日々愚案

歩く浄土109:情況論33-内包自然と総表現者11/池田晶子の自然3

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池田晶子の思想上の師はヘーゲルだからヘーゲルのはじまりの不明を取りあげる。むかし書いたヘーゲルについてのコメントを再録する。それからも内包論をすすめながらいくつかの概念をつくってきたが、おおまかにはまだ古びていない。

ヘーゲルは「有論」で言う。

純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす。なぜならそれは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである。

はじめにおいてわれわれが持っている無規定なものは、直接的なものであって、それは媒介をへた無規定、あらゆる規定の揚棄ではなく、直接的な無規定、あらゆる規定に先立つ無規定、最も最初のものとしての無規定である。これをわれわれは有と呼ぶ。われわれはそれを感覚することも、直観することも、表象することもできない。それは純粋な思想であり、かかるものとしてそれははじめをなすのである。

しかしこのようなより進んだ、一層具体的な規定を有に与えれば、有はもはや論理学のはじめにおいて、まったく媒介なしに存在しているような純粋な有ではなくなってしまう。有がこうした全くの無規定性のうちにあり、全くの無規定性であるからこそ、それは無なのであり、言いあらわしえないものなのであり、それと無との区別はたんなる意向に過ぎないのである。

補遺 有と無の区別は、区別があるはずだという区別にすぎない。言いかえれば、両者の区別は即自的にすぎず、まだ定立されていない。区別と言うからには、そこには二つのものがあって、各々他方にはないひとつの規定を持たなければならない。ところが有はまったく無規定のものにすぎず、無もおなじである。したがって両者の区別は、あるはずだと考えられているにすぎないもの、まったく抽象的な区別であって、同時になんら区別でないものであるその他すべての区別の場合には常に、区別されたものを自己の下に包括する一つの共通のものがある。例えば二つの異った類という場合には、類が両者に共通のものである。これに反して有と無の場合には、これら二つの規定はいずれも同じように土台を持たないのであるから、その区別には土台がなく、したがってそれはなんら区別ではない。もし有と無とはしかしどちらも思想であるから、思想が両者に共通なものではないか、と言う人があるとすれば、その人は、有は特殊な、規定された思想ではなく、全く無規定な、それゆえに無から区別することのできないような思想であることをみのがしているのである。―次に人はまた有を絶対の豊かさ、無を絶対の貧しさとして表象するであろう。しかしわれわれが全世界をみて、すべてはあると言い、それ以上何も言わないとすれば、われわれはあらゆる規定されたものを看過ごしているのであって、われわれは絶対の充実ではなく絶対の空虚を持つにすぎない。同じことは、単なる有としての神の定義についても言える。このような定義が正しいとすれば、神は無であるという仏教徒の定義も同様に正しい。仏教徒はこの原理をつきつめて、人間は自己を絶滅することによって神となると主張している。(『小論理学』上・松村一人訳)

それにしてもヘーゲルが祝詞みたいな『小論理学』を、はじまりの不明というほかない、言語の彼方にある豊穣な混沌から立ちあげたことには驚かされる。どんな思想も思想であるかぎり、例外なく起源の闇を抱え込んでいる。逆にいえば、無明のおののきを懐深くにもたないようなものを思想とは呼ばない。「有論」もそのようなものとしてある。ヘーゲルは「有論」がもつ豊穣な混沌を「同一性」に閉じこめた。ヘーゲルがつめきらずにのこした近代の逆理がマルクスにもひきつがれる。マルクス主義が人類史の規模の厄災を招いたのは、マルクスの思想の必然であり、ヘーゲルの思想の帰結だという気がする。マルクスの思想の真意を根本から組み替えること。内包存在論はそれをめざしている。ヘーゲルの混沌とした豊穣な「有論」を〔根源の性〕でたどりなおし、内包存在を主体とする存在論をつくりうるなら、近代が発見した自己同一性の弁証はひらかれる。それはマルクスや吉本の社会思想を転回することになる。対の内包を分有するとき、一方に〈あなた〉が、他方に〈わたし〉があらわれる。内包存在を世界の主体とする内包存在論ではそう考える。そうすると、ヘーゲルの「有」の根底には対の内包が存在することになる。

