時代の騒乱の渦中に行動者として登場するとき観察する理性の余地はない。なにか大きな力に巻き込まれ、思いっきり心と手足を伸ばすのだが、なにがどうなっていて、なにをやっているのか、当の本人がまるでわかっていない。全身没入の体験だ。よく似たことをすきな音楽を聴いているときにも体験する。わしづかみにされて自己が簒奪される。フーコーらの言う主体の消滅だ。若い頃から生きていることと言葉を分離することができなかった。生活と思弁にわけることがわからなかった。じぶんが抱え込んだ厄介ごととべつに物語をつくることができなかった。この世界のどこにも安息の地はないという強い感受をそのまま言葉として取りだしたかった。わたしは抱え込んだ厄介ごとで絶息しそうで、なんとかしてこの事態を言葉で取りだしたかった。そうするよりほかに生きようがなかった。そして出来事は残骸のように遺棄された。みななにごともなかったかのように、あったことをなかったことにして通り過ぎていった。わたしの体験は内面化することも共同化することもできず、どこにも出口がみえなかった。そんなとき『バナナフィッシュ』の「アッシュ」やイギーポップの「イディオット」がじかにわたしのなかに入ってきた。すきな音楽もすきなマンガもたくさんある。そのときわたしはすきな音やマンガとともに息をすることができた。これらのものは、霧が深く立ちこめた日々の力になった。文学作品はとろくてダサくてぬるく、日々を生きる力とはならなかった。日本文学といわれるものはほとんど読んでいないし、読むつもりもない。
ドン・ウィンズロウの『犬の力』に引き込まれ、いま『ザ・カルテル』を読んでいる。面白いぞ。わたしはこの作品を文学作品として読んでいる。世界はわたしに遅れてついてきているということがよくわかる。世界の無言の条理がふんだんに書いてある。堪えるぞ。東山彰良の『流』や『罪の終わり』も面白かったが、無言の条理の中に慈悲を見いだすのではなく、わたしは世界の無言条理を怯ませ言葉のおのずからなる力で平定しようと思っている。右の政治も左の政治も、純文学もエンタメ文学も、そういうものはとうにない。あるのは、目的は手段を正当化するという政治と、内面にプログラムされたコーディングをたどることが文学であるという臆断だけだ。わたしはそれは意識の制約された表現にすぎないと思っている。もっと遠くまで行ける、決定的に違う意識がありうる、それが可能だと思う確信があるから内包論を考えつづけている。
ここに外延知があるとする。外延知のひとつが共同幻想としての国家権力であり、抗命する意志は反権力的な集団の運動を展開しながら、反権力的な共同幻想から脱落した不如意は敗北の根因をつかもうとして内面の王国を築くことがある。よくあることだ。この知の範型になにか未知があるか。なにもない。フーコーの発言からこの場面を象徴する箇所を取りあげる。
悶えるフーコー
いうまでもなく、千年単位でものを考えた場合、こうしたけちな西欧化という現象は、極東の長い歴史の上ではきわめて浅薄なものとなってきます。それは、せいぜい一、二世紀続いた現象でしかありません。だが、今日、第三世界、いや、非・西欧的な世界が前世紀より蒙っていた西欧による怖るべき経済的搾取を乗りこえてようとする方法と手段とは、なお西欧に起源をもつものであるように思われます。では、これから何が起ころうとするのか。この西欧的な手段による解放の動きを契機として、何か新たなものが生まれようとしているのか。絶対的に超・西欧的な文明が文化が発見されることになるのか。わたしはそれが可能だと思う。大いにありうることだとさえ思う。そして、それが可能でなければならぬ。世界が、資本主義に特有のこの西欧的な「権力」形態を越えねばならぬと思います。わたしにとって真実と思われるのは、いまや、非・資本主義的文化は、西欧文化の圏外にしか生まれまいということです。