日々愚案

歩く浄土84:内包贈与論の予備的考察1-マルクスの世界認識の方法について1

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    1
いつかマルクスの世界認識の方法について内包論の立場から論じてみたいと思ってきた。
資本論を貨幣論として扱うのではなく、内包的な贈与という理念の場所から貨幣論を拡張したいというモチーフがあったからだ。真のマルクスがいて、矮小なマルクス主義者がマルクスの思想を曲解しグロテスクなイデオロギーを世界に敷衍したという考えもあったが、長い間違和感があった。思えば長い間そのことについて考えてきた。こだわってきたことをわかりやすく言うことはできない。またわかりやすく伝わるとも思えない。それはけっして内面化することも共同化することもできないリアルとしていつもあった。わたしの生存感覚は世界のどこにも入り込むことができなかった。けっして内面化することも共同化することもできない名づけようもなく名をもたぬ出来事に関わることだった。やむなくわたしは世界に抗して叛を独行した。気がついたら長い年月が経っていた。あっという間だった。

内面化は文学であり、共同化することは政治的な言説であるという俗知が流布され、内面化という権力と外延権力は対をなす権力として人類史の当初から存在の外延性をかたどってきた。つまり内面化と外延権力は人類史に等しい規模をもっている。それはまた同一性の余儀なさとして巨大な思考の慣性をなしてきた。わたしはどちらも違うとずっと思ってきた。わたしの生存感覚としてあったものでそこに理念的なものは介在していなかった。裸形の存在をわたしは当事者性と呼んできた。それは内面化も共同化も不能のものとしてあった。この存在を表現しようとして思考の慣性と激突した。内面化できない出来事はどこにいけばいいのだろうか。それはどこにもない。ないならばそれをつくろうではないか。その軌跡が内包論である。七転八倒しながら途切れ途切れに考えてきた。外目にはいつもなにかにたいして苛立っているように見えたかもしれない。ある思考について考えることに余裕がなかったからだ。ないものをつくろうとする行為はそれほど困難だった。この思考の未知をどこまで進めることができるかわからない。広大な思考の未知をめざして行けるところまで行くだけである。
 
 わたしは慣性として流れている思考の態度変更を内包論として主張してきた。あらゆる価値の価値転換はまた表現の態度変更でもあった。表現についての決定的な、あらゆる価値の価値転倒をしたいという思いは強烈だった。名づけようもなく名をもたぬ出来事はとてもリアルだった。わたしのリアルには音色のいい風が吹いていた。そこにはなにより固有の生が未知のものとしてあった。そこを言葉にしようとながいあいだ格闘してきた。
 
おまえの個人的な理由はどうでもいいから、つべこべ言わずにマルクスについての諸説を述べればいいではないか。たしかにそうだ。マルクスの世界認識の方法について述べるなかで、なぜマルクスの方法をいまさら採り上げるのかということが明らかになってくるだろう。マルクスの思想の未然について語ることは内包の可能性について語ることに等しい。
たしかに時代の趨勢としてはマルクスの方法はすでに過ぎたこととしてある。しかしマルクスの世界認識の方法はいまもわたしたちの思考の習慣を拘束している。人々は「社会」主義者として生きている。それは不可避なことなのだろうか。もしも「社会」を喩としての内包的な親族として拡張することができれば、わたしたちは民主主義という過渡的な共同幻想の彼方に行けるだろう。わたしが試みていることはマルクスの方法に関心があるかないかということになんの関係もない。世界について考えようとするとき、マルクスの野生の思考が時代に挑んだその心ばえはだれも無視することができない。それはたしかなことだと思っている。マルクスの世界認識の方法は、意志を括弧にいれてソフトになった民主主義という共同幻想となって受け継がれている。これ以外の世界認識の方法をわたしたちは手にしていない。
 
どうであれマルクスは巨大だ。真のマルクスとマルクス主義者を切り分けることはできぬが、マルクスという野生の思考がこの世のしくみを変えようと挑んだ情熱の総量は桁違いだった。マルクスは熱くて猛烈な意志の力で世界を造りかえようとした。これほどの情熱で世界を語った思想家がほかにいるだろうか。比類する者がいないそびえ立つ思想家の事績をこれからたどる。
 
