箚記

内包について、ちょっと

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 内包とは何かということについて私は二冊の本を書きましたが、そのことを一言で言うのはとても困難です。たしかに知覚しているそのことを言葉でうまく言い当てられないことのもどかしさがあります。その困難さと言ったら…。なにしろまだだれも言ったことのない領域ですから。そこをなんとか言おうとしてもがいた徒手空拳の軌跡が二冊の本です。
 内包とは世界の根源的な感受の仕方や在り方のことです。人間という自然に深く根ざした思考の大転換のことを指しています。内包原理とは何かと言いますと、存在することの不思議や驚きを語ったものです。〈在る〉ことの驚きです。人間の意識にとって尋常ならざる領域のことです。〈在る〉の謎は宇宙論よりずっとシュールです。ここに息づいているしんと深い思考の余白をていねいにたどることができたら国家や市民社会というこの世の制度の彼方までいけるはずです。人間の自然感性はもっと拡張することができると私は感じています。そんな途方もない考えに憑かれてひしひしと日を傾けました。
 内包というリアルを言葉で言い表そうとすると、思考はとたんにどもったり痙攣したりします。うまく言えそうに思えるときもそうでないときもありますが、いつも内包について何かを言えるとはかぎらないのです。ノリです、気分です。特に論理で語ろうとすると、言葉はこわばり、引きつけを起こし、熾りにかかって、気がふれそうになります。でもたしかにそれはあるのです。見え隠れするそれはかろうじて言葉の痕跡のようなものとしてあらわされますが、話し言葉で簡単にいうことはできません。そのことを語ることはたぶんローリング・ストーンズがすごいロックを一曲つくるより難しいことだと思います。
 なぜなら論理ではないことを言語規範によってあらわすことはもともと無理だからです。内包原理は人間が慣れ親しんでいる思考原理からいうと端的に非論理です。でも私たちはこのリアルを自己意識の用語法によって論理として語るほかにすべがありません。その成果はともかくとしてヘーゲルやハイデガーもこの困難に身を焦がしたと思います。内包を言葉として表現することはあえてその困難を引きうけることです。
 しかしやがて人間は内包原理を思考の慣性として受け入れていくと思います。なぜなら、それははじめからあるもので、そのことによってヒトが人となった、いつもすでにその上に立っているシンプルな情熱だからです。欲しいというただそれだけの理由で人間はそれを手にすると私は思います。思考のこの可能性のなかにだけ、共同幻想としての国家の彼方と社会を循環する貨幣という諸制度を超える、人間と人間のあいだのこれまでとは違う関係の在り方が遠望されるような気がします。それは人間がおのずからなる意志をもって歴史へと参入することにほかなりません。

     2
 人間の思考原理には同一律と矛盾律があります。人間の思考原理は同一律と矛盾律(とそれを補足する排中律)によって成り立っています。思考の自然性といってもいいものです。たとえば私がこうやってこの「しらいんがた」のなかにいるとき、同時に私は外にいることはできません。これが矛盾律ですが、この原理は私がここに私としてあるという同一律に根拠づけられています。内と外は矛盾律としてあります。家の内は外と矛盾として存在していると論理学では考えるわけです。また家の内にいて外にいることはできません。これが排中律です。いずれも私が私としていまここに存在しているという同一律から派生する事態です。自己同一性とは心と身体をひとつきりで生存している人間という生命形態の自然に根づいた思考のかたちです。だれもがそこを生きているあたりまえのことです。
 平面を線で丸く囲むと内と外に分かれます。じゃ、境界線は内か外かということをめぐって―かぎりなく近いということはどういうことかについて―数学は様々に考えました。それは近傍という概念なのですが、このことをめぐって数学は現代数学へと転換したといってもよいのです。無限という概念を数学の記号はいかに表現できるかということだったのです。数学としてとらえられた現実の表現としてあった数学的近代はこうやって微積分の世界から構成的な現代数学の世界へと変貌を遂げたのです。それは鮮やかな転換でした。アインシュタインの相対論もユークリッド幾何学を拡張したリーマン幾何学の曲率という概念を使うことによって得られました。しかし、その相対論によっても保持されているものが、「いま、ここ」の唯一性です。つまり自己同一性原理というものです。
 もちろん人間は記号論理として存在しているわけではありません。人間という存在は数学の記号が刻む抽象よりはるかに大規模です。存在することの驚異をめぐって思想はさまざまに思考を重ねてきました。翻訳で知る多くのブランド思想家がいますがヘーゲルは思想的な力量において傑出していました。存在についてヘーゲルは思想として大きな飛躍を実現しました。彼は難攻不落の矛盾律を破りました。同一性が自体に対してもつぶれを正・反・合として記述することで有即非有の神秘を表現としてたどりえたのです。それがヘーゲルの弁証法といわれるものです。彼によって神学的思弁によらない世界が始めて可能となりました。それは人類史としても画期的なことでした。弁証法の斬新さにピンときたマルクスは理性的なものは現実的であると考えヘーゲルのこの部分を借用したのです。人類史に厄災として刻まれたマルクスの思想の歴史的な負債はヘーゲルにその源があります。
 私はヘーゲル―マルクス―吉本隆明というひとつながりになった思想の系譜を拡張することができることに気がつきました。不問に付された同一性の起源を明かすことで、個人や大衆や社会を創見したあの偉大な近代と、近代がはらむ自己幻想と共同幻想の逆理はほどけるのです。あるものがそのものに等しいという自己同一性ははじまりの不明を抱えています。神という言葉を使わずに存在の謎を解き明かそうとして生涯を費やしたニーチェやハイデガーがついに超えることのできなかったニヒリズムを解く鍵ががここにあります。
 私は、あるものとそのものは、厳密には内包の関係にあって同一ではなく、あるものを往相とすれば、そのものは還相としてそれ自体に関係することを発見しました。このことを可能とする関与的な存在のことを根源の一人称とか内包存在と私は呼んでいます。根源の一人称によぎられて有即非有が現成するのです。有は非有に等しいだけではないのです。内包存在を分有する二つの存在者は存在の形式をそれとして保ちながら表現としては融即するのです。それがあるものがそのものに等しいということのほんとうの意味です。あるものが他なるものに重なるからこそはじめて「わたし」が「わたし」であるという自己性が生まれるのです。そしてこの自己性がじかに性であると内包論では考えます。…というようなことを話せたらいいなと思っていたら余白がなくなったのでこれで終わります。
 出版記念会の世話役をされていろいろ大変だった近藤さん。「どうせだれも読まんからビラは一枚にしてよ」と言われたあの約束守ったからね。どうか皆様、本を読んでください。

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