日々愚案

歩く浄土196:情況論66-「是旃陀羅」問題と親鸞と天皇

    1

「井元麟之さんの生き方、思想について」と題した、東本願寺僧侶の「会報」掲載予定稿が友人の原口孝博さんから送られてきた。2017年3月の講演を大幅に加筆したものである。原口さんの一文は、井元麟之さんの生涯の素描であり、かれがそのなかにいてそこを生きることで賤視観念の由来を問い続けた軌跡である。原口さんは半世紀近くの時間をかけ、井元麟之さんの苛烈がなんであるのかを書こうとした。重量感のある文章を読みながら、さまざまなことが去来した。井元麟之とはなにものか。全国水平社の書記長を長年やり、特高に、わたしの記憶では200回、拘留と尋問と拷問をうけ、でっち上げられた福岡連隊事件の首謀者であり、時代を生き抜いた大知識人である。勇名を馳せた井元麟之は一度も文化人であったことはない。若い頃、公私にわたるおおきな恩恵をうけた。熊本で生まれ育った平凡な少年が19の歳を博多で迎え、縁あって部落解放運動に頚まで浸かり、波瀾万丈を経験し、いまは熊本で年老いた母の見守りをしている。長くはないが短くもない半世紀が、曰く言いがたい言葉にならぬ体験として原口さんとわたしにある。決定的な場面をいつも原口さんと共にしてきた。被差別部落に外から関わり、極限代理主義の倒錯を身をもって演じ、そのつけを百億の夜に千の閂をかけ、偶然に生き延びた。1973年の春以降、わたしはじぶんのことだけを語ることにした。それは決定的な思考の転回だった。
原口さんの渾身の文章を読んで込みあげてくるものがある。1970年に吉本隆明は部落問題はかぎりなくばかばかしいと挑発をした。部落は共同幻想であり、部落解放同盟は共同幻想の残滓を固守し、同伴運動がさらに虚偽を上塗りしているというのが発言の趣旨だった。とりわけ部落解放運動に寄り添う同伴者がもっとも悪質であると主張していた。この発言の趣旨について、のちに吉本隆明さんからじかに聞いたことがある。じつはあの発言をすることに奥さんが強く反対し、ぼくは離婚の決意をして書いたのです、と言った。記憶違いはない。若い頃、部落解放運動を意図的に挑発した吉本隆明さんと井元麟之さんの存分のガチの対談を企画したかった。おそらく1967年に吉本隆明と鶴見俊輔の「どこに思想の根拠をおくか」とおなじものが、どちらの主張を是とするかは面々のはからいであるが、現成したと思う。