     2
息を詰めるようにして丸一日かけてあらためて『経済学・哲学草稿』を一気に読み切った。いままでも若い頃から関心のありかに従って何度か読んだことがあった。この本は大まかには170年ほど前に書かれている。27歳の青年マルクスの漲る言葉の力が伝わってくる。むろん懐古趣味に駆られて読み返したのではない。内包論の場所からマルクスの思想について論究することは、いまわたしたちが当面している世界から押し寄せてくる過渡期の混乱の正体を明かすことにつながると思うからだ。
マルクスの言葉をたどることはこれからの世界のヴィジョンを語ることに等しい。なにを表現の公理としてマルクスは言説をなしたのだろうか。マルクスが数々の著作をなしたときマルクスの言説の底に流れていたのは何だったのだろうか。それがよくあらわれているところがあった。そこでマルクスは次のように言っている。その箇所を読んだとき、おおっ、と思った。マルクスの表現の公理、言葉のしくみがわかった。
 
  〔三〕 〔欲求、生産、分業〕
 
 われわれはすでに、社会主義を前提するならば人間的諸欲求のゆたかさが、したがってまた生産の新しい様式ならびに生産の新しい対象が、どのような意義をもつかをみてきた。すなわち人間的本質力の新しい実証活動と人間的本質の新しい充実とがそれである。私有財産のもとでは、それらは逆の意義をもっている。どの人間も、他人に新しい犠牲を強制するために、また他人を新しい従属におとしいれて彼を享楽の新しい様式へ、だからまた経済的破滅の新しい様式へと誘いこむために、他人に新しい欲求をよびおこそうと投機する。どの人間も、他人にたいして一つの疎遠な本質力をつくりだそうと努め、そこに自分自身の利己的な欲求の満足を見いだそうとするのである。だから諸対象の量が増すとともに、人間がそれに隷属させられるところの疎遠な存在の領土もまた大きくなる。そして新しい生産物のすべては、相互のだましあいや相互の奪いあいの新しい潜勢力なのである。人間はますます人間として貧弱となり、敵対的な存在を我がものとするために、人間はそれだけますます多くの貨幣を必要とするのであって、彼のもつ貨幣の力は、生産の量とはちょうど逆比例して低下する。すなわち貨幣の力が増大するにつれて、人間の欠乏〔必要度〕は増大するのである。-それゆえ、貨幣にたいする欲求は、国民経済によって産みだされた真の欲求であり、また国民経済が産みだす唯一の欲求である。-貨幣の量がますます貨幣の唯一の力づよい特性となる。貨幣は、すべての存在をその抽象にまで還元したが、それと同様に、自分自身の運動のなかでみずからを量的な存在へと還元する。際限のなさと節度のなさとが貨幣の真の尺度となる。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』第三草稿〔一〕「私有財産と共産主義」149~150p) 
読んでいていちばん驚いたのはマルクスが書き記したことがグローバリゼーションによってこの国にも押し寄せている超格差社会の現在みたいに思えたことだ。世界は様々に解釈されたがなにも変わっていない。
「社会主義を前提するならば」というところに刮目せよ。マルクスにとって「社会主義」という主題は宗教の神仏とおなじく超越概念となっている。マルクスの思想の最奥にこの表現の公理があるのだ。どんな偉大な思想家であっても例外なく固有の表現の公理が隠れている。その公理を読み取ることが思想を読むということだ。その公理を体感すれば読むという行為は終了する。あとはなにかの機会に言葉で編み上げられた一枚のタペストリーの織り上げ方をていねいにたどればいい。マルクスはヘーゲルの観念論を転倒したと言われているが、マルクスの主観的な意識の襞のうちにある信を除けば、叙述の仕方はヘーゲルそのものである。マルクスの対応と類推の魔力は読むものを魅了する。それほどに言葉の吸引力がおおきい。
 
マルクスの主観的な意識の襞にある信は当時の先進的な若者の共同幻想でもあった。だれよりもマルクスにとって、この世のしくみをよりいいものに変えることのできる理念としてかれの信があった。勃興する資本主義社会とそのもとでの民衆の悲惨な暮らしぶり。労働者は労働力を商品として売り、資本家が富を得る。この世界のありようをマルクスは知らぬふりして素通りすることができなかった。マルクスは思ったはずだ。世の中がこんなものであってたまるか。かれの激情は並外れていた。かれの感情の総量は地軸を傾けた。マルクスのこの世のしくみを変えようとする意志はそれほど激しかった。そしてこの意志を貫きかれは生涯を賭けて『資本論』を書いた。
 
