日々愚案

歩く浄土92:情況論16-総アスリートから総表現者へ2

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わたしはこれまでじぶんが体験してきたことをなぞりながら、「知識人-大衆」論という古い世界図式を歴史の屑箱に放り入れ、ある世界を構想し、総表現者ということを提起している。未知の考えであって、だれの、どんな本を読んでも書いてない。総表現者ということは思考の慣性の転倒である。ひとはだれも生活することにおいて表現をなしているということとはまるで違う。生活と表現というこれまでの表現を意味しない。生活することと思弁という観念の型は観察する理性を前提としている。そうではなく生がまるごと表現であることはどうすれば可能になるのか。知識人-大衆論を公理とする自己意識の外延表現を超脱しないと、表現につきまとう思考の慣性のかなたにはいくことができない。いわば往相の知を超出することなく未知の表現の概念を手にすることはできない。

わかりやすく文学的な表現にたとえてみる。ふと村上春樹を思い出した。なぜ村上春樹が嫌いなのか。理由は明瞭である。村上春樹の作品は内面にあらかじめ社会性がコーディングされている。内面化が表現されるわけだが、内面化に埋め込まれた、巧妙にコーディングされた社会性を内面化してとりだしている。狡い。この狡さが嫌いである。大半の読者はそのことに気づかない。ちょっとだけ考えたふりができるし、安易で気持ちいい。村上春樹の社会小説を読んで安堵するわけだ。もとよりかれにモチーフなどというものはとうにない。もともとなかったような気もする。かれにとって考えつくされるべきことはなにもなく、表現の核心はことごとく回避されている。そのスキルは高度だ。なにも書くことがないのになにかが書かれているように擬装するその技術でだけ村上春樹の作品は書かれている。村上春樹の内面にも安倍晋三の内面にもあらかじめ社会的なコーディングがびっしり書き込まれていてかれらはそのコーディングにしたがって作品をつくり発言をなしている。村上春樹が政治的にリベラルで安倍晋三が米国に隷従するオカルトな国家主義者であるということはなんの関係もなく意識の型としてはまったく同型である。つまり解けない主題を解けない方法でやろうとしていることにおいて村上春樹とは安倍晋三であるということができる。

読者よ、おわかりだろうか。わたしたちが生きている思考の慣性からみれば、村上春樹の作品と安倍晋三の愚劣はべつものであるようにみえる。しかし外延表現という意識の範型で一括りすれば、かれらの主観的心情のちがいがあるだけで意識の呼吸法にはなんら変わるところはない。読者よ、おわかりだろうか。投下した心労が貨幣によって酬われるこの世界で作家がアスリートであるなら、政治家もアスリートである。プロスポーツや芸能は価値化や序列は当然のこととしてあたりまえにアスリートである。作家も政治家もおなじである。政党の違いなど問題にもならない。作品は読者になにができるだろうか。政治は多くの人になにができるだろうか。なにもできない。1(個人)と多(たくさんの人)がつながりうるという間違った一般化を仮構するだけでなにもできない。なぜそうなるのか。かんたんなことだと思う。意識が閉じているからである。この意識は人類史を拘束してきた。1(個人)と多(たくさんの人)を約分することに汲々として、つながるということはどういうことであるか徹底して考えられたことはなかった。国家の無道と非道は糾明されながら延命し、国家の無道や非道を人は内面化することで抗命してきた。しかしそれでも無道や非道が熄むことはなく、懲りずに内面は抗命する。それは人間にとって不可避の自然なのか。知性のかたまりだったあのフーコーも厄介な人間を扱いねついに根をあげ人間は終焉すると言った。人間に意志というものがないとすれば考える心労からは解かれる。そうだろうか。人間という概念はまだ一度も成就していない。人間という概念はもっと幹を太くすることができるのではないか。

もしべつの意識の呼吸法がないのだとすれば人間はシステムの属躰になり事物とおなじものになる。そうだろうか。わたしはもっとやわらかい意識の圏域があると思う。だれの、どんな本に書いてあるか。だれも言っていないし、どの本にも書かれていない。くぐりぬけた体験を手放さず、思考の慣性に体験をゆだねることもせず、裸形の一箇の実存としてつかんだ感覚だ。むろん外延知ではない。内包というリアルと名づけた。
わたしはじぶんの体験を内面化することができなかった。内面化不能ということは思考の慣性を拒絶するということであり、意識を社会化しないということだった。わたしがつかんだリアルは存在しないことが不可能な、いつもその上に立っているシンプルな情動だった。この感覚をヘーゲルやマルクスは知らない。観察する理性のものたちは1(個人)と多(たくさんの人)を可視化し実体化することで世界の無言の条理を覆すことができると夢想した。その夢の果てをわたしたちは生きている。グローバリゼーションによって生が細分化され窮迫していくから人びとは精神を退行させ身をかがめようとしている。それがオカルトであるかどうか問う余裕がない。国家を閉じ、個人を閉じることでグローバリゼーションの猛威をしのごうとする。いつのまにかその流れができあがった。この流れに抗することはもうできないような自然。国家がこの自然に関与していることは事実だが、なぜ人びとの気骨は抗命しないのか。流れに身をまかすほうが自然だからだ。

