箚記

内田樹メモ1

 このひと月ばかり内田樹の本をつまみ読みしてきた(まだ10冊しか読んでいない)。ていねいにゆっくり読んだので、大体のところはつかめた気がする。常識を基本にした優れた自己修養書であることがよくわかった。これだけ一人の著作家に入れ込んだのはじつに久しぶりのことだ。発言はまっとうだし、面白くて、よくこなれている。物書き特有の睥睨する態度も、嫌みも全然なく、ひどく感応した。というようなことだけ言うと、絶賛になるのでかなり微妙なところに踏みこんでみる。大事なところだからあらかじめ言っておくが、言葉の信義を生きている稀な大人の思索者である内田樹の発言を論難したいのではない。よく論篤したいがために、私もまた思索のかぎりを尽くし言葉の信義をもって彼の所論に応えたいと思う。

 内田樹の本との出会いは私の思い違いから始まった。行きつけの書店の新刊書コーナーに村上春樹のマラソン本が置いてあり、隣に『村上春樹にご用心』という本が並べてあった。ぱらぱらめくり、勝手に村上春樹の批判本と勘違いし、おお、ついに出たかと興奮し、いそいそと家に帰り、さっそく読み始めた。

 さあさあどこから批判が始まるか、なかなか始まらない、ていねいに読み込んでから批判するのか、それはいいからもういいかげんずばっとやってくれ、いらいらしながら読みました最後まで。なんと絶賛本でした。

 これで話は終わらない。私は村上春樹の小説を、抗ガン剤があらかた有害であるように、思考停止を促進する本として読んできた。思考の徹底性がなく、あらかじめ内面を社会化し、しかるのちに内面を語る手法をとっていて、なにごとも究尽されることがないから、出来事があいまいなまま放置され、その欠落感や喪失感が読者にこよなく愛好されるというしくみになっている。

 彼の本がこの国だけではなく多国籍に翻訳され売れ行きが好調なのは、先進国・後進国を問わず、知的な階層がグローバリゼーションの波に翻弄され、疲れ果て、胎児の姿勢をとることで、外界を遮断し、慰撫されたがっているからにほかならない。村上春樹の本を読むたびにじれったくなり、こんなものが文学であるはずがないという欲求不満がつのってくる。この繰り返し。

 文章の超絶的な巧みさには読むたびに驚嘆するのだが、出来事に抗うことがなく流れに身をまかす文体の運びは、我が意識としてのアジアをそのままなぞるもので、抗いもなければ、絶望もなく、じんとくる熱さもなければ、深さもない。あるのはないないずくしの心地よさ。洗練されたアジアを体現する完成された社会小説(松本清張あるいは小林多喜二と同じ思考の型の小説)というのが私の読みである。程良い孤独感と空虚感やそこそこの生きがたさが満載された巧言が売れぬはずがない。何の危険もないんだし。

 それはともかく。

 快刀乱麻の活躍をしている内田樹の世界の世界の成り立ちはシンプルなものだ。レヴィナスの思想の読解とそれの現実への適用。この二つの方法意識に貫かれたところから彼の生き生きとした痛快で奔放な発言が繰り出されている。

 『村上春樹にご用心』を読み始めてすぐに気がついた。言葉の息遣いがレヴィナスに似ている。かつて私が真剣に読み込んだレヴィナスを師とする内田樹に不思議な親近感が湧きあがってきた。知らぬ仲ではなかった。内田樹という固有名を知らずに彼の訳書を読んでいたのだ。私が感応したのは、考えることや感じることの根っこにある、言葉に対する内田樹の態度である。
 内田樹にとってのレヴィナスは、私にとっての滝沢克己に相当するということがよくわかった。これは言葉の理解や解釈の次元でのことではない。内田樹の身に起こったリアルな体験なのだ。『レヴィナスと愛の現象学』で彼は言う。

