箚記

「浅い眠り」に誘われて

     1
 震災・オウムについての村上春樹の発言が気にくわない。〝表現すべきことが何もない、僕たちに選べるのはレインコートと傘の柄だけだ〟を売り物に小説を書いてきて、今頃になって社会に怒りをもつとか、理想についても責任をもつべきだとか言うのは反則だ。
 「最近、怒りとか闘いについてよく考えるんです。僕の属する全共闘世代は理想を掲げて闘った世代ですが、七十年安保の後、闘いの対象を見失ってしまった。昔の僕は闘いよりも自分の小説を確立するのが先だと、後のことは村上龍に任せていましたが(笑い)、アメリカにいて湾岸戦争や海外派兵問題、自民党の分裂などで揺れる日本を見ていると、その怒りを表現しなくてはいけない時期にきたと思うようになりました。」(読売新聞1995 年10 月2 日夕刊)
 僕は村上春樹がデビューしたときから、この男は歳くったら辛口のリベラリストになるぞ、とずっと言ってきたし、そういうことを書いてきた。もちろんそのとおりになっているのだが、ふがいない。村上春樹の文学の裏側にオウムがべったり張りついていたと僕はオウム狂騒のときから考えはじめた。そう言うことにすこしためらいや迷いはあったけど、それにしてもひどい。
 次はどういうのを書くのだろうかとじりじりしながら村上春樹の作品を心待ちにしたのは『国境の南、太陽の西』が最後だった。その頃、吉本ばななの『アムリタ』も読んで、あ、だめと感じ、それ以降、ばななの本は読んでいない。そういえば村上龍の『イビサの女』とかいう退屈な女主人公の小説もあった。『アムリタ』『イビサの女』『ねじ巻き鳥クロニクル』を僕は新プロレタリア文芸オカルト小説群と名付けている。もっと短く社会小説とよんでもいい。これに村上龍の『愛と幻想のファシズム』を入れたら完璧だ。これらの小説はすべてずるっとオウムにひきずりこまれたと僕は思っている。これがどういう事態なのか、だれも気がついていない。にぶい。だんだんと大江健三郎化する村上春樹がここにいる。

     2
 深夜、モスバーガーのかたい椅子に座ってまずいコーヒーを飲みながら、友人が向ける〝森崎さん度がすぎとるよ〟という『パラダイスへの道』批判を、疲れてボーッとしたアタマで聞いていたとき、BGMの音に気を惹かれた。日本語の歌だということはわかった。
「おっ、真栄田クン、これ、中島みゆきやない?」、たしかおれはそう言った。音楽誌でその曲が「浅い眠り」らしいということを知った。
 しばらくたってマクドナルドでべつの友人と話をしているときまた「浅い眠り」が聞こえてきた。ぼくはこの曲が好きになった。いつも一途にロックファンなので、いったいどうしたんだいとおもいながら、でもこの曲を自分のロックにファイルした。「浅い眠り」の音が立って、ねっ、行こう、といっているような気がした。だから村上春樹の4年ぶりの新作『国境の南、太陽の西』を買った。新作を手にして奇妙に興奮している。もうずいぶん昔のことのような気がするけど『ノルウェイの森』がものたりなくて気分がとがったのをおぼえている。真剣に『ノルウェイの森』を読んだけど、おれの感じたいことは何も書かれていなかった。そのあとの数年間、村上春樹は自分をどう走ったのか、そんなことをかんがえると胸がドキドキしてくる。『国境の南、太陽の西』、まだ読んでいない。

     ★
 58ページまで読んだところでぼくはベッドからおきあがりタバコに火をつけた。なんだ、中年オトコの回顧録か(じつはそうじゃなかった)。「始」は17 才で初体験したと、つまり、犬も歩けば棒にあたる、そういうことが書いてある。おれの息子とおなじ歳か、変な感じがする。おれの場合は、・・・。
 アンプの電源をいれて鮎川誠編集のブルース・テープを聴く。カッコいいなあ。「無音の雷」に打たれたように出会った「始」のガールフレンド「イズミ」の従姉がPJハーヴェイのようだったとコトバがつながれるのだろう。きっと、そうなる(じつはそうだった)。

