日々愚案

歩く浄土95:情況論19-総アスリートから総表現者へ5-敗戦から71年

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SEALDsが敗戦71年目の今日解散した。スマホで動画を見てメッセージを読んだ。さわやかだった。時代の無意識がSEALDsの運動を生み、この一年の間に時代の潮目が変化した。この変化を敏感に感じ取っているとわたしは思った。祈るように夢を生きるとなんども歌われていた。内包論も祈るように夢を生きている。SEALDsのメッセージと入れかわるようにしてアマゾンから『日本会議の研究』(菅野完)が届いた。帯文に、「市民運動が嘲笑の対象にさえなった80年代以降の日本で、愚直に、地道に、そして極めて民主的な、市民運動の王道を歩んできた『一群の人々』によって日本の民主主義は殺されるだろう―」とある。いまから読む。SEALDsの解散と『日本会議の研究』の取り合わせ、なにかを象徴しているような気がする。これから、奉じるイデオロギーの左右を問わず、我こそがもっとも陛下に衷情をつくしていると、その多寡や是非を競うようになるだろう。戦前復帰するほどの地力はないし、グローバルな経済とハイテクノロジーがやがてオカルトな精神を平定するに違いないが、いやな時代はしばらくつづく。

1946年1月1日に発布された「新日本建設に関する詔書」には天皇の人間宣言という文言は一切ない。強いて人間宣言と読めるのは最後の数行のみである。

朕と爾ら国民とのあいだの紐帯は終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説とによりて生ぜるものにあらず。天皇を以って現御神とし、かつ日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。

マッカーサーの検閲のメガネに適うような詔書であるが、それにしてもなんと傲慢で横着な物言いだろうと思う。単なる神話や伝説でも、民族の優位性でもない、朕と爾ら国民とのあいだにある信頼と敬愛の紐帯とはなにか、なにも述べられていない。一方的に爾ら臣民よ、と告げられているだけだ。日本のすべてを統べる中心に、朕は国家なりとして、大元帥として、神事を司る天皇(すめらぎ)として君臨した、その大君が、敗戦を臣民に布告する。「朕は時運の趨くところ堪えがたき堪え、忍びがたきを忍び、以て万世のために太平を開かんとする」「爾臣民、それ克く朕が意を体せよ」。朕は国家なりの天皇が、ないはずの個人の私情を語る。共同幻想としての朕に私利と私欲はないはずだ。それにもかかわらず天皇は身の不運を嘆き臣民にそれを諒とするように迫る。天皇は自己の窮状を語るが、そこには、たとえわれら一億総玉砕しても皇統を護持したいと言うしかなかった臣民の一人ひとりの苦界に突き刺さる言葉は、ひとかけらもない。

保身と大義の巧妙なすり替え。同一性の為せるわざだと思う。荒れ狂う共同幻想のもとでは天皇もまた共同幻想の属躰たる臣民の一人であり、同一性の僕だった。空っぽの同一性にはどんなものでも入ることができるし、どれほどの愚劣も憑依できる。同一性の外延知としてしか天皇制は存在しない。万世一系という近代がねつ造した虚構が昏い穴をあけているだけで、そこにはどんな未知もない。それが昭和天皇の玉音放送だ。このときすでに天皇は連合軍(マッカーサー)の忠良なる臣民となっている。こういう親を父にもつと息子が苦労する。自らの意思ではなくこの世に生をうけ、自らの意志でなく国民統合の象徴として出自に沿うように生きることを強要される。おれの自由意志はどこにあるのかと若い頃の皇太子が思ったか思わなかったか。天皇という位は共同幻想であるから、わたしは辞めますと言えばよかった。偉大なゲルマン民族の精神の復興がナチスによる人類史の規模の厄災を招来したことをヒットラーに荷担したハイデガーは内省する。

断じて、人間は、まず最初に世界のこちら側にいて、「自我」であれ「我々」であれどう考えられようとも、ともかくなんらかの「主観」として、人間であるのではまったくない。(『「ヒューマニズム」について』渡邊訳 107p)

人間であるということはどういうことかおまえは答えていないぞ、といったらお終い。その程度のことしか言えてない。ハイデガーにたいしてさまざまに異議申し立てをしてきたが、引用のこの箇所はかろうじて納得できる。なにかを言おうとして美しい同一性の夢以外のなにもハイデガーは言えなかった。「主観」として人間であるということでは断じてないというとき、それがどういうことであるのかハイデガーはつかんでいない。自己(1)と多数(三人称)のつながりについては、マルクスであれ、ほかのどんな思想家であれ、まともなことは言えていない。この隘路をひらくのは広義の〔性〕であると思う。
根源の性を分有するということにおいて人は自由であり、その自覚が平等ということである。この覚知のもとでは三人称は喩としての家族としてあらわれるほかないという考えが内包論の根本にある。ともに白刃をくぐり抜けた長年の畏友原口孝博さんはそのことを〔重なりの1〕と言う。おなじことを言っている。内包存在を人間の自然的な基底とすれば人間という概念はおおいに拡張される。

