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それぞれに内面をもつことを前提に、その個人が集まって社会をつくっているとわたしたちは思っている。だれにとっても自明であるこの認識の自然のことをわたしは思考の慣性だとずっと主張してきた。ここでは個人の内面と社会は二律背反するものとしてあらわれ、「法と秩序のあいだの和解は永遠の夢である」(ミシェル・フーコー)とされる。そうだろうか。この生の技法は制約された認識であるとわたしは考えた。
身体の都合があって選択の余地なく糖質ゼロの食事を5年半つづけている。テレビも新聞もないので、食事のとき手持ち無沙汰でいつも小説を読む。いまはドン・ウインズロウの『ザ・カルテル』を読んでいる。面白い。前作『犬の力』が強烈だったので新作を読んでいるわけだ。メキシコを舞台とした麻薬カルテルの親玉アダン(なぜかフィリピンのサイコな大統領ドゥテルテとアダンが重なる)と摘発するケラーの熾烈な攻防戦が小説を舞台に繰り広げられる。関係者の家族も書き込む凄まじい暴力の応酬。報道で知っているイスラム国より凄い。カルテルに理念はない。動機は金。小説では警察も軍も検事も裁判官もカルテルに賄賂で抱き込まれている。麻薬の利権をめぐる殲滅戦。この戦争に傍観者の場所はない。組み込まれるか殺されるか。おそらくフィクションではなく事実だと思う。これからの世界の趨勢を象徴する典型的な生を引き裂く作品だ。むきだしになった人間の自然のすさまじさ。地方の警察署まるごと殺されたくなくて警察官全員が逃亡する。検事総長も警察のトップも高額の賄賂をもらい酷い殺人を黙認する。
『ザ・カルテル』から第三者の場所をつくることができない場面を任意に取りあげる。「そして弱者-街角の小口売人-たちは、ロス・アステカスとシナロア・カルテルのあいだで、板挟みになっている。一方の商品を売れば、他方に殺されるからだ。小さな麻薬屋台も板挟みになっているし、ヤク中の場合も同じだ。シナロア人から買えばフアレス勢に殺され、フアレス人から買えばへソテ・ヌエバに始末される。通りで見張り役をする少年も、アル中も、ホームレスも、物乞いも、大道芸人も、敵方の協力者と看倣されれば、殺害の対象となりうる。警官は?とパブロは思う。警官はこの状況を屁とも思っていない。いつごろから誰も弱者に関心を向けなくなったのか? いや、むしろ警官と政治家と実業家は、街を大掃除するいい機会だと思っている。望ましからざる者たちを一掃し、責任は〝カルテル戦争〟に押しつけられるのだから」(『ザ・カルテル』下巻277p)
人類史を象徴していると思う。いくらなんでもこれでは酷すぎるから、歴史は蛮行に大義という冠を被せたというその違いがあるだけ。読者はああこんな国の下町に生まれなくてよかったと胸をなで下ろす。わたしはこの物語をわが身をなぞるように読んだ。むきだしの自然を飼い慣らそうとして文明は精神風土に見合った文化のしくみをつくり衆生を馴致してきた。人びとは、分に応じてらしく生きる、それが健全な社会だとして、与えられた理念をありがたく受容する。フィリピンのドゥテルテ大統領は国家権力をじかに行使し麻薬絶滅をめざして戦争を遂行する。疑わしきは射殺せよと。殺害された祖先の死体の写真をオバマに見せ、こうやって米国の警察に殺されたと、オバマの目を直視して言ったと報道されていた。メキシコまで墜ちたらおしまいだと思い、まだ全員を殺しきれないから戦争を六ヶ月延長すると言う。中南米の国を巻き込んだ麻薬の利権をめぐる戦争、フィリピンの国家権力による麻薬絶滅戦争の根にあるものは貧困だ。そして貧困の世界化をもたらしているものはグローバリゼーションの中核をなす金融工学とハイテクノロジーだ。転形期の混乱はメキシコやフィリピンと規模がちがう。人の生を引き裂く自然をわたしたちは超えることができるだろうか。新しい未知の自然をつくることで超えることができる。生を引き裂く自然を熱い自然で置換すること。それを内包論で試みている。