「際限のなさと節度のなさとが貨幣の真の尺度となる」は的を抉った言い方だ。グローバリゼーションに翻弄されている現在そのものの象徴ではないか。たしかに「貨幣は、すべての存在をその抽象にまで還元」する。存在をその抽象にまで還元する力の源は心身一如のモナドの身体性なのだ。貨幣の起源はマルクスが考えたよりももっと深い。同一性の身体性の延長が貨幣の起源なのだ。貨幣は狩りをして得た獲物である。つまり貨幣が粗視化された外延的な身体であるということ。この根は深い。ずいぶん昔に書いた文章を貼り付ける。
わたしの構想のなかでは、同一性の拡張をもって、「人間社会の前史はおわりをつげる」(マルクス『経済学批判』)ことになる。国家も社会も貨幣も人間が自然と不断に交感するなかで、自然を粗視化して不可避に編みあげた自然の代償態である。ひとのこの生存のありようは避けようもなく、〔在る〕の制約を被った。ともあれ、内包論に即した貨幣論や社会論や浄土論が、内包論の進展に見合って、これから書き継がれる。(『guan02』「guan創刊にあたって 10p) 
    3
マルクスの思想の芯にあるものをつかもうとして著作を読み返している。マルクスがどれほど偉大であっても、解けない主題を解けない方法で書いているように思えてならなかった。マルクスの思想もまた閉じた信の体系のうちにある。真のマルクスとマルクスの真意を読み違えたマルクス主義の愚劣があるということではない。人類史の規模の厄災をもたらしたマルクス主義の理念的錯誤はマルクスの思想に淵源をもつ。そこにはマルクスでさえも考えきれずに考え残したことがあるということだ。マルクスの思想からマルクス主義という奇形的な倒錯が必然的に流れ下ってきた。それは断じて真のマルクスとマルクス主義の曲解として済まされることではない。
いま世界は袋小路に行き当っている。イギリスのEU離脱もそのひとつだと思う。マルクスの思想を内包的な贈与から読み解くことはまた出口をなくしたこの世界を突き抜けて青空を見ようとすることにほかならない。マルクスの未然がどういうことであるかおおまかにはつかめたように思う。
 
 若いマルクスが19世紀の中頃に見た世界の風景。勃興する資本主義とむきだしの生存状態の労働者。富が資本家に集中することと裏腹に生存を維持することにあえぐ労働者。なぜ世界はこのようなものでしかないのか、これは理不尽ではないかと青年マルクスは思った。大多数の人々の生は汲々とし、ごく少数のものに富が偏在している。それが当時のグローバリゼーションだった。生きていることは抽象化された一般性として国家に収奪され、国家のもとでの人々の生は社会によって棲み分けされている。むろん政治的な解放と社会的な解放は違う。宗教が国家から解放されたからといって社会的な公平さが実現されるわけではない。この市民社会において格差は広がる一方ではないか。それはまた追い詰められた西欧の現在でもある。170年前にマルクスが描いた光景はいまわたしたちが当面している世界の現在そのものではないか。
 
 マルクスは考えた。富を公平に分配するしくみをつくれば個的な生は共同的な類生活として実現できるはずだ。この現実を目を見開いてみよ。収奪された大衆こそが歴史の担い手ではないか。それはマルクスにとって暗黙の公理のようなものだった。マルクスよ、そうではないのだ。鎖以外に失うものをもたない労働者こそが歴史の主体だと叫ぶとき、その空虚にマルクス主義という倒錯した政治が不可避に導かれた。
わたしはある思考の型を取りだしたいのであって、マルクス主義者のなした悪業を倫理的に論難したいのではない。わたしがつくろうしているのは善悪の彼岸を可能とする世界だ。マルクスが夢みた理念の理念的な錯誤のなかにマルクス主義の淵源がある。ここを内在的に解かないかぎり世界はなにも変わらない。人間は事物の秩序の影にすぎないのか。人間が歴史に意志を体現できるのかどうか。ある思考の型が問われている。たしかに知らぬ間に世界は「社会主義」から「社会」主義へと変遷を遂げた。マルクス主義から民主主義へ。なにも変わっていない。
 
