箚記

内田樹メモ3

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 レヴィナスの思想を知解するまもなくじかに生きてしまった内田樹と滝沢克己の思想にいきなり鷲づかみにされたかつての紅顔の青少年(私のこと)になにか似たところがあるはずだという直観のようなものがこのテキストを書かせている。はじめは面白いといい、あとになって文句をいうと、よく身近な人からいわれるけれど、今回はそういうことではないという気がしている。彼の言説にたいして親しさのようなものがたしかにある。
 私は彼の「正義を信じ、民主主義を守る」という信念は拡張できると思う。私の考えは内田樹の「大人の論理」と「子どもの論理」を統覚している自己同一性とは次元のちがうものだ。私には内田樹の世界がよく見える。自己同一性を外延的に表現したとき、国家と市民社会というあり方が私たちの生きている(知っている)現実としては最上の、最良のものであるということ。この意識の範型をなぞりながら、それがどんなに徒労だと思えても、できるところから、真面目に、こつこつと生き続けること。これが内田樹の主張する世界のすべてなのだ。そのかぎりで、内田樹は信ずるにたる稀な思索家であり発言者なのだと思う。とても大事なことが主張されているという私の内田樹にたいする信頼がゆらぐことはない。

 そこで面々の計らいを私見として申し述べる。
 内田樹が「文化的雪かき」を語るとき変な気になり、それはちがう、と思ってしまう。このことを強調するとき彼は力こぶをつくっている。先に引用した「社会矛盾というのは絶対になくならない」という箇所と重なる。彼の考えのなかで「文化的雪かき」と「それをなくそうとしても無理なんです」はセットになっている。そしてこの矛盾を一挙に解決しようとすると邪悪で強大なものが迫りだしてくると彼はいう。ロシアの共産革命も、毛沢東の中共も、ポルポトも、連合赤軍事件も、おそらくオウム真理教事件も。こういう悪の体現よりは民主主義のほうがなんぼかましじゃないかというのが彼の立論だといってよい。もちろんわかる。わかりすぎるぐらいよくわかる。過激な中庸の思索家だから。私とよく似ている。だから「文化的雪かき」の大切さを強調する。それよりほかにないのだから、と。文化的雪かきの大切さと社会矛盾は無くならないというこのふたつは、まるでメビウスの輪みたい(他人の頭のなかがどういうしくみになっているのか探るのって疲れます。いまやっていることだけど)に繋がっている。

 引用の箇所は内田樹が『村上春樹にご用心』のなかで「文化的雪かき」と「小さな善の積み増し」について考えたところ。読んだときからずっと気になっていた。

 『ダンス・ダンス・ダンス』で、「僕」は自分の仕事を「文化的雪かき」みたいなものだと説明している。
 雪が降ると分かるけれど、「雪かき」は誰の義務でもないけれど、誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事である。プラス加算されるチャンスはほとんどない。でも人知れず「雪かき」をしている人のおかげで、世の中からマイナスの芽(滑って転んで頭蓋骨を割るというような)が少しだけ摘まれているわけだ。私はそういうのは、「世界の善を少しだけ積み増しする」仕事だろうと思う。(「村上春樹とハードボイルド・イーブル・ランド」)

「僕」の住むこの世界で「僕」や「僕」の愛する人々は、「邪悪なもの」の介入によって繰り返し損なわれる。だが、この不条理な出来事の「ほんとうの意味」は物語の最後になってもついに明かされることがない。
 考えてみると、「不条理な物語」だ。
 しかし、これらの物語を逆向きに読むとき、はじめてその意味が見えてくる。
 これらの物語はすべて「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを執拗に語っているのである。(同前)

 そして、おそらく、そのような危機の予感のうちに生きている人間だけが、「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事の大切さを知っており、「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」のうちにかけがえのない快楽を見出すことができるのだと私は思う。(同前)

 人知れず「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事をこつこつやり続けると世界は善なるものにいくらかでも近づくだろうか。内田樹のいう不条理で無意味な出来事は、転んで骨折したり、竜巻で家が壊れたり、イデオロギーの集団発狂でたくさんの人が殺されたり、いろんな場面が想定される。私は天変地異による災害と人為による厄災はべつのことだと思う。村上春樹は意図的にそれらを「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということでかたをつけ、やれやれといったり、水は高いところから低いところに流れるといったりすることで考えた気になれる人だから、まあいい。考えるしかないことを徹底して考えないというのが彼の愚鈍な徹底性だから。