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こういうことを考えながら片山恭一さんの新作『新しい鳥たち』を読んだ。この作品は小説か。作品だとして批評は可能か。従来の作品を逸脱しているし既成の批評は不能だと思う。物語の王道からはずれたこの作品をなんと名づけたらいいのか。作品である以上どんな読み方も可能だが、悉く読みは外れるだろう。おそらく作者はそのことを承知のうえでこの作品を書いている。母の在所しているホームを訪れた帰りに一息つこうと行きつけのいつものところに腰を下ろし、1頁目をめくり最後まで一気に読んだ。すこしずつ読みたくなかった。読み終えて不思議な感情が湧きあがった。これは小説なのか。こんな小説があるのか。
片山恭一さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』が作家の無意識の表現だとしたら、『新しい鳥たち』は世界を睨んだ意識的な作品だと思う。この作品は戦後文学を画する作品であるに止まらない。未知のまったく新しい文学が登場した。はるかな深度がどれだけの表現の規模をもつかは言わない。あらゆる文学の試みがこの作品によって拡張されている。あまりに観念的な作品は、あまりに全体的で、内面とはそういうものではないと、人はこの作品を読み違えるのではないかと思う。あなたがたの内面はあまりに社会的すぎるとわたしは問い返したい。現実というわかりやすい即自態があると内省の意識は即自態を対自的にいやおうなく表現する。ドゥテルテとキルケゴールの違い。むきだしと内省。そこにわたしたちの知る文学があるが、この意識をさらに対象化しようとする意識がこの作品を表現している。
生を引き裂く自然から熱い内包自然へ移行する過度として『新しい鳥たち』はある。この「ある」という言葉がくせ者だ。「ある」は「在る」や「有る」を含みもちすでに同一性によって粗視化されている。この粗視化された同一性は意識を外延することで名づけようもなく名をもたぬ出来事を可視化する。むろんこの言葉による実体化は、根源の性を分有するという驚異を抽象化された一般性である人格を媒介に表出される。そしてこの自我という人格をさらに抽象化すると共同体の本質である共同幻想へと一般化されることとなる。この抽象化と一般化のなかに生の固有性はない。この表現の範型では引き裂かれる生が自然であると前提される。またこの自然をなぞることが文学や芸術とみなされてきた。そんな民主主義文学はもううんざりだと片山さんは新作で言う。おう、とわたしは応えたい。わたしも「社会」文学にはうんざりしているからだ。そこには商品としての文学があるだけでどんな未知もない。むしろ自己の自己にたいする内省の意識がこの世を予定調和的に支えている。また内省の意識によってこの世のしくみが安定的に持続する。この世のありかたはまちがっていると意識を内面化し作品にするときその表現の行為があらかじめすでに社会に取り込まれているということだ。片山さんは世界の無言の条理に真っ向から挑むわたしの知る唯一の作家だと思う。
主人公のキクとヤシとフユをめぐって物語は展開する。斬新だがきわめて難解な観念小説という意味合いをもっている。生の不全感を抱えそろそろ死ぬ頃合いだと考える30歳のキクがいて、ふらりとキクの生活に紛れ込んだ狂言回しの不思議なヤシがいて、訳ありの物静かなフユが脇にいて、キクの世界認識が物語られる。この小説作品のいちばんの特徴は寓喩による童話のような形式で小説の全体性をめざしていることにあるのではないかと思う。世界の無言の条理に慈悲を見いだそうとする桜木紫乃や東山彰良やひょうきんなのにまっとうな伊坂幸太郎の作品も好きで目につくものはみな読んできたが、『新しい鳥たち』はかれらのどの作品ともちがう不思議な印象があった。これから『新しい鳥たち』のいくつかの印象的な場面を切り取りこの作品のもつ全体的な意味を論じたい。