 ひとを傷つけ、ふかいひとりを12 年年間やったと、飾りのない、とても素直な平板な言葉で彼は当時を回顧する。もちろん、よくわかる。たくさんの人をひきずりこんだ政治の季節があった。かつて村上春樹が呼吸し、ぼくも震えた風景がある。そのころ村上春樹はというか、「始」はずいぶんひとりだったとコトバで書いてある。そんなことはいずれにしても思いこみにすぎないが、というより比較することができるものではないけど、ぼくは村上春樹よりもっと緊迫してひとりだったような気がする。それはとてもリアルで硬くごつごつして手でさわれるぐらいに目にはっきりみえた。体重計でだってはかれるくらいだったとおもっている。どうしようもない意識のかたまりが手でさわれた。リアルにひとりだった。

     ★
 午前中の仕事を終わってぼくはタバコに火をつけた。80ページまで読んだ。村上春樹の飾らない素朴なコトバのつらねかたに、率直にぼくはおどろいている。これは果たして小説というフィクションなのだろうか。
午後の仕事を終わって夕食の支度までの短い時間にメモをとる。

 「僕はときどき彼女の瞳を覗き込んでみた。でもそこには穏やかな沈黙があるだけだった。(略) 島本さんの中には彼女だけの孤立した小世界がある。それは彼女だけが知っていて、彼女だけが引き受けている世界だった。僕にはそこに入っていくことができなかった。その世界の扉は一度だけ僕に向けて開きかけた。でも今ではその扉はまた閉じてしまっていた。」

 ああ、ここは『ノルウェイの森』の「僕」と「直子」が枯葉をふみながら歩いた、あの場面だと思ってしまう。まだその感触をおぼえている。
 「冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになった。それはどこにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりきれないような不思議な気持ちになった。」
 村上春樹はここをどうくぐりぬけたのか、そこだけを感じたい。

     3
 ベッドでおもいっきり背伸びをして『国境の南、太陽の西』を手元において閉じた。うーむ、なんのことやら、わからん、困った。トム・ウェイツの「ブラック・ウイングズ」にリピートをかけて聴く。小説のエンディングで音もなく海面を叩く雨、「僕」がその暗闇の中で「海に降る雨のことを思った」その雨を音にしたら、「ブラック・ウイングズ」がふさわしい、そんな気がした。

     ★
 「彼女の顔には表情というものがなかったのだ。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕はこう言うべきだろう。彼女の顔からは、表情という名前で呼ばれているものがひとつ残らず奪い去られ」、無惨に「僕」が捨てた「イズミ」がいて、「そして私もたぶんあなたの全部をとってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの?」という「島本さん」がいて、「私の考えていることが本当にあなたにわかっていると思う?」「私が何を考えているか、あなたには、おそらく、わからない、と思う」という妻の「有紀子」がいて、「その女の人の話なんて聞きたくない」「だから別れたいのなら、ただ別れたいって言って。私が知りたいのはそれだけなの。それ以外のことは何も聞きたくなんかない。イエスかノオかどちらか」と訊かれて「わからない」と答える「僕」がいる。「僕」は「僕に答えることができるかどうかということ自体がわからない。」

     ★
 「島本さん」と関係をやる決意をした「僕」は言う。

 「一年ほど前に君と会うようになってから、僕にはそれがよくわかるようになったんだ。ねえ島本さん、いちばんの問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢えて、乾いているんだ。その部分を埋めることは女房にもできないし、子供たちにもできない。それができるのはこの世界に君一人しかいないんだ。君といると、僕はその部分が満たされていくのを感じるんだ。そしてそれが満たされて初めて僕は気がついたんだよ。これまでの長い歳月、どれほど自分が飢えて乾いていたかということにね。僕にはもう二度と、そんな世界に戻っていくことはできない。」

