日々愚案

歩く浄土253:複相的な存在の往還-やわらかい生存の条理11/同一性の形象化が必然とした観念の諸形態2

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ひとがひとであることの限界はなんだろうか。言い換えれば、なぜ存在の複相性を往還することができるのだろうか。同一性の手前に同一性を融即する根源の一人称である還相の性という〔主体〕が存在するからである。このひとであることの限界から逃れることはできない。よく似たことをレヴィナスも考えた。「私の愛している他人がこの世界で私にとってはかけがえのないものであるということ、それが愛の原理です。恋愛に夢中になると、他人をかけがえのないものだと思い込むから、というのではありません。だれかをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ、愛があるのです」(『暴力と聖性』内田樹訳)
存在が複相的であることは性もまたさまざまな表現型をもつことを意味する。恋に落ちると一日25時間その人のことを考えてしまう。対幻想もまた往相廻向のひとつであり、往相の性のなかにはかならず同一性という暗黙の公理が隠れている。自己同一性の手前に人であることの約束がある。約束とはひとであることの限界と同義だと思う。この約束事はおそろしいほどの自由をもたらす。親鸞の自然法爾だ。あるいは自力廻向の信によって成り立っている世界の背中が見える場所というべきか。レヴィナスは愛についての認識をみごとに逆転している。「だれかをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ、愛がある」、と。この意識の相転移は存在の複相性を往還することによって、はからいによらずおのずともたらされる。だれもがこの約束の場所を意図することもなくおのずと生きている。

けっして内面化も共同化もできないそれ自体は共同主観的なものではありません。同一性の手前にあるの意識は還相の性と内包的な親族の素過程から成り立っていると考えています。ここに外延的な自然を包み込む内包自然が存在する。信の共同性のしばりを解く内包的な自然と社会や共同性という三人称の可視化された外延的な自然を往還しながらわたしたちは生きています。内包自然や還相の性という観念は同一性を前提とした外延的な観念にとって未知の猛烈な可能性を秘めています。

書けなくなった十数年の悶絶に触れたサイトのPDF版の紹介文を再掲する。

<『内包表現論序説』が、大きな影響をうけた吉本隆明さんの思想からの自立の模索であったとすれば、『内包存在論草稿』は内包という独自の概念をつくろうとして悪戦苦闘した記録であると言うこともできる。状況にふれながらいくつかのオリジナルな考えがこのなかで語られている。観察する理性の方法は一切とられていない。対象に没入しながら、対象を言葉と不即不離のものとして取り出そうとした。内面の形式である文学と共同性にかかわる政治は次元が違うといってすむ問題ではない。内面や社会性を生みだす淵源を対象化しようとした試み。ある意識の呼吸法のもとでは、対象と対象を論じる言葉には、あるいは表現と表現主体とのあいだには必然としてすきまが生まれる。このすきまを制度にすれば国家となり、内面化すれば文学や芸術というものになるが、意識の型としては同型である。いつまでたってもこの世のしくみが変わらないのは、結果として、意識の内面化という形式が権力として制度に備給されているからということもある。それは生きていることが、個人であれ、社会の一員であれ、同一性の罠に監禁されているからだ。自己意識の外延表現は同一性の必然として閉じられている。どうすればひらくことができるか。広義の〔性〕が鍵だと思う。わたしは世間の性ではなくこの性を根源の性と名づけた。内包的に存在している性をうまく表現として取りだすことができれば、わたしたちの生はもっと伸びやかになり、市民主義的な理念よりもっと善い生を生きることができると内包論で主張している。この本のまえがきで内包論の世界では三人称が消えてしまうと思わず書いたことに足を掬われ、10年余、思考がフリーズした。根源の性のいちばん深いところにひっそりと還相の性が熱く息づいている。還相の性はだれのなかにも無限小のものとして内挿されているということに気づいてから内包論を歩く浄土として再開した。当時のわたしの錯認から、マルクスも吉本隆明も、どんな思想家もまぬがれていない。それは還相の性は空間化できないということだった。この気づきは人類史を拡張するおおきな潜勢力をもっていると思う。『内包存在論草稿』は「歩く浄土」への過渡としてあるが、根源の性を内在化(時間化)できていないほかは、いまでも充分に考えつくされた思考であり、『内包表現論序説』も『内包存在論草稿』もまだ読み解かれていないと思う>

内包論のいちばんの要でいちばんわかりにくいところを貼りつける。だれよりひどく躓いたのはわたし自身だ。なんどもなんども転んでとうとう起き上がれなくなった。

 <内包存在のそれぞれの分有者は、根源の性を分有する内包者でもあるから、わたしによって生きられるあなた、あなたによって生きられるわたしは、自己表現ではなく内包表現するものとしてあらわれる。分有者と分有者たちの微妙なあわいは、同一性の思考の様式に倣って謂えば、あたかも一人称と二人称の関係に比喩されてもよい。 つまり、内包と分有の世界では人称がひとつずつずれて繰りあがり、繰りあがることで同一性が事後的に分節した三人称が、内包と分有に上書きされて消えてしまうのだ。それは分有者が直接に性であるからにほかならない。内包の世界では、分有者は二者にして一者であるから、あるいは他なるものが自らにひとしいものであるから、さらにひとりのままふたりが可能なるものとして生きられるから、三人称が存在しえないことになる。
 一人称が二人称をふくみもつということにおいて、世界は、〈わたしという性〉と、それ以外のものへと転位してあらわれ、同一性論理が三人称と名づけるあり方がこの世から押し出されてしまう。ほかならぬわたしであるということがそのままじかに性であるから、内包者は一人称と二人称を併せもつことになり、併せもつことにおいて内包者たちの相互の関係は、あたかも同一性論理においての二人称の関係に似たものとしてあらわれることとなる。同一性が人倫として語る善悪の彼岸ではなく、思考が権力の始源をはじめて無化する瞬間だといってよい。こうやって内包史という歴史があらたに立ち上がってくる>(『Guan02』まえがき)

三人称のない世界を書こうとして思考がフリーズした12年余を経て、なにを考え損ねていたのか骨身にしみて思い至った。後の祭りとはこういうことをいう。なぜ思考がどうどうめぐりをして停止してしまったのか。わたしの生存感覚のど真ん中を貫通した熱い自然の体験をどこかで空間化していたのだと思う。関係の原像とでもいえる実詞化できない還相の性を空間化するかぎり三人称は一人称と双対をなし同一性が粗視化する観念の偶像でありつづけるわけだ。実詞化できない還相の性があるから自己の自己性が固有のものとして生きられる。自己意識の用語法は同一性が統覚している。存在の影を本態としたときに影は存在を踏むことができるか。内包論の罠にかからない者はいないと思う。存在の複相性を往還することが身についてしまえばこれほど簡単なことがなぜわからないのかとなる。
いまは根源の性の分有者には往相の性と往相の性を統覚する還相の性があると考えている。通念としていえば内包論の往相の性と通念としてある対幻想が重なるように思う。むしろ内包自然は往相の性を媒介にして外延自然の対幻想へとつながっている。実詞化できない性が内包自然のいちばん奥まったところに謂わば他力のなかの他力として、あたかも奥行きをもった親鸞の自然法爾のように存在する。膨らんだ自然法爾のなかで、親鸞が仏であり、仏が親鸞となり、親鸞は領域として存在するということになる。この領域としての親鸞は〔性〕にほかならない。

同一性のはるか手前に同一性の基になる、あなたがわたしのなかにいて、わたしがあなたのなかにいるというシンプルな世界の情動が存在する。この〔なかにいる〕ということが〔と共に〕そのものをなしている。このふしぎがあるから、存在の複相性の往還が可能となり、可視化と実体化をうけた存在の外延性がただちに内包的な存在へと転換することが可能となる。つまり〔と共に〕はいかなる意味でも自我や共同性となることはできない。あなたがわたしのなかにいる。この〔なかにいる〕ということは、わたしがあなたを至上のものとして意識するということとは違う出来事である。もしそうであるとするなら、すでにそれは人々によって考えられたことに属する。たとえば人間精神の夢を対幻想や神(仏)という超越として語ることがそうだ。〔なかにいる〕がノンA=ノンBを可能にしている。〔わたしがあなたである〕は、この〔なかにいる〕知覚によって往相廻向から還相廻向へと反転するのだといってよい。〔なかにいる〕のはわたしがかんがえるあなたがわたしのなかにいるのではなく、あなたのかんがえるわたしがわたしのなかにあるということが〔なかにいる〕ということなのだ。つまり〔なかにいる〕のはあなたのなかにいるわたしのことだといってよい。わたしとあなたが交換されて入れ替わった存在が互いのなかにあるということになる。これが〔なかにいる〕の本義だといえる。そのときわたしの〔なかにいる〕あなたはぐるんと反転してわたしなのだ。もし、あるものが他なるものに重なるということがなければ、なぜ、あるものがそのものにひとしいというふしぎが起こるだろうか。あるものがそのものにひとしいという不思議にはこういった意識の位相的な変換がおのずから組み込まれている。わたしは人間意識の第三層と言い、自己意識の外延表現からここに触るものたちは意識の展延態として第三期の形而上学を想定しつつあると言ってもよい。わたしは外延論理の自己という信や共同性の信の根をぬく内包という信が、還相の性のあらわれの領域として自己と、喩としての内包的な親族を可能とすると考えている。内包論で根源の性を分有するということと、ナンシーの分有や分割とは、まったく異なった生の気風だと思う。ナンシーも西谷修も自力廻向の「社会」主義者であるということにおいてニヒリズムをまぬがれていない。かれらにあって、自己と他者はついに外延的な関係を超えることはなかった。