熱い自然についてヤシが語ること
「そこは光に溢れていた。凍え死ぬほど寒かったけれど明るかった。いつも太陽が輝いていて、色はなくて白だけの世界。雪の音が聞こえるんだよ。風のない日にはね。風が吹くと、乾いた雪が目に入ってチクチクする。あれには困ったなあ。もう一つ、なぜそこが楽園だったかというと、ぼくたちはお腹をいっぱいにするかわりに胸をいっぱいにすることができたからなんだ。胸がいっぱいのときって、お腹が減っていることを忘れるだろう? 忘れるっていうか、感じなくなる。胸がいっぱいのときには身体も温かい。薪も石炭もいらない。もともとそんなものはなかったしね。毛布だって充分じゃなかった。でも、そこは楽園だったんだ」(『新しい鳥たち』94p)
「チモシイと二人になると、いつも不思議な気分になった」彼は遠い記憶を手繰るようにしてつづけた。「たとえばぼくが青って言う。チモシイが黄色って言う。すると二つの言葉が一つになって緑色になる。きみは黄色だね。あなたは青ね。二人だと緑……わかるかなあ」
「わかるよ」フユは言った。「とてもよくわかる」
「温かくなるって、そういうことだと思う。ぼくがチモシイの足をさすってあげたところで、たいして温かくなるわけじゃないんだ、実際はね。でもそうやっていると、ぼくの青とチモシイの黄色が一緒になって、二人とも緑色になってしまう。青のままでは寒いし、黄色のままでも寒いけど、緑色になると温かい。こうしてぼくたちは、冷たい世界にいても温かかった。いつだって温かかったんだ。火を熾しても身体が温まるわけじゃない。まわりの空気が温まるだけでね。お腹いっぱいに食べても、ぼくがいっぱいになるわけじゃない。ぼくがいっぱいになるのは、胸がいっぱいになるときなんだ。ぼくたちが温まるのも、同じことだよ」
「素敵ね」彼女は短く言葉を挟んだ。
「フユならきっとわかってくれると思った」ヤシは嬉しそうに言った。(同前96p)
引用のこの箇所は『新しい鳥たち』の核心的なモチーフとも言える、深い自然の存在について作者が抱懐している想いだと思う。いまヤシの傍らにチモシイはいないが、ヤシはいつもチモシイとともにある。同一性という粗視化によれば内包の痕跡はチモシイを追憶するということになるが、それはまったくちがう。心身一如に心が貼りついているという根深い思考の慣性が自我を実体化しているだけだ。根源の出来事を粗視化したとき、出来事は真・善・美へと分割された。もう少し作品の言葉を追っていく。
キクがじぶんの書きかけの作品を手ぬるいと思う場面
「銃を向ける相手を間違えているんじゃないか」少年は彼の目を見据えて言った。「あんたが撃たなきゃならなかったのは、あの男たちだろう。そうじゃないのか? あいつらを撃てなかったあんたは、おれと同じようにクソッタレだ。あんたの言うクソッタレとは、あんた自身ってことだよ」
彼は安全装置を外した。
「やれよ」少年は挑発的に言った。「撃ちたけりや撃て。おとなしく撃たれてやるよ。どっちでも構わないんだ。おれはあんたなんだから」
じりじりとした時間が流れた。たしかに少年の言うとおりだ。あの場で三人を殺ってしまうべきだった。彼らが少女を姦ったように。だが殺らなかった。殺れなかった。行為をやめさせることさえしなかった。ただ目を背けて立ち去っただけだ。見ないことで罪が薄まるとでもいうのか。いまからでも遅くはない。やつらがもとの世界に戻っていく前に、のんきな日常に解き放たれる前に、上等のスーツで出勤し、やあ、元気かい。仕事はどう?」などと何喰わぬ顔で言ったりする前に、殺ってしまおう。あの連中を帰してはならない。帰還させてはならない。ここで始末して、砂に深く埋めてしまうのだ。