たしか1974年だった。八鹿高校事件をめぐり部落解放同盟と日本共産党の党派闘争があった。国会でも論戦されたことを覚えている。そのころすでにわたしは部落解放同盟の理念を公に批判し、孤立無援のいつ果てるともしれない後退戦のさなかにあった。日本共産党によって事件を党派的に誹謗中傷するビラがわたしが通っている大学の学生食堂に配られた。部落は共同幻想であるという考えは口先の理念にとどまることはない。部落は人間の現実性としては存在するのではなく、存在するのは共同幻想の残滓である。中国で毛沢東の文革命の旋風が吹き荒れるただなかで、ワイルドスワンの作者の父親が、毛沢東は間違っていると主張したことが招来する惨劇。日本共産党の下部組織である民主青年同盟の卑劣を座視することができず、ビラを回収せよとかれらの巣窟に単独で乗り込んだ。非暴力を主張していたかれらは十数人で棒きれを手にして丸腰のわたしを襲撃した。応戦せざるをえない。いつまで経っても戻ってこないので、心配して無党派の学生達が駆けつけた。わたしは大けがをし、かれらは少々のけがをした。診断書をとり、日本共産党はわたしと学生達10名を刑事告発した。かれらの政治新聞に、現場で押収された血のついたタオルと鉄パイプが実名写真入りで公開される。福岡選出の国会議員が学長に速く退学処分にせよと申し入れをし、民青の学生達は街で、森崎逮捕、森崎処分のデモをかける。集団でビラを撤回せよと抗議すれば、集団同士の喧嘩になるから、わたしは一人で素手で申し入れに行ったのだった。刑事告発なので福岡地検から出頭命名が来る。二、三度までは許容されるが、無視しつづければ逮捕状が出る。わたし以外は喧嘩をしていないので、出頭し被疑事実については虚偽であると言うように促したが、なぜわたしが出頭しなくてはならないのか、納得がいかないので、わたしは出頭命令を無視しづけた。全国区の事件であるから、福岡地検では判断できず、福岡高検に下駄が預けられた。福岡高検の検事正がわたしに非公式に接触してきて、被疑事実は虚偽であるとつかんでいるから、とりあえず出頭し、事実に反すると証言して欲しいとの申し入れだった。面倒な事案に検察も関係したくないわけだ。わたしは突っぱねた。わたしは一人で日本共産党裁判をやるつもりになっていた。新左翼系の弁護士数人に裁判の弁護をやってくれないかと打診したら、すべて拒否された。なぜか。かんたんなことだった。新左翼系の弁護士を標榜していても仕事をかれらは日本共産党からもらっていたからだった。それまでも刑事裁判の被告をやっていたので、裁判がどれだけ不毛であるか身にしみて体験していた。社会的な地位のあるものの虚偽の証言が証拠として採用され、冤罪であるにも関わらず有罪になる。法の運用はきわめて恣意的である。それが法治社会の現実である。いまは共謀罪がある。そういう経験があったので、斯く斯く然々の理由で解放同盟を公的に批判しているが、起訴され裁判になったら、森崎の裁判を支援するとメッセージを出して欲しいと、部落解放同盟福岡県連の要職にある人物に申し入れた。逮捕状が出たら捕まるまでは逃走する。ねぐらがいるわけだ。それで井元麟之さんにお会いした。逮捕状が出たら逃げ回らんといかんが匿ってくれないだろうか。井元さんは、あんたは何回パクられたと訊く。控えめに、うそだが、いまのところ一回ですが、と答えると、あら、たった一回、ぼくは200回はパクられたよ。ぼくのところに来ればいい、ここには警察は来んよ、と言われた。水平社の演説をしている若い井元麟之の隣に特高が立っている。演説が終わるとそのまま拘留される。わたしたち若者にとっては戦前・戦中の弾圧をくぐり抜けた歴戦の勇士であり、日々を逍遙游として生きる悠然としたたたずまいのなかに天与のやさしさがあり、わたしたち小僧を可愛がってくれた。かれの抱え込んだ根源的な疑問は内面化できるようなものではなかった。その苛烈を井元麟之さんはいつも秘めていた。

井元麟之とはなにものか。群れずに単独で賤視観念の由来を問うた大思想家である。大思想家であるがために著作もなさなかった。ソクラテスも孔子もソシュールも著作をなしていない。井元麟之を襲った苛烈を、かれは内面化も社会化もせずに、問いを問うように生涯を終えた。苛烈を井元麟之は内面化することも社会化することもできなかった。かれの抱いた根源的な問いはそれほどの深度があった。深く共感する。賤視観念の由来を考えに考え、問いの膝を抱いたまま井元さんは逝った。わたしも井元さんの苛烈を幾分か受け継ぎ、内包論として考えつづけている。わたしの被差別部落の体験を人権の理念で語ることはできない。戦後の営為は総敗北したとわたしは考えている。長くはないが短くもない半世紀の体験でふたつのことをわたしはつかんだ。ひとつは生を引き裂く権力というものがあり、それにもかかわらず生をつなぐ熱い自然があるということ。この実感をわたしは歩く浄土として持続している。じぶんが体験を通しつかんだ生のリアルから井元麟之さんが生涯考えつづけたおそろしい問いと、なにが問題であるのかつかみ出そうとした原口さんの渾身の力作に、内包論から考えたことを感想として記す。

