日々愚案

親鸞の未然3

    1
 作家の片山恭一さんと緊急討議Hot jam『ことばの始まる場所』をシリーズでやっています。かれは肉親の死についてつぎのように語っています。

 亡くなる前の数日間、いつ呼吸が止まってもおかしくない状態の父に、ぼくたちは交代で付き添うことにしました。最後になって入ることのできた緩和病棟は静かで、苦しげな呼吸の音と、吸引用の酸素が蒸留水のなかでたてる泡の音だけが、痛室のなかをいつ果てるともなく彷徨っていました。ぼくはベッドの傍らのソファに腰を下ろし、じっと父の様子を見ていた。苦しみを和らげるために、すでにモルヒネの投与がはじまっていました。

 それは不思議な体験でした。ベッドの上には、苦しげに息をする一人の老人が横たわっている。長期間にわたる絶食のために痩せ衰え、生命の灯はいまにも消えようとしている。もはや呼びかけても答えることはなく、開きっばなしの瞳はほとんど動かない。止まりかける呼吸を維持することが、この肉体にとっては精一杯なのです。父は死のうとしていました。ふと、こんなことを考えました。死によって何が失われるのだろう。ぼくは父のなかで得々と任務を遂行している何かに、こう言ってやりたい気がしました。いったい何を奪おうというのか。すでに略奪された家に、もう一度泥棒に入るようなものではないか。少なくとも、死が生物学的に父から奪いうるものは、ごくわずかでしかない。もし死が生物学的な、あるいは物質的な過程であるなら、父が死ぬことは、ほとんど何も意味しないことになる。
 もちろん家族という場所から見ると、様相は一転します。死によってもたらされる痛手は、言葉では言い尽くせないほどのものです。なぜならぼくたちは、この状態の父に、他人から見ればまったく役立たずの肉体に、いわば絶対的な価値を見出すからです。そのこともまた、止まりかける父の呼吸を見つめながら、ひときわ強く心に迫る事実でした。この者が生物学的に、物質的に、ただ存在することを無条件に承認する、そのような者で自分はある。この存在するだけの肉体に、自分は絶対的な価値を見出す。ぼくが生まれたとき、おそらく父がそうしてくれたであろうように。あたかも五十数年の歳月を経て、役割を交換したかのようでした。父の死によって死ぬのは、本当はぼくなのかもしれない。つまり息子としてのぼくが死ぬのであり、父は誕生しようとしているのかもしれない。何か新たなものとして。
 死は虚無化であるということで、いったい何を言ったことになるのか。すべてを言ったことになり、何も言ったことにならない。ぼくたちは大切なものにたいして、しばしば「かけがえのない」という言い方をします。おそらく人間だけが、この言葉の意味を知っているでしょう。「かけがえのない」というかたちで、けっして相対化できない価値を知っている。けっして価値化できないものを知っている。すると「かけがえのない」ものとは、この世界の内部にありながら、この世界に帰属していないもの、ということになります。それはヴュイユが言うように、「この世界ともうひとつの世界との交差点にある」ものです。ゆえに「かけがえのない」ものとは、死が虚無化であるかぎり、死にはけっして奪えないもの、ということにもなります。なぜなら虚無化によって生物学的に破壊され、物質的に消滅するのは、この世界に帰属しているものだけだからです。「かけがえのない」ものは、この世界に帰属していながら、この世界には帰属していない。そうとしか言いようがない。だから「かけがえのない」ものなのです。(『死を見つめ、生をひらく』258~261p)

 かれの息づかいが聞こえてくる美しい文章です。かれの言いたいことがよくわかります。とても大事なことが言われています。
 かれは、生の果てるところが死であるというわたしたちの根深い思考の慣性をひらこうとしています。「もし死が生物学的な、あるいは物質的な過程であるなら、父が死ぬことは、ほとんど何も意味しないことになる」と言います。虚無としての死にたいして、それがあることによってヒトが人となったかけがえのなさに、ひと固有の絶対的な価値を置くのです。そのかけがえのなさはこの世界にありながら、この世界に帰属していないというのです。かれの言いたいことが諒解できます。

 『どこへ向かって死ぬか』(2010年)と問い、かれのお父さんの死を契機に『死を見つめ、生をひらく』(2013年7月)、『その鳥は聖夜の前に』(2013年10月)、『生きることの発明』(2014年2月)立て続きに連作を発表している。

 では、どこに向かって死ぬのか? 「この世界に帰属していながら、この世界には帰属していない」とはどういうことなのか?
 根源の性に向かって死ぬのであり、「この世界ともうひとつの世界との交差点にある」ものは還相の性だと思う。根源の性も還相の性も、同一性の彼方にある、ことばがことばを生きはじめるときに、ふいにあらわれてきます。