 私には、村上春樹も、彼を絶賛する内田樹も、自己意識の外延表現がたどる思考の限界をおのずと語っているような気がしてならない。制約された思考の内側から世界を感じると自然の驚異も人災も、意味もなく邪悪なものの意志のあらわれに見えるだろう。内田樹はレヴィナスにさわれなかった自身の未遂感を謎として、村上春樹の小説の空虚さにだぶらせている。二人ながら硬派のリベラリストということでは共通する。是非を問題としたいのではない。そういうことはもはや面々の計らいに属する。

 意味もなく邪悪なものが存在することを予感しながら、「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」を感受する君は、さあ晴れて正義を信じ、民主主義を愛好する世界の住人だ。この世界で暮らす人々を、自然数の世界で生きている住人に比喩してみる。空想の世界の人々はそこで、立ち、歩き、触れ、呼吸している。つまり生きている。ほら、そこの君。君のことだよ。

 その世界で偶然地下鉄に乗り合わせた乗客がサリンガスを散布されて不慮の死を遂げたとする。それは泣き、笑い、怒り、喜ぶ、ありふれた生の様相とは著しく異なるものだ。自然数の世界では1+2も、3+5も楽々できる。なんだったら8-3だってできる。しかし1-3はできない。自然数が世界のすべてなら、2-7の解は存在しないし、演算を試行する行為は、不条理で無意味なものとしか映らない。自然数の世界の住人にとっての演算不可は私たちの世界の邪悪で強大なものに類比される。魂が引きちぎられ抉られる不条理なことだ。彼らがやっていることはあらかじめ世界に限界線を引き、そこからはみだす出来事を無意味で不条理なものとみなすことなのだ。

 私は、思考の必然について語っているのだから、彼らの正邪、善悪をいいたいのではない。自己意識の外延表現という思考の内部で生存するかぎり、だれもこの制約から逃れることはできない。自然数の世界の住人がこう告げたとしたらどうする。整数を作ればいいじゃないか。なるほど。4-6は、マイナス2となり、一瞬で解が出る。私がやろうとしている思考の拡張はそのことに比喩される。

    2
 自己意識の外延表現という思考の制約はさまざまなことを派生させる。たとえば生の不全感と、それを打ち消したいという欲求だ(パンクなニーチェが得意とする領域。意識にとって超越として現象する)。分裂したふたつの意識を社会的に充填するものが「文化的雪かき」であり、彼にあっては「小さな善の積み増し」となってあらわれる。残余の意識は内面化される(私たちの知っている文学や芸術だ)。

 ここには根源の一人称を分有する自己の自己性(自己の本来性)と主観的な意識の襞との混乱と混同が見られる。たしかに世界の限界線が、おそらく人類史発祥以来の不分明がここにある。人類数千年の叡智をもってしてもここを超えたことは一度もない。

 泣き、笑い、怒り、喜び、悲嘆にくれるこの私たちの世界で、つまり自己意識の外延表現の内部で小さな善の積み増しをやっていくとする。その総和はどうなるだろうか。いくらかでもましな世の中になるだろうか。作善のものたちの個々の主観的意識の襞の、まさに主観的には作善の行為によって、作善の主観の総和は必ずカタストロフを迎えると思う。迎える局面はよくてぐちゃぐちゃ、おそらくは酷いことになる。

 利己行為を併せもつものたちの利他行為の総和だからうまくいかないのだろうか。たとえ純粋な作善を仮定しても主観的な意識の襞のうちに善悪の基準をもつかぎり、それが純粋であるという当のその理由によって、小さな善の積み増しはリセットされてしまうと思う。それはまるでシジフォスの神話のようなものに比喩されるだろう。いまはまだ未存であっても新たな世界の了解線をつくることなく善が成就することはない。

 作善がフェイクであることは親鸞だって知っていた。まだそんなところにあんたたちはいるの、なーんも考えてないね、考えが足りんよ、と親鸞ならいうと思う。事実いっている。「義ということは、計らう言葉です。行者が計らうのは自力であるので、義というのです。他力は本願を信楽して、往生は必ず決まっていることゆえに、ことさら義はないというのです。」(『末燈鈔二』吉本隆明私訳を借用)

 自己意識の外延表現の枠内で、吉本隆明は、この事態(カタストロフ)を自己幻想と共同幻想の逆立ととらえた。私の考えでは願望はともかくとして逆立はせず同期するだけだと思う。吉本隆明に瑕疵があるのではなく、こういうことはもはや生存することの自明に属する。