<歴史や生の始原に、変わるだけ変わって変わらない内包という灼熱する精神の古代形象があった。根源のふたりということが太初からあり、そのことによってヒトが人となった由縁は、だれのどんな生のなかにもちいさな灼熱の塊として内挿されている。だから、じぶんにじぶんをとどけ、じぶんをふたりとしてひらくことができる。変わるだけ変わって変わらない根源の性はもともとだれのなかにも、ある領域として存在している。人類史を同一性が粗視化した自己と共同性の歴史だとすると、そのモダンな歴史の手前に精神の古代形象が存在している。エマニュエル・トッドの人類は初期、核家族であったという人類学的な知に刺激された。自己がいて他者がいるという信憑が思考の慣性としてあることはよく知っているが、この観念の型はウルトラ・モダンだとわたしはずっと考えてきた。自己と共同性は対となる概念で互いが互いに憑依することで歴史や生を連綿と重畳してきた。曲率がゼロの同一性的な意識の平面で自己と性と共同性は弁別されるはずなのだが、生の条理は適者生存をなぞるようにしか遷移してこなかった。自己と共同性を架橋するものが生や対の世界だと言われてきたが、関係が表現となることはなく、自己が他者と出会い疎外する観念のことが対幻想と名づけられてきた。いずれにしてもわたしとあなたの関係は世界への媒介にすぎないわけだ。わたしは内包論でまったく逆のことを考えた。言葉が言葉自身を生き始めると表現はおのずと内面という擬制を突きぬけてしまう。わたしは生が根源において二人称であることを表現の公理としている。言葉が言葉自身を生き始めると表現は同一性という拘束衣を脱いでしまう。存在は可塑的で、バイロジカルで複相的なものとして存在する。意識の外延性は-それがわたしたちのモダンな人類史ということだが-精神の第二相までは表現できるが、内面より深い意識は意識の第三相としてあらわれる。意識の外延性を内包化すると、外延性ではない意識の第三相である内包自然があらわれることになる。宮沢賢治の作品は意識の第三相まで到達している。内面を掘り進んでいたら内面が消えて内省と遡行という自然とはべつの内包自然という意識の第三相が忽然とあらわれた。そこではモダンな宮沢賢治はいつもひとりでいてもふたりだった。そこにかれに固有の擬音が内包的な表出として位置している。仏と懇ろになった最期の親鸞が自然法爾といったとき、自然法爾はすでに破られていた。出来事の根源において言葉が性でしかないように、宮沢賢治にとって言葉は擬音となった性そのものとしてあった。じぶんより近くにいる根源のふたりが宮沢賢治の口をついてこぼれ出た音声の余韻が擬音だと思う。賢治の試みは、本人でさえも自覚していない大橋力の『音と文明』に引き継がれている。『音と文明』はデジタルな言語脳とアナログな脳との対比のうちにアナログ脳の優位を暗黙に主張している。デジタルな言語に性というアナログが先立つと大橋力はどこかで感得しているのではないかとわたしは思っている。大橋力の雄大な音の研究は畢竟するところ、音は性の表現であることに帰着するように思えてならない。根源の性を分有するという事実は、死によって離接することもできないということであり、性が分有されるなら死もまた生の一部として分有されることになる。有限の生は内包のきりのなさとしてありつづける>(「歩く浄土248」)

自己意識の用語法で同一性の手前にある存在を語るのがだれがどうやろうと困難なのは、内包存在を記述する言葉がわたしたちが棲んでいる世界に存在しないからだ。歴史を遡るとかろうじて自己に先立つモダンな存在を神や仏と呼び、神や仏によぎられることで自己という空虚に各自性が訪れた。存在を粗視化するおおきな方便であり、おおきな観念の革命がもたらされたと言える。はじめて存在に裂け目が入り、空間化された神や仏という超越によって心身一如という存在がかたどられた。自己というのっぺらぼうに存在の裂け目が表現されたわけだ。この各自性は固有な生をもたらすか。固有であるその自己でさえも始まりと終わりの不明を括弧に入れたまま、実詞化と空間化された神や仏に自らの生を委託することで生きるほかなかった。爾来二千年。歴史の近代が到来し、空虚な自己をふたたびむきだしにさらす。人間という自然を人工的な電子ノイズとして再生する。ここで人間はアルゴリズムにすぎないとするユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』が登場する。人間という自然はいやおうなくこの流れに呑み込まれる。同一性の形象化の必然だ。意識の外延的な表現ではいかなる表現も共同幻想の派生態にすぎない。自己の自己についての観念やその表現は共同幻想に背馳すると思うのは勝手だが、自己の観念もおおきな自然の強圧を慰安するちいさな自然であることにかわりはない。

わたしはこの時代の趨勢をつつんでしまう自然を粗視化したくて同一性を包越する意識の内包的なあり方を世界認識の方法としてつくろうとしてきた。神や仏という同一性を暗黙の公理とした超越のはるか手前に同一性を包越する内包自然があり、そこに還相の性によって領域となった自己と、それぞれの自己という領域を生きるそれぞれが喩としての内包的な親族としてつながりをもつことになる。
自他未分の熱い意識のかたまりを根源の一人称と呼び、自己意識を起点にしたとき、その驚異を根源の二人称と名づけた。対象を記述するとき自己意識の用語法によらず対象を語ることはできないからだ。いずれにしても意識の内包的な表出である根源のふたりと根源の一人称は過不足なく重なる。あるものがそのものに融即するからあるものがそのものにひとしいというふしぎが自然に立ちあがる。同一性の手前にある人であることの驚異を根源の一人称と言おうと、自己意識を起点に根源の二人称と言おうと変わりない。

最近は考えてきた内包をふり返りながら先に進もうとしていることに気づく。ひとつひとつ概念をつくり、同一性を暗黙の公理として意識の外延性を積みあげてできた人類史とはべつの、根源の一人称という歴史の初源に存在した熱く息づく自他未分の渾然一体となった意識のかたまりを、根源の二人称として内包的に表現することができればもうひとつの人類史が可能であると考え内包史と名づけた。むろん、内包史が社会や共同体の名で呼ばれることはない。

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片山さんの「毎日のさけび」をそのまま掲載する。

 友人の森崎茂さんが、体調不良をおして久しぶりにブログを更新された。今日はその内容を少し紹介してみよう。といっても、さわりだけだ。森崎さんとはこの5年ほど、非常に密度の濃い言葉のやり取りをさせてもらってきた。ぼくはほとんど鯨飲馬食の状態で(この使い方、間違っている?)森崎さんの言葉を吸収してきた。それでもブログに書かれていることをうまく解説できない。ひとつには自分の言葉で言い直すことができないからだ。森崎さんの思想は「内包自然」や「根源の二人称」や「還相の性」といったオリジナルな言葉=概念と一体なので、他の言葉で言い直すことができないのだ。

 私性を現実だと考えると、他者を自己の生存の手段にしない人間の関係のありかたは、私性という定義によって人と人の関係の可能性は裏切られることになる。ここになにがあるのか。私性は往路であり、それにもかかわらずだれのどんな生にも無限小のかたちで根源の一人称が内属している。自他未成の熱い意識のかたまりである根源の一人称が始原に存在したと内包論は考えた。(中略)人間の自然的共同体が親族から氏族制へと転化する時期に根源の一人称という熱い意識のかたまりは還相の性として無限小になって縮退し、その斥力が一気に共同幻想の高度化をもたらした。この反力が意識の外延性としてさまざまな自然を産出してきた。(「歩く浄土」252)

 はじめて読む人にはなんのことだかわからないはずだ。ぼくはなんとか追走できるけれど、わかりやすく解説することはできない。そもそも地上にはじめて姿をあらわそうとしている思想が、そう簡単にわかるわけがないのだ。簡単でわかりやすいものとは、たとえばトランプや安倍晋三の政治であり、村上春樹の小説やピカソの「ゲルニカ」であり、それらは簡単でわかりやすいから広く社会化されて、ともに現在の体制を支えている、といったことがブログには書かれている。ぜひ多くの人に読んでもらいたい。おわり。

 いや、終わってはいけない。もう少しだけ、ぼくなりに簡単でわかりやすいことを言ってみよう。「われわれは不幸な国に生きていますが、その国の背後にもうひとつ別の国がまだ発見されずに残されていると信じています。それは、われわれが歴史の中で数々の間違いを犯しながら作り上げてきた型におさまることのない秘められたコロンビアです。」

 ガルシア・マルケスの晩年の講演から引いてみた。これまでの人間の歴史は間違いだらけだった。森崎さんの言葉を借りれば、他者を自己の生存の手段にすることだけで歴史をつくってきた。この歴史は貨幣と科学技術を生み、それらはAIに先導されたデータ教という新しい世界宗教に呑み込まれようとしている。これがいまぼくたちが生きている「不幸な国」の現状だ。だが、その背後にはいまだ発見されていない「秘められたコロンビア」が息づいている。

 どうすれば、そこにアクセスすることができるのか? 「秘められたコロンビア」を発掘するために、森崎さんは「根源の二人称」や「還相の性」や「存在の複相性」といった言葉をつくってこられた。若いころからほとんど母国に腰を落ち着けて暮らすことのできなかったマルケスにとって、「秘められたコロンビア」はぎりぎりの言葉であったはずだ。森崎さんの言葉も、瀬戸際まで追い詰められた人類史が、一人の人間の生に凝集されたところから出てきているように、ぼくには思える。(2019.5.16)

5月24日の「毎日のさけび」の後半を引用する。

 なぜなら人間の善性は、自己の手前にあるからだ。自己の手前にあるものを、自己は取り出すことができない。どうしても他者という媒介を必要とする。この自己の手前にあるものこそ、人はどこまでも人であるという約束の場所であり、友人の森崎茂さんは「根源の一人称」と名付けている。それは「自他未分の熱い意識のかたまりである」というふうに表現される。「根源の一人称」において、自己と他者という分節化はいまだ起こっていない。 どういうことだろう?

 量子力学でいうところの「重ね合わせ」の比喩を使ってみよう。「根源の一人称」では自己と他者は重ね合わせの状態で存在している。そこに何かの機縁で一人の媒介者(ときに小スズメ)のまなざしが届く。そのまなざしに応答して「わたし」が分節される。同時に、わたしにたいする「あなた」が析出される。この「わたし」は瞬間的に至高の善性を帯びている。ここから山手線の乗客転落事故や、映画『タイタニック』のジャックのような振る舞いが生まれてくるのだ。

 自己の手前を発見したことは、森崎さんの非常に大きな仕事であり、そこに言葉を向けたことは、人間を新しく創成させるための最初の一歩だとぼくは考えている。なぜ善を個人に帰属させてはならないのか? 一人ひとりが自分にできる小さな善をなす、という考え方ではだめなのか? だめなのである! それではどこまでいっても、いまと同じ世界が延命していくだけだ。自己に帰属させられた善は、かならず私性の制約を受け、私性によって裏切られる。現にいまぼくたちが目にしている光景そのものである。(2019.5.24)

片山さんは言葉の本質は〔二人称〕だとはっきり言明しています。なにが表現の固有性なのか、酷い世の中であっても生を肯定できる考えはないものか、そういうことについて5年ほど膝をつき合わせて熊本と福岡を行ったり来たりしながら真剣な話をやってきました。私の体調不良でこの一年余休憩しています。片山さんは、はっきり言い切っています。ものすごく大事なところです。この一点を外すと未知の世界が現出することはありません。「一人ひとりが自分にできる小さな善をなす、という考え方ではだめなのか? だめなのである! それではどこまでいっても、いまと同じ世界が延命していくだけだ」。なにしろわたしたちが知る自力の信はこれしかないわけですから、そしてこの往相廻向は度重なる戦争と虐殺を飽くことなく繰り返してきました。あるいは凡庸な悪として事態を座視し受容することとして。他者を自己の生存の手段にしない生の様式をまだわたしたちは生きたことがないのです。私性の追及の最適値が貧窮するものにおこぼれをもたらすこともたまにある。この擬制を覆い隠す喉ごしのいいごまかしが溢れている。
内田樹はブログの「サル化する人」で次のように発言しています。現在は自己同一性が未来へ時間を延長することに耐えられなくて、自己同一性が病的に萎縮しているというのだ。その私性を促進しているのが同一性であることを内田樹は隠している。かれは気づいていないか、気づいていないふりをしている。グローバリゼーションによって追い立てられた生が空間的に縮減するのは同一性という思考の慣性の必然だと思う。自己同一性は他者を自己の生存の手段とすることを不可避とする理法の謂いであるとも言える。端的に欺瞞だと思う。だから内田樹の倫理の定義は虚しく空を切ることになる。