やがて路地の入口に三人が姿を見せる。彼は銃を下ろす。そして何事もなかったかのように言葉を交わす。結局、連中を撃ち殺さない。おとなしく車に乗せて、もとの街へ送り届ける。帰りの車のなかでは一言も口をきかない。彼は仕事を辞める決心をする。そこで小説は終わる。主人公は虚無を抱えたままページを立ち去る。あとは読者に想像してもらおう。心を蝕む内省と苦悩を抱えて、その後の人生を送る一人の男。心地よい余韻は、この小説を読んでくれる人たちのものだ。めでたし、めでたし、ということで誰も何も変わらない。書いている本人も、それを読む者も。変わる必要がない。変わらなくても済む。安心安全。お気楽にして無害。これぞ民主主義的な文学というものだろう。(同前152~153p)
片山さんの書いていることに躊躇なく同意する。世界に対する構想力をもたぬ文学をなんと呼べばいいのだろうか。あるいは文学という無垢があると思い込んでいる、未知を抉る気概もない人たちの内面の不純。それはつるんとした制度であり、ありふれた伝統技能にすぎない。ここで片山さんは文学のことにとどまらず世界認識の方法そのものの行き詰まりを暗喩している。民主主義と全体主義の理念は、理念として異なるにもかかわらず極めて相性がいいのはなぜかと問うて、だれからもまともな回答はない。なぜ民主主義はいつのまにか全体主義になるのだろうか。それはこの国の特技である自然生成の為せる技である。キリスト教の精神風土に牧人=司祭型権力があるとすれば、いつも、いつのまにか自然になるなにかだ。この島嶼の国には天皇=赤子型権力がいまもなお生々しく根づいている。なぜこのような思考の慣性が滅びないのだろうか。どちらの理念も人格の表出を媒介にしているからだと思う。人格を媒介にするかぎり平時は民主主義、戦時は全体主義となってなんの矛盾もないわけだ。べつに民主主義にかぎることもない。「社会」主義が人間の自然だからだ。おそらく人類史に敷衍しても妥当する。知によって衆生を馴致する技芸が王を補弼する知識人だった。知は統治の技芸なのだ。わたしがくり返し書いてきた「知識人=大衆」論に拠る世界の統治は近代由来をはるかに超えた人類史的な意味合いがある。この知を可能とするものもまた同一性だ。なにが人格を担保するのか。同一性だ。さらに権力の生への延伸を可能とするために内面というものが発明された。文学や芸術や思想は内面化が作品となってあらわれたものだという憶断がわたしたちのなかにある。よく考えると〔在る〕の奇妙さは粗視化しないと対象とならない。この粗視化の認識のひとつが同一性という自然だった。またこの思考の慣性の流れのなかにいまもわたしたちの生の理念は閉じられている。
胸がいっぱいになるヤシ。チモシイと一緒にいると緑になるチモシイの青。豊穣な生の源泉に触ったチモシイはどこに行くのだろうか。不思議なチモシイのふるまいをみていてキクは思う。「なぜ人は引き裂かれるのか。理由は簡単だ。腹が減るのは一人称だから」。「おそらく人間は誤ったデフォルトのもとに初期化されてしまったのだろう」と考える。物語では内包の世界を生きているヤシは邪悪な者から襲撃され意識が昏睡する。ここでヤシは根源の性の寓喩を象徴している。ヤシからチモシイがいなくなったように、キクからもヤシがいなくなる。キクもヤシの世界に行きたいと思う。「おれもおまえのように眠りつづけたい。おまえの夢のなかへ連れて行ってくれないか。ここにはいたくないんだ。ここにいると、また死にたくなってしまう」。
おいヤシ、すごいもんだな。おまえにはそういう力がある。「力」というのは、ちょっと違うな。力ならざる力と言っておこうか。おまえは誰かを、その者が望んだ以上の者にしてくれる。クソッタレのなかに沈みそうになる者を引き上げてくれる。おまえの目に映った自分なら生きられそうな気がする。その自分を、その人間を生きたいんだ。ヤシ、目を開けろ。こっちを見てくれ。おまえの目におれを映しつづけてくれ。(同前230p)