 少しだけ内田樹の言説との間合いを詰めることができたように思う。彼が「階級なき社会、国家なき社会、全員が均等の社会こそが人類の到達しうる究極の理想社会であるというのはただの幻想ですよ。だって、そんなものこれまで人類はいちどだって見たことも作りだしたこともないんだし、それが『理想』だなんて、そんな社会が『住み心地がいい』なんて、誰に断言できるんですか」(『期間限定の思想』巻末ロングインタビュー)と言いつのるのはなぜか。内田樹が自己意識の外延表現しか知らないからだ。そして制約された思考の内部で、彼は言うべきことを言い、為すべきことを為していると思う。

 内田樹の本の感想を書きながら少し遠くまで来てしまった。まだこの世には、この世ならざる、世界のもっとも深いものより深いものがある。そこが私たちにとっての生きられる思考の余白だ。それがあることによって、私たちが人間となった、ありえたけれどもなかったものをあらしめることができれば、内田樹のいう、ここにある秩序以上の秩序なんかどこにも存在しないという至宝の民主主義原理は超えられると思う。困難な途ではあるがそれはたしかに存在する。

    3
 私にとっては自明であっても、読む者にとっては祝詞文みたいな自己意識の外延表現という言い廻し。ほんとはみんな知っている簡単なこと。だれにもあったはずの過剰な自己意識をもてあます、あの感覚。自己意識の外延表現とは意識の自家中毒のことだけど、つつきまわすと厄介なんだな、これが。ここにじぶんがいるとして、それを見ているじぶんがさらにいて、そのことを見ているじぶんがまたまたいて、と際限なくつづく意識の流れがある。制御不能の自意識の暴走が、なぜ、なんで、どうして、を切りなく問い尋ね、錐もんでいく。意味という怪物。その果てで、じぶんを実有とする意識は必ず、自己言及のパラドックスに陥ることになる。線型になった意識をたどるかぎりどんな例外もない。思春期特有の病といえば、あっけない。たわいもないこと。

 あるひとつの表現された言語の体系があるとして、その言語体系に矛盾がないことをその体系を形づくっている公理を使って説明することはできない。こういうやせ細った理屈に柄谷行人なんかも骨がらみ収奪された。柄谷行人のへりくつを批判するのは簡単だけど、じゃお前、それをじぶんにたいしてやってみろ、と返してみると、天に唾するようなもので、じつにやっかいなことになる。あらゆる自己言及は最終的に説明不能の特異点に収束する。こういう表現の全体を自己意識の外延表現と呼んでいる。

 内田樹はもちろん気づいている。ポストモダン言説のどうどうめぐりについて内田樹は言っている。べつにポストモダンがどうのこうのということではなく、言葉が陥る宿命といっていい。

「『語り口』だけを問題にしてきたポストモダニストが、なぜ自分の『語り口』についてはこれほど無反省でいられるのだろう」という批判の「語り口」そのものがポストモダニスト固有のものであることに、どうして内田は無反省でいられるのだろう。
(略)
 これではブランショ的な無限後退だ。
「おれは自分の背中を見られるぜ」
「そういうおまえの背中を俺は見ているよ」
「というおまえの背中を俺は・・・・・・」
うんざりだ。
止めよう。(『ためらいの倫理学』)

 自己意識の外延表現はとどのつまり根無し草なのだ。ほら、そこの君。君のことだよ。 そんなことばかりかんがえているとあっという間に還暦になるよ。これは私のこと。

 自己言及のパラドックスの謎に挑んで深く潜行し特異点をほどこうと固く決意したものたちも、行程のあまりの息苦しさにたまらずにぷわっと海面に浮上して、思わず大きく息を吸い込む。その刹那、さまざまな超越が呼び込まれる。不思議といえば不思議なことだけど、超越の召喚もまた意識のたどる必然である。甘いぜんざいと漬け物。辛いカレーとらっきょ。それがあるから、ますます甘く、ますます辛くなる、欠くことのできない、それそのもの。そういうものを超越という。

 いったいじぶんは何者で、なんのために生きているのだろう。意味を尋ねる業病に若い頃取り憑かれてしまうことがある。だれでもいちどは罹患する思春期病みたいなものということができる。やがてそんなことを考える余裕もなく生活に追われ、波乱のあげくに歳を重ね、老いて、死ぬという生存の基本形がある。ほかならぬこの〈わたし〉の生きることの意味を物語といってもいいが、徒労に似た物語の意味の探究。刈り取られようが、除草剤を撒かれようが、それでもしぶとく芽をふいてくる。