「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない。「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。(2019-05-27)

なぜこのあたりまえの人倫が決壊しつつあるのか。自己同一性が原因で人がサル化するのはその結果ではないか。敗者に強者の優しさが振る舞われることがあるにせよ、三人称は互いに他者を自己の生存の手段とすることでしかつながらない。それが世のしくみではないか。人と人がこの理法でつながることはない。その現実をわたしたちはまざまざと見せつけられている。内田樹のいう篤志家による中間共同体への貨幣の贈与、相互扶助は生活の知恵としてたまさか地上にあらわれることはあっても、小さな善の積み増しがこの世のしくみを変えることはありえない。往相廻向はひとつの自然ではあっても同一性が必然とした観念の諸形態を超えることはない。同一性の手前にある内包自然を存在の複相性として往還するときにこの世のしくみはおのずとはからいとは関係なく拡張される。

片山さんの福岡市総合図書館での講演原稿がアップロードされているので、いいなと思ったところを貼りつけます。言葉がじぶん自身に届くとはどういうことかについてとても大事なことが言われています。

講演会の質疑応答から、今日は「言葉が届く」ということについて少し書いてみました。読んで難しいと感じられるかもしれませんが、自分のなかでは言葉の核心をつかんだ気がしているのです。(片山恭一ツイート2019.5.28)

 講演会での質疑応答からもう一つ紹介しておこう。言葉が届くということについて。とても難しいお話しでしたので、わかりやすく説明してもらえませんか、というご注文。ありがとうございます。このあたりはぼくがいま考えているホットなテーマなので、なかなか手際よくお話しすることができません。少し補足して喋ってみます。

 世界平和や核廃絶を訴えている人がいます。言われていることはとても正しい。だから賛同して耳を傾けている人がたくさんいるのでしょう。そのうちの一人が末期癌を宣告されたとしましょう。その瞬間から、世界平和や核廃絶をめぐる言葉は、彼には届かなくなるのではないでしょうか。原発は間違っているからやめよと言っている人がいます。その人が癌になったら、検査や治療に放射線を用いることを進んで受け入れるかもしれません。こうした言葉が無効であると、ぼくが考える大きな理由はそういうことです。

 平和運動や反原発運動をやっている人たちを非難しているわけではありません。ぼく自身はむしろ共感しています。しかしいずれの言葉も一人ひとりの個人の事情を超えることができていません。人はそれぞれに個人の事情、その人が抱えている現実を生きているのだから、そこを超えられない言葉は、誰にも届かないと考えたほうがいいのではないでしょうか。今日一日の命の保証ができない、という境遇にある人は地球上にはたくさんいます。シリアにもいるし日本の病院にもいる。どういう言葉が彼らに届くでしょうか?

 たとえばシリアの人たちに言葉を届けるのは、ある意味で簡単です。「日本政府はあなたたちにビザを発行します」と言えば、その言葉はただちに彼らに届きます。しかしこの場合、「届く」というのは日本政府とシリア難民という圧倒的な境遇の違いを前提としたもので、高いところから低いところへ水が流れるようにして届くわけです。癌患者に主治医の言葉が届く事情も同じです。治療する者とされる者という、圧倒的な立場の違いによって医学の言葉は届いているのです。

 ぼくが言っている「言葉が届く」ということは、そういうことではまったくありません。立場や境遇は関係なく、ぼくの言葉が誰かに届く。それはどういうことなのか? 一人ひとりに個人の事情があって、その事情に沿った私性を誰もが生きている。すると言葉が届くためには、癌に命を脅かされているとか、アサドやISに命を脅かされているといった、個人の事情を超える必要があります。各自の私性を超えた言葉が、かろうじて誰かに伝わるのではないでしょうか。

 だから言葉が届くためには、つまり各自の私性を超えるためには、どうしても「自分よりも大切なもの」という契機が必要になります。言葉の本質は二人称だと、ぼくが言っているのはそういうことです。言葉が言葉であるためには、「ふたり」という場所が必要なのです。自分よりも大切な「あなた」に向かって発せられる言葉が、言葉を発した自分にも届く。自分に本当に届いた言葉が、自分以外の誰かにも届く、というふうにして言葉は伝わっていくのだと思います。(「今日のさけび」2019.5.28)

とてもまっとうなことを片山さんは言っています。同一性の手前にある根源のふたりを分有することよってしか人と人はつながらないのです。同一性の手前にある内包自然はふたつの素過程にわかることができます。還相の性と喩としての内包的な親族として内包的に表現されることになるのです。このとき〔わたし〕は〔領域化〕されています。中心がふたつある楕円体になった〔領域としてのわたし〕と、この還相の性が引き寄せる幾重にも褶曲した観念の球体に比喩される。この観念の球体のことを喩としての内包的親族と名づけています。

「自分を救うためなら宗教の言葉でも間に合うだろう。それこそ医学を妄信するように、ただ信じ込んでしまえばいい。でも、その言葉は自分の大切な人には届かない。かけがえのない『その人』に届くのは、一人ひとりの心づくしの、手作りの言葉だろう。そんな言葉を、ぼくは『文学』と呼びたい」(片山恭一ツイート2019年5月24日)と考えながら片山さんが小説を書き、おなじことをわたしが批評で書く。この緊張感はなかなか味わい深くていいぞ。小説がフィクションなら批評もフィクションだ。この綱引きがおもしろい。作品のファンタージェンを実直に後追いするのが批評ではない。批評も小説とおなじく作品である。ただ批評がその強度を持ちうるかどうかは読者が判断することではある。

絵描きの元村正信さんは言う。「『彼の文学もまた解けない主題を説けない方法で書かれてきたのではないか。はたして書かれる必然性はあったのか。なかったと思う』とまで、森崎茂は言い切っていた。すでに『死の棘』ほかで高い文学的評価を得ている島尾敏雄ではあるが、僕にとっては身につまされるものがある。それをすぐさまこう言い換えてみよう。僕にとって絵画は、『描かれる必然性はあるのか』」。本当に「描かれるべきことが、描かれているのか」と元村さんは問い、「そのことに応えていない絵画など、なんの意味があろうか。これは絵画の内容や形式を問う以前の問題なのだ」(元村正信「美術折々_194」2019/2/18)と応答する。批評を悲劇の解読とする思考の慣性が作品のうそを支えている。安倍と反安倍がまったくおなじ思考の型に象られていることに比喩される。暗黙の同一性に統覚される理念の同型性。人類史はいちどもこの擬制を突き破ったことがない。文明の外在史と精神の内在史という観念の対位は往相廻向としての信ではありえても思想の全円性として言えば虚妄である。

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さあ、ここで国家以前の共同幻想の初源を問いたい。根源の一人称という人間の観念の祖型はなぜ意識の外延性を疎外したのだろうか。三人以上の人間の関係がつくる観念を共同幻想と定義し、あらゆる共同幻想は消滅すべきであるという思想を実現しようとすると思想は定義によって裏切られる。だからこそ晩年の吉本隆明は渾身の力を振り絞り自己幻想と共同幻想の逆立の消滅、宗教的な観念の消える理念をアフリカ的段階についてという考察で親鸞の順次生を援用しながら未知の「存在倫理」を語ろうとした。三人以上の人間の関係がつくる観念を内包的に拡張できていればあらゆる共同幻想は消滅すべきという命題はおのずと消滅したはずだ。

相互扶助や贈与経済を可能とする人間の暮らしは自然的共同体がある規模になったとき共同幻想を一気に昂進させたのではないかと考えるようになってきた。根源の一人称が根源の二人称へ相転移したとき、同一性権力は観念の領域を指数関数的に加速した。

わたしの考えてきた内包論はだれのどんな本のなかにも、わたしのしるかぎり散見されない。たとえば自己を1に比喩すれば1を括弧に入れて無に1を融解させ無意識と名づけ、無意識が1を規定しているとフロイトは言い、西田幾多郎は1を多に融解させその自然生成を自己のなかの絶対の他と呼んだ。どんな読解も誤読だからそれを承知で言うと、近代起源の知は自己愛の物語だと思う。フロイトも西田幾多郎も任意だからかわりにだれを代入しても変わらない。知的な膂力で世を睥睨するどんな知も唾棄してきた。思想の背中が見えてしまうと退屈でたまらない。だから非知のわかる思想家の知を偏愛してわが身に置き換えて読んできた。非知を懸命に探ろうとしている表現者の言葉を貼りつける。かれらの言説の象徴的な場面だと思う。

原口孝博さんは次のように書いている。

 くどいようですが、ここは大事な点と思えるので一般的な形で言い換えてみます。
「自分(A)にとっての他者(B)が、いかなる立場や属性にあろうとも、その他者が自身の愛する者であり、大切に思える存在となるならば、新たに創造・育成された関係意識(C)が、社会規範、共同観念等の外部から持ち込む差別意識等を吹き飛ばし、無化してしまう。」ということです。この(C)は集団と集団(三人称同士)の間において、そのままでは生まれようがない性質のものだと思います。なぜなら、規範と規範は、互いがそれを優先する限り、そこに人間の未知の可能性を引き出し媒介する<契機>がないという理由によります。たとえば「部落民」と「非部落民」とされる二人が、その外在規範を手つかずのままに関係改善を図ろうとする限り、正しい意味の「共生」はあり得ません。そこに<人間の内在性>を関与させない限りは、何も生まれない不毛な営みだと私は思います。
 内在性を関与させるとはどういうことか? つまり、互いが背負う立場や属性(共同性)を、各々が相対化・対象化する行為、そこから一歩離脱したり、離反しようとする意志のことです。双方が無意識でもこれを行えば、いつの間にか互いを縛る三人称規範は変質又は後退し、関係意識(C)へ導かれることになるでしょう。「双方が無意識でもこれを行う」ことを可能にするのが、何らかの<縁>で生まれた愛や慈しみ、悲しみ・苦しみ、喜びを分け合い、助け合うシンプルな感情だと私は思います。この(C)は「個」の一人作業では作れません。見知らぬ他者同士であれ、人間が抱える<悲しみ・苦しみ・喜び>を媒介にして涙ぐみ、共感し、笑い、支え合いたいと思う心の動きにある「何か未知のもの」。目には見えないが、例外なく多くの人達が日常の中で体験し、身に付けている「何か」だと思います。云いかえれば、(A)や(B)の各々の「個(私)」の意識下に潜む<無私>のようなもの、或いは<無私>を呼び起こされる「何か」だという気がします。

