日々愚案

歩く浄土91:情況論15-総アスリートから総表現者へ1

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つぎつぎとでたらめな出来事がおこるのに、なぜ出来事の根源に向かわないのだろうか。でたらめということをいちいちあげてもあまりにでたらめすぎてとりあげようがないほどでたらめなのだ。なにごとも知らぬまにいつもまにかそうなってしまう。もうその流れができあがってしまっていて、それに抗するなにもかもがその流れに呑みこまれてしまう。一昨年に特別機密保護法の国会上程に危機を感じ片山恭一さんと始めた緊急対話も討議をすすめるあいだにここまできてしまった。でたらめとはなんであり、ここまでとはどこまでか、それをいうよりはやく時代が滑って流れている。オカルトな奴らによってこの国が閉じられ夜がつづいても、酷くて残忍な社会になろうと歩く浄土は可能であると内包論は考え、じりじりと考えをすすめている。

この国にとっても世界にとっても各自にとっても新しい未知をつくることができないということが、この精神の倒錯や精神の退行現象を引き起こすことの核心にある。時代錯誤のオカルト安倍晋三を唾棄し嫌悪することはたやすいが、ではどうすればいいのか。民主主義を推奨する者たちもふくめだれもが処方箋をもたない。政党政治はとうに終わっているし、そんなことになんの魅力もない。レミングのような刹那的なリセット願望が人びとの奥深く渦巻いている。苦界と空虚が同根であるといういうこと。オカルトな奴らに煽られてこの事態が招来されているのではないと思う。

かつてミシェル・フーコーは、時代を占う予言者の時代は終わり、これからは特定領域の知識人が時代をつくっていくであろうと発言した。なんと牧歌的な時代であり、牧歌的な予言であったか。かれの発言もまた外延表現の範疇からでることはなかった。フーコーの思想のなかでやがて人間は終焉するという予言だけがリアリティをもつ。人類総アスリートという転形期のなかにあって、特定領域の知識人は実務文化人として、その余は属躰としてシステムに強制加入させられる生しかないのだろうか。グローバリゼーションの猛烈な風圧は理念ではなく実感としてだれのなかにも押し寄せてきている。
世界が転形期のただなかにあること。この国も世界の地殻変動のなかに巻き込まれていて、またこの国特有のナショナルな自然生成の意識は出口がみえないままオカルトな勢力となって浮遊している。テロ勢力もこの国のオカルトな奴らも転形期の激動に煽られて恐怖し、精神的な退行のなかに逃げ込んでいる。オカルトな退行現象そのものもすでにシステムの属躰にすぎない。世界をあたらしい未知として構想することができれば精神のオカルトを駆逐できる。

印象に残ったネット記事を貼りつける。コメントは書かぬ。

メルケル独首相、難民受け入れ政策堅持を明言「襲撃犯らの狙いは「助けを必要としている人々に手を差し伸べようとするわれわれの共同体意識、寛容さ、意欲を損なうこと」だった」(内田樹リツイート 2016年7月29日)

FBI長官「対テロ戦争の勝利はテロの増加を意味する」=テロは戦争で解決できない。率直な発言。FBI: Success against ISIS means more terror @CNNPolitics(加藤典洋のリツイート 2016年7月31日)

伊勢﨑賢治vs伊藤祐靖「あなたには、国のために死ぬ覚悟がありますか?~自衛隊「特殊部隊」創設者と「紛争解決人」が悩み抜いた末に出した答え」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49300

こういうひとが、防衛大臣になったわけだ。これ、メディア報じろよ。(平川克美ツイート2016年8月2日)

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あらたな世界をだれも構想しえていないということ。グローバリゼーションの猛威に翻弄され、煽られて愚劣な精神的な退行を演出しているテロ勢力やこの国のオカルト勢力。世界の転形期に押しまくられるだけの日々。というのも虚像だ。現にあるものをなぞっても現実を超えることはできず建て前の心がけを表明することにしかならない。この現実を変えるには思いっきり音色のいい言葉をつくるしかない。内包論でそれをめざしている。音は現実のくびきを超えてやすやすと天空を舞うことができる。だったら言葉でも可能ではないか。科学知は軽々と国境を越えることができるのになぜ言葉は現実を呪詛することしかできないのか。科学知は記号性だが言葉は言葉の身体性を超えることが困難だからだと思う。
言葉もほんとうは糸の切れた凧みたいにどこまでも現実のかなたに漂っていきたいのに身体がそれをつなぎ止めてしまう。言葉の宿命かもしれない。そんなことを考えている。音は概念をもたないのに言葉はどうしても意味をもってしまう。なぜか。それは言葉の身体性ではないか。言葉の身体性は個にとってと共同性にとっての二重の意味を含みもつことを避けることができない。もしもわたしたちが心だけで生きているのなら音のように生きることができるはずだ。わたしの考えでは音を舞う生は内包論でしか可能とならないような気がする。意識の外延性を内包的に拡張すれば、わたしたちの生命形態の自然は音になる。わたしたちの意識の身体性は資本ではなく贈与によってひらかれる。

外延知が生を引き裂く。もちろんここで自己意識の外延表現は人類史を意味している。朕は国家なりという精神の古代形象もこの知に囲繞される。倒錯の果てに人間がつくった歴史の作品が人格を媒介にした民主制ということはいうまでもない。たしかにいまのところこのシステムしかない。しかし人格を媒介とするかぎり民主主義と独裁制は矛盾なく接合する。それは民主主義の根っこに昏い孔があいているからだ。それがいま起こっている。オカルトな勢力を呪詛することはできる。メディアがそれに荷担していることもわかる。釈然としない。なぜそうしかならないのか。悪が善を圧倒し一部の富裕層が大半の貧困層から富を収奪しているという古い世界画像は主観的な情緒としては理解できるが間違っていると思う。表現の概念を転倒し拡張すべきなのだ。わたしはそこに思考の重量を傾けてきた。わたしはそれが充分に可能だと思う。これまでも書いてきたが、知識人と大衆という認識の枠組みがスターリニズムやナチズムや天皇制ファシズムを連綿と産出してきた。

マルクス主義を嫌悪したフーコーは冷徹である。これ言っちゃおしまい。「法と秩序のあいだの和解はずっとこれらの人々の夢でありましたが、やはり夢のままであるにちがいないと私は考えています。法と秩序を和解させることは不可能なのです。なぜなら、そうしようと努力してみても、国家の秩序のなかへの法の統合という形式においてしか行なわれないからであります」(『自己のテクノロジー』田村・雲訳)
その時々の支配者は、その信の是非を問わず、主観的な意識の襞にある信によって、国家を統治し、人びとを睥睨した。衆生救済という理念も強烈だった。イデオロギーの左右を問わず、すべては大衆の名の下にありとあらゆる極悪非道が行使された。苦界にあえぐことの不条理と空虚をむさぼることは同根なのだ。だれもこのことをいわなかった。外延知を内包自然で包んでしまえば、苦界を浄土にすることと孤独と空虚をなくすこととがどうじに可能となる。このとき一人ひとりは大衆としてではなく表現者として登場する。人類史の必然としてある強固な外延自然を内包自然でくるむこと。まったく未知の光景が出現する。「同一労働同一賃金の」を競り合う「人類総アスリート」にたいして人類総表現者がたしかな輪郭をもってくる。この世のどんな偉大なものよりささやかで卑小で秘めやかさのなかに生きられる固有の生がある。それは内面化も共同化もできない。そこにだけ未知の世界の可能性がある。(つづく)

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