しかしヘーゲルはそこまで行かなかった。分有されたそれぞれの自己を、否定を媒介に自己関係として伸縮した精妙煩瑣な意識の総体を世界と考えた。そうではない。対の内包があるから「有」が存在し、事後的に自己同一性が現象するのだ。おそらくヘーゲルは「有」と内包存在についての機微(弁証)を知らなかった。だからヘーゲルの「同一性」は起源を訪ね、暗黙のうちに混沌とした無規定な「有」を要請することになる。神という観念を持ち出さずに自己同一性の起源を探りあてようとするなら、フロイトが自我の探索の果てに混沌と沸き立つエスを見いだしたように、あたかもエスに相当する「有」をそこに想定せざるをえないからだ。しかしほんとうは逆ではないのか。「有」を自己同一性という概念まで抽象化すれば、「同一性」は観念の自働性で止めようもなく行くところまで行く。ヘーゲルの絶対精神とはそういうものだ。ヘーゲルは論理学のはじめに「有論」を据え、フロイトは精神分析学の礎にエスを導入し、自己同一性や自我で世界を遡及的に記述した。たとえば、数学では、直線を二点間を結ぶ最短距離によって定義する。すると、直線という最短距離によって直線を定義するという矛盾が生じる。定義されるものが定義の文言にふくまれてしまうのだ。同じことをヘーゲルも踏襲する。

本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性である。

同一性はまず、われわれが先に有としてもっていたものと同じであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である。人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。

したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれば、自分自身から自己を区別するものである。(同前)

「観念性としての有」が「同一性」であり、それは「自然一般および動物から区別」される自己意識によって措定されるというのが、ヘーゲルの認識の根本のかまえだ。なぜ、「純粋な有」がはじまりをなすのか。明晰なヘーゲルの不明が「有論」にある。直観することも、表象することもできない、直接的な無規定とヘーゲルが呼ぶ「有」のあいまいさが、のちに、ニーチェが世にひろめたニヒリズムとしてあまねくゆきわたることになる。ヘーゲルも、彼に追随する者も、彼を批判する者も、約めつづると「自」を実有の根拠とみなす思考の型においてかわるところはない。そうではなくて、性という超越を分有する出来事として、男や女が(生理の性も含め)事後的に分節されるのである。どんな指示性によっても語りえない、ほかならぬこの〈わたし〉は、いかなる機縁によってあらわれいでたのか、このことだけが真に考えるにあたいする。あるものとそのものとの関係は、近代起源の意識の粗野な形式においては同一であるのに、「わたし」があたかも一個の他者であるかのように「わたし」と自己関係する。ひとは数学のように存在しているのではない。またそこに近代と、近代がつくった現代の累層する歴史の制約がある。近代はヘーゲルに象徴されるから世界は「同一性」によって睥睨され統べられる。

賢いヘーゲルは知っていた。いかなる意味でもA=Aということは、ひとのふるまいや、ふるまいが収蔵された世界や歴史にとってはありえない。だから、「同一性」が自体にたいしてもつ律動を、区別・差異・対立なる概念で刻み、それらを括る「移行」という概念で修復しようと試みた(まさに、フロイトの自我・超自我・エスとそれらを貫くリビドーという概念がこれに対応する)。彼はそれができると考えた。ヘーゲルの弁証法とはそういうものだ。人間精神がおのずと内蔵する観念の見えない動きにヘーゲルは論理の筋目をいれた。而して彼の長い足は二〇〇年を一跨ぎにした。