西欧は、西欧文明は、西欧の「知」は、資本主義の鉄の腕によって屈伏させられてしまいます。われわれは、非・資本主義的な文明を創出するには、疲弊しつくしています。先刻わたしがいいたかったは、西欧の人間たちが、いわばその西欧的植民地化の罠にはまったということ、つまり西欧が築きあげた方法と手段によって、非・西欧的世界が西欧を越えてしまうということです。いまや、非・西欧的にして非・資本主義的な新たな文明が始まろうとしている。そして、それにつけ加える言葉をわたしはもはや持ってはおりません。(『批評あるいは化死の祭典』蓮実重彦・蓮実重彦によるフーコーへのインタヴュー)
眺めるフーコー
国家のどのような首長も、自国のすべてのマスメディアを拠り所としているどのような政治的指導者でさえも、このように個人的でこのように強烈な愛着の的になっていると今日自慢するわけにはいかない。この絆は、多分三つの事態にもとづいているにちがいない。すなわち、ホメイニはここにはいないのであり、十五年来、彼は亡命生活をしていて、国王が出ていってしまわないかぎり亡命先から帰国したくない。つぎに、ホメイニは一言も言わない、いやという否認の言葉以外は一言も-国王にたいして、体制に、従属状態にたいして。最後に、ホメイニ党などあるまいし、ホメイニ政府などあるまい。つまり、ホメイニは集団意志の集約点なのである。
それは素手で立ち向かう人々の反乱であって、われわれ各人を圧迫する、いっそう個別には、あの石油労働者やあの国境地域の農民たちといった彼らを圧迫する重荷を、つまり全世界の秩序という重荷を、かの人々は除去したいのだ。これは多分、世界規模のシステムにたいする最初の大反乱であり、最も現代的な反抗形態である。そして最も奔放な反抗形態。(D・エリボン『ミシェル・フーコー伝』393p)
フーコーのやり残したこと。悶えるフーコーと眺めるフーコーのあいだにあるすきま。主体の解体を唱えた者らはこのすきまに自覚的ではない。それは外延知いがいの知のあり方を知らないからだ。フーコーも外延知から内包知の領域に跨ぎ超そうとして外延知をまだ引きずっている。
フーコーがつかんだ〔倫理〕と観察する理性のすきまについて付記する。「私たち二人の間にある情熱状態、それ自身以外に終わる理由もなく、私がそこに完全に入れこみ、私を貫いて通るこの恒常的な状態のことです。彼に会いに行きたい、彼と話しをしたいと思うとき、私をとどめるものはこの世にひとつもありません」。素顔のフーコーが顔をのぞかせているすきな言葉だが、フーコーは恒常的な情熱の状態を空間化している。かれ自身が「私たち二人の間にある」と書いている。「間」を内在化しないかぎり内包知は出現しない。そのことにフーコーは無自覚だと思う。〔倫理〕は〔倫理的活動の核〕からのうながしとして訪れるのであり、どんな知性によっても空間化することはできない。親鸞は他力と言い、ヴェイユは恩寵と言った。むろん親鸞もヴェイユも信の共同性を根から断つことはできていない。他力にも恩寵にも外延知の残滓がある。
フーコーが非西欧的な文明を渇望していることは理解できる。しかし集団の意志を集約する「ホメイニ」はイスラムの牧人=司祭型権力を再演するだけではないのか。そんなもののどこに疲弊した西欧文明を超える契機があるか。イスラムの反乱が全世界の重荷を解き放つ世界規模の大反乱たりうるだろうか。騒乱の現場を眺める文化人の戯言であると思う。フーコーもまた牧人=司祭型権力に対抗する知の権力を華麗に舞った司祭のひとりにすぎないとわたしは思う。フーコーの思想で世界は変わるか。世界の無言の条理ができるならばわたしも変わってみたいと言うだろうか。観察する理性ではなく当事者性に拠る表現だけが発語する自己と表現された言葉にすきまがない自己の領域化という〔主体〕を現成する。その至近までフーコーは到達していた。(つづく)