アキと朔のいつも一緒、どこでも一緒の世界をもうひとつ進めて表現に深まりが出てきている箇所の象徴として読むことができる。ヤシの目に映ったキクがほんとうのキクであることが語られている。自己はここで転位して拡張されている。この表現の拡張を同一性は粗視化することができない。ここでキクの世界は自己表現から内包的な表現へと転位していることになる。自己表現から内包的な表出にむけて言葉が流れだそうとしている。こういう文学をまだわたしたちはもったことがない。そのことを作者はもっと押し広げていこうとする。ヤシがチモシイのことについて語る。
いまきみたちが見ているのは、本当のぼくじやないんだ。ここにいるぼくはね。チモシイが半分持っていってしまったから。半分ってのいうは二分の一ってことで、本当のぼくは、ぼくとチモシイから成り立っている。ぼくが半分で、チモシイが半分。チモシイが消えてしまって、いまのぼくは本当のぼくの半分でしかない。わかるだろう? つまりきみたちは完全なぼくを知らないんだよ。(同前195p)
意識の外延と内包の往還について作者はいくらか混乱している。ヤシが言いたいことはこうだ。単独のヤシがもうひとりのチモシイと出会って胸がいっぱいになるとき、単独のときのヤシの不全感は消えてしまい、だからいつもどこでも一緒で胸はもっといっぱいになる。それが作者の言いたいことだ。青色をしたヤシが黄色のチモシイと出会って緑色になるとき、ヤシはもうヤシでなく、チモシイはチモシイでなくヤシはヤシでありながらチモシイであり、チモシイはチモシイのままでヤシなのだ。なぜそうなるかというと作者もいうように、チモシイの目に映ったヤシがほんとうのヤシであり、ヤシの目に映ったチモシイがほんとうのチモシイであるからだ。もうヤシはいままでのヤシであることができない。チモシイもそれまでのチモシイであることができない。この性の知覚からはチモシイが半分持っていってしまったからほんとうのじぶんじゃないということは起こりえない。じつに意識の外延と内包の往還は慣れるのがむつかしい。内包をいつのまにか外延的に語ってしまうのだ。根源の性によぎられることの不思議なところだが、いちどヤシがチモシイになってしまうとチモシイがいなくなってもヤシはチモシイのままなのだ。一度緑色になったら、青色のまま緑色であることがなくなることはない。と共にということをわたしはそういうふうに理解している。ヤシはひとりでいるときよりもチモシイといるときのほうがほんとうにほんとうのじぶんになることができるのに、チモシイがいなくなってすこしいじけている。でもヤシは還相の性を生きているので、チモシイと一緒にいるときとほんとうはなにも変わらない。それがほんとうのほんとうということの本然だ。わたしは還相の性はそれがあればほかになにもいらないとても強い概念だと思う。だから「世界の印象が変わった日のこと」が起こる。
世界の印象が変わった日のこと
一つの作品に出会った。向こうがこっちを見つけたような感じだった。荒涼とした大地に、女の人が両足を広げて仰向けに倒れている。冬場の畑地かもしれない。夕暮れみたいだった。女性はまだ若い。少女のようにも見える。その陰部に細い棒のようなものが突き刺さっている。たわいのない悪戯みたいに、いかにも無造作に棒は少女を刺し貫いている。地平線の彼方に、進軍していく兵隊たちが小さな蟻の群れのように見える。彼らの何人かが少女を強姦したに違いない。それから陰部に棒を突き立てた。なんのために? わからない。死体は真っ黒になっているから、殺されたあと火をつけられたのかもしれない。焼かれて真っ黒になった死体。剥き出しにされた生殖器。悪戯のように突き立てられた細い棒。おれは自分が何を見ているのかよくわからなくなった。
好きな作品ではない。好きになれるわけがない。いまでもそうだ。あのときは好きも嫌いもなかった。好悪の感情を超えて、作品はおれをつかまえてしまった。好きな作品ではなかったが、力があることは確かだ。動くことができなくなっていた。長い時間、金縛りにあったように作品の前に立ちつづけていた。残酷、醜悪、猥褻……何も感じない。あらゆる感情は蒸発してしまったみたいだった。思考は作品のなかに吸い込まれてしまった。ようやく頭が働くようになって、まず思ったのは「何か被せてやらなきゃ」ということだった。彼女を覆ってやりたかった。せめて剥き出しの生殖器だけでも。それが無理なら作品を撤去すべきだ。かわいそうじゃないか、無数に見ず知らずの者に「鑑賞」されるのは。たとえ芸術であろうと、こんなふうに人目に曝されるべきじゃない。何かが間違っている気がした。作者も、おれも、おれたちも。
