。

ふつう人びとは現実を客観的現実と主観的現実の二種類があると思いこんでいる。ニュートンの力学は客観的現実であり、それらの自然法則は数多く存在する。ユヴァルが考える想像上の秩序は共同主観的レベルのことだ。貨幣は自然法則のような客観的現実ではないにもかかわらず、人類がお金の価値を信じるかぎりお金を使って食べ物や衣服やiphone11プロmaxを買うことができる。
ユヴァルによれば来る千年紀には生物学が心や魂を遺伝子編集や脳内ニューロンのマッピングを通じて思考や情動をたんなる化学的なアルゴリズムとして呑み込んでいくことになり、人びとはその流れを認識の自然として受容していく。ユヴァルの意識の流れとケヴィン・ケリーの思考の偏りが判然としなくなる。人文知と科学知、とりわけ生物学的知との境界はあいまいになり、環界の天然自然は身体も含め分子記号や電子コードに翻訳され、ゲノム編集された生が自然となる。J・モノーの『偶然と必然』が現実のものとなって到来する。それはこの惑星で最も強力な力として君臨することになるだろう。そういう意味ではユヴァルが予測することは人間が書字と貨幣を発明したことの自然的必然であるように思う。人類の古代文明からマシンと人の融合は一直線で一瞬のことだったのだ。

科学知というアルゴリズムに人間の生が融即していくときなにが現実でありなにが非現実であるかを判別できるだろうかとユヴァルは問う。「それが苦しむことがあるか?」と自問すればいいとユヴァルは言う。ドルが下がり銀行が倒産しても銀行は苦しまない。国家は戦争に敗れても苦しまない。いったいなにを言っているのかと思う。こういう弱い倫理も容易にシミュレートされ再帰的なアルゴリズムとして取り込まれていくだけだ。21世紀はこれまでのどんな時代にもみられなかった強力な虚構と宗教を生み出すことになるだろう。21世紀に人間至上主義はまったく無効な理念としてしか機能しない。ユヴァルは言っている。<もしマルクスが今日生き返ったら、かろうじて残っている信奉者たちに、『資本論』を読む暇があったらインターネットとヒトゲノムを勉強するように命じることだろう>。おなじことをサイトの記事で書いたことがある。マルクスが今を生きていたら貨幣論ではなくビット論を書いたと思う。

もうしばらくユヴァルの主張を追う。
<二一世紀の科学は、自由主義の秩序の土台を崩しつつある。科学は価値にまつわる疑問には対処しないので、自由主義者が平等よりも自由を高く評価するのが正しいのかどうか、あるいは、集団よりも個人を高く評価するのが正しいのかどうかは判断できない。一方、自由主義も他のあらゆる宗教と同じで、抽象的な倫理的判断だけではなく、自らが事実に関する言明と信じるものにも基づいている。そして、そうした事実に関する言明は、厳密な科学的精査にはとうてい耐えられないのだ>
ユヴァルの思想の全体を貫く通奏低音ともいえるなにかすっきりしない感受性をだれよりユヴァル自身がもどかしく思っている。そのことは随所で述べられている。自由という観念が根をもつことがなかったから科学革命の合理性というアルゴリズムに呑み込まれようとしているだけだ。自由という観念がなぜ科学的精神に耐えないといけないのか。ユヴァルの思考にはニーチェ的な突きつめの甘さがいつも残っている。ユヴァルの方法で言えば自由は生化学的に、あるいは脳内の電子コードのアルゴリズムとして記述可能になるに決まっている。

    2

ぶれながらどっちつかずの言い方をユヴァルはやってしまう。
<意識を持たないアルゴリズムには手の届かない無類の能力を人間がいつまでも持ち続けるというのは、希望的観測にすぎない。この幻想に対する現在の科学的な答えは、以下の三つの単純な原理に要約できる。

1 生き物はアルゴリズムである。ホモ・サピエンスも含め、あらゆる動物は厖大な歳月をかけた進化を通して自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合である。
2 アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。ソロバンは木でできていようが、鉄でできていようが、プラスティックでできていようが、二つの珠と二つの珠を合わせれば四つの珠になる。
3 したがって、有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり優ったりできないことがあると考える理由はまったくない。計算が有効であるかぎり、アルゴリズムが炭素の形を取っていようとシリコンの形を取っていようと関係ないではないか>

こういう前提に立てば自由の行き先はおのずと決まってくる。生命科学は人間の生や自由をつぎのように定義する。擬装された畸形的な機能主義として一蹴すればいい。その胆力がユヴァルにはない。科学主義にユヴァルの人文知は完全に押し切られている。一言でいえばユヴァルは科学音痴だと思う。もっといえば意識の外延的な表現の手前があることをユヴァルは識らない。存在の複相性を往還するとアルゴリズムを可能とするアルゴリズムの手前にある精神の古代形象が姿をあらわす。

<1 生き物はアルゴリズムであり、人間は分割不能の個人ではなく、分割可能な存在である。つまり、人間は多くの異なるアルゴリズムの集合で、単一の内なる声や単一の自己などというものはない。
2 人間を構成しているアルゴリズムはみな、自由ではない。それらは遺伝子と環境圧によって形作られ、決定論的に、あるいはランダムに決定を下すが、自由に決定を下すことはない。
3 したがって、外部のアルゴリズムは理論上、私が自分を知りうるよりもはるかによく私を知りうる。アルゴリズムは、私の体と脳を構成するシステムの一つひとつをモニターしていれば、私が何者なのかや、どう感じているかや、何を望んでいるかを正確に知りうる。そのようなアルゴリズムは、いったん開発されれば、有権者や顧客や見る人に取って代わることができる。そうすれば、そのアルゴリズムがいちばんよく知っており、そのアルゴリズムがつねに正しく、美はそのアルゴリズムの計算の中にあることになる>

ユヴァルによる生きていることの定義は伊藤計劃の『ハーモニー』の世界を想起させる。このメモを取りながらふと気づいたことがある。いうまでもなくユヴァルの生命や生の定義はグロテスクで科学教というオカルトといってよい。片山恭一さんと膝を交えて真剣な話をやっていたとき、話のベースに伊藤計劃の『虐殺器官』とその世界を緩衝する作品として『ハーモニー』があることはふたりにとって話の前提としてあった。対話の渦中でも世界はそのように動いていた。迂闊と言えば迂闊だが、解けない主題を融けない方法で解こうとして書かれた『虐殺器官』が積み残した適者生存の条理は、実体化される過酷な生を緩衝する〈生府〉による人びとの管理として自己と共同性の矛盾や対立や背反を自己を共同性に融即することで解決しようとした作品である。可視化される固い生存の条理の過酷さを自己を共同性へ融合させることで回避する空虚な生存の条理に転位しているだけで、解けない主題を融けない方法で解こうとする表現の方法の転換の気配はどこにもない。酷くて残忍な生存の条理が摩擦ゼロの生の条理に変化しても生の不全感はまったく解決しない。むろん私性を共同性へ溶かし込んでしまえば生の不条理は消滅したようにみえる。しかし生の不遇感も生の不全感も微塵も解決していない。その途上にユヴァルの思想もある。いまのところユヴァルは聖道門の念仏僧にすぎない。

科学音痴のユヴァルはとんでもないことを語り始める。
<ところが、二一世紀のテクノロジーのおかげで、外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になるかもしれない。もしそうなれば、個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移る。人々は、自らの願望に即して生活を営む自律的な存在として自分を見ることがもうなくなり、自分のことを、電子的なアルゴリズムのネットワークに絶えずモニターされ、導かれている生化学的メカニズムの集まりと考えるのが当たり前になるだろう。それが実現するには、私を完璧に知っていて絶対にミスを犯さない外部のアルゴリズムは必要ない。私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの数が少ないアルゴリズムがあれば十分だ。そういうアルゴリズムがあれば、それを信頼して、自分の決定や人生の選択のしだいに多くを委ねるのも理に適っている>。ユヴァルによって語られる21世紀の信は竪超にすぎず他力という生存の最小与件と千里の隔たりがある。ここでユヴァルが語っていることは熱力学工学者のエイドリアン・ベジャンの<同じ進化の方向性やデザインは、勝利するという共通のゴールを目指す人のさまざまな集団で別個に現れる。本当の目的は速度ではなく勝つことで、勝つとは社会的地位を上げること、より良い暮らしをし、より長く生きること、そしてより遠くへ移動することだ。その目的は人生そのもので、その背後にあるのは、生きたいという衝動だ。その衝動は保存(あるいは自己保存)の本能としても知られ、何ものにも優る>(『流れとかたち』柴田裕之訳)と思考の型がまったく同型である。