 捜し物をするようにマルクスの著作を無心に読む。マルクスの思想がハイパーリアルなむき出しの生存競争の時代の時代の遺物であるかどうか、そんなことは関係ない。
マルクス読解の誘惑はかなりまえからあった。親鸞の思想や吉本隆明の思想についても内包論からかれらの思想の未然にいくつか書いてきた。
マルクスの思想を読み替えるにあたってやらぬと決めていることはある。貨幣論を貨幣論として扱うことはやらぬ。不毛だから。わたしはマルクスが貨幣の謎を解き明かしたとは思っていない。マルクスの貨幣論は解明さるべき多くの謎をのこしている。それはマルクスがすでに過ぎる時代の思想であるかどうかとは関係ない。依然として貨幣の物神化は謎のままである。もうひとつある。真のマルクスと、人類史の厄災をもたらしたマルクス主義を分けて考えないということ。マルクス主義の厄災の淵源はマルクスの思想にあり、マルクスの思想の淵源はヘーゲルにあると考えている。
とりあえずこれらのことを念頭において内包贈与論をすすめる。いずれにしてもマルクスという巨大な知性は、はじまりの不明を思想に内含している。ヘーゲルの思想はそのままマルクスにも継承され、マルクス主義として世界に敷衍されたことになる。問題としたいのは思考の型であり、その思考の型の拡張である。
 
 およそ170年前に世界中の若者を魅了したマルクスの思想の拡張を、内包の考えから書いている。ロシア革命の担い手だったレーニンもトロツキーもマルクスの思想に惹きつけられ、マルクス主義の名の下に無数の人が殺された。なぜそんなことになったのか。それはマルクスが思想として突き詰めることができなかったところから生まれたものだと考えている。真のマルクスと、マルクスの思想を歪曲した者たちがいるということではない。ヴェイユはそのことを直感的につかんでいたので、トロツキーと相対して、あなた達の革命は間違っていると面罵したのだと思う。マルクスは、けっして内面化も共同化もできないそれ自体としての領域を間違って一般化してしまった。まだ触れられたことのない性をていねいにたどっていくとマルクスの錯認は超えられる。マルクスが内包を知っていたらべつの思想ができたと思う。
 
    4
マルクスはじつに大きな言葉の弓を引く人だった。マルクスとは何者か。手ぶらで言葉の力によって人類史の概念を変えようとした。そのマルクスが錯認したことがある。それは個即類という思想だった。マルクスがどこまで意識していたのかはわからないが、この思想はもともとは神という超越に由来している。そしてどこかにその面影を残している。また個的な生存を観察する理性なくして個が即ち類であるということを考えることはできない。インマヌエルという思想があって初めて神が我とともにいるという生存感覚が訪れる。この理念を地上に降ろしたとき万人の法の下における平等という観念が派生した。種の進化論を唱えたダーウィンやフランスの市民革命による人権の理念もマルクスに大きな影響を与えている。マルクスの先進性からは神という理念は出てこない。代わりに大衆という理念が編入された。わたしたちはこの囚われからまだ免れていない。ただ何事かを人類がなしえたこともある。個即類という思想は人格の表出において理念として実現された。そのことは認めるほかない。
 