作者自身が遭遇した出来事だったのだろう。自分が目にした光景に衝撃を受けた。その不条理さを作品にした。止むにやまれぬ衝動から。何かを伝えたかったのだろう。戦争ではどんなことだって起こる。こういうことも起こる。そう言ってしまっていいのだろうか。何時間も経ったような気がしたけれど、実際には数分だったかもしれない。不意に呪文が解けて、おれは作品の前を離れた。それから逃げ出すように美術館の外へ出た。夏の空は理不尽に青かった。いろんな疑問が湧いてきた。もし作品にモデルがあったとして、作者はその女性のことをどう思っていたのだろう。作品をつくっているあいだ、彼女のことを考えただろうか。なぜ彼はあんな作品をつくったのだろう。(同前231~232p)
わたしも銅版画家のおなじ作品をブログで批判的にコメントしたことがある。『新しい鳥たち』のなかでキクが惨殺された女性に「何か被せてやらなきゃ」とつぶやいた場面にほっとした。作者のこの感度は鋭敏だと思う。「たとえ芸術であろうと、こんなふうに人目に曝されるべきじゃない」。おなじことをわたしも感じたからだ。すこし絵描きの倒錯について書く。絵描きは美に魅入られる。美にわしづかみにされるということは当人にとっていかんともしがたく、面々の計らいであるというほかない。美の表現は価値のひとつではあるが、価値の全体ではない。その得手勝手な作品は美ではなく醜悪でもある。価値の根源はそこにはない。なにが価値か。生きていることそれ自体である。そのほかにはない。生きて天寿を全うすること。酷い死とそれをかたどる作品のどこにも生きられる死はない。なぜそのことに気づかないのか。美に魅入られる絵描きもまた観察する理性の者だからだ。こんなグロテスクな作品をつくるということが権力だということになぜ気づかない。ここにも思考の慣性というおおきな倒錯がある。戦地で見て見ぬふりをした内心の咎が銅版画家に作品をつくらせたことは明らかであるが、作品と自己のあいだにすきまはなかったか。あるにちがいない。この作家はそのことを秘している。これが戦争の現実だと言いたかったのだろうか。傍観者にすぎないではないか。出来事の当事者とはこんな生半可なことではない。作品に「何か被せてやらなきゃ」と言わしめること。無惨な死を死んだ女性を笑わせることができなければ芸術は沈黙せよ。それができなければ彫らねばいい。書かれない芸術作品というものがある。美術の好事家を感動させ攪乱することはできてもわたしを騙すことはできない。またこの程度の作品をわたしは芸術とは呼ばぬ。作中のキクは銅版画家の先まで行く。
だからね、ヤシ、おれは殺すとか犯すとか奪うとか、そういうことが起こらない世界をつくりたいと思ったんだ。この世界では生きていたくない。ならば別の世界をつくればいい。少女が男たちにレイプされるとか、そういうことに立ち会わなくても済む世界。そんなことを考えなくても生きていける世界。モーセの十戒など、最初から存在しなかった世界。人間というOSから、殺す、犯す、奪うといったプログラムを抜いてしまうことはできないかと考えたわけだ。
モーセの前に現れた神が、殺してはいけない、犯してはいけない、奪ってはいけない、などと訓戒を垂れたとき、すでに人間はそのようなものとして初期化されていた。とても古い時代から、人間の歴史がはじまる前から、人は殺し殺され、犯し犯され、奪い奪われるものでありつづけてきた。だったら簡単だ。同じ人間を、別のものとして初期化しなおせばいい。たとえば両親や兄弟や姉妹として。(同前239p)