意識の外延的な表現が不可避とする往相の知の革命についてユヴァルは考えた。
<生き物はアルゴリズムであると生物学者たちが結論した途端、彼らは生物と非生物の間の壁を取り壊し、コンピューター革命を純粋に機械的なものから、生物学的な大変動に変え、権威を個々の人間からネットワーク化したアルゴリズムへと移した>。遺伝子が4種類の塩基の違いをコーディングした分子記号の差異の体系であると分子生物学は突き止めた。即座にビットマシンがこの分子記号をコーディングすることになった。生物学の革命があり、この革命をビット化したとユヴァルは言っている。そのとおりだと思う。はたして意識のなぞが自然科学の対象であるのかどうかというためらいをユヴァルはもっていない。むろん意識のなぞは自然科学の対象ではない。複相的な存在を往還することによってしか意識についてのなぞを解くことはできない。それは表現であって科学ではない。科学は人間の精神が粗視化した自然を認識にとっての自然とするよく繁茂した分枝にすぎない。人であることの根幹はまだいちども実現したことも往生したこともない。

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つぎの箇所でユヴァルの『ホモ・デウス』はクライマックスにさしかかり、読者に問いを投げかけ、問いを寸断して、いきなり思考を中断する。

<もし本当に人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう? データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する。
資本主義同様、データ至上主義も中立的な科学理論として始まったが、今では物事の正邪を決めると公言する宗教へと変わりつつある。この新宗教が信奉する至高の価値は「情報の流れ」だ。もし生命が情報の動きで、私たちが生命は善いものだと考えるなら、私たちはこの世界における情報の流れを深め、拡げるべきであるということになる。データ至上主義によると、人間の経験は神聖ではないし、ホモ・サピエンスは、森羅万象の頂点でもなければ、いずれ登場するホモ・デウスの前身でもない。人間は「すべてのモノのインターネット」を創造するためのたんなる道具にすぎない。「すべてのモノのインターネット」はやがては地球という惑星から銀河系全体へ、そして宇宙全体にさえ拡がる。この宇宙データ処理システムは神のようなものになるだろう。至る所に存在し、あらゆるものを制御し、人類はそれと一体化する定めにある>
<データ至上主義は、人間の経験をデータのパターンと同等と見なすことによって、私たちの権威や意味の主要な源泉を切り崩し、一八世紀以来見られなかったような、途方もない規模の宗教革命の到来を告げる。ロックやヒュームやヴォルテールの時代に、人間至上主義者は「神は人間の想像力の産物だ」と主張した。今度はデータ至上主義が人間至上主義者に向かって同じようなことを言う。「そうです。神は人間の想像力の産物ですが、人間の想像力そのものは、生化学的なアルゴリズムの産物にすぎません」>

<1 科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
2 知能は意識から分離しつつある。
3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない>
<この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている。

1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?>

この本に唯一の可能性があるとしたら、生きていることがアルゴリズムで表現できるようになりつつあるという科学知の妄想に加担するようにみえながら、それが真なる命題であるかどうか、読者の皆さんが一人ひとり考えてくださいと問いを投げ返しているところにある。一七八九年以降、おびただしい数の戦争や革命や大変動があったにもかかわらず人間の価値についてなにひとつ新しいことを創造することができなかったというユヴァルの気づきは正当なものだと思う。人間至上主義が実現しないのであればデータ至上主義がそれにとって代わるかもしれない。いやそうなりつつある。その奔流に身を委ねようではないかとユヴァルは呼びかけているようにみえる。しかしそれでも問いはユヴァル自身に反響する。生きていることはほんとうにアルゴリズムにすぎないのか。コンピュータの演算力やパターン認識は人間をはるかに凌駕している。だからマシンの知能は意識から分離しつつある。そのように考えることも可能だ。さらにユヴァルは自問する。知能と意識のどちらのほうに価値があるのか。
意識がないことも意識と呼べば生存の最小与件が想定される。そのうえで知能と生存の最小与件のどちらに価値があるかといえば、生存の最小与件に価値があることは先験的である。アルゴリズムはこのことでさえもシミュレートできるようになるだろうか。生存の最小与件は〔1〕が〔2〕であり、〔2〕が〔1〕である楕円となった領域のなかに存在するので、同一性から派生するデジタルなオンとオフで表現することはできない。いうまでもなく生存の最小与件は自己の手前に内包自然としてあるのだから、心身をどれほど加工しても内包自然はデジタルツインの世界の視野の外にある。同一性にとって絶対的差異である根源の性を同一性で粗視化することはできない。

自然的な共生のつながりが150人というのはちょうどいいあんばいでなるほどなと納得できる人間の集団だといえる。中間共同体と言い換えてもいい。メンバーの顔や人となりを思い出せる人間の小集団だ。その範囲では相互扶助も惻隠の情も成り立つ。だからこそ人間の集団が150人を超えたとき、人と人の業がむきだしのかたちで向き合うことになる。共同主観という虚構を媒介としない人と人の関係のありかたはないのか。往相の竪超の信のなかに横超の信を挿入すれば、ユヴァルのひやっとする人間の相互の関係はやわらかい生存の条理にむかって一心に奔りはじめる。ホモ・サピエンスからホモ・デウスへ人間のあり方は変化していくだろうという確乎とした一箇の見識であると共に若い研究者の科学知に翻弄された口舌の能書きということもできる。なぜかはかんたんに言える。ユヴァルは意識の外延性を往相の過程としてしか表現しえていない。これ以上なにを言うことがあろうか。

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だれとつながりたいのか。人と人がつながるということはどういうことか。内面化されたわたしや、内面化された自己が共同的に表象された共同主観的物語とつながりたいわけではない。こんなことを百年やっても千年やってもこの世のしくみは変わらない。柔和な顔をした心善き人びとが、分に応じ、らしく生きることで、人と人の間柄を擬演し続け、適者生存という世界の無言の条理が君臨するだけだ。こんなものが欲しいのか。そんなものが人倫か。

昔から、若い頃から、人と人はつながらないことによってしかつながらないと思ってきた。つながっているというときは離反しており、離折しているときに、人と人は、じつは、はからいを超えてつながっている。わたしがわたしであることはわたしが他者と不即不離不可逆的に同一であるからこの原事実の事後的なあらわれとしてわたしがわたしであるという同一性が生まれる。わたしは主観的な意識としての自己ではない。固有の他によぎられる絶対的な受動性としてわたしはわたしである。わたしが主観的な意識の襞にある主体であるかぎり自己はがらんどうなものとしてあらわれる。がらんどうは埋めても埋めても埋まらない。しかし存在を往還すると、世界は変貌する。汲んでも汲んでも汲み尽くしても存在が減価することがなくなる。存在の複相性はそういうものとして存在している。

内包論からユヴァルの思想はどの辺りにあるとみえるか。ある共感めいたものがあるのは確かだ。なかなかいいところを突いているなというリアルな感じがなかったら読むこともない。かなりきわどいがそのきわどいところが面白い。ユヴァルはポリティカル・コレクトネスなんかまるで問題にせず出来事の核心にいきなり言葉を延伸する。若い頃フーコーの『言葉と物』の翻訳書を読んだときの衝撃と爽快感に近いものがユヴァルの『サピエンス全史』2巻と『ホモ・デウス』2巻の読後感としてある。わたしも長年考えてきたことを言葉にしてきたので、人間という概念にまつわるいかがわしい理念を生存の条理に還元する擬制への呵責ない、神経を逆なでするようなユヴァルの考えをよく理解できるが、だからと言って満足することはない。

