日々愚案

歩く浄土93:情況論17-総アスリートから総表現者へ3

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世界史の規模の価値観の大転換が起こり、その転形期のただなかを逼迫しながら生きている。転形期の世界はグローバリゼーションの猛烈な圧力によるねじれとその猛威によって蹂躙される国民国家との二重のねじれを抱え込む。国家の支配者は経済をグローバル経済に同期し、その矛盾を国を閉じることで押さえ込もうとする。グローバル経済は人びとをシステムの属躰として再編しコストパフォーマンスをあげる。そこでは同一労働・同一賃金・非正規雇用が常態となる。アスリートとして人びとは強制的にこのシステムに登録される。市民社会は不断に市民社会の外部を疎外し、市民社会の体裁を維持する。こういう時代の転位のなかで民主主義が対置された。いまでは懐かしい。わたしたちの生活の底に無慈悲が昏い穴をあけているというのに、これからは競争ではなく共生の時代ですと能書きを垂れるのは生活が痛くもかゆくもない文化人だ。だれもが世界の無言の条理がないもののようにして通り過ぎる。その緩衝域として天皇親政がある。よくできたしくみだと思う。

総表現者という考えは外延表現からはででこない。安倍の独裁が暴走しているのに、総表現者という分けのわからないことを提起してなんになる。というかそういうことを言う人は本質的に鈍感だからこの国がどれほど壊れているか想像力をたくましくすることはないし、またかれら文化人にとってはなんの切実さもない。逼迫する者たちは口先だけの救済の対象であり、空々しい民主主義の声が生活の実相にとどくことはない。かれらはいつも正論を宣う人たちであり、きわめて世俗的な者たちである。去年のシールズ旋風などかけらものこっていない。このブログで今回はじめて主張すること。この国ではもうすでに、いつのまにかそうなる、という流れができてしまった。昨年秋の安保法制(戦争法制)でこの国の戦後は終わり、新戦後が始まったわけだが、かれら支配者からすると戦後の終焉に70年を要したということだった。いまはすでに戦時体制だと思う。

国を閉じ、基本的人権や表現の自由を制限すること、緊急事態条項を加憲することがラディカルであり、その余を時代遅れの保守とみなす流れである。この流れを前提とすれば、メディアが政府を支持するのは当然であり、メディアを批判することは社会を壊すことになる。国策の維持を政府と一体になってやることがメディアの使命となるまで社会は変質してしまった。特別機密保護法から昨年秋の安保法制(戦争法)で戦後は終焉したが、オカルト安倍晋三らのやりたい放題は止まらない。護憲や国民主権や基本的人権や表現の自由という戦後の価値観は一切反故にされ、国のために血を流す覚悟をする者がラディカルであると、世相は一変した。その流れのなかでメディアを批判してもメディアが痛痒を感じることはない。政府の広報機関となることが正系であり、政府を批判するものは異端ということなのだ。昨年話題になったSEALDsの若者などもうなんの関心も影響力もない。あっというまに過ぎ去ってしまった。この変化は大きい。またこの変化をないこととして政府批判をやっても不毛である。それほど事態は変化した。この変化のなかに天皇の退位意向も布置されてる。

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この変化について内包論から述べてみる。
いま民主主義の啓発に努めることにもうどんな未来もない。民主主義の使い回しは与党の国策に圧し潰され民主主義の気息は感じられない。潮目が本格的に変わった。なにか奇妙な無風感が漂っている。抵抗する意志がなにか流れをつくるとはとても思えない。これからばらばらに切り崩されている。グローバル経済で侵された社会が無慈悲に目を瞑り、オカルトな愛国主義で矛盾の解消を謀る。わたしはアベシンゾウの本質はオカルト性にあると考えている。もっと言えばオウム真理教の全国化だと思っている。そのオカルトが権力を掌握したということ。この流れに抗しえないということ。アスリートとしてグローバル経済のなかでしのぎを削って行くこともありうるが、金や権力に序列ができるだけであり、なにも変わらない。それではあらたに編成される属躰民主主義のなかにささやかな生の慰安をもとめればいいのか。まっぴらごめんだ。感度の鈍い善意ある民主主義を唱える善意の人はいるが、そんなことで流れが変わることはありえない。わたしたちの日々の底には昏い穴があいているのだ。いつそこに呑みこまれるかわからない。かれらお節介なものはこの無慈悲については無頓着である。この一年ですでに流れはできあがった。グローバルなねじれと国内のねじれは複雑にからまっている。さあ、どうやってそれに対抗する。定型的な政府への異議申し立ては無力だし、またその文化運動のなかに生の未知はなにもない。

