日々愚案

歩く浄土173 :情況論60 -外延知と内包知9:擬制と私性

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言葉が根づくとはどういうことかと長く考えてきた。世界を理解する方法はさまざまある。なるほど世界の成り立ちはこうなっているのだと得心がいくと、その理解はその人の主観的な心情の襞のなかに信をつくる。信は百人百様にあるが、どの信にも共通することがある。信が強固であればあるほどその信は共同化されているということだ。まれに鞏固な信をもてない人がいる。優柔不断。わたしは無条件に信をもちえない人に与する。態度を決めきれないということは、きっぱりした威勢のいい欺瞞より圧倒的に優れている。うだうだ右顧左眄することに生の伸びしろがあるからだ。若い頃から部落問題に深く深く深く地軸が傾くほどに関与した。それが生の大半であるというほどに。ここが肝心なところだが、わたしにとって部落問題が「社会」問題であったことはいちどもなかった。わたしはほとんどの関与者とここで袂を分かった。その後関係を復縁したことはないし、またそのつもりもない。わたしはじぶんの存在のありようとして考えた。倫理の入り込む余地はまったくなかった。それがどれほど苛烈であったかわたしの皮膚に焼きついている。おためごかしの倫理など熾烈をまえにすると一瞬で蒸散する。「衆」を媒介に語られる立場や倫理を唾棄した。わたしの文化人嫌いには裂帛の気合いがこもっている。かつて毛沢東の文化革命は人類史の偉大な実験であるとこの国の知的なバカの大半が言った。吐き気がした。善、圧倒的な善は、内面化も共同化もできない。そのことを言葉で言うことはできなかったが鮮明に覚えている。

なぜ安倍晋三のやりたい放題がなんの咎もなくまかり通るのか。国家の中世化とかネポティズムとか言われるが違うと思う。現象の上っ面をかするだけで、あげつらう者の顔が見えてこない。口舌の者は出来事を座視する。国家が内面化し臨界を超えると国家は私物化される。昔は赤化、いまは右傾化。おなじことが起こっている。義の公共化は例外なく擬制である。義に身をやつすとき、自己が空虚であるように、勇ましい義はおなじだけ虚しい。戦後70年の左寄りの擬制がそのあまりの中身のなさに振り子が右に振れているのだと思う。知のふがいなさが安倍晋三をのさばらせている。知識人(文化人)と大衆という権力による生の分割統治を睥睨する者たちがこの無道を招いた。かれらは痛くも痒くもないことを衆生に囀り啓蒙する。口先で民主主義を唱和する者に言葉が根づくことはない。イデオロギーを問わず公共的な義とはいつもそういうものである。わたしは当事者性をまっとうするなかでしか言葉が根づくことはないとずっと考えてきた。言葉が根づくとその人のありかたがおのずと変わる。生に固有のものとして根づいた言葉は僧(文化人)に非ず、しかも俗に非ずをうながす。この応答のなかにしか言葉はない。わたしたちの知っている知は例外なく社会化された言葉である。わたしは戦後70年の擬制の知が安倍晋三という醜悪なカルトを生みだしたと思っている。サイコな安倍はかれらを母胎として出来した。共謀罪だと。上等じゃないか。