 これは例えば、学校の先生が、出会いと別れをくり返す一人一人の生徒との関係においても、教師間においても、放射状に創っていけるものであり、或いは、書物の中で出会う心魅かれる登場人物、音楽・工芸作品で感受できる共感・心象風景、メディア等を契機に、見知らぬ(見えない)他者・人々と出会う際にもまた、体感・獲得できるものでもあります<幾重にも・・・累乗することが可能な重なりの(C)>。

 「個」と「個」が繋がるという二人称の間に創生される関係意識(C)は、凄まじい強度を持つ「生きる力と共生の<源泉>」に必ずや成り得る。(「部落問題を通して、人間・社会<差別>を再考する-二人称の関係・つながりを求めて-」)

片山さんの発言を再掲する。

感覚として言うと、「内包」という言葉を知っているだけで世界は明るくなります。それは言葉を呑み込んだ生が光を発し、世界を明るく照らしはじめるからです。光を放つのは、ぼくたち一人ひとりです。無数の光を反射して、透明だった世界が発色をはじめる。世界が変わるということを、ぼくはそんなふうにイメージしています。
(連続討議「歩く浄土」3『喩としての内包的親族』)

原口さんの放射状につくっていける「重なりの1」という考えと、片山さんの「光を放つのは、ぼくたち一人ひとりです。無数の光を反射して、透明だった世界が発色をはじめる」という感受性はほとんどおなじことを言っているようにみえます。
そこで次のように考えてみます。「重なりの1」を生きている者たちは相互にどういう連結をし、どういう関係をつくるのだろうか。当然起こりうる問いだ。片山さんの一人ひとりが光を放つとき、無数に光を反射して世界が発色するとき、それぞれはどう連結するのだろうか。またそれはどういう関係となってあらわれるのだろうか。

現在のこととして書かれているが、原口さんや片山さんが言おうとしていることは精神の古代形象の初源に触れるようなことだという気がする。人間の暮らしが自然的なつながりをもっていたはるかな古代から近代由来の人権が敷衍する時代を経てさらに生身の人と人工的な知の結合による合成者(ポストヒューマン)ができようとする時代まで途方もなく隔たっているようにみえるが、わたしは自他未分の渾然一体となった熱い意識のかたまりを生きていた人びとのくらしから現代までは一瞬に過ぎなかったと考えている。同一性という思考の慣性はそれほどの深度をもっていたということでもある。
こんな感じだろうか。人間の自然なつながりが臨界を超えたとき、根源の一人称は同一性のなかに無限小の根源の二人称となって相転移し、時代がどれほど変わっても変わらない証として根源一人称の熱い息吹を内挿した。同一性の祖形となる根源の一人称の斥力として同一性はさまざまな観念を形象化した。根源の一人称が人間の生命形態の自然の必然として心身一如の同一性へと遷移したとき、根源の二人称に内挿された同一性の痕跡は猛烈な斥力として同一性それ自体に作用した。かりに有史の歴史を1万年とすれば、人間の生命形態の自然が根源の一人称から身を引き剥がし知の特異点シンギュラリティまで来るのは一瞬だった。
つまりわたしは「重なりの1」や「光の発信者」の相互の連結が共同体になることはないのかと問うている。もしも信の共同性が生まれるのであれば、「重なりの1」や「光の発信者」は心がけにしかならない。「重なりの1」や「光の発信者」が同一性の形象化が必然とした観念の諸形態の軛から解かれるための条件とはなにか。

片山さんはユヴァルの共同主観的現実を共同幻想と同義のものとして使っている。<宗教の言葉も人権の言葉も、「摂取不捨」ではない。かならず取りこぼしがある。行き渡らない人たちが大勢出てくる。なぜかというと「神」にしても「自由・平等・友愛」にしても一つの共同幻想、ユヴァルのいう共同主観的現実であるからだ。死とは、そうした共同幻想や共同主観的現実から、個が孤立無援にはじき出された状態である。だから死に切迫されると、誰もが孤独に陥る>(「今日のさけび」2019.5.18)

人間がとらわれている最強のフィクション(共同主観的現実)は死である。もっといいものはないか? あると思う。ぼくはとりあえずそれを「ふたり」と呼んでいる。死よりももっといい共同主観的現実を、100年くらいかけてつくろうじゃないか。( 2019年5月21日ツイート)

人間の考えること、夢見ることが世界を変えてきた。おかげで空を飛べるようになった。世界中の人たちとつながれるようになった。人間は共同主観的現実(ユヴァル)というフィクションをつくり、それを実現するために協力し合う。いいフィクションをつくろう。いい世界を構想しよう。( 2019年5月21日ツイート)

片山さんは公式サイトの「The Road To Singularity ~未知の世界を生きる(Ep.7)」で意識の外延性のなかに意識の内包性を入れるとどうなるか問うている。心的な歴史を片山さんはつぎのように素描する。これはアルゴリズムで表現可能だ。

1.原初的な心の誕生(6~3万年前)
2.〈二分心〉の時代(約1万年前~3000年前)
3.主観的意識のある心の誕生(3000年前~)

根源の二人称を意識の外延史のなかに埋め込むとどうなるか。かれはつぎのように考えた。

1.原初的な心の誕生
2.〈二人称〉の時代
3.〈二分心〉の時代
4.主観的意識としての心の誕生

〈二人称〉の存在のありようが「1.原初的な心の誕生」「2.〈二分心〉の時代」「3.主観的意識のある心の誕生」を統覚するのであって、「〈二人称〉の時代」を同一性の派生態である思考の慣性のなかに位置づけることはできないと内包論で主張してきた。

わたしも根源の性の分有者は相互にどう連結することになるのかと考え17年前に次のように書いたことがある。

<内包存在という根源の性(根源の一人称)の一対の分有者はそれぞれが一者にして二者であり、じかに性である分有者の連結は内包自然によって内包社会としてあらわれます>(『Guan02』)

<考えることや表現するということの決定的な転回がここにある。根源の一人称が〈じぶん〉に驚き、おのずとはじけてかたちとして宿ったのがことばなのだ。ことばがすでにして同一性の彼方にあるというのはこういうことだ。自己表現ではなく、内包表現だとわたしがいうのはこの意味である。ことばというたましいのふるえが、音もなく降りつむ雪のように内包自然となってこの大地に舞い降りる。そのかたちのことを内包社会と呼ぶことにする>(同前)

共同主観的現実という虚構は共同幻想であり、内包社会も主観的に変形されただけでおなじく共同幻想である。なぜわたしは内包史を内包社会と呼んだのだろうか。ふり返って考えると、同一性的な思考の慣性によるさまざまな観念の諸形態を相転移させるためにはまだいくつかの概念が必要だった。根源の性の分有者という理念は往相の性と還相の性のふたつの素過程によって成り立っているということ。『Guan02』を書いたときにはそのことに気づいていなかった。また還相の性は実詞化も空間化もすることができないということ。そのことによって自己は還相の性を含みもつ領域となり、存在の複相性を往還することによって意識の外延的な世界は内包自然に巻き込まれ融解し、世界は領域としての自己と喩としての親族となるほかない。内包論では人間の心的領域はつぎのように定義できる。内包という心的な領域は、身体に還元される領域では心的な領域は還相の性を媒介にして一対の根源の性の分有者の関係として表現され、身体に還元できない心的な領域は、共同の幻想ではなく内包的な親族として表現される。還相の性は内面の手前にある。根源の性を分有する出来事は、内面という意識の襞に痕跡として残された根源の一人称の言祝ぎとしてあるもので、還相の性の内包的な表出がつくるものは社会でも共同性でもない。喩としての内包的な親族は良い共同主観的現実でも呪詛される狂気の共同主観的現実でもない。表現的なフィクションであって虚構ではない。ただこのふしぎは存在の複相性を往還するときおのずともたらされる。

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国家が共同幻想であることは日中-太平洋戦争期を愛国青年として生きた吉本隆明にとって錯認の源を解明せずには戦後を生きて行けない抜き差しならない絶体絶命の思想的な課題だった。親子ほどに歳の離れた吉本さんの思想に鼓舞されわたしもみずからが抱え込んだ窮迫した事態をなんとかしのいできた。共同幻想としての国家は同一性の派生態にすぎないと言いたくてたまらない。生を引き裂く固い生存の条理のただなかでつかんだ熱い自然はリアルで、吉本さんの対幻想という特殊な共同幻想という理念が窮屈でたまらず、長い間吉本隆明の思想を拡張しようと格闘してきた。なぜならば3人以上の人間の関係がつくる観念を吉本隆明が共同幻想と定義しているからだ。この定義からすれば国家という共同幻想はすぐれてモダンな意識の形態に過ぎないことになる。はるかな古代の精神現象としての共同幻想はどんな由来によって象られたことになったのか。家族が親族になり、親族が氏族にへと転化し、やがて部族と部族の連合が国家の発生を促したとしても、国家以前の性と精神の古代形象のなかに共同幻想の謎や歴史の謎が渦巻いている。わたしは吉本さんの思想をなかば拡張できたと思っている。またハイパーリアルな生存競争を強いられるわたしたちに日々にあって吉本隆明の思想が資することはもうない。あまりにも論理の筋目が粗すぎる。言葉の網の目をもっと細かくしないと、日々の生に迫ることはできない。未来を追憶する精神の古代形象のなかに観念の可能性があると思っている。

ここしばらく親鸞はなぜ有情より有縁を度すべしと言ったのか。なぜ古代の面々は禁忌を自然として受容したのか。あるいはユヴァルの「人が親交を深められる範囲は150名程度が限度であるということは、人類に関する単なる事実です」(「ナショナリズムとグローバリズム」)という発言。なぜ人間の自然なつながりは150人が限度なのだろうか。この稿で仮説を提起する。