    2

「是旃陀羅」問題が終生井元麟之さんをとらえた。この問題の解決を抜きに差別が熄むことはないと井元さんは考えた。是旃陀羅は親鸞の浄土和讃のなかにも出てくる。親鸞も、私、井元の言うことに納得し、旃陀羅を書き直すことを承知するに違いない。その思いをもって西本願寺に井元さんは50回、抗議行動に出向いた。多くの僧侶を前に井元さんは向かい合う。一人で西本願寺に糾弾に出向くとはどういうことか。原口さんは井元さんの心中を推測する。「ではなぜ一人なのか? 日々『南無阿弥陀仏』の念仏が聞こえる村で生まれ育ち、若くして煩悶(はんもん)を抱え、長い間『業報に喘ぐもの』の一人として生きる中で因果・宿業観の非道に気づき、『これは仏教ではない』と叫びを上げさせる何かが井元さん自身の内部で起こったのではないか。それは仏徒・門徒や運動家としてではなく、自らを″愚禿〟とし″一切平等〟を説いた親鸞の思想を現世に体現しようとする一人の人間としての憤りであり叫びである。私にはそう思えます」。原口さんはその場に立ち会い、次のように印象を書いている。

 翌日、西本願寺へ入ると山本さんも来ておられ、私達は、長い廊下を随分奥まで歩き会場の「大広間」へ進む。古く薄暗いが大変に広い部屋で、江戸時代の襖絵がびっしりと囲む荘厳な雰囲気の広間でした。向かい側は本山幹部を先頭に10数列、200名近い僧侶達が既に居並び、こちら側は井元さん山本さんの2人のみ。これはとても異様な光景で、私はお二人の後方で付添人として傍聴しました。
「大乗別冊問題」の旃陀羅解を主テーマとする会見だから双方の熱心な意見交換かと思いきや・・・・、冒頭から井元麟之さんの沈着で野太い声が会場に響き渡り、山本さんもそれに続く形で発言しますが、応答する西本願寺幹部の声は禅問答のようにボソボソと意味不明多く、明快なのは「経典訂正はできない」回答のみで、とても真摯な説明や対応とは言い難い。あまりの不誠意に業を煮やした井元さんは、時に信長の例をひき「本願寺焼き討ち」を口にするまで厳しい指弾・提起をしますが、本山幹部はほぼ無言のまま。
数時間の長いやりとりで、中味でいえばこれは間違いなく200人近い僧侶達を相手とした「唯2人による差別糾弾」です。だがお二人は激高することなく情理を尽くし、高僧が法話で諭すが如くに、諄々と語り続けられました。私は、お二人が発したことばや姿勢・情熱への深い感動と、その情理に向かい合いながら顔色さえ変えず、心の動きも見せなかった本山幹部・僧侶達への深い失望を抱えて会場を去りました。同行はこれを含め2度、その時は井元さんがお一人でしたが、教団対応は前回と全く同じでした。この時の場面を、私は忘れることができません。

この箇所を読んで平成天皇夫婦が水俣を訪問し、「語り部」から水俣病の説明を受け、天皇が答礼の言葉を思いだした。

 どうもありがとうございました。ほんとうにお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会を、みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました。ほんとうにさまざまな思いをこめて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方向に向かってすすんでいけることを願っています。

天皇はなにを答えたのだろうか。天皇の言葉には内面がない。道路交通法の条文と変わらないが、国民は「陛下」のこの言葉にいたく感激する。石原慎太郎が環境庁の長官であったとき、水俣の現地の声を聞いて号泣したことを覚えている。内面があれば、知らぬ苦界を知らされて絶句するはずである。つるんとした言葉のどこにも内面がない。国民の象徴天皇への共同幻想としての崇拝に共同幻想として応えているだけだ。共同幻想にたいして共同幻想の詞で答える。経典の訂正はできないという教団の誠意のなさに業を煮やした井元さんは「本願寺焼き討ち」を口にするまで厳しい指弾・提起をする。幹部僧侶は沈黙のまま。わたしはまったくおなじことが起こっていると思う。