熊本から博多に出て青年となり、やがておっさんから孫ができる歳になり、そのあいだに時代の荒波をもろにかぶってきた。じぶんが出来事の当事者であることを手放さず、大地に、たくさんのなかのひとりとして素足で立ちつづけた。たまたま生き延び、まだ生きている。いちども文化人であったことはない。観察する理性で世界を俯瞰するのではなく、出来事の当事者でありつづけることは当人にも周囲にもおおきなひずみをもたらす。わたしはこのひずみを存在の根底でひらこうと考えた。わたしの体験に即して言えば、生を引き裂く力と、この力をひらく熱い自然はけっして共同化も内面化もできないこととしてあった。リアルな生存の感覚としてある。それがどういうことであるかをじぶんに根づく言葉で言うのにさらに数十年を費やした。考えたいことを納得のいくまで好きに考え生きた。いままで生きてきたようにこれからも生きていくとして、もしわたしに取り柄があるとしたらわたしは固有の体験を内面化も共同化もしないことだったと思う。なによりわたしの生存を貫通した体験を普遍として語りたかった。わたしたちの思考の慣性のうえに隈取られた文学や芸術という内面の表現の浅さ。それらはほとんどすべて社会化された表現にすぎない。この思考の慣性のうちに国家の私物化も世界システムの猛威も閉じられている。もっと深い精神の層が、もっと熱い自然が、自己に先立つ神仏という超越や往相の性の彼方にある。その体験的な確信が内包という奇妙な表現を根底で支えている。人間は社会的な存在ではなく内包的な存在であり、その驚きによぎられることで同一性的な生が表現されたのだと思う。人々はまず自己というものがあって対の関係や社会があると思いなし、自己を準拠とする生や歴史をかたどってきた。この囚われのなかにわたしたちの生や歴史がつながれている。民主主義という過渡的な共同幻想もそのひとつである。内包という豊穣で苛烈な固有の生を、民主主義が基礎づけることはできない。また民主主義を外延することで内包の生に到達することもない。民主主義にとって内包論は非ユークリッド幾何学のように存在している。無条件降伏が大地を収奪する治者のあいだの取り決めであり、敗戦後占領軍から一方的に民主主義が押しつけれた。そこに衆生の意志はまったく関与していない。天皇の赤子万民平等が擬制であれば、付与された民主主義も擬制である。だから二重の属躰化にたいして総表現者という概念を提起した。総表現者のひとりを生きるときひとはだれもが当事者である。

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この国のあり方は数年で臨界を越えて急速に変質したようにみえる。なぜだ。この思いはだれの胸のうちにもあると思う。特別機密保護法から安保法制(戦争法)を経、さらに共謀罪へと一気にこの国は劣化した。だれもがそう感じているはずだ。この事態は安倍晋三という稀代の妄想家が引き寄せた奇異妖変のようにみえる。悪夢の原因を安倍晋三の所為にするのはわかりやすいが安易すぎる。わたしは、ひそかに、戦後70年の擬制のツケが回ってきたと思っている。ある思考の慣性がこの国の70年に加重され、そのひずみが応力としてカルトでサイコな安倍晋三を生みだしたのだと思う。起こるべくしてカタストロフは起こった。ある思考の慣性がひずみの臨界を越え、安倍というきわめつきのバカを象徴的として押しだした。それはめでたいことでという皇室の婚約報道とやりたい放題の安倍晋三の迷妄が分離不能の一対のものとしてこの国のかたちをつくっている。稚気にひとしい皇室賛歌と邪悪な安倍晋三が表裏一体であるということ。島嶼の国の伝統的心性のありようはなにも解けていない。一君万民平等と国民主権がなんの矛盾もなく並存し、民主主義と独裁がなめらかにつながる自然となって生成するということ。