 時代の勢いに促されてヘーゲルの弁証法で自意識の劇のかわりに貨幣を分析した。それが資本論だと思う。ヘーゲルの哲学が内含するあいまいさはそのままマルクスにも引き継がれた。わたしもまた時代の転換期のただ中を生きているが、少なくともマルクスの思想によって蒙が開かれることはなにもない。野生のマルクスに宿った牧歌性。牧歌的な思想家だった。マルクスには自己言及のパラドックスに嵌まって狂気を生きるほかなかったニーチェの繊細さはなかった。親鸞にも、ヴェイユにも、吉本隆明の思想にも未然があるように、マルクスにもおおきな思想の未然がある。マルクスの著作のなかでいまも生きるものはなんなのか。わたしは経哲草稿に熱情をもって書かれたあのマルクスの夢だけだと思う。
①人間は一つの類的存在である。というのは、人間は実践的にも理論的にも、彼自身の類をも他の事物の類をも彼の対象にするからであるが、そればかりではなくさらに-そしてそのことは同じ事柄にたいする別の表現にすぎないが-さらにまた、人間は自己自身にたいして、眼前にある生きている類にたいするようにふるまうからであり、彼が自己にたいして、一つの普遍的な、それゆえ自由な存在にたいするようにふるまうからである。
 類生活は、人間においても動物においても、物質的にはまずなにより、人間が(動物と同様に)非有機的自然によって生活するということを内容とする。そして人間が動物よりも普遍的であればあるほど、彼がそれによって生活する非有機的自然の範囲もまた、それだけいっそう普遍的である。植物、動物、岩石、空気、光などが、あるいは自然科学の諸対象として、あるいは芸術の諸対象として-人間が享受し消化するためには、まず第一に仕上げを加えなければならないところの、人間の精神的な非有機的自然、精神的な生活手段として-理論上において人間的意識の一部分を形成するように、それらは実践上においてもまた、人間的生活や人間的活動の一部分を形成する。これらの自然生産物が、食料、燃料、衣服、住居などのいずれのかたちで現われるにせよ、とにかく人間は物質的にはこれらの自然生産物によってのみ生活する。人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が(1)直接的な生活手段である限りにおいて、また自然が(2)人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体にするという普遍性のなかに現れる。自然、すなわち、それ自体が人間の肉体でない限りでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の〔交流〕過程のなかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。人間の肉体的および精神的生活が自然と連関しているということは、自然が自然自身と連関していること以外のなにごとをも意味しはしない。というのは、人間は自然の一部だからである。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』93~95p) 
 
②人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である。この自然的な関係のなかでは、人間の自然にたいする関係は、直接に人間の人間にたいする関係であり、同様に、人間にたいする〔人間の〕関係は、直接に人間の自然にたいする関係、すなわち人間自身の自然的規定である。したがってこの関係のなかには、人間にとってどの程度まで人間的本質が自然となったか、あるいは自然が人間の人間的本質となったかが、感性的に、すなわち直観的な事実にまで還元されて、現われる。それゆえ、この関係から、人間の全文化的段階を判断することができる。この関係の性質から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自分となり、また自分を理解したかが結論されるのである。男性の女性にたいする関係は、人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。だから、どの程度まで人間の自然的態度が人間的となったか、あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか、どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは、男性の女性にたいする関係のなかに示されている。また、どの程度まで人間の欲求が人間的欲求となったか、したがってどの程度まで他の人間が人間として欲求されるようになったか、どの程度まで人間がそのもっとも個別的な現存において同時に共同的存在であるか、ということも、この関係のなかに示されているのである。(同前 129~130p) 
 
③社会そのものが人間を人間として生産するのと同じように、社会は人間によって生産されている。活動と享受とは、その内容からみても現存の仕方からみても社会的であり、社会的活動および社会的享受である。自然の人間的本質は、社会的人間にとってはじめて現存する。なぜなら、ここにはじめて自然は、人間にとって、人間との紐帯として、他の人間にたいする彼の現存として、また彼にたいする他の人間の現存として、同様に人間的現実の生活基盤として、現存するからであり、ここにはじめて自然は人間自身の人間的あり方の基礎として現存するからである。ここにはじめて人間の自然的なあり方が、彼の人間的なあり方となっており、自然が彼にとって人間となっているのである。それゆえ、社会は、人間と自然との完成された本質的統一であり、自然の真の復活であり、人間の貫徹された自然主義であり、また自然の貫徹された人間主義である。(略) 「社会」をふたたび抽象物として個人に対立させて固定することは、なによりまず避けるべきである。個人は社会的存在である。だから彼の生命の発現は-たとえそれが共同体的な、すなわち他人とともに同時に遂行された生命の発現という直接的形態で現われないとしても-社会的生命の発現であり、確認なのである。たとえ個人的生活の現存様式が、類的生活の多分に特殊な様式であったり多分に普遍的な様式であったりする-そしてこのことは必然的なのであるが-としても、あるいはさらに類的生活が多分に特殊な、または多分に普遍的な個人的生活であるとしても、人間の個人生活と類的生活とは、別個のものではない。(同前 133~135p) 
怜悧なヘーゲルと違い熱いマルクスがここにいる。たおやかなマルクスの夢。わたしの理解ではマルクスの思想でこれからも生き残るのはこの箇所だけだと思う。マルクスが解明しようとした謎の核心がここに書かれているし、170年前にマルクスが書き記したことはそのまま現在へと受け継がれているからだ。繰り返して言うと、マルクスの思想の骨格は引用した文章に出そろっている。私有制と共産制も、労働者の疎外された労働も、賃労働と資本も、のちの資本論もこのおおらかな言葉の息吹のなかですべてが語られている。 
 