1974年秋、井元麟之さんは「部落差別と仏教の業思想」について講演する。原口さんの井元論から引用する。

 この旃陀羅解に対しまして、私は昭和九年この方、全国水平社書記局長の当時から取り組んで参りました。再三にわたって西本願寺に抗議を行い善処を求めました。殊に忘れ得ないのは昭和十五年の七月東本願寺客殿におきまして・・・・・・・・・・歴史的な懇談会を開催した際に、私から東西両本願寺に対しまして「観無量寿経及び親鸞聖人の和讃の旃陀羅解は断じて誤りであり、その曲解が差別観念をいかに助長してきたか判らない。場合によっては、経典の語句訂正も必要であると信ずるから徹底的な検討と善処を要求する」ということを提起しましたが、これに対して梅原真隆先生(一如会会長)から「問題の性質上、よく協議した上で、ご趣旨に添うよういたしたい」と、こういうことで答弁があったのであります。
 ところがその後、本願寺教団の態度はどうかと申しますと、両本願寺におきましては、親鸞聖人七百回大遠忌(昭和三十三年四月)の記念事業の一つとして聖典意訳編さん委員会を設け浄土三部経の意訳出版物を発行いたしました。それによると問題の観経の「旃陀羅」の部分を「全く人間としてなすべき行いとも思えません」と意訳しております。つまり旃陀羅とは全く人間として、してはならない行いをする者と断定した解釈を下し、また東本願寺も昭和三十八年の出版物に、旃陀羅を「人非人」(註・人でなし)と訳して公表しております。
さらに昭和四十六年三月、・・・・山本政夫氏と共に、私は西本願寺に対して「大乗別冊問題」で会見を申し込み、その席上で「観経の″是旃陀羅〟という語句は、いわゆる釈尊の金口(こんく)の説法が開始される以前の、それに至る過程を説明した″総序〟の部分であるから、それを訂正したとしても、いささかも仏説を曲げることにはならないのではないか。場合によっては幾多の差別観念を生み、これを助長させている″旃陀羅〟の今日的立場からの語句訂正は、むしろ釈尊や親鸞聖人の本意に添うのではないか」と、論理を尽くして要求いたしましたところ、阿部筆頭総務は「経典の訂正は一字一句たりとも絶対にできません」と、きっぱり拒絶の答弁でありました。後で経典全般につきましては触れると致しまして、観経だけについて云えばサンスクリットも存在しないし、多くの仏教学者の間では中国で作られた″異経〟であるという説が有力であると聞いております。・・・・」(『部落解放史ふくおか第8号 特集 部落差別と宗教(一)「部落差別と仏教の業思想」』1977年7月)

原口さんの書くところによると、昭和15年4月に西本願寺は親鸞が「化身土巻」の非僧非俗について述べる前文を国家への忠誠を示すために削除するように通達を出す。それは次の箇所だ。「主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨を結ぶ。これに因りて、眞宗興隆の太祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。或は僧儀を改めて称名を賜ふて遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。この故に禿の字を以て姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たり」。親鸞には天皇の仕打ちに恨みがましい気持ちがあったと言うことだ。親鸞の言葉は浄土真宗にとって犯すことのできない聖句である。一言一句訂正することはまかりならぬといいながら、不敬罪で取り締まられないように自主規制をした。ならば、親鸞が和讃で書いている旃陀羅の理解は訂正してもいいではないか。親鸞は「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信抄文意』)と言うておるではないか。それが井元さんの言い分だ。親鸞は「浄土和讃」で「是栴陀羅トハヂシメテ/ココニトドマルベカラズトモウシケルナリ」と『観無量寿経』の親鸞流意訳を書いている。あらぬ空想をする。井元麟之さんが親鸞さんに直接申し入れをしたら、その意を直ちに了解し、まちがいなく即座に削除すると思う。その意味では井元麟之さんの考えの核心にある部落問題のもっとも困難で根底的な賤視観念の誤りを親鸞は一瞬の猶予もなく「ああ嘆かわしい」と言いながら、精確に了解する。井元麟之さんと親鸞のあいだでは解決済みのことだと思う。井元麟之さんは親鸞の本願に触れたくて50年欠かさずに本願寺参りをした。僧侶がどんなものであるか以前少し書いたことを貼りつける。