ユヴァル・ノア・ハラリは、人々の自然な関係の広がりは150人までで、それを超えると人と人は、共同主観的現実という虚構を通じてしかつながらないと言う。ハラリは貨幣の強度を国家の上位に置いている。フーコーの知の考古学の方法を内在化しないならばこういう理念は出てこない。マルクスの下部構造と上部構造の関係を転倒している。人びとを支配する権力の関係を、禁止・抑圧・排除と考えるだけでは解けない主題を融けない方法で解こうとする錯認の過程に陥ることをかれは識っていたということだ。だれもがかれの著作を読みながらはっとするところだと思う。世界は1789年のフランス市民革命の自由・平等・博愛という理念的発明をそれ以降成し得ていないとユヴァルは言明している。その通りだ。人類の歴史でもっとも成功した虚構が貨幣だと言うユヴァルの考えは強烈だった。そこにフーコーの知の考古学の方法の影響があるとしても、かれは貨幣と国家をまさに同列に扱っている。土台となる貨幣の下部構造の上に上部構造の諸観念が聳えていると言うことではない。
ユヴァルの思想は意識の外延性を人が神になる過程として生や歴史を考えようとしている。そうなるだろうと考えながらほんとうにそうだろうかという逡巡がユヴァルのなかにある。『ホモ・デウス』にはゆらぎがある。もしユヴァルさんにお会いする機会があるとすれば、あなたの考えはもう一捻りすることができますと言います。考えるということを考えるということがどういうことであるかについてユヴァルさんはさぼっていますね。主体という思考の慣性をありえたけれどもなかったべつの自然に切り替えればいいのです。フーコーの思想に甚大な影響を受けたあなたが人間の終焉を宣言したかれのその後の17年余の格闘の過程を知らないはずがありません。主体は実体ではないと宣明したフーコーは死を目前にして真理は他なるものによってもたらされると言いました。死を間近にしたフーコーは主体を自力でなく徹底した受動性としてつかんだのです。ユヴァルさん、あなたのひやりとする明晰さは往相の生や歴史の真理をつかんでいます。あなたの書いた翻訳書を読みながら、『ホモ・デウス』は意識の往相の過程として書かれているのではないかと感じました。虚構という共同主観的現実に還り道があるとしたらどうなると思いますか。意識の外延性ではなく、存在しないことが不可能な意識の内包性に向かって意識を往還することができるのです。わかってしまうと、とてもシンプルでどうしてそのことに気がつかなかったのかといういうくらいにかんたんなことなのです。はじめに自他未分の〔2〕があり、心身一如の自然が事後的にそのことを〔1〕と認識し、あらためて1から2を語るのです。この同一性は人間を無機的自然をふくめた全自然の一部とします。意識の外延性にとってこの過程は不可避です。
もう少しあなたの考えに分け入ります。存在を往還すると『ホモ・デウス』を可能とする意識の自然が象る共同主観と内面の主観は領域としての自己と内包的な親族に拡張され、貨幣は適者生存というむきだしの競争からおのずからなる贈与に転位し、国家という共同性は内包的な親族のなかに嵌入し内包自然に包み込まれることになります。

往相の〔あるもの〕は還相として〔そのもの〕と関係します。往相のあるものを順延し、そのものと相関させると、あるものとそのものは同一性を際限なく反復することになるのです。あるものは往相の過程ではどれだけ延伸してもあるものを媒介にすると、思考の慣性を連結し、総合することしかできない。スマホからインターネットのつぎに来るデジタルツインの世界にあっても認識の自然が革まることはありません。人がホモ・サピエンスからホモ・デウスになることのなかになにかあたらしい自然があるわけではありません。適者生存の無言の条理はホモ・デウスのなかでも生き延びる。そんなものを欲しいと思いますか、ユヴァルさん。
人と人のつながりが150人を超えると人と人は共同主観という虚構を通じてしか関係することができないということはほんとうはなにを意味しているのか。ここにはどれほど偉大な思想家も例外なく陥った意識の罠がある。往相の〔あるもの〕が〔そのもの〕に重なるのは〔あるもの〕の絶対的受動性である〔他なるもの〕が存在するからである。つまり往相の〔あるもの〕は還相の〔そのもの〕となって〔あるもの〕に重なるのである。文化・民族・宗教・イデオロギーの違いを貫通してこの錯誤が革まったことはない。同一性と差異性では表現できない根源的な差異が、自己の手前に、存在しないことの不可能性として存在するということ。同一性とは異なる根源的な差異を同一性では表現できない。〔あるもの〕は〔そのもの〕に不即不離不可逆なものとしてのみ関係する。わたしの理解ではこの認識の自然をつかむのにフーコーは人間の終焉から20年近くの歳月を必要とした。

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ユヴァルの人間の自然なつながりは150人までだという考えと似たことをジュリアン・ジェインズも言う。初期人類が家族というバンドの暮らしから氏族制へと至る過程ですでに意識は特異点を抱えこむことになっていたことがジェインズの考察によってよくわかる。ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』で意識の発生について大胆で壮大な仮説を展開する。帯文から要点を孫引きする。前2000年紀末までは人類は意識を持たず、神々の声に黙従するだけであり、人間が意識を持つようになったのは3000年前だとされる。人間が意識を持つ前の二分心が古代文明をつくり、やがて二分心は書記のなかに呑み込まれ神々の声は沈黙することになった。ジェインズは<どんな合図が、200~300人の住民を社会的に統制していたのだろうか>と問う。およそ紀元前9000年前から紀元前2000年前に二分心という人間の精神構造が人びとを結びつける紐帯として機能したとジェインズは考えた。意識の外延史で言えば、親族から氏族制ができあがりつつある時期に対応している。ある段階の共同幻想の精神のありようのことをジェインズが二分心と呼んでいるとしてもいい。ジェインズ自身による二分心の定義に耳を傾ける。

<・・・遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた、というものだ。どちらの部分も意識されなかった>
では二分心はどのように機能したのだろうか。ジェインズは言う。
<だが、何故に〈二分心〉のようなものが存在するのだろうか。そしてなぜ神々が存在するのか。そもそも、神々の起源はいったい何だろうか。また、仮に〈二分心〉時代の脳の構造が、前章で推察したとおりだとしたら、人間の進化の過程で、どのような淘汰圧があのように重大な結果をもたらしえたのだろうか。
 本章で説明しようとする推論-まさしく純然たる推論-の論旨は、これまで述べてきた事柄から必然的に導き出される明白な結果にすぎない。〈二分心〉とは社会統制の一形態であり、そのおかげで人類は小さな狩猟採集集団から、大きな農耕生活共同体へと移行できた。〈二分心〉はそれを統制する神々とともに、言語進化の最終段階として生まれた。そしてこの展開の中にこそ、文明の起源がある>

『神々の沈黙』を翻訳した柴田裕之のあとがきからわたしの内包論のモチーフに関係すると思われるところを引用する。

<・・・意識が言語に基づいており、言語発生のはるか後、今からわずか3000年ほど前に誕生したという仮説に至る。その視点からホメロスの『イーリアス』を分析し、そこに、神々の声に支配された、現代人のものとは完全に異なる精神構造を見出す。命令を下す「神々」とそれに従う「人間」に二分された心を〈二分心〉と名づけ、意思決定のストレスが神々の声(幻聴)を誘発するという生理的要因を示す。この幻聴は命令の形をとり、行動と不可分で、「聞くことが従うことだった」のだ。続いて、この〈二分心〉の生理学的裏づけとして、大脳の左右両半球に着目し、右半球が「神々」の側、左半球が「人間」の側というモデルを示す。最後に、〈二分心〉の存在理由を問い、〈二分心〉を人類が「小さな狩猟採集集団から、大きな農耕生活共同体へと移行」するのを可能にした社会統制の一形態と位置づけ、「神々とともに、言語進化の最終段階として生まれ」、その「展開の中にこそ、文明の起源がある」と結論する>