人類の歴史のごく初期に存在の複相性が内包から外延に遷移し、その大本は同一性が必然とした形象化ではないかと考えるようになってきました。吉本さんの共同幻想論は国家や天皇制を解明しようとした極めてモダンなもので表現の網の目があまりにも粗すぎて、結局は何も言ってないに等しいのではないかと思う。唯一の成果がアフリカ的段階についての最期の考察にあるのではないか。その辺りのことをとてもおおきな存在であった井元麟之さんの考えや、その考えへの原口さんの応答から探っていく。
人類史が負荷した拘束衣を脱ぎ去ろうとして苛烈な生を生きた井元麟之さんは、部落問題の本質は、身分・不可触・賤視にあると生涯説きつづけた。イデオロギーや人権理念で部落問題を無化することができないことは井元さんにとってあまりにも自明のことだった。国家が共同幻想であるように部落が共同幻想の遺制として存在していると指摘しても部落が無化されることはない。初期の人類が核家族から親族、親族から氏族へと拡張と遷移を遂げたとき、自他未分の渾然一体となった熱い意識のかたまりは心身一如を根拠とする同一性的な意識の外延性へ変異し、その反力で融即した根源の一人称は、無限にちいさな根源の二人称として主観的な意識の襞のなかに埋め込まれた。還相の性が内包自然のなかに無限小のものとして縮退した斥力として外在的な文明史が重畳されたといってもいい。
夢野久作の長男杉山龍丸は「故に私は、カースト問題は、人類のもっている文明の中から生まれた現象なのであって、文明そのものを是正せぬ限り具体策は生まれないと考えています」(多田茂治『夢野一族』)杉山龍丸とおなじ思念を生涯当事者として井元麟之さんは生きた。その要となる発言を原口佐賀論考から孫引きしここに貼りつける。

ex3)(1976年、井元麟之:「部落差別意識の本質について(上)(抜粋)-3.政治起源説の真相 4.タブーと差別意識 5.古代身分との関わり―」)
 「部落差別の起源につきましては、・・・徳川時代の特に中期以後に、幕藩体制が政策的に、百姓町人の上に対する反抗を下にそらすためにエタ・非人というものを、階級分裂政策として制度的につくったものである、と解されているようであります。・・そこから出される部落差別の本質は「封建的身分の遺制」、「半封建的身分制」である。・・・戦後の日本は民主主義が進められ、現神(あらひとがみ)の天皇も象徴天皇に変わり、・・士族・平民という族称も消滅し・・、封建的身分性が解消していく中で、部落差別もなくなってゆく筈である。・・ブルジョア・デモクラシーの範疇で解決できる問題である。ところが…上層身分は縮小・解消されましたが、部落問題は依然として解決されない。・・・・・・  (略)
 部落の起源につきましては、昭和初期の頃ですが、朝田善之助さんや故泉野利喜蔵さんや私ら、当時の全国水平社総本部の常任で討議をし、・・宗教や人種起源説は荒唐無稽とし、喜田貞吉博士の職業起源説を一番高く評価しておりました。・・これを評価しつつも、その職業そのものを規定する、もう一つ前の時代的段階があった筈で、それは政治関係以外の何ものでもない。その職業起源説の前段階を指して「政治起源説」と言っていたのであります。
 ところが戦後、部落問題が社会問題として重視され、同和教育が高まる中で、かつて全国水平社が主張した「政治起源説」が、いつの間にか徳川幕藩体制を維持するために部落差別がつくられたという説を指した名称として使用されているようでありますが、それは非常な曲解と云わねばなりません。・・・・   (略)         
 私の尊敬する或る先輩は、「部落差別意識の中核はタブー観である」と断じております。私も全くそのとおりであると過去四十年以上も前から、その説を信念として持ち続けて参りました。・・タブー、入会権、仏典中の旃陀(せんだ)羅(ら)に関する問題を全国水平社に導入したのは私でありましたが、「タブー」というのは・・世界語であり「禁忌」と訳されております。「不可触―さわるべからず―アンタッチャブル」という意味も持っており、「浄」と「不浄」、「神聖」と「穢れ」という全く両極端の、相反する両面的な性質を兼ね合いで持っているのであります。・・・・(略)
 タブーというものは、・・東洋や世界各地の未開人の間にだけ存在する特有の、おそらく原始時代の遺物でありましょう。その共通する性格は「スベカラズ」が特色、建前であり、一口で申しますと「未開人的原始宗教の頑迷固陋な迷信的諸要素の結晶」ということになりましょう。しかもここで最も重要なことは、わが国における「タブー」が日本神道そのものであるという事実で、タブーと、それに伴うシャーマニズムを除外しては日本神道は在り得ないのであります。・・・・・・・(略)

 歴史的な経過の中で見落とすことのできないのは、「大化の改新」(六四五年)であります。部落問題は少なくとも大化の改新まで、さかのぼって見なければ真実がつかめないと言われているとおり・・・・・・中央集権つまり天皇を中心とする朝廷の下に一切の支配権力を集中する政治的変革が行われた。・・ここで私らが最も関心を持つのは、貴族・良民・賤民制度の確立という点であります。特に賤民は、官戸・陵戸・家人(やけびと)・公奴婢・私奴婢、これを「五色の賤」と申し・・・・良民と賤民の中間に準賤民ともいうべき品部(ともべ)と雑(ざ)戸(こ)があり、良民との結婚は許されないのです。・・・・・
 昨年福岡県下の隣保館長と一緒に奈良の大仏殿に行きました。一体この巨大な大仏や、世界最大と云われる大仏殿はだれが造ったのでしょう。それは血統的には全く違いましょうが、社会史的には部落の源流と云われる品部(ともべ)や雑(ざ)戸(こ)が中心になり、無数の奴隷の地と涙と汗によって造られたものです。・・人類の宝とまで云われる正倉院の御物(ぎょぶつ)にしても、外国伝来の物は別として、その他の一切の品々は、決して貴族ではなく、社会(・・)史的(・・)にわれわれの先祖(血統的な意味ではなく社会史的系譜の上で源流である)と云われる当時の品部(ともべ)や雑(ざ)戸(こ)の手によって作られたに相違ないでしょう。日本の文化を創造し、担い支えてきたのも、やはり品部や雑戸および賤民に外ならないのです。
<出典:井元麟之 1977年、『部落解放史ふくおか 第7号』>

井元麟之さんが生涯主張して譲らなかった人類史的なスケールをもつ、〈身分・不可触・賤視〉という人間がつくった巨大な思考の慣性をひらくことができるか。わたしは人びとが知ることのないまったく未知の思想によってひらくことができると思う。

原口さんは井元さんの思想を承けてつぎのように自身の考えを展開する。

 古代或いは人類の発生以来、数千数万年の時間の幅で、親密かつ愛し合い、扶助し与え合う二人の関係の場においては、<差別>は起こらず無化していた。歴史として抜き出し、記述された「時代」スパンの中では、まさに国家、民族、宗教・、法制度・・・・等の三人称規範(共同幻想)が圧倒的に世界と人間を支配・統括し、長い年月の戦争や殺戮がくり返されてきたにも拘わらず、記されないけれども無数に存在した小さな二人称(対・ペア)の関係世界は、人々の中で間違いなく大切に息づいてきた。身分や貧富、階層序列に関わらず、です。だからこそ、人間が今日まで滅亡することなく、その生命がなお持続されていることは、誰もが認める大きな人類的「価値」、「共有財産」なのだと考え直すことができる。
 換言すれば、例え一対のペアであれ、自・他(AとB)を結び合わせ、豊かに新たまった関係意識(C)は、拡げれば自己を起点に放射状に、無数に産み出すことも可能となるし(重なりのC)、それを三人称の方ではなく、一人称=自己・個人の方へ向けて自己・個人概念を改変し、大きな拡張を図ろうとする試みだとも言えます(新たで根源的な一人称<I>)。
 更にこの視点で見れば、三人称規範は「社会」のみならず、共同性や共同観念を持つあらゆる小規模の「集団、集合体(共同体)」を射程に入れて、その内部構造や力関係、内部に生まれる序列や禁忌、親和と排除等の内・外関係(共同体意識・観念の様相含む)にまで目を向けることも可能にします。
「市民」や「社会」、「国家」、「制度」対「個人」の近代概念だけでは網の目が広すぎ、特に部落問題や部落差別を歴史的に考える際には、このように時間軸を長く取って検討できる観点(例えば、「個」と「社会」の狭間にある「対」や「共同性」の歴史的な展開等・・・)がもっと重視されるべきではないかと思うのです。
(原口孝博「部落問題を通して、人間・社会<差別>を再考する-二人称の関係・つながりを求めて-」佐賀部落解放研究所総会講演:2018年6月22日)

原口さんは井元さんが追及した生涯の主題を自身の言葉でねじ伏せようと懸命に思考を繰り出している。かれもまた共同幻想のない世界を倦まず追い求めているからだ。おそらくマリノウスキーが抱きつづけた「家族の型はなにゆえずっと持続してゆくのであろうか」という問いは永生の観念やトーテミズムでは解けない。意識の外延的な解釈のモデルとしての意味しかないように思えてならない。氏族制以前に〈身分・不可触・賤視〉という観念を可能とする人間の関係のあり方が存在したのではないかと思う。一世代ごとの内包が親族の展開のなかで外延化されトーテミズムという意識の表象態をつくってきた。その残滓から人間の存在の原型を措定することはできない。

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マリノウスキーの没後に編纂された『性・家族・社会』第六章で親族関係の第1段階とはなんだろうかと問うている。集団婚や乱婚、総じて原始共産制の批判を念頭に、くり返しこの問いがあらわれる。エマニュエル・トッドの人類の初期は核家族であったという発見まであと一歩というところにマリノウスキーは来ている。マリノウスキーは集団婚や乱婚が人類の初期に母系制や父系性の源になったという人類学者たちの考えを徹底して批判する。子供は親族の意味を父と母を中心につくるのか。それとも集団的な家族によって形成されるのか。まだある。家族の絆の粘り強さはどの時点から希薄になっていくのか。かれの考えの確信をなす重要だと思えるところをいくつか引用する。

①・・・家族の型はなにゆえずっと持続してゆくのであろうか。家族の型は、その名称だけでなく法的な虚構のなかに、トーテム伝統のかたちで、さらにはさまざまな規則の特質のなかに、なぜ持続するのであろうか。部族レベルでの親族関係は、家族のレベルでのそれとは決して同じではないことをもちろん忘れてはならない。絆が拡がってゆくにつれて、もともとの家族の特性はそのほかの要素によってだんだんと希薄になり、弱まってくる。部族レベルでの親族関係は、ほんものの家族の絆とはかすかな類似性しかもたぬものであり、それも時として比喩的な類似性しかもちあわせていない。しかし部族レベルの親族関係といっても家族の絆の影響下にあり、あくまで家族レベルの親族関係の拡張であることにまちがいないのである。
 この拡張をもたらす原動力は家族の絆の途方もない強さである。幼児期の家族の体験がその後のあらゆる社会関係に及ぼす影響力は、最近まで十分には評価されることのなかった普遍的事実といってよい。誇張された主張と夢想的な歪曲にもかかわらず、精神分析の著作家たちは、家族の感情が社会のなかにいかにひろく充満し、父が示す権威と母のやさしさの名残りが、その後の人生におけるきわめて多くの関係性にどのように入り込んでくるかを明らかにした。
 あらゆる社会関係が直接かつ個人的である未開の小社会では、協働とはすべて実際の接触によるものであり、連帯と代行はつね日頃互いに接触のある人びとの集団のなかでしか作用しない。そうした小社会では、家族という型式は、家族より規模の大きい組織にずっと実際的に、また自由に適応できる。あらゆる拡張の場合、旧い絆と義務を母胎として新たな絆がつくり出される。その結果、ある程度までは新しさも旧い絆と義務のイメージにそっている。単系の原理は家族の形式を父方か母方の一方のみに逼って拡張してゆくが、氏族の場合はその支配力はさらに集中的である。しかしその反面、単糸の原理は関係性の全体-氏族間の関係性-を束縛から解き放つ。 親族関係が拡張してゆくと氏族関係が生み出されることになる。親族集団内部の関係と集団間の関係という二面的な性を特徴とする氏族の体系は、家族という親族関係をより広い行動の領域に駆りたて、単系的な原理にもとづく大きな社会的拡がりのなかに押し出してゆく力が生みだす自然の帰結といってよい。