 すぐに思い浮かぶ自意識の怪物たちの肖像。
 才気煥発で口先の青かったニーチェが直覚した自然。超人を手にした彼は狂って死んだ。私とは一個の他者であると精神の荒野を駈けぬけた砂漠の商人ランボー。語りえぬものについては沈黙せよを地で生きて寂しく死んだウィトゲンシュタイン(死後42年たって発見された幻の日記はおもしろい。彼はイエスが好きだったんだ)。

 匿名の領域を生きたヴェイユ。「人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とはひとつの深淵でもって距てられた、もうひとつの領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない」(『ロンドン論集と最後の手紙』杉山毅訳)。眩惑されそうになる様々に彩られた一群の超越。これらをすべてひらくことぬきに内田樹メモは成就しない。

    4
 私が自己意識の外延表現というあたりのことをレヴィナスは次のように語っている(*)。

現象学的記述は、光を、いいかえればおのれの孤独に幽閉されたひとりぼっちの人間を、不安と終末としての死を、定義からして離れることができず、この記述が他人との関係についていかなる分析をもたらすとしてもそれだけでは十分ではない。この記述は、現象学であるかぎり、光の世界に、独りだけの自我の世界にとどまっている。この自我に他人としての他人はなく、彼にとって他人はもうひとりの自我、共感によってつまりは自己自身への回帰によって認識される〈他我〉でしかないのだ。(『実存から実存者へ』西谷修訳)

ハイデガーの〈相互共存性(Miteinandersein)〉もまた、「ともに」の集団のままであり、それは「真理」の「まわりに」おいてはじめて真正なものとして現れる。それは、共通の何かをとりまく集団なのだ。したがってあらゆる合一の哲学と同じように、ハイデガーにおける社会性は、全面的に単独の主体のうちに見出され、〈現存在〉の分析がその真正なかたちで行われるのは、孤独という述語によってなのである。
 この同志の集団に対して、私たちはそれに先行する〈わたし-きみ〉の集団を対置する。この集団は、第三項-仲介的人物、真理、教義、営為、職業、利害、居住地、食事-への融即ではない。つまりこの集団は合一ではない。それは仲介のない、媒介のない関係のおそるべき〈対面〉である。(同前)

エロスのうちでこそ、〈超越〉は根源的に思考され、存在に囚えられ避けがたく自己へと回帰していく自我に、その回帰以外のものをもたらし、自我をその影から解放することができる。(同前)

 会って話をしたこともないのに、私とすごく似たことをレヴィナスは最初期の主著『実存から実存者へ』で60年前に書いている。
 他人が自我の影であり、他我というもう一人の自我への回帰にすぎないならば、孤独な自我と他人よってつくられる社会性は同志の集団に堕するとレヴィナスはいう。身につまされぬものなどだれもいない。このようにして「社会性は、全面的に単独の主体のうちに見出され」、孤独な営為に終始する。まるで村上春樹の作品の批判みたいだ。内面の社会化はこうやって果たされる。

 孤独な自我と社会は同根であり密通している。だから私はこの国の文学を社会小説と揶揄してきたのだ。この自我と自我に閉じられた社会性をレヴィナスは超え出ていこうとする。媒介のない関係との畏るべき対面をするために。存在するとは別の仕方で、存在の彼方へと。のちにこのエロスへの着眼はしだいに希薄になっていくとしても、エロスこそが自己回帰的な自我からの離脱を可能とすると初期のレヴィナスは考えた。私はむしろレヴィナスが希薄化したエロスを歴史の初源へと巻き戻した。

 もう少しレヴィナスに踏みこんでみる。

 自我はつねに自我であって、自分のことだけを配慮しています。例の存在に固執する存在です。他者、それは自我からの出口です。(中略)

 私の本が言おうとしたのは、存在は重苦しい、ということです。

 それは無に対する不安ではありません。実存の《在る》に対する恐怖なのです。それは死ぬことへのおそれではなく、おのれ自身の「過剰」なのです。事実、ハイデガー以来、あるいはカント以来といってもいいかもしれませんが、不安は、存在しないこと(横文字略―森崎注)の情動性として、無を前にしたときの心細さとして分析されてきました。それとは違って、《在る》に対する恐怖は己に対する嫌悪感、自分が自分であることへのやりきれなさ、というのに近いのです。