ジェインズの二分心の起源と崩壊の記述はみごとだと思う。『イーリアス』の分析を通して二分心をつかんでいる。そのあたりに触れる箇所を引いてみる。
<もし、人間が途切れなく一直線に進化してきたのだとすれば、現時点で私たちが踏むべき手順は、普通なら言語の進化を研究し、その発生時期をできるかぎり正確に突き止めることだろう。それから、その時期以降の人間の精神構造を追跡調査していけば、やがて探求の目的地に到着し、何らかの基準をもとに、これこそ意識の起源となる場所と時代だ、と主張できる。しかし、人間の進化は単純な直線をたどってきたのではない。人類の歴史をひもとくと、紀元前3000年頃にひときわ目を引く不思議な慣習が登場する。話し言葉を変容させ、石や粘土板、パピルス(もしくは紙)に小さな印を使って記すようになったのだ。このおかげで、耳で聞くことしかできなかった話し言葉は、目に見えるものともなった。それも、そのとき聞こえる範囲にいた者だけでなく、万人のものとなった>
<『イーリアス』の英雄は、私たちのような主観を持っていなかった。彼らは、自分が世界をどう認識しているかを認識しておらず、内観するような内面の〈心の空間〉も持っていなかった。私たちの主観的で意識ある心に対し、ミケーネ人のこの精神構造は〈二分心〉と呼べる。意思も立案も決定もまったく意識なくまとめられ、それから、使い慣れた言葉で、あるときは親しい友人、権力者、あるいは「神」を表す視覚的オーラとともに、またあるときは声だけで各人に「告げられ」た。各人は、自分では何をすればよいのか「見て取る」ことができないため、こうした幻の声に従った>

ジェインズによって聴覚言語から視覚言語への転換と二分心の遷移がみごとに描かれている。ユヴァルの共同主観的現実のひろがりがより具体性をもって迫ってくる。親族を核としたちいさな狩猟採集集団が二分心の神の声を聴き行動し、楔形文字や象形文字の誕生による言語の視覚化によって王は現人神となり虫木草魚である人びとに君臨するとともに、その現人神も書記に呑み込まれ神の声を渇望する臣民となる。やがて二分心にも神の慰めを収納する精神の退避する場所が与えられ、二分心そのものが変容し、同一性によって統覚され、意識が外延化された内面が誕生する。
ジェインズは人間という存在に独特の裂け目をいれた。神の声を発する右脳と神の声に黙従する左脳という二分心が機能する善悪の彼岸も人倫もない世界なかで人びとは平安であったはずだ。聴き従うだけで迷うことがないのだから。意識のない二分心から神を希求する主観的な内面をへて人間という理念が終焉し、すべてのモノのインターネットのちいさな道具となりつつあるように、一巡りしてホモ・デウスの世界に至ろうとしているのかもしれない。二分心という古い心的な規範が言語に構造化されるにつれて二分心というソフトウェアは徐々に失効し存在の裂け目は神への渇望として語られることになったとジェインズは言っている。いずれにしても意識の外延性がたどる自然的な必然が語られている。二分心もまた意識をもたない人間というモダンな共同幻想のひとつとして考えて差しつかえない。

なにが問題なのだろうか。親族を核としながら氏族という中間共同体が形成されるときになにが起こったのだろうか。禁止・抑圧・排除という古典的な権力の定義も、身分・不可食・賤視という観念も、人間の自然なつながりが虚構を媒介に拡大されたときすでにできあがっていたとみなすべきだ。意識の外延史とは異なる変わるだけ変わって変わらないやわらかい生存の条理は固い生存の条理に疎外され人類史を狭い視覚のなかでつくってきたとも言える。『サピエンス全史』で人間至上主義を否定し、ホモ・サピエンスの終焉から『ホモ・デウス』で人間が神になる超人を構想するユヴァルの思想も、二分心という意識のない人間から意識を意識する内面をもつ人間の誕生を記述したジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』もあるひとつの自然生成を語っているだけで人間の意志の体現は語られていない。人間は、意識の外延性としては無機的自然と有機的自然が融合された自然のささやかなデータの端末となるほかないのか。

ほかに意識にとっての可能性はないのだろうか。同一性を拡張する表現をつくればただちに他者を自己の生存の手段にしないやわらかい生存の条理が現前する。顔が見える範囲での人間の自然なつながりは相互扶助も惻隠の情も作為ではなく自然に起こる。集団の規模が外延的に拡大するときジュリアン・ジェインズは社会統制にうながされて神の声が幻聴となってあらわれ、幻聴を実行することで人びとは暮らしを安定させた。人びとはだれも二分心をもつことで日々を生き延びた。やがて巫女やシャーマンがその役割を代理するようになった。白川静の「孔子伝」のなかの地平を覆い尽くす巫女の群れが相互に呪術をかけ合う場面を思いだす。戦士はその後に戦いを始めるのだ。書記の発明と共に王が現人神として地上を睥睨するようになった。書記である楔形文字や象形文字を媒介にしだいにジェインズの二分心は衰亡し、おおきな自然に抗するちいさな自然である内面を外延的に仮構した。それがわたしたちが知る人類史だと言える。
人の自然なつながりが顔見知りの範囲を超えて広がるとなぜ他者を自己の生存の手段とする適者生存がむき出しになるのか。もともと心身一如を実有の根拠とする人の生存のあり方がはらんでいた矛盾が一気にあらわれるのではないかと思う。人と人の関係は外延化されるに従って他者を自己のうちに知覚する内包的なあり方が希釈される。だから人の自然なつながりが臨界点を超えるとき適者生存が顕在化する。象徴的な記号が交換されるほかないわけだ。意識の外延性をたどるかぎりそのことは意識にとっての必然となる。わたしたちが粗視化した自然の全体が思考の慣性を引きずることになる。自己を実有の根拠とするかぎりこの罠をのがれる術はない。

もうひとつの人類史が可能である。どれほど時代が遷移しても変わらない、変わるほどに変わらない内包自然という根源の性が自己の手前にある。また根源の性は還相の性によって統覚されている。比喩として言えば、この世界を可能にする鍵は、家族や親族が氏族制へ至ろうとする中間共同体を手袋を裏返すようにめくり返せば言いい。他者を自己の生存の手段とすることなく自己の陶冶と他者への配慮が第三者性を媒介とせずに重なるはずだ。なぜなら自己の手前は自我や主観や主体ということではなく〔領域としての性〕として存在しているからだ。この存在のことを内包存在とわたしは名づけた。存在を往還することで外延的な存在は内包存在のなかに陥入することになる。内包自然の核にある還相の性に媒介された〔領域としての自己という性〕は外延的な三人称を内包的な二人称へと転位し、他者を自己の生存の手段としない内包的な親族となって表現される。

ここでジェインズの時間の起源を再考する。ジェインズによればわたしたちの肉体の自己が現実の世界を動き回る様子がアナログとして写像され、環界の連続性が投影されて、心の空間の連続性に転化していると言う。だから空間以外のものになぞらえて時間を意識することはできない。心の空間化にはこのような心的機制があるとジェインズは主張する。肉体の自己が物理的環界を動き回ることの連続性が空間化されて時間が誕生するというのは、心身一如に体現される、それが二分心であれ主観的な意識であれ、意識の同一性を前提とし、存在を実有化することでつくられる、きわめて機能的な空間の分節である。空間以外で表象することはできないジェインズの時間は意識の第一次的な自然表現である外延表現にしか妥当しない。時間は垂直に運動するものであり、他性によぎられることによって変わるだけ変わって変わらない、実詞化できないにもかかわらず実在するものとして存在する。

同一性では空間化できない垂直に運動する根源的な差異の時間を近傍を使って比喩的に言ってみる。互いに惹かれ会う相対する二者がいるとする。そのときそれぞれの眼に相手が映る。わたしではなくあなたの目に映っているわたし、わたしの目に映っているあなた、それがひとりでいてもふたり、ふたりでいてもひとりという〔主体〕の意味であり、そこに自己の固有性がある。このときわたしより近くにいるあなたはあまりに近すぎて空間化できない。どうやろうと近傍は空間化できないのだ。ただ実詞化不能のままに〔領域となった自己という性〕があらわれる出来事だと言える。自己の手前に〔領域としての性〕がまず存在する。この〔領域しての性〕を〔主体〕とするときだけ生も歴史もまったくあたらしい未知としてそのつど立ちあがる。会いまみえたときの二者の互いの目に映った相手の像が、あるものが還相の過程としてそのものに重なるということの本質をなしている。あるものはそのものと順接するのではなく空間化できない〔領域としての性〕となった還相の〔あなた〕に媒介されてあらためて〔自己〕として再帰する。