②氏族とは、両親のうちの一方を軸とする家族関係をもとにして発生する。それは両親のいずれか一方だけに生殖上の繋りを確定し、同族の一方にのみ法的な連帯を与えることによってできあがる。そしてしばしばその過程には、法的な虚構や言語的なメタファーをともなう。
 しかしながら氏族は家族とは異なる。氏族の絆は家族の絆とは本質的に異なり、またその構造もちがう。(中略)このことから親族関係をもっとも広く拡張した範囲に相当するのは部族であることが了解される。すなわち部族とは、複数の氏族が関係しあう体系の全体か、さもなくば、そうした氏族どうしの体系の一部といってよいのである。
 「類別的体系とは氏族という社会体系の産物であり、それに対してわれわれの親族体系は、家族という社会制度の所産である」と断定することは、安易に陥りやすく、かつ危険な過ちといってよい。そして「われわれの社会では(基本的な)社会単位は家族であり」「洗練されぬ文化をもつ人びとの社会では、氏族ないしその他の外婚集団が社会組織の基本単位である」といってしまうことも誤りである。このような見方は、氏族とは家庭的な制度であり、集団婚のためという特定の目的から生ずるというモーガンの誤った見解をひき継いでいるのである。それはまた、「氏族は家族と同様に生殖を行う集団である」という章句にまたよく示されるような錯誤なのである。こうしたことのすべてはくり返しあらわれる誤りの源といってよく、誤った見方によって、氏族は独立し、自足した親族の単位であると誤解される。しかしながら氏族とは基本的には同じような性格をもつほかの集団とも関連する集団であり、かつまたほかの集団の存在に依存する集団といってよい。さまざまな集団が相互に連関する氏族の体系も、そのもっとも純粋な形式に還元すると、二つの氏族から構成されていることがわかる。それは決して一つの氏族が体系をなしているのではない。家族に対応するのは氏族の複合体系であって、その複合体が自足した独立の親族単位集団なのである。実際に氏族が、両親の双方の側に拡張された家族の親族関係の全体と重なり合うことは決してありえない。氏族は家族関係の一方のみとしか関わらないのである。

家族はなぜずっと持続するのかとマリノウスキーはしつこく考えている。存在の複相性をマリノウスキーは知らなかったから内包が外延化した家族や親族の規範を後追いしながら持続の根拠を求めている。いつの時代も歴史の段階に関係なく、家族という内包自然は一世代ごとに外延自然へと繰り越されていく。この内包と外延はマトリョーシカ人形のように入れ子になっている。その全体を文化人類学の方法論でつかむことは先験的にできない。むろんそのことをかれらが知ることはない。マリノウスキーの永生の観念を承けて吉本隆明はつぎのように発言する。

身分の差別について原住民は以上のように説明する。不潔な食物を食べたことが-これが社会的優劣をきめるもっとも重要な基準なのだ-ルクバの没落とマラシの勃興の原因であった。しかし忘れてならぬのはマラシにはタパルという最高の身分の亜氏族のほかに、プワイタル村に非常に軽蔑されている亜氏族があるということだ。どんなつまらぬルクバ氏族のものでもブワイタル村のマラシ氏族のものとは結婚しないだろう。またタパル亜氏族はその村の人とは親戚だなどと口にしないだろう。(マリノウスキー『未開人の性生活』泉靖「蒲生正男・島澄訳)

 ここにはいわゆる「部落」問題のさまざまの原型が複合して存在する。現代のわたしたちが社会的な問題とはなっても政治的な問題とはなしにくいこと、社会的な問題となしえてもたかだか地域社会的な問題としかなしえないこと、政治的な課題のなかにいやおうなく割り込んでくる宗教的な禁忌の感性が存在しうること、等々の問題の起源が氏族制度にいたるまでの原始的共同体の存在の仕方にあることを語っている。
トーテミズムが未開的な思考における〈穢汚〉と〈清祓〉の観念もまた、永生的な観念、いいかえれば個々の具体的な身体の生死を超えて生命原理は永続するという観念に根拠をおいている。この観念が、親族体系とその予想を超えた展開である氏族制度と結びついたところで、いうところの「身分の差別」なる観念が発生する。いわば人間のつくる自然的制度、自然的共同体の最後の段階である氏族制にいたるまでに、この観念は完成され、それ以後はなぜ消滅しないかの問題だけが本質的であることをマリノウスキーの文章は自ら語っている。氏族制度以後においては、問題はその時々の支配勢力による制度的な補強、利用強化の問題であって「身分の差別」そのものの本質はただ消滅の方向を決定されているだけである。
 近時〈部落〉問題なるものを政治的にあるいは社会的にとりあげる論議は、いうところの〈部落〉差別の根拠を古代国家から近世国家にいたるまでの身分へ制度)に根源をもとめている。ことに近世における〈身分〉の全社会的な固定化が目論まれた時期にもとめている。だがこのような論議は〈部落〉の政治的な制度化、社会的な制度化の権力による政策をもとめているだけで〈部落〉発生の起源そのものをもとめていることにはならない。〈部落〉問題の本質はもちろん自然的制度、氏族制までに自然と観念の矛盾を婚姻の自然性と近親相姦の禁忌との矛盾を、またい いかえれば人間の〈死〉と観念の〈永生〉との矛盾を〈身分〉として混合し疎外せざるをえなかったところにもとめるべきものである。強化と固定化と制度化とは、いわばその偶然の必然化の一種たるにすぎない。問題を無媒介に政治化しようとするときに〈部落〉もまた固定の政治化をうけることは本質上自明のことに属している。

身分はトーテミズム的性質をもつ明確な世襲的集団に固定している。この集団はさきに亜氏族とよんだものである。各亜氏族は明確な身分をもち、あるものよりは劣っているか、あるものよりは高いことを主張する。

亜氏族の起源に関する神話には、常に女性の始祖が男性(つまりその兄弟)とともに出現するし、それどころか、女性のみが始祖となっている神話すらある。(マリノウスキー『未開人の性生活』泉・蒲生・島訳)

〈身分〉が親族集団やここでいわれている「亜氏族」へ附着する理由は、婚姻制と婚姻外の要因のふたつにわけられる。血縁上の近親あるいは兄弟姉妹であるがために、あるいは呼称上の近親であるがために婚姻が禁忌である親族集団や「亜氏族」は相互に禁忌を固定化したり強化したりするために〈身分〉の概念を導入することがありうるにちがいない。もうひとつの原因はここで「トーテミズム的性質」とか「世襲的集団」とかいわれている〈永続〉の概念である。なぜならば同一の生命原理の〈永続〉という概念を最初に切断するものは族外的な婚姻にはかならないといえるだろうから。このことは同時にこの〈永続〉する生命原理という概念の固定化のためには女系をたどるよりほかないという原理をも帰着させる。ある社会が母系的であるか父系的であるかはまったく偶然の要因に左右されるものでそのような定立自体が無意味であるということはできる。けれども生命原理の〈永続〉性という観念が支配したある時間帯で人類がとった普遍性であるとみることは不当ではない。いいかえれば母系制であるか父系制であるかは婚姻の制度に基づく男女の原理ではなくて生命原理の〈永続〉制の問題である。(吉本隆明『情況へ』所収「情況への発言」一九七九年一月)

マリノウスキーの発言を下敷きにして吉本隆明が「〈部落〉」問題の起源だと考えたことは次のことだ。「いわば人間のつくる自然的制度、自然的共同体の最後の段階である氏族制にいたるまでに、この観念は完成され、それ以後はなぜ消滅しないかの問題だけが本質的であることをマリノウスキーの文章は自ら語っている」「〈部落〉問題の本質はもちろん自然的制度、氏族制までに自然と観念の矛盾を婚姻の自然性と近親相姦の禁忌との矛盾を、またい いかえれば人間の〈死〉と観念の〈永生〉との矛盾を〈身分〉として混合し疎外せざるをえなかったところにもとめるべきものである。強化と固定化と制度化とは、いわばその偶然の必然化の一種たるにすぎない」。
家族が親族へと拡大され、人間のつくる自然的共同体の最後の段階である氏族制に至るまでに〈身分〉は完成され、それ以降はなぜ消滅しないのかだけが本質的であると吉本隆明は言う。なぜ消滅しないのか、とわたしは追尋する。近い将来ゲノム編集によって遺伝子的カーストが出現するのは確実なことだと思える。また問う。それはなぜだ。
人間が自然な制度として受容し、名づけた身分の違いが、その矛盾が強化と固定化と制度化の混合として疎外されたのはなぜか。さらに偶然の必然のようにあらわれるのはなぜか。これらすべての問いにマリノウスキーも吉本隆明も答えていないし、答えない。もっと包括的に言うこともできる。文明の外在史と精神の内在史という同一性から派生した思考の慣性で根源的な問いを解くことはできない。かれらはそのことを考えたこともない。
晴れ時々曇り所によっては一時雨と言えば当たり外れがないように、特に変わり映えのしない日々が続き、たまに嬉しいことがあり、なにかのきっかけで友人や知人や隣人を恣意的な大義を担いで排撃し、殺戮することもある。その全体を人間の自然だとすると、人間は歴史に意志を関与させることはできない。つまり適者生存は生の原理であり、この世のしくみは変わらないことになる。はたしてそうだろうかと井元さんも原口さんもわたしも考えに考えた。縁にすぎないがあきらめるには重すぎる生存の感覚が生のど真ん中を貫いている。

わたしはマリノウスキーの考えも吉本隆明のマリノウスキー理解も井元さんの肺腑をえぐった〈身分・不可触・賤視〉の深度をかすりもしていないと思う。人類学者たちの生態観察の俯瞰視線はそれ自体が外延権力であり、たんなる解釈のための説明にすぎない。わたしたちは同一性の形象化が粗視化した観念の諸形態をみているだけなのだ。
家族から親族、親族から氏族、氏族から部族への拡張と変遷の長い歴史の過程を逆にたどると歴史の初源に見いだされるものが核家族であるという逆説。親族の自然的共同体が氏族制へと編成されたとき、禁忌を自然とする身分の差別についての観念ができたとする。むろん観念の背後で同一性が起動していることはいうまでもない。いったいこのときなにが起こったのだろうか。