 私がレヴィナスの著作を読み始めたのは修士論文でモーリス・ブランショの文学理論について書いていた一九七九年ころのことである。フランソワーズ・コランの研究書に、ブランショの特異な考想のいくつかは哲学者エマニュエル・レヴィナスのそれと共鳴している、という記述を読んだのがレヴィナスの名を見たおそらく最初である。私は正直なところブランショの「特異な考想」が何を意味しているのかまったく分からなくて途方にくれていたので、この情報に飛びついた。哲学者であれば、ブランショがあれほど分かりにくく書いていることをもう少し明晰な言葉でパラフレーズしてくれるだろうと期待したのである(もちろんこの期待はまったく間違っていた)。
 早速、カタログをめくって、その名も知らぬ哲学者の著作を三、四冊ランダムに選んでフランスの本屋に発注した。二カ月ほどして本が届き、私は(横文字略-森崎注)という題名の美しい装帳の本から読み始めた。その最初の論文「倫理と精神」を読み始めて一時間もたたないうちに、私はこれまで一度も出会ったことのない精神の運動に自分が巻き込まれつつあることを感じ取った。その難解なフランス語が「何を言おうとしているのか」が私には理解できなかった。にもかかわらず、そのテクストを通じて、私には理解できない言葉を語っている哲学者が、まっすぐ「私に向かって」語りかけていると感じたのである。レヴィナス自身の言葉で言えば、私は不意に「何とも知れないきわめて個人的な召喚命令を受け取った」(横文字略-森崎注)のである。いきなり書物の向こうから「そこの、君。ちょっとこっちへいらっしゃい」と呼びかける声を聴いてしまったのである。
 これは私にとってはじめての経験であった。
 私はそれまで何人かの哲学者のテクストをいくらか集中的に読んできた。そしてサルトルやメルロー=ポンティやレヴィ=ストロースのフレーズの中にしばしば知性の素晴らしい冴えを感じ取った。しかし、哲学書の中の言葉がまっすぐ「私に向かって」語りかけてくるという経験はしたことがなかった。
 あるテクストの意味内容を「理解する」ということと、テクストを通じて未聞の思考に「語りかけられる」ということはまったく異種の経験であるということを私はレヴィナスの文章ではじめて知った。
 「ひとはその理解を超えたものに直接的な仕方で呼びかけられることがある」というのはレヴィナス思想の中核にある命題である。ということは、つまり、私はレヴィナスのテクストを開いた直後に、レヴィナスのこの命題を、意味として「知解した」のではなく、いきなり経験として「生きてしまった」ことになる。
 私はレヴィナスの思想の内容を吟味する間もなく、レヴィナスの思想をまず呼吸してしまった。レヴィナスの「理解を絶した言葉」がそれにもかかわらず「まっすぐ自分に向かって来る」という経験に震撼させられるという仕方で、私は検証のいとまもなく、レヴィナス思想の証人となるところから出発してしまったのである。
 私が「出会った」のはレヴィナスの術語を便って言えば「謎(エニグム)」である。私はそのテクストを通じて前代未聞の知性の運動に出会った。そこで語られている言葉の大半は私には理解できず、いくらか理解できた部分には驚くべきことが書いてあった。例えばこんなふうに。

「認識するとは暴露し、命名し、それによって分類することである。パロールは一つの顔に向けて発される。認識とは対象をつかむことである。所有するとは存在を傷つけぬようにしながらその自立性を否定することである。所有は被所有物を否定しつつ生きながらえさせる。だが、顔は侵犯不能である。人間の身体のうちでもっとも裸な器官である眼は、絶対的に無防備でありながら、所有されることに対して絶対的な抵抗を示す。この絶対的抵抗のなかに、殺害者を誘惑するもの―絶対的否定への誘惑が―読みとられる。他者とは殺害の誘惑をかき立てられる唯一の存在である殺したい、しかし殺すことができない。これが顔のヴィジョンそのものを構成する。顔を見ること、それはすでに「汝殺すなかれ」の戒律に従うことである。そして「汝殺すなかれ」に従うことは「社会正義」の何たるかを理解することである。そして不可視のものたる神から私が聴きうることのすベては、このただ一つの同じ声を経由して私のもとに届いたはずなのである。」(DL,P.21)

 名前だけしか知らない哲学者の、はじめて読んだ本の九頁目で私はこの文章に出会った。私と同じ条件でこれをすらすらと読んで「ふむふむ、なるほど」とうなずくような人は(たぶん)いないだろう。
 「いったい、この人は何が言いたいのだろう。」
 私にはまるで分からなかった。
 「顔」というのは、あの「顔」のことなのだろうか。「殺す」というのはあの「殺す」ことなのだろうか。これらの言葉はメタファーなのか、それとも字義通りの意味で使われているのだろうか。私には見当がつかなかった。
 世の中には「難解だけれど、分からなくても別に困らない」種類の難解さと、「難解だけれど、早急になんとかしたい気がする」種類の難解さがある。レヴィナスの難解さは後者である。私はレヴィナスを「早急になんとかしたい」気分になった。
 テクストを一語一句吟味しながら、精読するためのいちばんよい方法は翻訳することである。そこで、私はその『困難な自由』を訳すことにした。そのあと、『タルムード四講話』をはじめ、目につくはしから訳していった。それでも、レヴィナスの言う「他者」や「殺人」や「倫理」が哲学的を概念なのか、生身の人間にかかわることなのか、私には確信がもてなかった。
 それでも、翻訳を重ねていくうちに、レヴィナスの思想は、情報や知識として「学習」するものではなく、生身の人間としてそれを実際に「生きる」ものらしい、という確信がだんだんと私の中で強まっていった。しかし、哲学書をそういうふうに素朴に「生き方」に引き付けて読むことが正しいのかどうか、私には自信がなかった。そもそも先方は「リトアニア生まれのユダヤ人で、ドイツの現象学と存在論について、タルムードの弁証法を駆使して、フランス語で批判的著述を行っている」ひとである。その人の言葉を(文化的バックグラウンドにおいて何一つ共通点のない)極東の一学徒が「切実なもの」として受け止めているというのは関係妄想の一種ではないのだろうか。
 私が理解した限りでは、レヴィナスは「他者のために/その身代わりとして」罪を贖うことによって主体性は基礎づけられると書いていた。「主体の主体性は有責性あるいは被審間性であり、それは頬を打つものに頬を差し出す全面的な曝露というかたちをとることになる」(横文字略-森崎注)という言葉に私は深い衝撃を受けた。道徳的な理想として、同じことを語るひとは宗教者にはいくらでもいる。しかし、この人はファナティックな熱情に駆られてではなく、きわめて厳密な知的探求ののちに、絞り出すようにしてこの言葉を吐いているように私には思えた。
 しかし、本当にそんなことがありうるのだろうか。本当にそんなことを断言してしまっていいのだろうか。
 少なくとも私が大学で見た限りの「哲学者」たちについて言えば、彼らの語る「倫理」や「他者」は彼らの実生活には何のかかわりもない純粋な思弁であった。もし、レヴィナスという人が「本気で」こう書いているのだとしたら、この人は狂人か、あるいは私が探し求めている「究極の賢者」か、いずれかであるに違いない。(『レヴィナスと愛の現象学』37~41p)