 酸性雨で生きものの気配が途絶えた、ぞっとするくらいに青い透明な穴ぼこが村上春樹の意識の中心にあっていつもコトバがそこに吸い込まれていく。青いブラックホールのまわりを気配のようなものが旋回する。スーッと意識は穴に落ちこみ、あとにかすかな意識の痕跡がのこされる。村上春樹は意識のこの痕跡を「飢え」や「欠落」といっている。青いブラックホールにふわふわしたひかりを放射することのできるのは、「島本さん」、「この世界に君一人しかいないんだ。君といると、僕はその部分が満たされていくのを感じるんだ」と村上春樹の分身はいう。おもわずおれはからだが熱くなる。ぼくは、ふわふわした雪のように舞いおりて「飢え」や「乾き」を溶かして包むもの、ありえたけれどもなかったもの、このひかりのことをメビウスの性とよんでいる。それがどこでもないどこかを可能にし、そこでだけ、ここがどこかになっていく。そしてそれはたしかに存在する。

 「あなたは私と別れたい?」と訊かれて「僕」は言う。

 「僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別の人間になろうとしていたような気がする。
(略) でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。どれだけまわりの風景が変化しても、僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと乾きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと乾きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味において、その欠落そのものが僕自身だからだよ。僕にはそれがわかるんだ。僕は今、君のためにできれば新しい自分になりたいと思っている。」

 わかりきったことだが、「ある意味において、その欠落そのものが僕自身だからだよ」という意識の動かし方は西欧近代が発見し教説を世界に布教したものである。マルクス主義もそのひとつだった。その最期のどんづまりにぼくたちは追いつめられている。かつてあったことが唯一の可能性ではないということ、それはもうごまかしようもなくはっきりしている。

     ★
 「・・・それは僕が自分の力で選んだり、回答を出したりすることのできないものなんだ」という言葉にならないことばが「僕」のなかにはある。それが自然(じねん)というものなのだが、そんな「僕」に妻の「有紀子」が言う。

 「これはあなたを脅かすために言ってるんじゃないの。本当のことなの。私は何度も死のうと思った。それくらい私は孤独で寂しかったのよ。死ぬこと自体はそれほど難しいことじゃなかったと思う。ねえ、わかるかしら。部屋の空気が少しずつ薄くなるみたいに、私の中で、生きていたいという気持ちがだんだん少なくなっていくの。そういうときには、死んでしまうことなんて、たいしてむずかしいことじゃないのよ。私は子供のことさえ考えもしなかった。私が死んで、そのあと子供たちがどうなるかさえほとんど考えなかったのよ。私はそれくらい孤独で寂しかった。あなたにはそれはわからないでしょう? そのことについて、あなたは本当に真剣には考えなかったでしょう。私が何を感じて、何を思って、何をしようとしていたかということについて。」

 妻の「有紀子」の「孤独」が自然(じねん)なのだ。そしてそれは近代発祥の自然なのだ。「私」も「社会」もこの自然にながいあいだ撹乱された。ぼくたちにどんな自然が可能なのだろうか。ありえたけれどもなかったもの、たぶん内包自然だ。

     ★
 新作の感想をさあ言うぞ、と意気込んでタバコばかり吸っていたら、ぐらっとめまいがきた。『ノルウェイの森』から村上春樹がランしたことがいくつかある。「直子」は自殺したが「島本さん」が死んだかどうか伏せてあることがひとつ。「有紀子」と「僕」が新しくやりなおそうとする姿勢をみせたことがもうひとつ。『ノルウェイの森』の「ミドリ」とちがって「有紀子」の感性のうねりを描写したこと。これがおれの感じた村上春樹が数年間にみせたランだ。
 「有紀子」の父親の雰囲気や「イズミ」の荒廃のリアルさに比べて、「僕」と「島本さん」とのセックスはマドンナの『エロティカ』みたいにフェイクで、「僕」の子供たちはリカちゃん人形するし、まるでカタログ誌のインテリアみたい、ということなんかどうでもよくて、ほんとはすごく単純(シンプル)なのに、でも、すごくもどかしい、そこが村上春樹がいつも書こうとしていることだと言う気がする。

 新作『国境の南、太陽の西』で3 日間すっかり気分は村上春樹した。村上春樹はほんとうはまだどこにもたどりついていない。そして、おれは?
 「浅い眠り」も97 回聴いたことだし、読書感想文は5 ページと自分で決めたので、これで終わる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です