家族が親族へ、親族が氏族へ、血縁関係を拡大して部族連合から国家が誕生するしくみを吉本隆明は共同幻想論として独創しました。画期的な思想だったと思います。部落解放運動の内部での絶対的な孤立と凄惨な戦争を長い間一人で担いました。わたしの生存感覚を貫通した生の体験の半分は今もそこにあります。そのことを生を引き裂く固い生存の条理と名づけている。国家が発生するには自己と共同性を媒介する特殊な共同幻想が必要だと吉本隆明は考えた。その特殊な共同幻想を対幻想と吉本隆明は名づけた。そして太古の面々が氏族共同体から部族共同体に至るには観念の飛躍が必要です。そのためには近親相姦がなぜ禁止されたのかその謎をほどかないといけないのです。現に近親相姦は世の大勢ではありません。また国家は現存します。しかし理念としていえば、血縁集団を拡大したら氏族共同体まではつくれるのですが、氏族制が血縁集団であるかぎり、統一国家あるいは統一社会となりえないわけです。氏族制が部族制へと転化するには断層というか裂け目があります。近親相姦の禁止という一理があれば国家は誕生します。共同幻想の彼方に行くには近親相姦の禁止の謎を解き明かし、それを梃子にして共同幻想を経ない世界がつくれるのではないか、わたしが考えたのはおおまかにはそういうことです。

国家形成のターニングポイントを吉本隆明はヘーゲルにもとめました(嘘だと思う人は「世界の大思想1ヘーゲル」樫山欽四郎訳『精神現象学』264頁下段及び265頁の下段を見てください。あらま、書いてあります)。例の兄弟と姉妹のあいだのセックスをともなわない性的親和感です。これでいける、と吉本隆明は考えた。ここを認めてしまうと共同幻想の国家への転化は不可避です。じつにうまく説明できる、そう吉本隆明は考えたに違いありません。そのうえで吉本隆明はあらゆる共同幻想の消滅を唱えます。ぼくは共同幻想の彼方を構想してきました。吉本隆明の国家論を認めることはぼくのモチーフに反するのです。自己幻想を梃子にして共同幻想の消滅を遠望することと、内包存在を分有することで共同幻想の彼方を構想することはまったく異なる概念です。延々とそこを考えました。じつは共同幻想の彼方は自己同一性の手前にありました。

吉本隆明の家族についての理解はネガティブです。個人は性の世界では全人格的にではなく部分的にしか登場できない。かれにとっては対幻想は特殊な共同幻想だからです。わたしは吉本隆明とまったく逆のことを考えました。個人は性の世界のなかでだけ全人格的に登場できる。内包論ではそうなります。

吉本隆明は「バタイユ論」で近親相姦の禁止について次のように言っている。氏族制の拡大にともなって、上位共同体からの圧迫は家族を崩壊の危機に陥れたのだろうか。『言語にとって美とはなにか』の自己表出の孤独性のような感性の基盤から、それが吉本隆明の生の原質かもしれないが、家族が自滅しないために近親相姦を禁止したとりくつをつける。なにか暗くて苦しい。わたしには自己同一性という表現の暗黙の公理を前提とするかぎり、他者を自己の生存の手段にする私性があるかぎり、可能性として国家はいつでも誕生すると思う。

 〈氏族〉共同体からの個々の〈家族〉共同体の脱落、孤立、内閉こそが、〈氏族〉の〈部族〉への飛躍と、〈近親相姦〉の〈禁止〉を促した、とわたしにはおもわれる。なぜならば〈家族〉共同体の、上位共同体からの孤立は、いわば、意識的に〈性〉的な対象としての〈近親〉の異性を、改めて見直す必然性を与えたし、この必然性に素直に(自然に)従えば、〈家族〉共同体は、崩壊の危機に見舞われただろうからである。ところで、〈家族〉共同体の崩壊とは、そのメンバーが解体して個々別々に流浪することでもなければ、〈氏族〉共同体の直接のメンバーに転化することでもない。〈家族〉共同体の内部で自閉した対(ペア)に分裂することであり、それ以外の現実的な行き場所はないのである。つまり、〈家族〉の〈自滅〉そのものであり、どこにも、転化の契機をもたないのである。これを免れるためには〈近親相姦〉を自ら〈禁止〉するほかはない。(『書物の解体学』所収「ジョルジュ・バタイユ」)

脱落・孤立・内閉の反力として氏族制は部族制への飛躍と近親婚の禁止をもたらしたと吉本は考えているがどこか大家族制の残滓が引きずられていて、結果から特定の原因が探られているような不自然さをともなう。たとえば、最初の性的な拘束が同性であった心性を吉本が「女性」と定義するとき、あるいは、「あらゆる排除をほどこしたあとで〈性〉的対象を自己幻想に選ぶか、共同幻想にえらぶものをさして〈女性〉の本質とよぶ」(『共同幻想論』)と規定する異様な感じはどこから由来するのか。同一性的な思考をひらくことなしに吉本隆明による女性の本質規定のひずみが緩みやわらかくなることはない。
『Guan02』で書いたことを少し貼りつける。同一性という意識の結び目をほどくと内包があらわれるということを書いています。禁止は侵犯されますが、この思考の型を同一性が可能とする。同一性によって可能となった自然が刻んだ差異を観念が受容するしかたが同一性によって担保されているからです。マリノウスキーの未開人の性の観察も、禁忌を自然として受容したという吉本隆明の「部落」問題の本質論も同一性と差異性という認識を統覚する外延自然の公理によって宙に吊られている。意識を逆向きに求心し、内包自然という大地の上で外延自然の結び目をほどこうではないかとずいぶん昔に呼びかけた。ひとりでも声は届いただろうか。

 <性は、ぼくたちの知っている(自己意識の用語法による)男性や女性という名付けと相関はしますが、男や女という言葉によっては言い表しえない何かのように思います。吉本の性についての言説はいつもこの矛盾をあいまいなままやりすごしています。内包存在はそれ自身の内部に禁止や忌避という観念を、つまり倫理をもちません。だからそこには侵犯という観念もありません。内包存在は自意識と異なるしくみをもっています。そのことはとりもなおさず〈根源の性〉という出来事において意識=存在という対称性が破れていることを意味しており、言い換えれば、内包存在がそれ自体のなかに対自―対他構造をもたないということであり、そのためにそこには対自―対他意識のあらわれである禁止と侵犯が存在しないのです。

 しかし内包存在は分有することでしか個体化されません。比喩としていえば、内包存在という手足が8本の存在は4本ずつの存在に分節されることで、個体となるのです。そうやって個体としてあらわれた人が、同じように分節された他の一人と向き合ってつくる磁場をぼくたちは事後的に「性」(対幻想)と呼んでいるのです。灼熱の光球であり、混沌としたエネルギーの塊は、喰い、寝て、念ずるひとびとの生活の知恵として秩序(安定)をめざしました。荒々しい驚異の湧出が狂おしさのあまり我が身を焼き尽くさないように、太古の面々は生存を維持しようとしてあるかたちに就くほかなかったのだと思います。それが家族だとぼくは考えます。つまり〈根源の性〉は、おのずと「性」と「家族」とを表現したことになるのです。

 ぼくたちはここで家族という秩序を維持するために近親婚の禁止が導かれたと錯覚します。そうではないと思います。逆に、〈根源の性〉が家族に投射され痕跡として焼きつけられたことのゆらぎだと考えるべきです。〈根源の性〉はわたしたちの知る「性」と、性が営む「家族」に分節されたのですが、家族のなかに、倫理をもたない〈根源の性〉がおだやかなかたちで生きながらえたのではないでしょうか。対の内包には禁止や侵犯という概念はありません。その状態を同一性原理が禁止や侵犯と読み込んだわけです。近親婚がないということを自己意識の思考の習慣が「禁止されている」と認識するのです。むしろ近親婚の禁止という観念は、時代をはるかにくだった歴史の詐術だと考えたほうがいいように思います。自己意識のはじまりを宇宙に投影するとビックバンモデルが考案され、自己意識のきりのなさが宇宙の果てのなさに写像されるように、近親相姦タブーの謎は同一性の謎に重なり、同一性に由来します。

 ほんとうは同一性という意識の結び目こそがほどかれるべきことなのです。ぼくはそのように考えます。未開の種族が近親婚を禁止し、侵犯したものに咎を科すとします。掟破りの咎がどのようなものであるかは、〈根源の性〉の痕跡の度合いに比例していると考えられます。痕跡が強ければ、禁圧は強く、痕跡がかすかなら禁圧が弱く、というようにぼくたちには映ると思えます。事実ぼくたちがつくり叙述した歴史はそういうものです。ひとびとは、ある事態をまったく逆向きに見て解釈の体系をこしらえてきたのです。文化人類学の知見は眉唾ものと考えた方がいいように思います。ぼくの考えはそれらのことごとくと対立し、対立を包括し、ひとの関係のありようについてまったく新しい地平を切り拓くことになると思います。なんとなれば共同幻想の彼方をわたしたちは意欲しているのですから。

 ありえたけれどもなかったものの未遂は、ないものをあるかのようにかたどったのです。ないものをあるかのように錯覚したとき、禁止と侵犯という規範が息づいてくるのです。禁止されるから、近親相姦を忌避するのではありません。血縁のしくみを維持するために近親相姦を禁圧したのでもありません。〈根源の性〉というひとつながりの全体をなす内包存在にもともと禁止という倫理はないのです。つまり近親相姦の禁止という観念が自己同一性を前提としているにもかかわらず、同一性の彼方の〈根源の性〉を記述しようとして、ひとびとは近親姦が禁止されていると理解したのです。ただそれだけのことで意識の外延性の詐術にすぎません。モルガンの『古代社会』はいうにおよばずモースの『贈与論』やレヴィ=ストロースの諸著作も外延的な表現の表徴なのです>