「それから『異なるを嘆く』、ということで中道誌事件ですね。これは曽我先生の『中道』という雑誌の十月号で、『宗門人というのは非常識な人が多い』ということを『それは特殊部落みたいなもの』、といういい方で差別発言をされたという事件です」と笠原さんは書いていました。確認会で曽我量深が「私には機の深信が本当になかった」と自己批判をしているそうです。がっくりきました。そびえ立つ浄土真宗教学の巨峰にしてこの程度なんです。曽我量深が差別発言をしたかどうか、そんなことはどうでもいいのです。大事なことだからいいますが、かれははっきりと差別しているとおもいます。かれの信が地軸を貫くほどに深いならば、こういった発言はありようがないからです。ただ、ただ、わたしはかれの信の深さを問題としたいのです。かれの信はフェイクです。曽我量深の流れを継承して感の教学を唱えた安田理深は『真宗の教団』で「感という字をみんなよく忘れとるけどね、思想問題は知る問題だと、知るということが思想問題だと。ところが身体が入ってくると感ずるんです。思想の身体化をしないと実践は出てこない、そこを経て被差別部落をわが身と感ずるのです。身体をもってそれを感じ取るというのが名号じゃないか、そのとき名号は個体的身体でありつつ社会的身体となる」といっているらしいです。わかっていません。言うこと為すことうそだらけです。この意識のありようは天皇制そのものです。落ち込みます。弁明の過誤はわたしにおいてすでに体験済みです。(笠原初二遺稿集『なぜ親鸞なのか』)

    3

井元麟之さんが親鸞と直談判すれば親鸞が『観無量寿経』の栴陀羅を削除するのは必至である。では栴陀羅という賤視観念は消滅するだろうか。賤視は熄むだろうか。消滅しないし、熄まないと思う。精神の古代形象は根深い迷妄を身体性として巻き込んでいる。文明の薄い皮膜を一皮むくといきなり猛々しいものが躍りでてくる。ユヴァルは敏感に気づいている。危機に瀕すると人間は生体防御的な反応をする。精神の古代形象のなかにある身体性の謎は解けていない。「我々は人間の『脊髄反射』を目の当たりにしている―つまり何かが上手くいかないと昔に戻ろうとするのです。世界中のどこを見渡してみてもこんにち政治体制側の人はほとんど誰も人類が進むべき道に関する将来を見据えたビジョンを持っていません。ほぼどこもかしこも後ろ向きのビジョンばかりです」( ユヴァル・ノア・ハラリ「ナショナリズムとグローバリズム:新たな政治的分断」)

1999年に原口孝博さんの部落についての論考の感想を書いたことがある。その前半を貼りつける。今回、原口さんが書いた井元麟之論の感想を、むかし書いた原口論のつづきとして書いている。