こうやって他者を含みもつ〔領域となった自己という性〕が空間化できない近傍として表象される。この垂直な時間を意識の外延性で空間化することはできない。即自態としてわたしがわたしであるということとはまったく次元の異なる驚異がここにあらわれている。あるものがそのものに重なるということは根源的にはそういうことを意味している。他なるものによぎられることで初めて可能となる不思議である。ジェインズの意図に反して空間化できない内包的な時間についてかんたんに定義する。
(1)絶対的受動性のなかに領域として表現の垂直な時間があらわれる。
(2)この実詞化できない時間は空間化不能で時制は存在しない。
(3)生と死はリンクしない。死は生の一部として存在する。

    6

フーコーの思想の魅力とはなにか。人間の終焉を宣明しながら、持て余した自身の煩悩を普遍としてひらいたことではないかと思う。死を目前にしたときフーコーは生の意味を変容した。ただそのためだけにかれの生があったといってもいい。フーコーにとって生は性だった。フーコーは死んだのだろうか。意識の外延性として名辞的にはこの世にいない。しかしフーコーの死は分有され固有なものとしていまなお生きられていると思う。だからフーコーは生きている。内包論ではそういうふうに考える。

ユヴァル・ノア・ハラリのホモ・サピエンスからホモ・デウスへという考えとジュリアン・ジェインズの意識のない人間の二分心はフーコーの思想に収斂していくように思う。フーコーの人間の終焉を徹底的にユヴァルは実体化してみせた。またジェインズは意識のない人間から意識を意識する主観的人間の誕生の過程をおおきなスケールで描いてみせた。わたしの理解ではフーコーは一度人間を終焉させ、個人の主観という意識とはまったくべつの様式で再び人間という理念を創作した。フーコーは人間という概念は西欧近代のねつ造された観念にすぎないことを早々と宣告した。その格調の高いだれもが知っている箇所を引用する。
<人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に証明されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。・・・(略)・・・そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと>(『言葉と物』)

人間の終焉を宣言したフーコーは空虚を手にし過剰な自己をもてあましながら、知の考古学の研究に邁進した。科学知や哲学知や生活知というさまざまな知の思考の慣性を大幅に改訂しながら最期は空虚を埋める倫理的活動の核を手にし、死の直前に真理は他なるものによってもたらされると言い遺して斃れた。対をなすパレーシアという概念は従来の知識人と大衆という意識の範型を逸脱している。わたしなりに意訳すれば総表現者のひとりとして生活すること、思考することがそのまま表現であるような生の固有性を見いだしたことになる。主体は実体ではないことを究尽したフーコーは<人間の精神的変革が国家の変革の条件なのか結果なのかという古くからの議論についても、そもそも、個人が〈主観性〉〔自己についての自己の意識〕という形で自己と保つ関係は、実は権力の関係ではないのかと問うてみる必要がある」(『哲学の舞台』所収「政治の分析哲学」)と語った。ところが、『性の歴史』第三卷『自己への配慮』刊行のあと、〈わたし〉が〈わたし〉ととり結ぶ関係について、「つまり、人が自己自身に対して持つ関係のあり方、自己との関係で、それを私は倫理と名づけているわけで、この自己との関係が、個人がどのようにして自分自身の行動の道徳的主体としての自己をつくりあげるとみなされるかを決めているんです」(『ひとつのモラルとしての性』)と主題を転調して語っている。鳥肌が立つようなおもいで謎の中心にはいっていく。なにか思考の根本的な転換がフーコーのなかで起こっている。それはフーコーにとっての固有の生の体験に由来するとわたしは理解している。

総表現者という理念の至近までフーコーは到達しているようにみえる。
<私が驚いているのは、現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関係しないという事実です。技法が美術家という専門家だけが作るひとつの専門になっているということですね。しかしなぜ各人めいめいが自己の人生を一個の芸術作品にすることができないんだろうか? なぜこのランプとかこの家が一個の美術品であって、私の人生がそうではないのか?>(「ひとつのモラルとしての性」浜名訳・『現代思想』1984年10月号)この素朴な驚きを手にするためにフーコーは8年のあいだ沈黙する。
まったく新しい表現の理念をフーコーは摑取する。
<理論的にみてみれば、サルトルは真性という道徳上の概念を通して、われわれはわれわれ自身でなければならない-ほんとうに本物の私でなければならない-という考えに戻っているようにみえます。ところが、サルトルの言ったことから引き出してくることのできる実践的な帰結は、反対に、サルトルの理論的思考を創造性の実践に結びつけることになるのであって、真正性の実践にじゃないでしょう。〈自己(わたし)〉はわれわれに与えられているのではないという考え方からは、ただ一つの実践的帰結しか引き出せないと思います。つまり、われわれは一個の芸術作品として自己を組み立て、制作し、規定していかなければならないという帰結ですね。サルトルがやったボードレールとかフローベルの分析で、サルトルが創作の仕事を自己-作者自身とのある種の関係のせいにしているのをみるのはおもしろい、自己との関係が真正性の形であれ、非真正性の形であれ、ともかく。私はこれとまさに反対のことは言えないのかどうかと考えているんです。つまり、誰かの創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではなくて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです>(「ひとつのモラルとしての性」浜名訳・『現代思想』1984年10月号)
主体は実体ではなく他なるものからもたらされることをついに手にした。それはフーコーにとってαでありΩでもあった。長い思考の旅は本懐を遂げ思想家としてだれも為しえないことを成就し往生する。

フーコーのあけすけに世界を語るパレーシアという概念は知の解体を意味していて親鸞の他力とよく似ている。逆さまに言うこともできる。過剰な自意識をもて余してながら意識の外延性をさらに緻密にするごとに生の不全感は増していく。あるときそのことにフーコーは辟易した。<「私を駆りたてた動機は、ごく単純であった。(中略)つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めているていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。(中略)はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるためには不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ>(『快楽の活用』)そういう機会がフーコーに訪れた。おそらくあたらしい性の体験にフーコーは不意打ちされた。

だれもがよく知る人間の終焉についてフーコーは40歳のときすでに書いている。フーコーは1966年『言葉と物』を書き、わたしは8年後に翻訳書を読み、人間は西欧近代がねつ造したフィクションであるという言説に衝撃をうけ、そのフーコーでさえ、主体は実体ではないことを戦後の出発点としながら、二度自殺未遂をやり、1984年に57歳で突然斃れる間際に真理は他なるものによってもたらされることを発見する。自己は実体ではないということから戦後、思想的な出発を始め、長い旅を経て、倫理的活動の核にあるものによぎられることで表現が可能となることをつかんだ。内面の表現という思考の慣性をみごとにひっくり返し、表現の新しい理念をフーコーはリアルにつかんだ。人間という概念は秩序のはざまの影にすぎないと言明しながら、なにをやっても、どう思索を凝らしても、空っぽの自己が埋まることはなかった。華麗なかれの文体から、足りないものをただひたすらに埋めよという激しい意志が伝わってくる。知の考古学として言語学と生物学と経済学を同一の次元で論じうることをフーコーは証した。さまざまな知の次元の立体的空間を統覚するものが〈同一者〉の思考であることに気づいている。どうすればこの思考の慣性を突きぬけることができるか。それがフーコーの知の考古学が目指した究極の課題だった。