この国の自然生成の気運はすこしも衰えていない。すでに人びとにとっての現実は戦後70年が保守であり国粋がラディカルであるように映っている。共同幻想が蠢動する。オカルトな安倍晋三らや、反知性主義からアベやメディアを論難する者らの挙動は不毛であり、そこにはなにもない。事態を指弾して現実を呪詛することはできるが未知をつくることはできない。おそらくどこの国でもその国の精神風土に合わせて猛威をしのごうとするはずだ。それが右派としてあらわれる。グローバル経済によってつくられようとしている属躰民主主義にたいして殻をつくり対抗する。外延自然のなかでグローバルな自然と国家という自然がつばぜり合いをする。観察する理性はこの相克をそれでも諦めきれない民主主義として警鐘を鳴らす。グローバルな自然にも閉じこもる自然にも事態を眺め下ろす視線のどこにも未知はなく、わたしもふくめて大半の人は目先の実利で動く。すべてが自然なこととして推移する。この自然はほんとうに自然(じねん)か。そうではないと内包論で考えてきた。

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存在しないことの不可能性として存在する同一性とはべつの原理。そのことを根源の性と名づけてきた。あるものがそのものに等しいと知覚されるのは、あるものが他なるものに重なっていることの痕跡であり派生態であるとも言ってきた。同一性はきっかけがあればいつでも出来事から遁走することができる。それほどもろい存在であり、理念としても空虚な形式だ。空虚が空虚を認識するだけであるのに、わたしたちはこの空虚な意識を内面化できると錯認してきた。内面化による文学という作品はじつは内面に埋め込まれている社会的なコーディングをなぞっていく行為にすぎない。世界の無言の条理を文学という仮構性で社会的に語る思考の慣性が文学や芸術であると錯認してきただけのことだと思う。同一性は外延表現を要請し、外延表現は同一性に鎮座する。それがわたしたちが知っている文学や芸術だ。そしてその程度のことで外延権力に抗命できると思いなした。読者よ、おわかりだろうか。村上春樹の作品とアベシンゾウのオカルト政治が同型であるということのふかい意味が。

内包自然を人間の自然的な基底にすると世界の知覚が一変する。個人や共同体という思考の慣性がひどく窮屈だと感じてしまう。内包論では自己に先立つ背後の一閃によぎられてはじめて自己の各自性があらわれる。自己が同一性に監禁されているから、自己と社会は和解できない。フーコーは言った。「法と秩序のあいだの和解はずっとこれらの人々の夢でありましたが、やはり夢のままであるにちがいないと私は考えています。法と秩序を和解させることは不可能なのです。なぜなら、そうしようと努力してみても、国家の秩序のなかへの法の統合という形式においてしか行なわれないからであります」(『自己のテクノロジー』)意識の外延論ではそうなる。つまりフーコーは現実をなぞっているだけだ。人間はやがて終焉する。人間が外延的なものであるなら人間は遺憾なく終焉するだろう。強いAIは人びとの就業機会を奪うだろうし同一性的な知では人間の知力をはるかにしのぐだろう。わたしたちは世界の属躰として生きていくしかないのだろうか。
そうではない。内包自然という未知がある。
わたしの内包論にたいして起こりうる疑問について一言する。内包は自己を実有の自然的な基底とする認識からみると意識の超越としてあらわれる。さまざまな宗教の超越も内包もおなじものではないか。内包もオカルトではないか。ここは、なんども反問し、反芻した。自己に先立つ内包という超越と宗教的な超越とは決定的に違う。内包は領域としての自己、つまり〔主体〕たりうるが、宗教的信は同一性の属躰となり、共同的な迷妄からまぬがれない。主観的な意識の襞のうちにある信は共同的な信と同期し可視化と実体化を被る。内包自然は喩としての内包的な親族を可能とする。資本は収奪とおこぼれではなく贈与のかたちをとる。内包自然は共同性をつくらないし、共同性を要請しない。外延表現の国家は外延表現にとどまるかぎりグローバル経済によって非関税障壁として平定されることはあっても、自らの意志で解体することはない。この違いは決定的だと思う。

内包自然を生の自然的な基底とするとき外延表現が不可避としてきた思考の慣性がおのずと拡張される。理解されたとは思っていないが、「知識人-大衆」論という権力の視線が人類史の規模の厄災を招来したこともくり返し主張してきた。いま人びとはアスリートとして世界に組み込まれつつある。同一労働・同一賃金と非正規雇用が常態となっていく。オカルトな頭はアメリカを希望の国と妄想し国体として仰ぎ見、身体は新自由主義でアメリカを真似る。頭と体はねじれている。アメリカに隷従しながら国粋主義を騙ることができる。安倍晋三たちの妄執はまた大半の人の願望でもある。戦後の70年は見事に逆転した。70年という戦後が保守であり、「美しく強靱な国」がいまではラディカルなのだ。この流れは確定した。そのことを前提に内包論をすすめている。

わたしは以下のように世界を構想する。総アスリートへの強制加入が現実であれば、アスリートにたいして総表現者の可能性を明確に対置したい。内包自然を生の基底にすればこの表現の位相が可能となる。「知識人と大衆」という統治の視線ではなく、すべての生ある者がおのずと表現者となる世界を構想すること。(つづく)

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