貨幣という最強の共同幻想がハイテクノロジーと結びつき電脳社会をつくるとき、効率的な資本の回収はグローバル経済として現象する。グローバリズムに反グローバリズムを、自由貿易に保護貿易を、ポリティカル・コレクトネスに排外主義を対置することは、世界システムやこの国固有のナショナリズムを括弧に入れることになるし、合いの手を入れてローカリズムの効用を説くことも、結局は安倍の悪政を支えることにしかならない。国の破局を嘆くもの書き文化人こそが根っこのところで安倍的なものを下から支えている。根本的な問題はどうすれば思考の慣性の根っこを抜くことができるかいうことにある。適者生存はこの世の条理そのものであり、グローバル資本は生を引き裂く力として衆生のうえに君臨する。世を睥睨する者にへつらうことで生をしのいでいくことは、むかしから世の常である。法の下の平等が地上で可視化された理念がデモクラシーとなり、人類史における偉大な観念の革命が実現した。この理念には普遍性があるので世界に敷衍された。どうじにこの理念は人類史的な限界をふくんでいる。わたしたちの個々の生存は、在るのざわめきのなかに絶海の孤島のように浮かんでいるだけなのだ。この意識のありようでは人と人はどうやってもつながらない。私性にとって自由と平等は相性がいいが、第三者には冷淡である。私性と第三者のあいだには断絶があり、私性にとって三人称は赤の他人である。是非を超えてそれがわたしたちがつくってきた自然である。この深い亀裂を埋めようとして人権の理念は他者への配慮を仮構したが、つながることはなく、超格差社会の到来によってさらにばらばらになり、それぞれの生存がむきだしになっている。このとき巷間を照らす小さな善を積み増す文化的な雪かきという良心は、それがあることによって生存競争から目を背けることとして機能することになる。自力作善を説くことは結果としてこの世のしくみを追従することにしかならない。底抜けした民主主義から大半の者はこぼれ落ちてしまっている。なんの不自由もない者らが高見からそれでも民主主義は大事だと教宣する。入らぬお節介ではないか。言い換えれば、知識人と大衆という生の分割統治が適者生存を延命させているということだ。生を外延的に疎外すると観察する理性を生む。観察する理性と生は疎外の関係にあるから、大衆の生を俯瞰する代償として観察家は空虚を得ることになる。生きていることと出来事を観察することのあいだにはおおきな隔たりがあり、私性と観察者のあいだのすきまを埋めることはできない。ここに文学という空虚の由縁がある。意識のこの形式ではじぶんをじぶんにとどけることは、だれがどうやろうとできない。読者ならず、いわんや作品の実作者においてをや。明々白々な事実だと思う。

個々の生の抽象化された一般性として世界システムは存在する。しかも疎外された生の総和である貨幣や国家や科学知は意識の外延的な共同幻想として生を囲繞しそびえ立つ。奇妙なことに生は抽象化される一般性だけが共同幻想として疎外され、同一性に適わない生の意識の残余が自己のなかにのこってしまう。それが私性の核のなかにある。私性は私利や私欲と等価ではないのだ。私性を我執とみなしてもなにか意識からこぼれ落ちてしまうものがある。最近ふとそのことに気がついた。同一性的な意識の残余は根源の二人称にむけてひらかれているのではないか。私性の名状しがたい意識の残余のなかに〔根源のふたり〕が内包の面影として残されているのではないか。ほんとうは私性の底には内包存在の痕跡がのこされている。個人がべつの個人とつくる対幻想は内包論では往相の性ということになるが、往相の性の深奥に還相の性が内包存在の面影としてあるということだ。性の古代形象が核家族であるとすれば、核家族のありようのなかに私性の起源がある。父と母と子という家族の原型はプライベートそのものである。そこには私性しか存在しない。ここには神も仏も国家も政治もない。精神の古代形象としてある私性は共同幻想に昇華できない意識の原型ではないか。世界システムがどれほど高度になろうと、あるいは共同幻想が電脳社会のなかでどのような流転と遷移を遂げようと精神の根基としてある私性のなかにある内包存在の痕跡がなくなることはない。私性が内包に向かってひらかれているというのはそういうことだ。

世界システムのおおきな自然とちいさな自然が相克し、いずれにしても人工的な自然が天然自然を呑み込んでいく歴史の転形期を過程的に生きているとこれまで考えてきた。わたしたちの同一性的なおおきな自然も、内面というちいさな自然も共に私性に閉じられ、どこにも抜け道がないようにみえる。意識の外延性は往相の歴史を刻むだけで、それが人類史ということだが、どうやれば還相の過程として歴史の概念をつくることができるのかと考えつづけた。内面化も共同化もできない表現の可能性がだれのどんな生のなかにもあるではないか。私性の深奥にそれがある。私性の根基に私利や私欲を超えたものが内包の痕跡としてのこされている。私性の核は内包へむけてもともとひらかれている。私性は根源の性から絶えず照射されている。根源のふたりの外延的な表現として対幻想や往相の性があるということだ。精神の古代形象を遡るとはじまりの意識が私性として単独で自存している。このとき公義は存在しない。身勝手な父ちゃんと口やかましい母ちゃんと言うことを聞かない子たちというつながりの原型が、過去を想起し未来を追憶するようにありありと浮かんでくる。私性は煩悩にまみれた生の謂いでもある。おなじ生が悠遠の過去から現在まで変わりなく生きられている。この煩悩のかたまりを同一性は可視化できるか。できるわけがない。極悪深重という煩悩のかたまりを同一性という論理式が可視化し計量することはできない。規範化された生は同一性に収斂され、ビットマシンがその過程をうながすかもしれないが、私性という凡俗は変幻自在に外延的な知からいつも逃れつづける。民主主義という公義は虚仮である。往相の生のなかに総表現者として還相の生がある。