世界史の規模の価値転換に対するわたしたちの側からする世界構想だけが二重のねじれに対抗できる。知的な人も人びとも転形期の乱流のなかで行方を見失っている。この無為のなかに戦前とはちがう共同幻想が招き寄せられる。大半の人にとって先が見えない閉塞感がオカルトな安倍教団にラディカルさを見ようとして奇怪な共同幻想が鳴動し始めたと理解している。

世界史の激動を外延表現で解くことはできないとわたしは内包論で考えてきた。生の未知は、どうであれ、外延表現のなかにはない。国を統治するものであれ、統治に反対を表明するものであれ、万策尽きている。わたしは内包論で政府のオカルト勢力と政府の反知性主義を批判することは、それぞれの好みの主観的信条の違いがあるだけで、外延表現としては同型にすぎないと考えている。どちらもつまらない。
内包論ならグローバリゼーションも政府のオカルト勢力も政府を論難する知性派の人の鈍感さもともに柔らかい言葉の圏域に誘うことができると思う。安倍のオカルトな心性とそれになびく者らを内包の世界に巻き込むこと。わたしは構想力において勝機は充分にあると考える。

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喰い、寝て、念ずる、生の原像を還相の性として生きるとき内包自然があらわれる。内包自然は外延自然の拡張型であって、生きる気圏がちがう。とてもやわらかい表現のまなざしがある。外延自然の共同性は内包自然では喩としての家族のようにあらわれるほかない。これは思考にとってのまったく未知だと思う。世界史の規模の大転換をそっくり包み込んでしまうことができると考えている。これまで内包論でいくつか概念をつくってきたが、それらを前提にするとかつてわたしたちが生きたことのない未知の表現が可能となる。
そこであらためて総アスリートから総表現者へということについて考える。もちろん総表現者のなかには「知識人-大衆」論の権力はない。知識人というふるい人種は消滅し、人びとがアスリートではなく表現者となりうるということ。外延論では生活と思弁は分離され、観察する理性として思弁は行使される。その社会的な役割を果たす者が知識人や文化人という恥知らずだった。かれらはいつもじぶんを括弧に入れ、観察する理性のまなざしで世界を解釈した。ましてわたしのきらいな物書き文化人は当事者性というものをいつも括弧に入れそこには代理代弁はあっても裸形の生のかけらもない。わたしはそういう者らの言説をいい気なものだと嘲笑してきた。

内包自然を生きると生の諸相が繊細になり深くなる。生活と表現の分離ではなく表現が生活を包んでいく。人間の終焉(フーコー)でもなく世界視線(吉本隆明)でもなく固有の生が可能となる。わたしが生の諸相の繊細さをいうときそれは、はやりのレイヤーによるネットワーク共同体を意味しない。レイヤーもまた同一性を前提とした思考の慣性の流れのなかにある。その効用は現実を少しだけ違った視線で相対化するだけだ。システムの属躰であることを生きるだけで現実そのものはなにも変わらない。同一性を前提とするかぎりさまざまなレイヤーで生を類別しても同一性の宿命により価値化され序列づけられることは避けられない。レイヤーの全体が大きなシステムにフィードバックされ新商品になりレイヤーというシステムの属躰になる。
わたしが生の諸相はもっと深くて繊細であるというとき、内包自然が前提となっている。もうひとつある。心身一如という自己性ではなく、自己は領域として拡張できるという前提がある。内包自然と領域としての自己がなければ人びとが総表現者としてあらわれることは可能とならない。