ここで引用①について注記する。
なぜ人間は類的な存在なのか。それはどういうことか。マルクスの経哲をどれだけ読み込んでもそのことは書かれていない。いきなり類的存在が出てくる。わたしには類生活は寄る辺なく生を生きるしかない個々の生存にとっての神の代理物であるとしか思えない。類的な存在は神の類似物にすぎない。マルクスにとって類的な存在は暗黙の公理となっている。人間が自然に働きかけるとき、その作用によって人間は自然化され、反作用として自然は人間化される。その相互作用は普遍的であるとマルクスが言うとき、人間は心身一如のモナドと前提されている。ほんとうはその存在とは何かと問うべきだった。
アーメン小僧だったヘーゲルが『キリスト教の精神とその運命』を書き、目を瞑って『精神現象学』へと跨ぎ超したときの始まりの不明は、ヘーゲルを転倒したはずのマルクスにも受け継がれた。たいていの人がこの不明に気づかずに華麗な論理の捌き方に幻惑され騙される。存在そのものを一般化して語ればヘーゲルやマルクスが語ることも妥当になる。このすきまからマルクス主義の倒錯が生まれた。 
 
マルクスは『経済学・哲学草稿』第三草稿〔一〕の「私有財産と共産主義」のなかで、引用①の人間と自然の相互規定としての疎外と矛盾することを言っている。「私有財産と共産主義」で、「新しい生産物のすべては、相互のだましあいや相互の奪いあいの新しい潜勢力」であり、「際限のなさと節度のなさとが貨幣の真の尺度となる」と書いているが、人間の相互の関係が類生活を媒介にするとそれがなぜ善きものへと転位するのか。かれは書く。「人間の人間にたいする直接的な、自然的な、必然的な関係は、男性の女性にたいする関係である」と。男性の女性にたいする関係が最も直接的で自然的で必然的な関係だとするマルクスの言明と、むきだしの生存の関係は矛盾するではないか。マルクスの混乱は錯綜している。意識の外延的な形式の内部での矛盾がまずある。個的な生存がなぜ類的な生存と架橋されるのか。マルクスは答えていない。個的な生が共同的な生へとつながりうるというマルクスの信があるだけではないか。そのことを勘考する余地はマルクスにはなかった。
 
まだある。男性の女性にたいする関係のなかに最も直接的で自然的で必然的な関係があると言いながら、いきなり人間と自然の普遍的な相互作用が規定されている。騙されてはならぬぞ。人間と自然の組み込みの必然性について論理を展開したければ、まず引用②について筋目を通せ。このくだりはマルクス自身が混乱していると言うしかない。引用の文脈は女性が男性の財貨や共同体の所有という俗知にたいする内省としても書かれている。
 