    2
 よく知られたヴェイユの言葉があります。あの匿名の領域です。

 人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない。
 その領域にわけ入った人びとの名前が記録されているか、それとも消失しているかは偶然による。たとえ、その名前が記録されているとしても、それらの人びとは匿名へ入りこんでしまったのである。(『ロンドン論集と最後の手紙』田辺・杉山訳 10~11p)

 天才数学者アンドレ・ヴェイユからみた妹シモーヌ・ヴェイユ像も、彼女が兄について語った文章も面白いけど、ヴェイユとパティ・スミスや若い娘さんの頃のアーレントのイメージが重なります。
 若い頃ヴェイユの本をよく読みました。資質が似てるなと思ったものです。
 知の折り方をよく心得た人だなと思います。ヴァイツゼッカーにもおなじものを感じます。西欧の知の伝統はなにより巨大な頭脳で世界をねじ伏せていくあり方にあります。知の自然な積み増しによってあらたな世界像をつくっていくことに特化しています。ある意味すごく窮屈なのです。ヘーゲルなんかその特技が際立っています。読んでいると、体育の時間の気をつけ!の姿勢をとらされているような錯覚を覚えます。その知の伝統のなかでヴェイユは知の解体の仕方をよく体得していたような印象があります。

 で、有名な匿名の領域についてです。

 ヴェイユが身につけた知の解体の作法はもしかする天与の才かもしれません。若い頃からこのくだりには強い印象がありました。若いにもかかわらず、なぜか、そうだと思ったのです。
 匿名の領域こそが、「この世界ともうひとつの世界との交差点にある」ものです。そこに不在の神に向けて祈るヴェイユをみました。不在の神に向けて祈ることによって、かろうじて信の共同体から逃れられると、彼女は頑なに考えたように思ったのです。
 このヴェイユの理念にもうひとつ理解が届いたような気がしています。
 匿名の領域の全体を還相の性ととらえてもいいように思うのです。では還相の性からどこに向かって祈るのか。神仏と恋愛の彼方にある根源の性に向かってです。

 内包論は他力の存在論ということもできます。ここまでくるのにながい歳月と惑乱がありました。

 また親鸞の未然にとどきませんでした。

〔附〕と〔注〕
  『愛についてなお語るべきこと』276pで片山さんは「正しい問いを発しなければ、どんな答えにもたどり着けないはずだ」と述べています。わたしが考えた 「人はなぜ、殺し合い、略奪し、奢り、懲りずに愚劣を重ねるのか。万巻の書物は単純なこの問いに、なにひとつ答えないし、なにひとつ教えない」(『guan02』35p)と対応していると思います。

もう一つはね、自分は善い人間だということだ。もちろんぼくは、自分を善い人間だなんて思っているわけじゃない。それでは、あまりにも馬鹿げているからね。自分を善い人間と思うなんて……自己認識や自己意識ではないんだ。そういうことでは全然ない。自分が善い人間であるということは、自分がどう思っているかとは、まったく関係がない。強いて言えば、名指されるようなものだ。あるいは告知されるようなもの。とにかく、こっちは無力で受け身なんだ。全権は向こうにある。いわれない暴力を被るようなものだ。気分としては被害者に近い。ぼくは自分が善い人間であることを告知されてしまったんだ。何ものかが、ぼくのなかに刻印を押していった。そのとき刻印されたものは、うまく言えないけれど、どうしようもない事実として、どんな力によっても損なわれることなく残りつづけるんだ。いくら愚かで醜いことをしでかしても、自分は善い人間であるという事実は変わらない。(『愛についてなお語るべきこと』片山恭一 463p)

 さらっと読むと、花村萬月など読んだあとならなおさら、なにをきれいごといいよるか、という気分になります。でもおそろしいことがいわれているとわたしは思います。
 かれのこの感覚はどの作品に底流しています。かれがどう思っているかは知りませんが、ヴェイユや滝沢克己さんの言葉に近いものがあります。
 おそらくかれは善と悪を対立する二項として考えていない。善なるものの一部が悪だと考えているように思います。あんがい親鸞の悪人正機説にも近いと思います。
 わたしも善と悪を対立するものとは考えていません。おなじように生と死が同格とも思っていません。池田晶子さんではないですが、彼女は、お迎えのその瞬間まで当のあなたは生きている、だから死は存在しないと言いました。面白い考えです。
 わたしは生のちいさなくぼみが死であるように、善のちいさな引っかき傷が悪であると考えています。内包論ではそうなるのです。

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