71年前のこの日、父は皇軍の兵隊として羅津でソ連軍と壊滅的な交戦中だった。父も母も侵略と降伏と敗残を生き延び、いま、ここに、わたしがいる。戦争のことを書き残したいと言いながらなにも書かずに父は逝った。書けなかったのだろうと思う。内面化も共同化もできないそれ自体はいつも名づけようもなく名をもたない。

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「アスリートから表現者へ」はわたしの内在的な概念であり外延知ではない。この概念は一般的に語ることができないので、半世紀近くのじぶんの体験をふり返りながらわたしのイメージしている表現概念の拡張について書く。
若い頃にじぶんが関わった社会運動が壊滅した。その首謀者の一人として応分以上の負債を抱え込み、なぜこういうことになったのかと、長年考えてきた。壊滅的な闘いは吉本隆明の思想に支えられた。吉本隆明の共同幻想という思想がなかったら絶対孤絶を貫けたかどうかわからない。もし共同幻想という理念がなければ、関係を実体化し、やせ衰えた倫理を孤塁することしかできなかったと思う。共同幻想という理念によって乾坤一擲の勝負を賭けることができた。思想には生を根こそぎさらう恐ろしさがあることを身を以て体験した。
わたしを鼓舞した吉本隆明の思想は共同性が共同幻想であることを解明したが、ではその共同幻想はどうやったら解体されるかについて、大衆の原像や生存の最小与件や理念としてのふつうが共同幻想を相対化するという以上のことは生涯なにも言わなかった。
マルクスとおなじく吉本隆明の思想も「衆」に拠る表現だった。極限代理主義の倒錯を身を以て体現して以降、わたしはどんな衆にも拠らぬ思想をつくろうとしてきた。わたしを根柢で支えたのは、人は根源の性を分有するとき、人格は部分的にではなくはじめて全人格的に登場するというリアルだった。〔わたし〕を生きることで十分だといつも書き、しゃべってきた。この〔わたし〕は領域としての〔自己〕であり、外延ではなく内包表現を生きるとき、三人称(衆)はあたかも喩としての内包的な親族のようなものとしてあらわれるほかない。

決定的なことは自己は実体ではないということだと思う。さまざまな機縁のひとつの結び目が自己であることを仏教の知はよく見抜いている。「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」(『春と修羅』序)
しかしこの覚知は容易に対象となる自然に融即する。長い伝統をもつ島嶼の国特有の共同幻想というほかない。天皇にたいする稚気にひとしい尊崇にひそむすさまじい暴力。「しかし、ヒトラーの勝利―そこでは〈悪〉の優越はあまりにも確固たるもので、悪は嘘を必要としないほどだったのだが―によって揺るがされた世界のうちで死んでいった犠牲者たちの孤独がおわかりだろうか。善悪をめぐる優柔不断な判断が主観的な意識の襞のうちにしか基準を見いださないような時代、いかなる兆しも外部から訪れることのない時代にあって、自分は〈正義〉と同時に死ぬのだなと観念した者たちの孤独がおわかりだろうか」(『固有名』合田訳「無名/旗なき名誉」185~186p)あるいは辺見庸が書いた『1★9★3★7』の世界。あの出来事が自虐史観として葬り去られる。その愚劣。いつまで坊ちゃん嬢ちゃんのままごとをくり返すのか。内包という大人の思想を汝ら目をみひらいて見よ。だれのことだって? 安倍、おまえや、おまえの子分や、万世一系の空念仏を唱える「日本会議」のヘタレどものことだよ。赤化思想と皇国思想は「社会」主義者ということにおいて同類だ。ともに唾棄する。

なんどでも言う。自己に先立つ〔重なりの1〕が分極したあらわれをわたしたちは思考の慣性に倣い事後的に自己と名づけている。それが自己同一性ということなのだ。自己同一性が内包存在を措定することはできない。平面(二次元)の世界に棲む生きものの眼前に三次元の存在が出現したとする。平面の世界では内包という背後の一閃は、影としか知覚されないはずだ。そのことをわたしは内包の痕跡や面影と比喩している。自己同一性にとって内包存在は、同一性が刻む存在の符丁の彼方にある、存在することとはべつの仕方で、存在しないことの不可能性として存在する。「知識人と大衆」という権力による世界分割の彼方にとほうもない夢を夢みる。人類総アスリートにたいして総表現者が可能となる。そこでは生活を表現が包んでしまう。表現という概念が根本的に拡張される。またここまできてはじめてヴェイユの「匿名の領域」がデモクラシーとはべつの輪郭を描く。歴史の〔主体〕が登場し、人類史の概念はここで転倒する。

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