引用②の前段のパラグラフを貼り付ける。
マルクスの引用②は共同性の俗知にたいする嫌悪としても書かれている。それはよくわかる。のちに結婚することになるイェニーのことを念頭におきながらマルクスはここを書いている。レヴィナスが『時間と他者』を書いたとき妻に当たる人物を念頭において書いたように。そして固有の他者のなかにいつのまにか一般的な他者が忍び込んでくる。ここがマルクス主義の起源だ。まだある。何かと世界を説明しないと気が済まなかったヘーゲルの観察する理性の片鱗をマルクスも継承している。いくらかマルクスも文化人的であったわけだ。まして還相の知を勘案する余地はマルクスにはなかった。 
 女性が共同体的な肉欲の餌食や下婢であるというような、女性にたいする関係のなかに、人間が自分自身にたいしてそのなかに実存している限りない堕落が語られている。というのは、この関係の秘密があいまいではなく、決定的に、公然と、むきだしに表現されるのは、男性の女性にたいする関係のなかであり、また直接的な、自然的な類関係がどのようにとらえられているかというその仕方のなかだからである。(岩波文庫『経済学・哲学草稿』 129p) 
いくつもの理念が青年マルクスのなかで錯合している。晩年の『資本論』に至るまでこの難所をマルクスが解明することはなかった。わたしは次のように解明した。 
はじまりの不明のはじまり。食と性が分有されたということ。深雪の凍原で一緒に暖をとり、おおきな葉っぱで一緒に雨をしのぎ、はじめて手にしたひとつの果実を恐れおののきながら一緒に食べ、いつも一緒、どこでも一緒。この驚異のなかで初源の意識が内包的に表出された。ここに意識の起源があり、ここに表現としての精神の古代形象のはじまりがある。
内包というささやかな贈りものは同一性によって引き裂かれたようにみえる。そうではない。リトル・トリーのおじいさんが、今生はなかなかよかった、来世はもっといいだろう、また会おうな、と孫に言葉を託す。その心ばえ。内包の面影がここにもある。生の原像を還相の性として生きるとき、生は内包の贈りものとしていつも生きられる。そのことを歴史としてつくることも可能だ。なぜならば内包がいつもわたしたちのなかにきりのない善きものとして存在しているからである。他者をじぶんのうちに認める内包という情動が世界をつくった。(『喩としての内包的な親族』あとがき)  
いまわたしの場所からはマルクスの錯認したことがかなり見える。マルクスが類生活として夢みたことはわたしの内包論からは、喩としての内包的な親族と読みかえることができる。
 
ここで引用③にみられるマルクスの理念的な錯誤について書く。マルクスの類生活は現実には人間の社会性ということになる。さあさあ、マルクス主義が出てきたぞ。人間の自然的な本質は社会性としてあらわれるとマルクスは言う。「社会は、人間と自然との完成された本質的統一」であり、それこそが人間にとっての「紐帯」だと。ここから人格の表出の間違った一般化は一直線である。人格は可視化され実体化される。この意識の運動こそが人類史の厄災を招いたわけだ。マルクスのこの「紐帯」を実現したものが社会主義という前提であった。神の粗悪な類似物である。大義はいつも超越的な観念のもとに遂行される。ヴェイユは人格の底にある匿名の領域からトロツキーにたいして猛反発した。あなた方の革命は間違っていると。
 
マルクスの太い直感はモナドとしての人間に矮小化され、自然と人間の相互規定としての疎外へと棚上げされてしまう。かれもまた解けない主題を解けない方法で解こうとした。マルクスが人間に読み込もうとした大きな弓は次第に縮小していった。もちろん人間という現象を心身一如に縮減するということはヘーゲルの精神現象学と同じで、貨幣論が厳密さを獲得したということでもある。
こんなめんどうなことを言うこともない。なぜマルクスの貨幣論は2016年のハイパーリアルなむきだしの生存競争とここまで乖離してしまったのか。この間隙を解決しないとどんな思索もパーである。
 
 マルクスは『資本論』で貨幣の謎を解明したと鬨の声をあげている。わたしはマルクスが貨幣の謎を解いたとは思わない。マルクスが考えたよりも人間というものの業ははるかに深かったというべきか。もし人間がモナドであれば、労働者が資本家と相克するとき、いわゆる階級闘争というマルクス主義の定式が想定されるかもしれない。この歴史の過程がどれほどの厄災を人類にもたらしたかはすでにだれもが知っている。
 
わたしはマルクスの著作を読み込みながら貨幣の謎は矮小化され貨幣の謎の核心からそれていくような感じがしてならなかった。貨幣の謎はマルクスが想定したよりも深淵であり、いまもなお解読されることを渇望しているように思える。試みの壮大さに比して、人間や歴史についての洞察に詰めの甘さがあることを強く感じる。ヘーゲルの方法を転倒したといいながら、ヘーゲルの方法をそのまま踏襲しただけのように、わたしには思われた。
 
わたしはマルクスとはまったく違うことを考えた。貨幣はなぜあまねく贈与として広がらないのだろうか。わたしのマルクス理解ではかれにこの問題意識はなかった。このかんたんなことをなぜマルクスは着想しなかったのだろうか。マルクスの資本論は、内包自然の場所がありうるということを勘案せずに書かれたヘーゲルの思想の焼き直しであって、この世の不条理に迫ることができないのは先験的なことではないのか。
 