しかし考えてもみよ。なぜはじめに「同一性」なのか。「同一性」がなぜ普遍的で根源的なのか。ヘーゲルにあっても根源の事象は幽霊のように忽然とあらわれる。意識の平行線公理に比喩され、ゆるぎなくみえるヘーゲルの「同一性」という概念の根柢にあるはじまりの不明は無視できない。ヘーゲルがいうように、有が「言いあらわしえないもの」であり観念としての有が同一性だとしたら、なぜ「言いあらわしえないもの」が自己意識としての同一性を措定できるのか。おかしいではないか。ヘーゲルの論理は逆立ちしている。だから同一性が陰伏する謎が、いまニヒリズムとしてあまねく生きられる。はっは。存在論の拡張が断じて現実や歴史の分析に先行する。そうでないとしたら、わたしたちは冷え冷えした空虚をかかえて際限もなく内省と遡行を繰り返すだろう。そして時折、神戸の少年Aみたいな事件に遭遇しては喉元を凍らせる。ニヒリズムからモノのような狂気までほんの紙一重だ。もしかするとすでにそこを生きはじめているのかもしれない。点と外延の思想はそういう戦慄を不可避とする。存在論は思弁ではなく肌が粟立つほどなまなましいことなのだ。思考にとってこれ以上のリアルがどこにあるか。

わたしがヘーゲルの自己同一性を拡張する。太初に、ヘーゲルが直接的な無規定と名づけた「純粋な有」を立ちあげる内包する気のたわみが存在する。内包存在がくびれて分有された存在を事後的に自己意識が「有」とかたどるのだ。自己意識ではつかむことのできない「有」の興りとそのしくみを、ヘーゲルは直観することも表象することもできない。だからヘーゲルはそのありようを、もっとも直接的な無規定であるというしかなかった。自己意識によって「有」にふれることはできないからだ。内包存在によってヘーゲルの「有」は拡張され、途方もない転回を遂げる。西欧近代の巨大な才能たちは、「有」を点と外延で縁取ったものを「存在」とみなし、「存在」をかたどるものを「同一性」と呼び、「存在」と「同一性」の彼我を往還するものを「意識」と名づけた。

わたしは、それなしでは「有」が「有」として現象しえない、ヘーゲルの「有」よりもはるかに根源的な情動が存在すると考えた。世界をよく感じ、徹底して考えつめると、ヘーゲルが手つかずに不明のまま遺した、あるということにまつわる明晰がもつ弛みに気がつく。思想にとって決定的なのは、「存在」でも「同一性」でもなく、それらが内包存在に順伏するということなのだ。全くの思考の未知がここにある。内包が外延化された以降の「存在」や「同一性」についての精緻な記述はヘーゲルでも、ヘーゲルを受けたハイデガーでも、意識の第一次の自然表現としては、おおむね妥当なものであるといってよい。わたしたちの思考の慣性は外延表現にあるから、近代を超えようと意欲した現代が、「同一性」の弛みを「差異性」に拠る解体表現によって巻き返そうとしたのは、カラスになぜ鳴くの、と訊くようなものだった。勝手でしょ、とポスト・モダンは考えた。嗚呼。

しかしいずれにせよ大文字の「同一性」が意識の線状性として見え隠れしていることに変わりはない。問題は「同一性」か「差異性」か、ではなく「同一性」の拡張なのだ。あるものとそのものは、厳密には内包の関係にあって同一ではない。あるものを往相とすれば、そのものは還相として、あるものに関係する。あるものがめくれて他なるものとメビウスの環をなすから、ひるがえって、あるものはそのものに重複する。それが本然であり道理だ。わたしは外延する意識にとってはかなり変な、しかし内包する意識にとっては自然を語っている。たしかな手応えがわたしにある。近代がかたどった現代は、存在論の拡張においておのずと拓かれる。近代の天才も、彼らを模倣する者も、思想のこの機微を知らない。そういう意味では「外部」が好きな笠井や柄谷は、自己意識の外延的表現がたどりつく必然を身をもって演じているといってよい。