 知の源が見える人って好きだなあ。「翻訳を重ねていくうちに、レヴィナスの思想は、情報や知識として『学習』するものではなく、生身の人間としてそれを実際に『生きる』ものらしい、という確信がだんだんと私の中で強まっていった」という箇所なんか、そうだ、そう、まさにそうだと小躍りする。嬉しくなるね。内田樹のレヴィナス体験は信じられると即座に思った。私が滝沢克己さん(*)の本を読んだときそうだったから。自分のなかにあるものによって一瞬で滝沢さんの世界に惹かれた。未知の何かが私のなかに移植されたというのではなかった。それはすでに名づけられることなく久しく私のなかにあったのだが、その何かがことばによって輪郭をえたという体験だった。こういう体験は一度覚えると二度と忘れることがない。ことばが根づくという信じがたい驚異。

 「と共に」は、あなたがなにものであるか、あなたがどういう状況にあるかを一切問わず、インマヌエルという原事実として、不可分・不可同・不可逆の構造をもって脚下に存在する。これが滝沢克己さんの思想のすべてだった。おそらく似たような不意打ちに内田樹も襲われたのではないかと思う。これは一種の超越的な体験で背後から一閃されるというよりほかに言いようのない出来事なのだ。どうであれ、内田樹がこういう知解を超えた体験から彼の世界を立ち上げはじめたことは確かなことではないかと思う。始まりの言葉をもつ書き手に出会うことは稀である。この体験が彼の知のフレームのひとつをなしている。そしてまた私がフランスの滝沢克己と呼んできたレヴィナスの超越に彼が触るときの触り方について私とのあいだに微妙な差異がある。もしかすると彼の超越は内在ではなく移植されたものかもしれない。

(*)メモ1付録
 「西田先生のお弟子さんたちのうちで、いわゆる京都学派と言われる人たち、またその他のお弟子さんたちの中で滝沢先生のこのような指摘に匹敵するようなことを、西田先生に向って言った人を私は知らないのです。滝沢先生は早く戦前に『西田哲学の根本問題』という名著を書かれて、なみいる西田先生の高弟たちに向って「あなたがたにはまったく西田哲学が分かっていない」という批判をされました。私はあの批判は当たっていたと思います。ほんとうに西田哲学のこの肝心要の大事が分かったのは、戦前では滝沢先生、戦後は務台(理作)先生と西谷(啓治)先生ぐらいのものではないかと、正直私はそう思うのです。」
 「また、こんな話もあります。田辺元博士が、西田先生に迎えられて京大教授となり、西田哲学に強く影響されながら、一方で厳しく西田先生を批判されたことは周知のところですね。そのとき西田先生の高弟たちはほとんどが田辺説に傾いた、そのころのことです。西田先生が「滝沢君だけは田辺説にけっして賛同しないだろう」と言われたというのです。以上のような話をいつか亡き鈴木大拙先生に話したことがありました。大拙先生は、私の話に深くうなずきながら言われました、「そうか、西田がこんなことを言うとったわい。『自分が育ててきた京大の弟子たちよりも、自分の考えていることをいちばんよく理解している男が一人いる。それはキリスト教の男だがな』と。それが君の言う滝沢さんという人だろう」。これは西田哲学と滝沢神学(インマヌエル哲学)との間を語る重要な証言だと、私は思います。」
 (八木誠一・秋月龍珉『ダンマが露わになるとき』秋月龍珉の発言)

 ( 2008/03/24 ) 

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