七七年目の革命―アウトテイク「原口諸論文」考

原口思想の核心
 
この数年間に原口孝博さんが書き著した部落についての論文がもつ衝撃力は、水平運動70年余の歴史を根底から革命する出来事だと考えている。もしも人間が事実とは違うなにものかだとしたら、ここに水平運動を担っただれもがやり果せおおなかった、部落を根底的に拓く、はじめての、そしておそらく最後の可能性が語られていると確信する。賎視や禁忌としてあらわれる諸現象を消滅にみちびく強靱な原理を、みずからに痕跡として残された古代心性を手がかりに、弓なりになった島嶼の国の数千年の歴史を縦横に駆けめぐってみた。それが彼の日本文化の源流とみなしたい〈喩〉としての部落だ。主調音はフーガに似て、地を這うような重心の低い言葉が繰り返される。そのたびに彼の主題は薄皮をはぐように鮮明になっていく。部落=共同幻想を共通の認識として、その彼方に彼はゆこうとしている。賎視観念の由来を起源の闇に葬ることを肯んじなければ、彼がそこに向かうのは必然だ。
共同体的な絆が希薄になり、帰属の根拠が浮遊化している現状について彼は96年の年の夏、考えた。「『部落民』にとってアイデンティティは不要なのか。『部落』のもつ共同幻想性を対象化したうえで、もう一度、『部落民』にとってのアイデンティティを追求し直すべきではないだろうか」(第3論文)。微妙に彼はぶれている。98年の秋、彼は書く。「自らを規定すべきものは人間のもっと内側にある。それは誰もが本来持っているものなのに、皆気づいていない。それが人間としての本当の〈誇り〉であり、アイデンティティ(主体のあり方)なのだ」(第15回部落問題全国交流会)。彼のゆきつくところはもう明らかだと思う。「外皮や衣の内側(内在性)にこそ、時代を通じて変わらぬ〈熱と光を持った〉人間としての本源的価値がある」(第4論文)というリアルを彼が生きているからだ。このリアルを手に彼は賎視観の由来を尋ねて歴史の古層に遡る。マリノフスキーの文献を猟渉した吉本は生命の永生的な観念が「親族体系とその予想を超えた展開である氏族制度と結びついたところで、いうところの『身分の差別』が発生する」(『情況へ』)と考えるが、思うに吉本の思想と彼のリアルは激突する。解決の途は国家を造らない人間の関係の可能性のなかにあり、それは我に非ずを含み持つ我という主体をどう創りうるあらかにかかっている。彼は「人間が共同体や社会・国家を自分以外の規範対象(幻想)としてなぜ生みだし、維持してきたのか」(第6論文)と自問し、「新たな概念をつくらないといけないという意味ですが」「個と個の関係のところで、哲学的にいえば〈存在〉概念の転換、そういうところにたどり着き、射程に入れないと新たな部落解放運動の道筋は見えてこないと思います」(『「部落民」とは何か』)と自答する。ここまでくれば主体や部落を名乗る自分とは何かが根底的に問われるのは不可避だ。彼は近代がつくった現代の彼方をめざして人類史を初源から巻き戻そうと意欲する。しかし彼の直感は、〈弥生〉よりも古層の〈縄文〉なる祖型もすでにしてある思考(自己同一性)のかたどられたものかもしれぬという畏るべき問いにゆきつく。〈思考〉は激しい緊張にさらされることになる。私がふたたび彼と本格的にまみえるのはそこにおいてだ。

ここで迷妄性とはなにかと言うことについて考えてみる。わたしたちが迷妄性からまぬがれて明晰を手にすることはあるか。できるだけ明晰でありたいとしても迷妄と手を切ることはできないと思う。迷妄と明晰は観念の自然と分かちがたく結びついている。なにをわたしたちの観念の自然とみなすかによってさまざまな了解の系が派生するからだ。たとえばソクラテスも親鸞も水の分子モデルを知らなかった。水は量として計測されるだけであり、水素二原子と酸素一原子が結合した分子の集合という概念はなかった。雷は大気の放電現象であり、神の怒りではない。わたしたちが対象とする自然は観念の遠隔対象性にともなって遷移する。観念の自動更新であって、ここにはどんな善悪もない。ある特定の時代を、ある特定の時代の観念を自然として引きうけ、だれもが有限なものとして生を送る。この観念の自然のことを思考の慣性と呼んでみる。吉本隆明は親族関係が予想を超えて氏族制度と結びついたとき身分の差別が生じたと言う。観察する理性の説明であって差別を外側から触っている。観察する理性を行使するものの慰めではあっても説明概念で差別がなくなることはない。そのなかにいて井元麟之はそのことを問うた。交換とは遅延された形而上学的交換であると言い換えても交換は贈与とはならない。吉本隆明の思考の慣性の器に贈与も差別の発祥も盛られている。それはどういうことかと内包論で問うている。わたしたちは対象を粗視化することで観念を認識にとっての自然とみなし生きている。ある時代を生きるものがその時代とのあいだで切り結ぶ迷妄の度合いはいつの時代も変わらない。意識を外延的に表現するかぎりこの意識の範型から逃れることはできない。親鸞にも意識の迷妄性はある。「りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」と『観無量寿経』を意訳した「是栴陀羅トハヂシメテ/ココニトドマルベカラズトモウシケルナリ」は明らかに矛盾する。輪廻転生を切断し、仏を媒介に生を創作した釈迦の偉大な発明ではあったが、この迷妄は仏教の仏という観念が始めから抱え込んでいた。観念が自然であるとみなした思考の慣性を拡張することはべつの人類史を構想することにひとしいと思っている。親鸞は観念にとっての自然をだれから受け継いだのか。原始仏教からだと思う。精神の古代形象のはじまりと共にこの迷妄はあった。