思考の歴史というようなものを考えると、わたしたちが近代と名づけている時代に大きな転換点があることがわかる。それは、〈じぶん〉という出来事を「わたし」が所有するということとしてあらわれた。その規範的表現が、たとえば、法の下における万人の平等という観念だ。わたしの考えでは、人間・社会・大衆・自己といった一群の観念の出現は人類史の規模での革命であったと思う。自己が「わたし」によって領有されることの信念の表明に近代の偉大さがあり、同時にこのなかに超えがたい背理がひそんでいる。もちろん、即自と対自、あるいは利己的な行為と利他的な行為の対立と背反は、対象的な意識としてはよく知られていることだから、この矛盾を解こうとさまざまな考えが試みられた。文学や批評、マルクス主義の実践もそのひとつである。すでに滅んだ社会主義思想もそうだが、どんな考え(思想)であれ、それらの考えは、〈じぶん〉が「わたし」に等しいという自己同一性をそのよりどころとしている。これは疑いえない事実だと思う。またそのことによって現代の豊饒と奇形的な繁栄がもたらされた。

自己同一性原理とは、あるものがそのものに等しいことを梃子の原理とする存在の形式である。現代に照らしていえば、その内面的表現が空虚として、社会的な表現が消費資本主義としてあらわれ、両者は互いに鏡像関係にある。この自己保存系の思想を拡張することに思想のダイナミズムがあり、生きられる可能な世界のすべてがある。たとえば、フロイトの自我と無意識の関係も、ハイデガーの存在者と存在の関係も、おなじ意識の呼吸法によって縁取られている。まずはじめに、自我が無意識へ、存在者が存在へ写像され、しかるのちに無意識が自我を、存在が存在者を措定するように思想がかたどられる。このありさまは高金利にあえぐサラ金の債務者に似ている。いくら返済しても元金が減らないのだ。もとより元金が空虚に比喩される。男性の女性に対する関係のなかにもっとも本質的な自然があらわれることを洞察したマルクスの思想の原石は、絶え間ない抽象化の過程で、類的共同存在へと至る豊饒さを捨象し、関係的存在をそのまま価値形態論にもっていくことができなかった。同一性の経済的理念化として『資本論』は不朽の名作となった。

奇妙なことにそうやってつくられた思想は、ある根源の事態の事後的な解釈として妥当するにすぎないにもかかわらず、そのことをぬぐい去り、やがて逆立ちして、存在そのものや、出来事の根源自体を指し示しうる権能をもつと主張するようになる。この思考の型をもって近代を定義できるといってもよい。吉本隆明の思想の核心をなす自己幻想と共同幻想の「逆立」論も、意識の線形性において同じ轍を踏んでいる。わたしは、この表現の型を自己意識の外延表現と呼び、外延表現を拡張した内包存在とその分有者がとりもつしなりやたわみのあらわれを内包表現と名づけてきた。内包は外延の拡張としてある。自己同一性が内包存在という主体のかたわれだということは、〈わたし〉の根源が〈あなた〉であり、〈あなた〉の根源は〈わたし〉であることに発祥する。あるものが他なるものに重ならないなら、なぜ、あるものがそのものに等しいということがおころうか!「自」がかまえをほどくその度合いにおうじて「他」がそのなかに陥入し、ふいに自・他が反転する。この事態のことを内包と呼ぶ。わたしはこの驚異をそのまま主体とする存在論が可能だと思う。二項対立を超えるのではない。この世界には、第一項も第二項も、「内部」と「外部」を可能とする第三項さえも存在しない。内包存在によって自己同一性は拡張しうる。(『Guan02』174~179p)