-あなたは近著『家族システムの起源』(石崎晴己監訳、藤原書店)では、人類の最初の家族の構造は核家族だという指摘をしています。それは、現代社会を読み解く上でどんな意味を持ちますか。
    
あの本は、純粋に歴史人類学の研究書です。この本の基本的な命題は、核家族というのが原始的な家族の形だということです。あらゆる共同体的モデルの複雑な家族システム、中国タイプであれ、ロシアタイプであれ、あるいはいとこ同士の結婚を認めるもっと複雑なタイプであれ、それらは、かつて家族の形としては遅れたタイプと見られていました。しかし、私はそれに対して「ノン」と言ったわけです。そうした形こそ、歴史を経て形作られてきたものなのです。最も自然な家族の形は核家族なのです。これは、歴史を理解する上で重要な結論をもたらします。(エマニュエル・トッド『グローバリズム以後』)

エマニュエル・トッドは『家族システムの起源』で詳細に核家族を検討している。初期人類が核家族の起源をもつということは人類学のおおきな達成だと思う。原始の核家族もまた渾然一体の熱い意識のかたまりが分有されたものであり、核家族にも同一性の萌芽が兆していたに違いないが、初期人類の家族は色濃く内包存在の面影をのこしていたと思われる。やがて交易が拡大するに従って、婚姻と相続の形態は母系制や父系性に分化していき意識の外延化は強固になっていくことになった。しかし内包という根源の二人称のありかたはいつの時代も、どういう精神風土であろうと意識の普遍として存在しつづけている。人が社会的な存在であるという認識のなかでは生はいつも部分的にしか登場しえない。人類史というモダンは人が社会的な存在であり、その秩序を維持するために共同幻想のしばりを負荷し生を縮減してきた。わたしたちの知るどんな理念も「衆」を媒介として社会に発布される。この理念の型は統治者の人格を超えて、生を抑圧するものとして表現される。いうまでもなく自己は衆に同期し円環する。人格を媒介にするどんな理念も生を逓減し、世界システムと内面化する国家の二重の属躰となるほかない。自己のあり方と共同的なありかたを包み込んでしまう内包のなかに生や世界のおおきな未知がある。生は根源において〔ふたり〕である。根源の性というおのずからなる善から、システムはいったいなにを収奪できるか。グローバルな電脳社会もローカルな国家の内面化や融解も内包という熱い自然で融かしてしまえばいい。安倍晋三の悪政を批判することはだれにでもできる。嘆く思想はいらない。ではどうすればいいのか。世界のどこにもこの国のどこにも世界を善きものとして構想する理念はない。大義をつくらないおのずからなる善が可能であることを片山さんとの対話でじりじりと切り拓いていく。安倍のビョーキによって戦前回帰することはない。もっとおぞましいことがこれから繰り広げられるだろう。この世のしくみがどうであれ、なにがあろうと、これから起きる事態のただなかを、歩く浄土は悠然と突っ切っていく。内包の海を音色のいい風をうけて遊弋する。

〔付記〕2017年5月23日、共謀罪法案が衆議院で可決されたので、片山さんとの連続討議「緊迫化する世界のただなかで」の冒頭の一文を除いた「あとがき」を掲載する。共謀罪を「擬制と私性」から批判した。時代の経年変化に耐えうると思う。

コメント

1 件のコメント
  • まさ山口 より:

    少し内包がわかりかけてきた。文がすーうと、はいってくる。

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