ユヴァルさん、おわかりですか、このくだりはあなたに向けて書いているのですよ。

<そうした考古学的レベルで問いかけてみれば、近代の《エピステーメー》の場は、完全な数学化の理想にしたがってみずからを秩序づけているわけでも、形式的純粋さから出発して、しだいに経験性をおびていく諸認識がひとつずつ下降してつくりだす、長い列を展開するわけでもない。むしろ、近代の《エピステーメー》の領域を、三つの次元にしたがって開かれた、立体的な空間として思い描かなければならない。そのひとつの次元に、数学と物理学が位置づけられるであろう。それらにとって秩序とは、つねに、明白であるか確証された命題の演繹的で線状の連鎖なのである。もうひとつの次元には、不連続的だがたがいに類似した諸要素を関係づけ、それらの要素間に因果関係と構造上の恒常的要素を設定しうる諸科学(言語、生命、生産と富の配分に関する科学のような)がくる。これら最初の二つの次元は、双方に共通なひとつの平面を規定する。それこそ、それを通覧する際の方向にしたがって、数学のこれら経験諸科学への応用の場として、あるいは、言語学、生物学、経済学における数学化しうるものの領域として、立ちあらわれるものだ。第三の次元に関していえば、それは、〈同一者〉の思考として発展する哲学的反省の次元であろう。言語学、生物学、経済学の次元とともに、それは共通の平面を描きだす。そこにこそ、生命、疎外された人間、象徴の諸形態に関するさまざまな哲学が、(多様な経験的領域で生れた諸概念と諸問題を哲学に持ちこむとき)姿をあらわすことができるし、じじつ姿をあらわしてきた。しかし、これら経験的諸領域の基礎にむかって根源的に哲学的観点から問いかけるとき、そこにはまた、生命、労働、言語とはその固有の存在において何か、定義しようとこころみる特定領域の存在論もあらわれるわけだ。そして最後に、哲学の次元は、数学的諸専門学のそれとともに共通の平面を規定する。思考の形式化の平面である。
 この認識論的三面角から、人文諸科学は、すくなくとも、三つの次元のいずれのうえにも、このようにして描きだされた平面のいずれの表層にも、見いだされえぬという意味において排除されている。けれどもまた、人文諸科学がそこに含まれていると言うことも可能であろう。なぜなら、文諸科学がその場所を見いだすのは、これらの知の間隙、より正確にいえば、それら三つの次元によって規定された立体的空間の内部においてであるからだ>(『言葉と物』渡辺・佐々木訳)

フーコーの理解するエピステーメーはある立体空間として存在している。第一の次元に数学や物理学があり、第二の次元に言語学、生物学、貨幣論があり、第三の次元にある〈同一者〉の思考が言語学、生物学、経済学を共通の平面に投影し統覚する。そうやって思考の形式は平面化される。言語学・生物学・経済学という認識論的三面角がつくる立体的空間の内部に人文諸科学がそれぞれの知のすきまに見いだされる。爾来20年近くフーコーは知を逍遙し、他なるものによぎられ、活動する熱い倫理のただなかを、それがわずかな期間であっても生きることになった。生の不全感を解消する受動性としての表現を成就し、あたらしい自然を粗視化した。この事態をフーコーはパレーシアと名づけた。おそらくわたしの内包論とフーコーが最期に手にした倫理的活動の核にあるものはよく似ている。

人間にとってのもっとも根本的な表現の潜勢力とはなにか。わたしは内包論で自他未分の根源の一人称という根源の性が環界の重力に抗するおのずからなる振動として悠遠の時間を重畳し、心身というみずからを根元の二人称として粗視化したと考えている。精神の古代形象の淵源は文明史にはるかに先立つ数百万年の人類史そのものを母胎としているのではないか。ユヴァルやジェインズを読みながらそういうことを考えた。根源の一人称は実詞化されると根源の二人称となる。みずからの心身に意識の起源をみるのは観念の粗視化のひとつにすぎない。そしてそれは自然科学が対象とすることではなく、ただ内包表現のみがそれを可能とする。フーコーの知の考古学についてかつて加藤典洋は歴史のあみだくじを逆にたどる方法だと比喩した。とてもうまい言い方で感心した。内包論も精神と文明のあみだくじを逆にたどるひとつの方法だと思う。心身一如を自己が所有するという生の技法にわたしたちは信をおいている。フーコーは『言葉と物』で19世紀的な知の三面角が織りなした歴史のあみだくじの系譜を逆にたどり直しひとつの真理を手にした。ユヴァルとフーコーのあいだには千里の径庭がある。ユヴァルがこの背理に気がつくことはあるだろうか。(この稿つづく)

〔補遺〕

『〈インターネット〉の次に来るもの』で、ケヴィン・ケリーはこれからの千年紀に人類の集合的知能とマシンの知能が惑星レベルでつくるレイヤーのことをホロスと呼んでいる。人とマシンが結合した自然の全体がホロスという超知性として機能し、人間はその機能の一部になるという。「『WIRED』2019vol.33」でケヴィン・ケリーはさらに「ARが生み出す次の巨大プラットフォーム」へと考えを進めている。インターネットがすべての情報をデジタル化し、SNAがすべての人のつながりをデジタル化したように、ミラーワールドはその他のすべてをデジタル化する。アナログな自然、かりにそれを惑星と呼べば、全天然自然をデジタル化したアナログの鏡像世界はアナログをデジタルに写像し累乗化された自然になる。ケヴィン・ケリーはこの自然のことをデジタルツインと名づけている。アナログな人間の視覚では物それ自体をそのまま全的に認識することはできない。ミラーワールドでは物の存在をすべての射角から認識し、それは極大の宇宙から分子記号の遺伝子編集や微細な素粒子に至るすべての過程をデジタルツインとすることができる。全自然がスキャンされデジタル化されアルゴリズム化され、人びとはミラーワールドの些細な端末となる。いやおうなく意識の外延性はこのことを現実化する。意識の外延性に沿って生を象るかぎりこの過程に是非はなく、意識にとっての必然があるだけだ。ミラーワールドというホロスを拡張現実(AR)としてそのごく一部をわたしたちは生きることになるだろう。ケリーによるとこの世界ではテキストを検索するように、物理空間を検索できるようになる。意識の外延性はそのことを認識にとっての自然として受容し、おおきな思考の慣性を形づくっていく。それは自己を実有の根拠にする同一性的な観念の運動の必然であり、国家や民族や個別の宗教を超越した共同主観だ。新しい共同主観的宗教が成立しつつある。

DNAの螺旋構造を背景に興隆するタンパク質の立体的特異性の研究について1965年にノーベル賞を受賞したジャック・モノーが書いた今では牧歌的とも言える『偶然と必然』についての吉本隆明の批評は少しも古びていない。惑星全体がアルゴリズムで呑み込まれようとしている現在、吉本隆明によるもうひとつの現在論として読む価値があると思う。機能主義者ではありえなかった詩人吉本隆明の思想がくっきり描かれた骨太の批評をいまだれが書けるだろうか。なによりいま吉本隆明が存命していたらユヴァルのデータ教やケヴィン・ケリーのデジタルツインについてなんと言うだろうか。尽きぬ関心がある。『詩的乾坤』に掲載された「情況への発言」(1973年9月)のうち、ジャック・モノーの『偶然と必然』に触れられた全文を貼りつける。深く関わった出来事の苛烈な後退戦をひとりで戦い、精根尽き果て、満身創痍の状態で暗い顔をして吉本さん宅を1973年9月に訪れた。吉本さんは、うん、うん、うん、と話を聞かれ、帰りぎわに玄関で、あなたの世界をつくりなさいと励ましてくれた。

