箚記

中沢新一ノート3

41EB2DTMXCL__AC_US160_一と多、部分と全体

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中沢新一の対称性という概念にはまだ突きつめられていないあいまいなところがある。自由の根源であるとかれが考える、流動的知性によって額がひらかれ、そこにまばゆい光が注ぎ込むということでもいい。スピリットが横溢した精神の古層を生きた人々の生のありようでもいい。自由の根源だとかれがいう光は他者のいない一人の恍惚にすぎないし、「私は熊である」というとき、かれの対称性の思考は空間化されている。

対称性という人間にとっての観念の可能性を取りだすことは、だれがやろうと多くの困難をともないます。かれはこの思考の難所で遭難しているようにみえます。かれは対称性という理念とそのことを語る自己とが矛盾しているということに気づいていません。
なぜそのようなことが起こるのか、かんたんに指摘することができます。かれの対称性という概念が空間の概念として言われているからです。対称性は自己に垂直な概念としてあります。また対称性人類学は、無意識に、自己を実有の根拠とする外延論から語られています。かれの理念では第三者の問題や信の共同性の問題は解くことができません。オウム真理教の事件でそのことがあらわになりました。対称性を垂直性として考え、どうじに、自己を拡張することによってしかこの矛盾は解けないと考えています。

「私が熊である」ということは、ここに「私」がおり、そこに「熊」がいて、その「私」が「熊」であるということではまるでないのです。それは同一性の戯れにすぎません。対称性とは、「私」のなかに「熊」がすっぽり入ってきて、「私」が領域化されるということです。それが対称性ということのほんとうの意味です。中沢新一の思考のつめ方はとてもあまいと思います。概念の手触りが軽く、概念相互に空隙があります。ゆるゆるの思考だと思います。
自己を実体化したまま対称性という概念を空間の概念として語るので、一は多となり、部分は全体として延長され、自然への融即がめざされます。他者なき一人の恍惚は天意自然なりへと昇華します。まだかれはオウムの広告塔としてふるまった体験を言葉にしていないと思います。対称性という野生の思考の理想型が仏教だとするかれの思想は一を多に溶かし込むスキルとしか思えません。梅棹忠夫の『文明の生態史観はいま』も西田幾多郎の『善の研究』も対称性人類学も意識の呼吸法がそっくりです。

中沢 天皇陛下をこんな放射能にさらして、ほんとに申し訳ない。
内田  今回は陛下は東京から離れなかったでしょう。
周りには「東京を離れたほうがいい」っていう意見があっただろうにね。でも、とどまったね。
中沢 なさっていることがいちいちご立派です。
平川 今回、祈祷をなさっていたっていうんでしょ?
内田 お仕事ですからね。
平川 ああ、天皇が天皇の仕事をちゃんとやっているなと思いましたね。
内田 震災の後に読んだコメントで、いちばんホロッとなったのは、天皇陛下のお言葉だったね。
中沢 そうですね。自主停電というのも感動的なふるまいで、やっぱり天皇というのはそういうことをなさるお方なんですよ。
平川 そう。何をする人なのかよくわからなかったんだけど、今回でよくわかったね。
内田 まさしく日本国民統合の象徴なんだよ。総理大臣の談話と天皇陛下のお言葉では格調がちがうね。(『大津波と原発』内田×中沢新一×平川克美 101~102p)

いちいち枕詞として天皇を言挙げする必要があるのか。気持悪いです。不思議なのは中沢新一の対称性のどこにも未知はないということです。それにもかかわらずかれが同一性を超えるなにかに気づいていることはたしかです。領域としてある自己から対称性を語ればいいのにと思います。

    2
かつてドゥルーズの「私が私を他者の分身として生きる」という情動の思考を批評したことがあります。そのときドゥルーズの考えでは意識の第二層までしかいくことができないと書きました。ドゥルーズはもっと思考を突きつめればよかったのですが、かれの思考はなぜか衆(多)へと流れました。ああ、と嘆息したことを覚えています。
いまはもっとシンプルにこの出来事をいうことができます。とうじ、わたしがあなたであるということについてよく考えました。この考えにもまだ空間化の名残がありました。同一性をふっきれていなかったのだと思っています。

離接したままわたしがあなたであると言いたいのではありません。離接は同一性です。レヴィナスはここで見事に失敗しました。自己を領域化することができなかったので、わたしとあなたは切断され離接していて、それが他者だとレヴィナスは考えました。かなりねじれた考えです。
こういう思考の型にいったん入ると第三者性の問題は解けません。第三者性を実体化するしかなくなるのです。第四者、第五者、・・・第n者、となると共同性が要請されます。而して国家の登場です。この世のしくみは変わりません。じれったくても民主主義しかなくなります。そして民主主義というのは根底において強者が弱者へ施しをする思想です。自己を実有の根拠にするかぎりここをまぬがれることはできません、絶対に。

還相の性を手がかりに自己を領域として生きれば、人間にとっての思考の限界を超えることができると内包論では考えます。民主主義の彼方を構想できる唯一の場所です。この人と人の関係のあり方をまだ名づけることはできませんが、ここで国家は消え、貨幣は贈与へと根本的な拡張を遂げることになります。まっしぐらにそこをめざしています。

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