これまで内包論で積み上げてきたいくつかの概念をもとにして総表現者のイメージを鮮明にしていく。全くの未知が出現することになる。わかりやすいたとえをもってくる。小さい頃にたしか9教科くらいの通信簿というものがあった。評定などどうでもいいのだが、通知表の9教科は人類の文明の全体を意味していると思う。ひとつの教科は無限に細分化され、教科の全体は文明の全体を意味していたはずだ。わたしたちの知る、あるいは知らない、文明史として集積された全体があったはずだ。どの教科も果てのない知を本質的に含んでいる。音楽も図工も体育も、数学も歴史も文学も芸術も。数千も数万もある表現のどれかに縁があれば一気に惹き込まれないだろうか。あっ、これおもしろい。そうならないはずがないと思う。ひとつかふたつ、いくつかピンとかビンとくるはずだ。そしてそれにわれを忘れてのめり込む。
わたしはやりたいことをやり、考えたいことを考えたいように考えてきた。そのわたしの行為を社会的に意味づけることはできない。わたしをよぎった不思議に驚いてなんとかこの驚異を言葉にしようと思考の慣性の埒外で考えつづけた。それは無償の行為とよぶほかない。
ここで問う。この行為はなにか特別のことか。わたしをよぎった不思議をたまたまわたしは言葉で表現しようとしたというだけで、そこになにか特別のことはなにもないと思う。端からみればせんなきことにちがいない。ないものをつくるのがどれほど困難で悶絶することであっても不思議に魅入られてそれを言葉としてとりだしたい。そのとき身の不遇を嘆くだろうか。そんな余裕などあるはずがない。

ここでまた問う。このありかたは特別なことだろうか。わたしはだれにでもありうるし、だれでもなしうると思う。熊本の平凡な田舎少年が博多で青年となり、さまざまなことに出会い歳をかさね、親の見守りをしながら熊本でいい歳になった。およそ縁があれば才の有無に関係なく人は表現の過程に入る。おなじように無限といえる人類の文明の集積に接して驚嘆しないはずがない。どの領域に魅入られるかは面々の計らいであり、縁だと思う。すでにインターネットというインフラは提供されている。回線さえあればだれもが人類の最先端の知に一瞬でつながりうる。武道も音楽も絵画も。すべての人に知はひらかれている。ほんとうはすごいことなのだと思う。ウィキペディアはかなりいいかげんだから、そこからまたべつのところに跳べばいい。すごいぞ。

想像力の欠如と世界構想がないことがつまらぬ社会をつくっている。安倍晋三に賢くなれといって賢くなるだろうか。リベラル左派に世界をどうしたいということがあるだろうか。ありはしない。あるのはしがらみと私利私欲。ではそれを捨てろといって捨てるだろうか。そんなことをいっている暇があったらおもしろいことやわくわくすることを当事者性として生きるほうが手っとり早いぞ。内包自然と領域として自己は不即不離だから、そこになにかの縁があって触った知を注ぎ込んだらすごいことになるぞ。70億の〔主体〕が出現し、70億の表現が可能となる。国家のために死ぬ覚悟があるか(こういうことをいう奴はべつの時代には毛沢東を現人神と仰ぐ)もTPPもどうでもいい。世界の属躰の行く末などどうでもいいではないか。未知の表現をわたしたち一人ひとりがつくり、一人ひとりが固有の生を生きるなら、世界の無言の条理は干涸らびる。わたしたち一人ひとりの生はそれほど深いとわたしは思う。内包自然を人の生の基底にすれば人はだれもがおのずと表現者となる。総アスリートではない、総表現者のなかに生きられる未知がある。生きていることが表現であるということがじかに可能となる。(つづく)

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