<情況への発言(一九七三年九月)
 ー切れ切れの感想ー

    1

したがって、タンパク質こそは、化学機械(生体内の生化学反応を指す-註)の活動を一定の方向に導き、首尾一貫した機能を果たさせ、そしてその機械自身を組み立てるものなのである。これらの合目的的性能は、突きつめれば、すべてタンパク質のもつ《A立体的特異性》(〈立体異性〉の構造のことらしい-註)にもとづくのである。それは、タンパク質が、他の分子(他のタンパク質をも含めて)をそれぞれの形-その形はそれぞれの分子構造によって決定されている-で《認知》する能力なのである。これは文字どおり、微視的な識別(《認識》とは言わないにしても)能力なのである。ある生物の合目的的な働きや構造はすべて、それがいかなるものであれ、原則として、一個、数個、あるいは非常に多数のタンパク質の立体特異的な相互作用に帰せられると言ってよい。」(ジャック・モノー『偶然と必然』渡辺格・村上光彦訳)
 この現代フランスの生物学者の著書を、わたしに面白いから読んでみろ、とすすめたものは、二、三にとどまらずあった。そういうことは、滅多にないので読んでみた。なるほど面白く、かなり煽情的に書かれた啓蒙書である。おまけに、化学術語のホン訳に間違いが多く、そのため一層煽情的になっている。一言でいえば、分子生物学が、細胞の核タンパク質に与ええた細胞増殖の構造と、機序をふまえて、それを度外れに拡大解釈してみせたものである。つまり、現在の形態学的な、あるいはサイバネティクス的な方法で、人間をふくめた生物の世界を、統一的に割りつけてみせたものである。おまけに、〈生物〉のみになりたがっている、現在の人間たちにとっては、まったくおあつらえむきに、人間も〈生物〉のみとして扱っているので、小気味がよい、といえばいえる。
 現在では、誰もが人間であることに幾分かずつ疲れているし、観念が迷走しつつ、からみあった迷路に入り込んで、ひとつひとつ解きほぐしながら、まともな貌をして引きかえしてくるだけの根気もなければ、意味も見出し難く、途方に暮れているといえば云える。-切の観念的な迷路を一掃することができるなら、どんなにさっぱりすることか、という思いは、誰の胸の中にも、大なり小なり存在することは、確かである。そこで〈人間は生物の一つの種である〉という疑いようもない事実は、〈人間だって生物の一つの種にすぎない〉という倫理的な断言命題のなかに融かし込まれる。
 もう一つの要因は、生体内の細胞増殖の生化学的な反応が、分子構造レベルで、かなりな程度はっきりつきとめられ、それが意外に単純な要素的な反応であることが、解明されてきた。生体の細胞増殖や遺伝反応には、なにも神秘的な要素はなく、たいへん巧く出来ているにしろ、生体内の高分子含窒素化合物間の化学的な撰択反応にすぎないことが判ってきた。唯物論で、人間的な現象をふくめた世界関係を覆い、生物学の傘の下に閉じこめようとする考え方が、出てくるのは当然すぎる情況にある。そして神秘的な迷妄の代りに、迷妄的神秘化に付き合わされるのだ。「タンパク質」が「他の分子(他のタンパク質をも含めて)をそれぞれの形」で「《認知》する能力」というような言い方は、化学(科学)にたいする迷妄的神秘化である。ただ〈生体内の化合物は、それぞれの構造の特異性に基いて、活性の著しい位置で、他の化合物と反応する〉と、云えばよいところを、J・モノーは、「タンパク質」(窒素含有高分子化合物の一種)が、他の分子を、形で《認知》するというように、擬人化し、あるいは人間の観念作用に使われる用語で、人間化するのである。中途半端な人間化ではないか。
 J・モノーは、別のところで、生物を他の自然存在と区別すべき特徴として、(1)合目的的性、(2)自律的形態発生、(3)複製の不変性をあげている。べつに面倒なことを云っているわけではない。生物の細胞が自己増殖しているかのようにみえ、また、天然物が恣意的な形態で分解したり、分裂したりするのに、生物は、かならず同-の形態(ある魚はある魚、ある植物はある植物、ある人間の子供はある人間の子供)を保存してゆくということを指している。そしてもし、生物が、このような自己増殖性や、形態不変性を保持しているとすれば、それは何らかの「合目的性」に根ざしているのではないかという考え方をしている。
 J・モノーが、こういうことをことさら強調し、また度外れに拡大して意味づけている理由は、魚屋にとって、店先にいる人間は、魚を買う人間か、あるいは魚を買わない人間かに分類されるのと、おなじことである。おなじ根拠である。いままで、生物の〈生〉の機構には、何らかの〈神秘〉性や、〈不思議〉性が介入する余地がのこされ、また、おなじ〈種〉は、おなじ〈種〉の形態を保ったまま自己増殖し、また、つぎの世代に〈遺伝〉性を保存してゆくことに、〈生命の神秘〉とでもいうべき観念が介在する余地があった。しかし、この過程にかんするかぎり、どんな〈神秘〉も〈不思議〉も介入する余地がなく、生体内のタンパク質を構成する高分子化合物の化学反応であり、この高分子含窒素化合物の立体異性体(おなじ分子式をもっていても、原子または基の立体的な配列がちがうもの)の反応撰択性の如何にかかわりが深いことが、ここ十年-二十年の分子生物学の発達によって、はっきりさせられたことによっている。これは、たぶん、ある種の人々にとって、衝撃的なことであるにちがいない。しかし、そうだからといって、生物学的哲学や世界観が、度外れに大きな顔をする根拠にはならないのである。では、なぜ、J・モノー自身が、度外れな拡張をやってのけているのか。それは、生物の〈観念性〉(人間以外のばあい、そうとまではいえないが、自己増殖と、形態不変性にみられるような、また、挙動にみられるような、無生物とちがってみえるところ)を、J・モノーが、身体生理そのものに求めているためである。つまり、J・モノーは、自らも一員として開拓した分子生物学の進展によって、自らの観念論に度外れな衝撃を受けとったことを意味している。しかし、人間の〈観念作用〉は、べつに身体内の生物学的な化学反応自体ではないし、身体内の分子レベルでの化学反応そのものの、直接的な所産でもないということは、はっきり指摘しておく必要があるのだ。そうでなければ、数学者は度外れな数学的な人間の思考モデルをつくり、電気学者は、度外れな電気的脳モデルをつくり、生物学者は、度外れな〈観念形態〉モデルをつくり、祖述家がこれに追従するという事態は、とめどなくつづくにちがいない。もちろん、この種の発想は、技術的には、有効な成果をあげた。電算機を生み、環境生物学の一分野をつくり出した。その考え方は、誤りであると云えば、〈誤りのなかにある深さ〉は評価しなくても済ましてしまい、その考え方は正しいと云えば、〈正しさの構造〉は問われなくても済まされ、その挙句は、いつも自己侮蔑と他者追従で間にあってしまう、わたしたちの文化の伝統からみれば、羨むべきことにはちがいない。しかし、分子生物学的な世界観に、自己侮蔑と他者追従からかかわってゆく存在をみるとき、そこには限りない寂蓼だけが残る。

    2

 「さらに一歩を進めれば、それぞれの生物種が、他のすべての種と同じ材料と同じ化学反応を営みながら、他のすべての種と区別される、その種に特徴的な構造的規準を、各世代をつうじて不変なままに維持できるのは、どうしてなのであろうか。
 今日、われわれはこの間題を解決する鍵をもっている。一方、核酸のばあいにはヌクレオチド、他方、タンパク質のばあいにはアミノ酸という普通的構成要素があるが、それらは論理的に言ってタンパク質の構造、したがってその立体特異的な結合能力を綴っているアルファベットのようなものといえる。したがって、生物圏が包含している構造と働きの多様性のすべてが、このアルファベットで書くことができることになる。このときDNAのなかのヌクレオチドの配列という形で書かれたテキストが、それぞれの細胞増殖のさいに不変のまま複製されることによって、種の不変性が保証されているのである。」(同前)
 大変よくない比喩が使われている。J・モノーがここで云っていることは、核酸の高分子結合鎖の単位になっているのは、ヌクレオチドであり、タンパク質の高分子結合鎖の単位になっているのは、アミノ酸であるが、これらは立体異性体をとりうるから、同一の「材料」と、おなじ「化学反応」をもつのだが、立体構造の相異から、結合位置に高分子結合鎖の立体的に異なった点が生じ、このためにそれぞれの〈種〉に固有な生体内化学生成物を生じ、そのために細胞増殖と不変性が〈種〉によって固有となりうるのだ、ということである。「アルファベット」、「テキスト」、「複製」、みな無くもがなの悪い比喩である。このことは、J・モノー自体が、刺激、通信、反射機械としての生物(人間も含めて)という、サイバネティクスの概念に、ひどく患わされていることを自ら物語っている。生体内化学反応とその結果おこる細胞の増殖作用と不変性には、なにも驚異や神秘性はないのに、J・モノー自身が、神秘めかした比喩にすりかえてしまっているのである。高分子化合物が、同一の原子の同数個から成っていても(つまり分子式として同一に表現されるものでも)、立体異性体をもちうること、そして、立体異性体は、それぞれ別の化学的、光学的、物理的な性質を示すことは、たんなる化学的な常識にすぎない。つまり、J・モノーは、この常識に、後から哲学的な意味づけをやっている。その意味づけは幼稚なサイバネティクスの発想に基いている。J・モノー自身が、生物の細胞増殖(現象的には自己増殖ともみえる)と、遺伝的な不変性、にたいして、俗にいう〈生命の神秘〉をみていた。しかし、そこに何の神秘もなく、生体を構成している含窒素高分子化合物のあいだの、撰択的な化学反応しかなかった。この〈撰択〉が、細胞増殖の固有性と不変性を決定していたのである。わたしには、この機序が、分子レベルで、しだいにはっきり指摘できるようになったということが、人間の観念作用を、生物的基礎に還元して済まされるものであるとは、到底おもえない。にもかかわらず、J・モノーが、ここで驚かなかったとしたら、云っていることは、すべて陳腐な化学的事実となってしまう、こともたしかである。