とても根本的なことが述べられていると思う。わたしの言葉で言えば、OSを初期化しべつのOSに置き換えることは共同幻想をつくらない喩としての内包的親族の可能性を示唆している。理念の手直しでどうかなるという段階はとうに超えているという差し迫った世界の感受が作者にある。この作品で作者は当面する世界の現状をさまざまに語っている。文学への信仰をもつものは、人間の内面とはそういうものではないと言うにちがいない。もちろんこの手の反問を作者は反芻したうえで作品を書いている。あなたが外界の出来事と関係なく内面という観念の王国があるというその考えがすでに社会化されている、とすぐに切り返すと思う。この心的な機転はぬるま湯に浸かっている鈍感な物書き文化人にはなかなか理解できない。いまわたしたちの前にある文学作品は「社会」小説であり、世界の無言の条理に真向かう表現のなかにしか文学の可能性はない。片山さんがつかんだ表現の感触はたしかだと思う。銅版画の作品に金縛りになり立ち尽くしながら「何か被せてやらなきゃ」ということに気づく。この気づきに文学や芸術の本然がある。美が観察者にとどまるかぎりその技芸がどれほどすぐれていても価値の全体を表現することはない。価値の根源は根源の一元に由来する。なぜヤシとチモシイは楽園を追われたのか。思考の自然は答えることができない。美の実作者はいつでも美という精神の場所に待避することができる。おう、余裕ではないか。美という欺瞞の制度。もうその場所にわたしたちはいない。無言の条理そのものである情景にさらされた作品を覆ってしまいたいとキクに思わせる根源の力。それはキクとはなんの関係もなく存在する。その根源の力に照らされてキクが存在しているということ。そこにはキクの計らいは存在しない。ヤシとチモシイはなぜ楽園から追放されたのか。同一性に違犯するからだ。一人ひとりが生を価値化することはどうやれば可能か。それは表現が生活をつつむ可能性を問うことにひとしい。生を固有なものとして生きることはあらゆる価値の価値転換によって果たされる。その可能性についてこの作品は触れている。
いつか誰もが好きなことをやって、その成果を無償で贈与し合える世界がやって来る。一人ひとりがゴッホや賢治を力いっぱい生きることのできる世界が。おれたちはもう、その世界を生きはじめている気がする。ここで起こったことは、いずれあちこちで起こる。一人に起こったことは万人に起こる。そうして世界はあらたまる。(同前243p)
『新しい鳥たち』は自己表現ではなく、意識が内包的に表現された、他者であるじぶんを表現するはじめての作品だと思う。作品を内包的に表現するときだけ生の不全からまぬがれる。「ヤシがおれを選んだ。フユがおれを選んだ。・・・生まれてくる子に選ばれるという感覚。子が親を選ぶ」。最期の親鸞、宮沢賢治、ヴェイユ、フーコーがおのずとそれぞれの個性なありかたで立った場所。その場所を作者は生きている。「私を駆りたてた動機は、ごく単純であった。・・・つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めているていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。・・・はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるためには不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ」(ミシェル・フーコー『快楽の活用』)生の無名性を生き切ろうとしてふいに背後の一閃によぎられた。このときはじめて言説が権力から解き放たれる。ここからまったくあたらしい人間の概念や表現の可能性が拓かれてくる。またここでしか生を肯定的に語ることはできない。そこでだけ一切のなぜが消え、生を固有なものとして舞うことができる。なにが片山さんに起こったのか、いつか聞いてみたい。