    6

<内包的な贈与が自然であった歴史の時代はなぜ共同体間の交換へと変質し、この交換を貨幣が代理することになったのか。だれも解いていないから解けないということはない。貨幣の謎を解く表現をつくればいい。トッドは言う。歴史の時間の最も深い奥底において、われわれは単に現在に再会することになるのだ。もう未開から漸次解明へと進化する構造主義的な思考から決別しようではないか。「あの本(『家族システムの起源』)は、純粋に歴史人類学の研究書です。この本の基本的な命題は、核家族というのが原始的な家族の形だということです。あらゆる共同体的モデルの複雑な家族システム、中国タイプであれ、ロシアタイプであれ、あるいはいとこ同士の結婚を認めるもっと複雑なタイプであれ、それらは、かつて家族の形としては遅れたタイプと見られていました。しかし、私はそれに対して『ノン』と言ったわけです。そうした形こそ、歴史を経て形作られてきたものなのです。最も自然な家族の形は核家族なのです。これは、歴史を理解する上で重要な結論をもたらします」(エマニュエル・トッド『グローバリズム以後』)「現地バンドは、核家族なり独身の個人がいったん所属したらそれっきりというような、凝固した構造物ではない。息子ならびにその配偶者と子供を自動的に成員と定義する父方居住原則によって構造化されているわけでも、娘ならびにその夫と子供を成員として指名する母方居住原則によって構造化されているわけでもない、原初的現地バンドは、加入に関しては、選択と柔軟性を特徴とする。それこそがシステムの『未分化性』もしくは『双方性』の基本的な論理的帰結に他ならない。若い夫婦は、夫の家族の集団に加わることもできれば、妻の家族の集団に加わることもできる。選択の可能性があるということは、その見直しの可能性にも道を開く。選択の当然の帰結とは、柔軟性にほかならない。これこそが未分化の〔無差別化された〕システムの主要な様相の一つであり、父系であれ母系であれ、単系のシステムというものの硬直性と対照的な点なのである。家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的なものとは見えない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的逆説なのである。逆に、かつてはヨーロッパの人類学から古代的なものと見なされていた形態(不可分の大家族、直系家族)の方が、歴史の中で構築されたものとして立ち現われることになるだろうし、いかなる場合にも、原初性の残滓として立ち現われることはないだろう。一夫多妻制や一妻多夫制も、起源において支配的であった一夫一婦制からずっと後の発明物として現われることになろう」(『家族システムの起源』)

エマニュエル・トッドの、人類の初期、家族の原型は核家族であったという発見には驚いた。歴史のもっとも奥深い奥底にある家族の原型をたどるわれわれは単に現在と出会うことになるという見解も面白い。わたしたちの思考の自然が慣性にすぎないことを思い知らされる。トッドの書誌学的な発見を内包論の表現の言葉に置きかえてみる。悠遠の太古を歌い踊った陽気な面々がわたしのなかの原風景としてある。楽しい空想だ。「はじまりの不明のはじまり。食と性が分有されていたということ。深雪の凍原で一緒に暖をとり、おおきな葉っぱで一緒に雨をしのぎ、はじめて手にしたひとつの果実を怖れおののきながら一緒に食べ、いつも一緒、どこでも一緒。この驚異のなかで初源の意識が内包的に表出された。ここに意識の起源があり、ここに表現としての精神の古代形象のはじまりがある」(『喩としての内包的な親族』連続討議「歩く浄土」第四回あとがき)あるいは谷川俊太郎が「まわらぬ舌で初めてあなたが『ふたり』と数えたとき/私はもうあなたの夢の中に立っていた」と詩を書くとき、この機微を合理や理性は説明することはできない。手のひらの上にそれ自体を取りだすこともできない。それにもかかわずこの心性は実在する。この実在は同一性の手前にある。合理や理性で指さすことはできないが、いつもわたしたちがその上に立っているシンプルな情動。それを内包と呼んでみる。たおやかな道理はだれの、どんな生のなかにも内面よりはるかに深く根ざしている>(「歩く浄土187」)

笠井潔の「わたしみ」は吉本隆明の自己幻想、「むきあい」は対幻想、「ならびみ」は共同幻想に対応している。30年ほど前に笠井の『外部の思考』の感想を書いたことがあるが、どこか消化不良でうまく言えていない感じが残った。笠井は「むきあい」は元来非対称的な関係であると考える。むきあいの非対称性は観念の「ならびみ」に観念を疎外し、その反力として「わたしみ」は底の抜けた実存、空っぽの自己となる。笠井はそういうことをいっている。「むきあい」はそれ自体に必然的な挫折をはらんでいるというのだ。
「むきあい」が元来非対称的なもので必然的に挫折をはらんでいるという笠井の考えは、なるほどそうね、と思わせる通俗性がある。「むきあい」を同一性に監禁された生からみると、そうなるのはけだし必然で、だれもが身につまされる。バランスのとれたカロリー制限食やケガを消毒するのがうそであるように笠井の考えは通俗的な虚偽だと思う。あらためて笠井の主張の核心部分を要約する。

①「〈むきあい〉において見る経験から〈ならびみ〉と〈わたしみ〉が同時に、しかも茎から双葉の芽が分かれるようにして派生する」
②「〈むきあい〉において不可解で異様なもの、一人称的な私を根底から脅かす二人称的な他者の深淵に直面した私は、そのような外部、そのような他者を理解可能なものに置き換えてしまわなければならない。自己崩壊を避けるため、自己保身的に外部を隠蔽するために。だから人間において本源的な経験である〈むきあい〉は、それ自体に必然的な挫折をはらんでいます」。
③「〈ならびみ〉において他者なる謎に直面し戦慄している私は、もはや自己循環的で自己同一的な私ではありえない。譬たとえていえば底の抜けた実存、主体ならざる無底性としての実存となる。

①の、〈むきあい〉という茎から〈ならびみ〉と〈わたしみ〉が同時に派生するという考えは頷ける。その〈むきあい〉の世界は必然的に挫折するということになるらしい。その斥力で実存はがらんどうになり、〈ならびみ〉という観念の超越的三人称の世界に向かうと笠井は考えた。あさはかだと思う。
なぜ〈むきあい〉が破綻するのか。同一性が関係を引き裂くのだ。意識の外延性で〔性〕がつながることがないのは体験知としてだれもがそこを生きている。けっして互いの心がけが悪いわけではない。
ヒトという生命形態は性に内在する自然によって人となるのであって、自己が他者と関係して性になるのではない。この内包原理が存しないならば母子の〈むきあい〉が生まれることもまたない。それがあることによって人が人となった性という根源が共軛的にくびれて自己の自己性が生じたのである。このとき自己の自己性は渾然一体となって他者をふくみもっていることになる。自己の陶冶と他者への配慮はべつものではなく楕円体のように領域として存在している。根源の性を分有するとはそういうことなのだ。

男にとって女が、女にとって男が非対称的なものとしてあらわれるのは性差の故ではなく、ほかならぬこの〈わたし〉を男や女とみなす意識の同一性が、自体に対して非対称的であるからにほかならない。ほんとうは私たちはここでとんでもないことにぶちあたっているのだ。あるものがそのものに等しいという自己相等の原理は、つねに対称性の破れを内包している。ひとのふるまいにとって、あるものがそのものに相等しいことはありえない。あるものは、つねに、そのものをはみだし、そのものはあるものを覆うように関係する。笠井潔がいうように「むきあい」にある男女はたしかにたがいに非対称的なものであるかのようにあらわれる。それは実感にかなっている。そして「むきあい」にある超越の経験はいつのまにか「ならびみ」という共同的なものへと転化していく。吉本隆明の全幻想領域という観念は、同一性原理を暗黙のうちに前提としているからこそ成り立つ観念のありようなのだが、そこに欺瞞を感じとる笠井は非対称的なものである「むきあい」が対称的な「ならびみ」へと変質していく過程に権力の起源があるとくり返し説く。吉本隆明にあっては近親婚の忌避があれば、兄弟姉妹間の性的な幻想によって、氏族共同体は部族共同体へと飛躍することが可能だとされ、ある時期『共同幻想論』は間然するところのない共同性についての原理の書とされた。
狡いハイデガーでも自己相当のなぞについて西欧社会で解決するのに二千年余を要したといっている。
「同一性の命題は、周知の形式に従ってA=Aと表わされる。その命題は最上位の思考法則と見なされている。我々はこの命題について、しばらく熟考を試みよう。何故かというと我々はこの命題によって、同一性が何であるかを知りたいと思うからである」

「同一性の命題が一般に表わされる仕方A=Aという型式は何を言い表わしているのであるか? この型式はAとAとが相等しいこと〔相等性〕を表わす。等しいということには少なくとも二つのものが属している。一つのAが一つの他のAと等しいのである。同一性の命題はそのようなことを言い表わそうと欲するのであるか? 明らかにそうではない」

「それゆえにAはAである(A ist A)という同一性の命題に対する一層適当な型式は、ただに各々のAはそれ自ら同じであることを言い表わすのみならず、更にそれ自らと各々のA自らは、同じであることを言い表わしているのである。この自同性のうちには、それ自らとの関係、従って媒介、連結、綜合、即ち統一性への合一ということが存している。西洋的思考の歴史を通して同一性が統-性の性格をもって現われることは、以上のことに由来するのである。しかしながらこの統一性は決して、それ自らにおいて他との関係を有せず、ただ一つの無差別なものに固着しているという気のぬけた空虚さではない。けれども同一性の内で支配し且つ古い時代から既に知られている関係、つまり各々のAとそれ自らとの関係を、かかる媒介として確立し且つ特徴づけられて現われるに至るまでに、更にまた同一性の内における媒介がかく出現するために一つの土台が見出されるまでに、西洋的思考は、二千年以上を要しているのである」(『同一性と差異性』)

ハイデガーの哲学にとって何が最も本質的な悲劇だったのか。あるものがそのものにひとしいという自己相当をもたらす諸々の媒介を空間化したことに尽きる。ハイデガーもまた近代の逆理の罠に深く落ち込んだ。

〔わたし〕は〔わたしより近くにいるあなたによって〕〔わたし〕となる。これが存在の第一義性である。この存在は外延化され同一性となる。この態様を存在の第二義性とする。根源の性を分有する分有者の意識の外延性はこうやって始まる。〔わたしより近い〕という知覚は生の内部に内挿されているもので、個人と個人の「あいだ」にあるのではない。〔むきあい〕は固有名と共に始まる。意識の内包性として言えば〔むきあい〕のなかに〔わたしみ〕と〔ならびみ〕は含まれているのだが、自己をモナドとみなす自己意識は〔むきあい〕を〔わたしみ〕によって反照し、相手もまた〔わたしみ〕によってじぶんを反照する。〔むきあい〕という神秘は同一性によって可視化され実体となり、特殊な共同幻想である対幻想が成立する。対幻想がそれ自体の領域として抽出されることはなく、対幻想は自己幻想と共同幻想の媒介となることによって、国家へと至る。ほんとうは〔むきあい〕を実詞化することはできないのだ。〔むきあい〕を領有化することはできない。ここに観念の猛烈な可能性がある。意識の内包性から〔むきあい〕をみたらどうなるか。意識の外延性が実詞化した固有名が固有名のまま還相の過程に入ることになる。〔むきあい〕によって、〔わたし〕が〔わたしより近いあなた〕を表現として現成させるわけだ。この〔わたしより近いあなた〕のことを還相の性と呼んできた。内包という心的な領域は、身体に還元される領域では心的な領域は還相の性を媒介にして一対の根源の性の分有者の関係として表現され、身体に還元できない心的な領域は、共同の幻想ではなく内包的な親族として表現される。べつの言い方をすると、ひとは還相の性のなかでだけ存在の全円性を生きることができる。(この稿つづく)