ユヴァルは面白いことを言っている。「生物学では、同時にホモ・サピエンスについて社会的な動物であるが、とても限られた範囲で社会的なのだと言います。人が親交を深められる範囲は150名程度が限度であるということは、人類に関する単なる事実です。自然にできる集団―ホモ・サピエンスの自然な共同体は150人を超えることはありません。それ以上の規模になるとそれこそ様々な想像や大規模な社会制度が基になっているのです」。ユヴァルの気づきは鋭敏だと思う。ユヴァルの発言を内包論が意訳する。内包の面影は意識の外延性では150人ほどにしかとどかないと翻訳できる。その余は共同主観的な虚構によるしかないとかれは言う。身が心をかぎり、心が身をかぎるという観念の自然は、人類史においてふたつの自然しかつくることができなかった。おおきな自然である外界と、衆生のちいさな自然。おおきな自然は王によって統べられ、司祭階級(知識人)が王を補弼しながら、衆生の生を采配する。ほぼ数千年間このやり方で歴史をつくってきた。日本的自然生成の粋である天皇制もそのひとつである。共同幻想である仏教の理念と親鸞が練りあげた他力との齟齬もここに端を発している。もともと共同幻想で生を規定することはできないのだ。意識の外延性とはべつのまなざしを表現することによってしかわたしたちの生が固有のものとなることはない。

もう少し、わたしの親鸞の他力についての理解を踏み込んで言う。なぜを百万回繰りかえして煩悶し、苦界を身にしみて生きている者が他力という縁によって救済されることはある。仏と個々の衆生のあいだに他力は成り立つ。かりに他力の生を感得し大地を素足で歩いている者が百人いるとする。例外なく他力という信の共同性が疎外される。その他力は共同幻想である。斯様に意識の外延性は堂々めぐりをすることになる。わたしは仏という共同幻想をつくらない観念によってしか生の固有性をつくることはできないと考えた。
ここであらためて旃陀羅問題、賤視観念について考えみる。いうまでもなく賤視観念は、それが人間の自然と言っていいほどの根深さをもつ共同の幻想である。数少ない読者よ、よろしいか。あなたが賤視観念を問題とするときあなたはすでにじぶんを社会化している。そうではないのだ。神や仏というモダンな超越を媒介にせず、根源の二人称を世界認識の基軸とすればいい。じつにシンプルなことなのだ。神や仏という観念があろうとなかろうと、多念であろうと一念であろうと、それらの観念と一切関係なく、人と人はもともとつながっている。この生のリアルのことを根源のふたりと名づけ、共同幻想や自己の観念を内包化したところに内包自然があると言ってきた。内包自然を外化すると意識の外延性として共同幻想と自己の観念が表現される。この意識の外延的な表現をわたしたちは現実だと認識してきた。この認識を同一性が担保している。それだけのことなのだ。親鸞の他力を導きの糸として、わたしは他力のなかの他力、他力のはるか手前に、もうひとつの他力があることをつかみつつある。わたしより近いあなたをわたしとして生きるとき、意識の外延性としてはわたしは一人称であると共に二人称である。その余の三人称はあたかも内包的な親族という喩となるほかない。内包的には、生の原像を還相の性として生きるというシンプルな事実に帰せられる。ここには、意識の外延性としても内包性としても、どんな賤視観念も存在しえない。世界は有縁によっていつでも革めることがことができる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です