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同一性の厄介さはわたしたちの自己意識が日々のなかですでにそれを実体化したものとして暮らしてきたからだ。意識はそれ自体としてあるのではなく、根源のつながりの応答としてしかありえない。池田晶子のいうように創世以来の意識がかたまりとして累積しているとして、ではその意識はどこからやってきたのかと問うと、始まりの不明に帰着する。吉本隆明のように、人間は生理過程の矛盾を観念として疎外したと言っても、ヘーゲルのはじまりの不明とおなじことにしかならない。晩年のヘーゲルはこの矛盾をギリシャ以前の哲学に戻ることで関係が表現であるというところから解こうとしていた。池田晶子もそのことに触れている。「では、『魂』とは何か。そんなの私はわからない。わからないから、最近はそればかり考えているのだが、驚いたことに、あのヘーゲルもまた、『魂を語るためには天使の舌が必要だ』と絶句している箇所をみつけた。つまり、理性的思考を超えるというのだ」(『考える日々』250p)

気をつけ!や、前へならえ!が好きで好きでたまらず、世界を整序しないとどうにも気が済まなかったヘーゲルのつぎの言葉は面白い。

家族は精神の直接的実体性として、精神の感ぜられる一体性、すなわち愛をおのれの規定としている。したがって家族的心術とは、精神の個体性の自己意識を、即自かつ対自的に存在する本質性としてのこの一体性においてもつことによって、そのなかで一個独立の人格としてではなく成員として存在するのである。
追加〔愛の概念〕愛とは総じて私と他者が一体であるという意識のことである。だから愛においては、私は私だけで孤立しているのではなく、私は私の自己意識を、私だけの孤立存在を放棄するはたらきとしてのみ獲得するのであり、しかも私の他者との一体性、他者の私との一体性を知るという意味で私を知ることによって、獲得するのである。(略)愛における第一の契機は、私が私だけの独立的人格であるということを欲しないということ、もし私がかかるものであるとすれば、私はおのれが欠けたものであり、不完全なものであると感じるだろうということである。第二の契機は、私が他の人格において私を獲得し、他の人格において重んぜられるということ、そして他方、他の人格が私においてそうなるということである。だから愛は悟性の解きえないとてつもない矛盾である。なぜなら、自己意識の点的性格は、つまりは否定されるものでありながら、それでもやはり私が肯定的なものとしてもたざるをえないものであるから、これほど解きがたいものはないからである。愛は矛盾の惹起であると同時に矛盾の解消である。矛盾の解消として、愛は倫理的合一である。(『法の哲学』藤野・赤沢訳 第三部、第一章「家族」)

もしもヘーゲルが他者との一体性を表現のテーマとして世界を記述したら、と空想する。「愛は悟性の解きえないとてつもない矛盾」であり、「これほど解きがたいものはない」というそのことをまるごと表現すればよかった。「愛は矛盾の惹起であると同時に矛盾の解消である。矛盾の解消として、愛は倫理的合一である」なんて、なにも言っていない。かれにとっては世界を意識によって整序することが第一義であり、愛は媒介にしかすぎなかった。生活することと思弁を分離する思考の必然だと思う。〔と共に〕は原理的に不可能であるとであると言わないと不安だった池田晶子は、どんな愛も自己愛の投影にすぎないと断定する。こどもが可愛いって? それ自己愛でしょ、と彼女は言った。まるでちがう。神の恩寵も、仏の慈悲も、根源の性も、呼びかけなのだ。気絶していて、あるいは麻酔から醒めるとき、遠くから、おーい、と声が聞こえる。ふとわれに帰る。向こう側からの呼びかけにふと気づく。それがつながりの応答だ。その声によぎられることをわたしは根源の性を分有すると言ってきた。分有するとその刹那こちら側から向こう側に応答しているように錯認する。それはまったく逆なのだ。呼びかけられ、よぎられることによって、はじめて自己の自己性が、自己の各自性があらわれる。この倒錯のうちに有史が積み上げられた。