 そこで私たちは根本的な主題にゆきつくのです。自分の外に出るというのは、他なるものを配慮するということです。他なるものの苦しみと死を、自分自身の死を気遣うより先に気遣うということです。
 それが心の喜びから来るというふうに言っているわけではありません。またそれがたやすいことだと言っているのでもありません。ましてやそれが存在することへの恐怖とか存在することの倦怠とかに対する治癒であるとか、存在する努力に対する治癒であるとか言うのではありません。

 それは自分から気をそらす方法ではまったくないのです。
 私が言いたいのは、それは人間性の根源の発見である、ということです。(『暴力と聖性』内田樹訳/原文には「発見」に傍点あり)

 《在る》に対する恐怖が己に対する嫌悪感であり、自分が自分であることへのやりきれなさであるというのは、埴谷雄高の「ぷふい」という自同律の不快に似ている。レヴィナス固有の在るのざわめきがついに出てきた。イリヤの出現だ。となると、重苦しい自己に対する嫌悪感、自分が自分であることのやりきれなさの脱出路が他者ということになるのか。レヴィナスの他なるものへの配慮はどこか窮屈で息苦しい。あんぐりと口を開けた穴に、おれが先に入るから、あなたはうしろから来てねいうて、二人とも暗がりに落ち込むことにはなるまいか。なんだかおかしい。そうだとするならば、言説の全体がニヒリズムということになるではないか。自我が起源に先立って他者へと結びついているという出来事の全体から、自我ならぬ自己を、またそこからひるがえって他者を指さすことができるのではないのか。
 そんなことおまえみたいな青二才(ぼくもいい歳です)に言われんでもわかっている。ああそれがエマニュエルさんの語りえぬことですね。じゃ、おまえにそれができるというのか、訊かせてもらおうじゃないか。じぶんのこととしてあとでいいますよ・・・・。というのは私の内語。この事態は幾重にも輻輳している。ここに解き明かされていないレヴィナスの思想の謎がある。内田樹はこの謎をこじ開けていない。

    5
 まずはじめに内田樹が村上春樹を絶賛する理由を得心したかった(私はだんだんと村上春樹の作品が嫌いになった)。もとはといえば『村上春樹にご用心』を村上春樹の批判本と早とちりしたところから内田樹を知ることとなったいきさつがある。レヴィナスの思想を使った村上春樹論に遭遇してかなり面食らったこともある。なるほど、こういう読み方もあるのか。やがて内田樹の『他者と死者』を読み進むにつれて、ラカンによるレヴィナスというサブタイトルの隠されたモチーフが見えてきた。ラカンの方法でレヴィナスの謎に迫りたいのだということがよくわかった。そしてそこでつかんだもので、村上春樹を読み解いたのが『村上春樹にご用心』だった。おそらく書かれた時期も重なっているのではないかと思う。内田樹との間合いの取り方がかなり難しいな、というのが本音だった。かつて私はフランスの滝沢克己ではないかと真剣にレヴィナスを読み込んだことがあるし、内田樹はレヴィナスを師と仰いでいる。その一方で私は村上春樹の作品はつまらないと思うし、内田樹は世界的な作家だという。なぜだ。言葉の条理がかなり入り組んでいる。

 私が内田樹メモとして書こうとしたことはいくつかある。レヴィナスの思想の未遂ということを長年考えてきた。レヴィナスが究尽せずに考え残したことがある。そのことがずっと気にかかっていた。それはおそらく内田樹にとってレヴィナスの思想の謎として残っていると思う。もちろん内田樹がレヴィナスの超越にうまく触れていないということもある。レヴィナス思想の突きつめられていない何か。まずレヴィナスの未遂があり、そのレヴィナスをまるごと生きた内田樹がいる。内田樹はレヴィナスの思想について二重の謎を抱えこんだような気がする。