    3

 「次の図式は、複製および翻訳という二つの本質的な過程を象徴したにすぎないが、これだけでさしあたっての議論の基礎としては十分であろう。
                                                   第一にはっきり示しておかなければならないのは、DNAが不変のまま複製される《秘密》は、非共有結合によって複合体を形成している二本の鎖の立体化学的相補性に存するということである。したがって立体特異的な結合性という根本原則-タンパク質の識別特性はそれで説明される-がDNAの複製作用の基礎にも見出されるのである。」(同前)
 生化学術語のホン訳が不充分なので、意味がとりにくいが、J・モノーは、たぶん、ほんとうはこう云っている。DNAが、すべての生物体内反応でDNAとして、不変のまま再生成する機構は、強固な化学結合である共有結合(反応の両方の成分から出される電子対による化学結合-註)ではなく、比較的に弱い化学結合である非共有結合によって、付加重合生成物(あるいは会合のことか? またはたんに複合生成物のことか?-註)をつくっている二つの化学結合鎖(あるいは二重結合のことか?-註)が立体化学的に、結合を補強しあっているため、この結合のところで反応活性をもつところから由来している、ということである。J・モノーの云うことには、いくらかのコメントが必要である。戦後まもなく、英国の理論物理学者クリックとアメリカの生物学者ワトソンは、生体内の含窒素高分子化合物である核酸のⅩ線解析から、核酸の分子構造のモデルをつくり、これが分裂して、まったく、おなじ核酸分子二個が生成する模型を提出した(J・モノーのいう「複製」の過程)。そのあと数年たってから、クリックは核酸分子をもとにしてタンパク質が合成されるというモデルを提出した(J・モノーのいう「翻訳」の過程)。また、このあと数年たって、J・モノー自身がF・ジャコプとともに、タンパク質の合成の際に立体異性、光学活性その他の相異により、タンパク質の構造は変化するというモデルを提出した(J・モノーは「畳み込み」などの概念、立体特異性、旋光性などの概念で説明していこれらは実験的に確かめられるにいたって、いわば分子レベルでの〈生命〉の機序が、一応はっきりさせられたのである。

    4

 「その結果、突然変異が次のような原因に帰せられることがわかってきた。
 1 ひとつの(DNA中の)ヌクレオチドの対(ペア)が他の対に置換される。
 2 ひとつあるいはいくつかのヌクレオチド対が欠損するか、あるいは付加される。
 3 まちまちな長さのDNAが倒置されたり、くり返されたり、転置されたり、融合されたりして、遺伝暗号のテキストがいろいろなぐあいに《かきまぜられる》。
 この変化は偶発的なものであり、無方向的なものである。」(同前)
 そこで生物の進化とか遺伝とかは、ただ偶然だけに左右される、という結論になる。さらにJ・モノーは、これを拡大して生物としての人間も、ただ偶然の所産であり、その〈老化>や〈死〉もまた、ホンヤクの暗号機構が、生体内で量子的にパーターべーションをおこさざるを得ないところからやってくる、と結論している。このことは、いいかえれば、人間は生れようと意志して生れたわけでもなく、老いようと意志して老いるわけでもない、ということを、分子生物学のレベルでいいかえたものにほかならないし、進化や遺伝も、生体内の化学反応に、たまたま偶然の条件が加えられて、少し構造の異った生成物が生じたということにすぎないものだ、と云いかえたものである。〈人間は偶然の所産だ>といえば、衝撃的なことが語られているようにおもえるが、その種の云い方は、わたしたちがよくやることだとかんがえれば、ありふれたことが語られているとも云うことができる。
 ところで、一般に、どんな化学反応でも、かならず反応の主生成物のほかに、副生成物が、大なり小なり生ずることは認められる。しかしながらこのことは、化学反応が、〈偶然〉に支配されるということを意味していない。少くとも・量子統計熱力学が、この種の生体内化学反応の傾向性を、近似的に記述するのに適しているということと、それが〈偶然〉、〈無方向〉に支配されるということと同一ではない。最終生成物と反応条件とのあいだには、決定的な関係があることは、はっきりしている。生体内の化学反応で、反応条件の微視的なちがいが、いまのところ明瞭でないことと、〈偶然〉、〈無方向〉ということとはちがっている。ただ、J・モノーは、DNA自体の挙動について、〈偶然〉の構造的な摂動がありうることを、主にかんがえている。だが、これとても量子的不確定性を指すのでなければ、〈偶然〉でも〈無方向〉でもないことは、はっきりしている。

    5

 「人間はついに、自分がかつてそのなかから偶然によって出現してきた〈宇宙〉という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている。彼の運命も彼の義務もどこにも書かれてはいない。彼は独力で〈王国〉と暗黒の奈落とのいずれかを選ばねばならない。」(同前)
 すこしく大げさな結論というべきか。生物体のなかで行われる細胞の増埴と、遺伝的に再現される形態同一性が、含窒素高分子化合物間の立体異性からくる撰択反応性に帰せられる、ということから、どうして「人間」の「運命」や「義務」について語れる根拠がうまれるのか。まったく了解すべくもない。「人間」の「運命」や「義務」の概念は、「人間」の生物学的な基礎に依存しない。ただ、歴史的現存性の概念に依存するだけである。つまり、まったく<観念>に属するものであるといえる。〈観念〉が、〈王国〉や〈暗黒の奈落〉を撰択するかどうか、その撰択に促されて歩みはじめるかどうか、は、その瞬間の身体生理に依存することは、きわめて少いだろうし、身体の欠損がおおきく作用を及ぼす〈病者〉や〈肢体不自由者〉でも、なお〈観念〉の〈王国〉をもつだろうし、それに従いたいと思うだろう。この生物学者は、もともと〈人間〉いうものを誤解している。人間は〈生物〉としてみれば、何ら別格のものではないということ、また、生物体内の細胞の増殖、遺伝反応が、明瞭になってきたという分子生物学の発展は、きわめて喜ぶべきことだが、このことは〈人間〉としての人間の生物学的な基礎の解明にしかすぎないことは余りにも自明なことである。J・モノーの頭に宿っているのは、その生物学的な業績とちがって、つまらない哲学である。つまり生体内の化学反応と、その反応にあずかる成分の構造が、明白になってきたという事実に、すこし遅れて理窟づけをやっている。この理窟づけが、生物学的な世界観というところまで、度外れに拡大されると、あるものはびっくり仰天し、あるものは、〈またか〉と舌打ちしたくなる、といったことになる。J・モノーも、そういう人騒がせな一人である。自らも寄与した分子生物学の最近の発展によって、もっともびっくり仰天しているのはJ・モノー自身であることがよくわかる。
 人間の思考作用と行動とを、電気的な刺戟伝達、反射作用としてモデル化する考え方は、サイバネティクスを生み、電気自働制御装置を生み、情報理論を生んで、所定の有効な成果をもたらした。おなじように、人間の生物学的なモデル化は、過剰な観念論や、中途半端な神秘主義に打撃をあたえ、生体の生理と病理の治療に有効な手段を提供することになるようにおもわれる。しかしこのことは、人間を、電気的刺戟通信機械や生物化学機械的にモデル化することを、何ら正当化するものではない。これはいうまでもないことである>

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