〔好き〕はあまねく自己愛だと言い通した池田晶子さんはなにかを始めから生き損なっている。存在することの不思議さに鷲づかみにされた池田晶子は、その謎を究明しようと生涯を賭け、創世以来の思考のかたまりに自分を同期し、私はヘーゲルであり、私が人類であることをありありとつかんだ。しかしそのことは池田晶子が忌み嫌った「社会」主義のようなものとしてあらわれた。「私が人類である」は「社会」主義を裏返しただけで、他者への配慮はかけらもない。わたしはヘーゲルの考えを微分するとハイデガーの哲学が出てくると前回のブログで書いた。ハイデガーにとっては民族浄化の咎などどうでもいいことだった。ハイデガー読者の大半が欺かれるところを改めて取りあげる。たくさんの嘘をハイデガーはついている。「断じて、人間は、まず最初に世界のこちら側にいて、『自我』であれ『我々』であれどう考えられようとも、ともかくなんらかの『主観』として、人間であるのではまったくない」(『「ヒューマニズム」について』)
存在者と存在の関係のなかには、存在者が人間に比喩されることはあっても、人間という概念はもともとない。「宇宙の茫漠として果てしない空間の中にある地球を思い浮かべてみよう。たとえてみれば地球は小さな砂粒であり、同じおおきさをした隣の砂粒との間は一キロメートルもそれ以上もあって、そこには何も存在しない。この小さな砂粒の表面にうようよとはいまわる愚鈍な動物の一群が生きていて、それがほんのしばらくの間、認識するということを案出して、賢い動物だと自称している。(略)全体としての存在者の中では、われわれ自身が偶然その一人である人間と呼ばれるこの存在者を特に重要視するいかなる正当な理由も見あたらない」(ハイデガー『形而上学入門』)

池田晶子の知覚した世界はこのような慄然とする世界でもある。存在の律動のなかには真・善・美とともに憤怒に駆られた邪悪なものもまた存在する。ヘーゲルもハイデガーも池田晶子も〔存在〕の粗視化を外延的にしか表現できていない。ヘーゲルの「自己意識の点的性格」はどれほど微細に表現しても二律背反する存在をうちにはらんでしまう。ヘーゲルの弁証法もその典型である。「われわれがここでヘーゲル流の抽象を取り除いて、自己意識のかわりに、人間の自己意識をおいてみれば」(『経哲草稿』)とマルクスが言うことに猛烈に反発する池田晶子はハイデガーとおなじ場所に立っている。彼女はつぎのように言う。「マルクスが要求するように、『自己意識』を『人間の自己意識』つまり個々人の肉体所有の自己意識に置き換えたならば、これが『利己主義』に陥らないはずがないではないか!早い話が、俺は食いたい、お前は邪魔だ、である」(『考える人』)ではどうすればいいのか。池田晶子のどこをどう読んでもそれは見つからない。自己の外延的な表現はどうやっても利己主義を超えることはできない。だれがどうやろうと、だ。聡明であることがかえって仇になったのだと思う。ヘーゲルの「自己意識の点的性格」の律動を生きたことはまちがいないが、全人間が「いきなり自己」となる池田晶子さんにとって、自己は意識の属躰にすぎず、ではその自己がなぜ自分であるかが生涯の謎だった。天皇の赤子に固有性がないのとまったくおなじだ。そうではなく、自己の各自性はただ広義の性からもたらされる。そこにしか各自性も、生きられる固有の生もない。自己の陶冶と他者への配慮を矛盾なくつなぐには〔存在〕の〔粗視化〕そのものが問われなければならない。内包論はそこに王手をかけている。

〔追記〕
#ヨーロッパはひとつというEUの理念が崩壊しようとしている。ヒト、カネ、モノの自由な移動を理念として謳っているにもかかわらず、難民の急増によって国境の壁が復活しつつあるというレポート。「いまヨーロッパで起こっているのは、共産主義にも匹敵する人類最大の社会実験がガラガラと崩れていく事態である。テロ、難民、財政問題、そしてナショナリズム・・・ドイツは、EUは・・・」(『ヨーロッパから民主主義が消える』川口マーン惠美)

#自衛隊が駆けつけ警護に行くスーダン。「ここはおれの日向だ」をめぐる内戦。地上のすべての簒奪の歴史がここからはじまった。この自然を覆すことができるか。できると思うから内包論を書いている。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/335266

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