 内田樹は『村上春樹にご用心』のなかで、「どうして村上春樹はこれほど世界的な支持を獲得しえたのか?」と問いを発し、「それは彼の小説に『激しく欠けていた』ものが単に八〇~九〇年代の日本というローカルな場に固有の欠如だったからではなく、はるかに広汎な私たちの生きている世界全体に欠けているものだったからである。私はそう考えている」と結論する。内田樹の発言を続ける。「私たちが『共に欠いているもの』とは何か? それは『存在しないもの』であるにもかかわらず私たち生者のふるまいや判断のひとつひとつに深くかかわってくるもの、端的に言えば「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティである。生者が生者にかかわる仕方は世界中で違う。けれども死者が『存在するとは別の仕方で』(横文字略―森崎注)生者にかかわる仕方は世界のどこでも同じである。『存在しないもの』は『存在の語法』によって、すなわちそれぞれの『コンテクスト』や『国語』によっては決して冒されることがないからだ。村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している」(同書182p~184p/このWEBでは傍点がふれないので、傍点は略)。

 村上春樹はメタ・メッセージを届けていると内田樹はいう。「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」(『ダンス・ダンス・ダンス』上巻164p けっして何事とも関係しないという徹底性は村上春樹にある。なぜ彼が何事にも意味がないというのか、見えない、聞こえない、云わない―森崎注)。そして最後のだめ押し。村上春樹の物語はすべて「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを執拗に語っていると内田樹は書いている。

 内田樹が「激しく欠けていたもの」が村上文学の主題であり、それが私たちに「共に欠いているもの」だから世界性を獲得したのだというとき、なぜそのことを村上春樹が主題としたのかがすぐにぼやけて見えなくなり、だんだんと彼の作品から離れていったいきさつがある。おっと、友人からメールが来た。「春樹はとっても怖いもので、するっと心地よく人の心に滑り込み、人を腑抜けにします。曖昧で、大切なものを奪われても、それとは向かい合って戦いもせず(戦ったふりまでしやがる)素敵な言い訳つけて、心地よいとこに逃げ込む。で、主人公は悩んだふりをして心地よい諦めの人生を送る。まったく、ちんけな小島の国そっくりな生き方。我慢なりません」。まったく同感。彼の小説は思考停止を促進する。巧さに包まれてすべてがフェイク。リアルなものはなにもない。

 花村萬月がエンタメの小説をせっせと書店の棚に並べていた頃、ふと手にした新書版作品のあとがきでおよそ小説とは関係のない、当時世間を騒がせた「西新宿バス放火殺人事件」にふれて書いていたことに一瞬曰く言い難い感情がよぎった記憶がある。唐突に、「俺には犯人の気持ちが分かる。あれは俺だ」と彼が吐き出したものを読んだとき、ビリッと何かを感じた。そのリアル。そんなものがもともと村上春樹には激しく欠けている。

 どうか心してお読みくだされ。私はなにか特別の苦界を背負った生き方を実勢化しているのではない。おわかりだろうか。ほら、そこの君。君のことだよ。

 私はそうは思わないということについてはここではこれ以上もう書かない。なぜこんなにも違いが生じるのか。そこに考えたいことを集中させる。もうここまでくると、内田樹の言説のいちいちがどうのこうのというより、彼が甚大な影響を受けたと公言するレヴィナスの思想と、若い頃私を引きこんだ滝沢克己の思想をつきあわせ、微細な差異を吟味するしかない。そのなかで私に固有の考えがしだいに姿をあらわすことになる。

(*)メモ3付録
 個人と集団について、おなじことをヴェイユも言っている。「集団とは、虚構によるのでなければ、『だれか』というような人間的存在ではない。集団は、抽象的なものでないとしたら、存在しない。集団に向かって語りかけるというようなことは作りごとである。さらに、もし集団が『だれか』というようようなものであるなら、集団は、自分以外のものは尊敬しようとしない『だれか』になるだろう。その上、最大の危険は、集団的なものに人格を抑圧しようとする傾向があることではなく、人格の側に集団的なものの中に突進し、そこに埋没しようとする傾向があることである」(『ロンドン論集と最後の手紙』田辺・杉山訳)。

 ドゥルーズも同じことに気づいていた。「問題は社会と自然、人工的と自然的とを対立させることにあるのではない。人為かどうかなど大したことではない。自然の生身の関わり合いがただの論理的関係に翻訳され、象徴がただのイメージに、流れがただの線分に翻訳されるそのたびに、また生きたやりとりがただの「主一客」の関係に切り抜かれるそのたびに、世界は死ぬのだと、私たちは言わなければならないだろう。そしてそのたびに衆の心、集団の心もまた、民衆の自我のうちにせよ、専制君主の自我のうちにせよ、一個の〈自我〉のうちに閉じこめられてしまうのであると」(『情動の思考』鈴木訳)。

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