 マルクスの思想の未然とはなにか。あるいはマルクスの思想の未然はどこにあるのか。すぐにいくつかのことが浮かんでくる。マルクスの『資本論』はアダム・スミスとおなじように神の見えざる手を無意識に暗黙の公理として使っている。しかしそのままでは人間は歴史に登場しえないので、神の見えざる手を大衆という理念に実体化することで世界を説明しようとした。鉄鎖以外に失うものをもたない労働者や大衆を可視化することで、そのことによって世界を造る主体というものが実定されている。マルクスは資本論で資本の論理に倫理を入れ込もうとした。マルクスはこの虚妄に気づくべきだった。熱血のお人好しは人間の業の深さを透視することができなかった。またこの思想が人類史の厄災を招いたことに気づくのにあらん限りの業苦があった。
 
マルクスの過誤は人間についての洞察の甘さに起因している。親鸞の人間についての洞察は苛烈だった。800年前も、いまも、親鸞の洞察は人間の存在を抉っている。
マルクスが人間と自然の相互規定としての疎外をかれの思想の根柢に据えるとき、内包論からは、マルクスの人間と自然との相互規定としての疎外はまるごと外延的な表現の範疇に繰り込まれることになる。わたしの内包論では内包自然を根柢とした貨幣論が構想される。自己意識の外延表現としてみるとマルクスの資本論は完備した体系であると言ってよい。しかし間然するところのない資本論がなぜ現実とのあいだでこれほど乖離してしまったのだろうか。わたしの知るかぎりだれもここを究明しようとしてこなかった。
 
マルクスの思想は経哲において頂点をなしていて、貨幣論で厳密に論理化していくにしたがい、思想が痩せていっていると思う。それはなぜなのか。
初期のマルクスが直感した、男性の女性に対する関係、人間の人間に対する関係、人間の自然に対する関係にたくさんのすきまがあるからだ。三つのすきまを括弧に入れることができれば資本論の体裁は成り立つ。どういうことなのだろうか。貨幣の謎を解き明かすことに急き立てられ、ていねいに考えることをせずにやり過ごしてしまったことにマルクスのうかつさがあった。
 
 自然と人間の相互規定としての疎外、つまり人間が自然を人間化し、その反作用として、人間は自然化されるというとき、牧歌的なマルクスの時代とは違って、人間が自然を人間化することは、ハイテクノロジーによって人工自然の高度化としてあらわれた。いまそれは臨界点を迎えようとしている。マルクスの思惑をはるかに超える急速な進展だと思う。マルクスの自然哲学でいえば、人間は自然化するというより、人工自然そのものとなる。天然自然である人間の身体性と人工自然の差異はどこにあるか。もう見えなくなりつつある。マルクスの時代の牧歌性はどこにもない。音色のいいマルクスの野生は金融商品に押しまくられ途方に暮れている。170年前にマルクスが書いた言葉の響きは2016年の世界の現在によってことごとく裏切られている。170年前にマルクスが揺るぎない自信にあふれて書いた言葉は実現されることもなく、そのままにわたしたちの当面している現在の光景のなかに投げ出されている。
 
 この事態の推移の速さはマルクスが想定していたよりもはるかに自然の一部としての人間を壊しつつある。やがて天然自然は人工自然に呑みこまれてしまうだろう。わたしたちは人工自然の属躰になろうとしている。マルクスの思想が牧歌的だというのはそういうことだ。わたしたちは人間が自然の一部であるというマルクスの思想を拡張する必要に迫られる。天然自然と人工自然の相克にたいして、天然自然と人工自然を包み込む内包自然をつくることが要請される。このことはマルクスにとっては想定外だったと思う。
一方でマルクスの社会主義というかれにとっての精神の夢は壊滅している。すでにマルクスの思想は19世紀的な知の布置に収まっている。マルクスの情熱の総和がどれだけ桁外れでおおきなものであったとしても、マルクスの思想は無化されている。
 
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できあいの言葉がないのでいつも造語しながら七転八倒して内包論を書き継いでいる。マルクスの世界認識の方法についてのノートもそのひとつだ。
自我が同一性の派生態であるように、貨幣もまた同一性の外延的な身体の延長としてある。自我も貨幣も外延的な表現としては同一なのだ。親鸞ならばこのありようを煩悩と一言で済ませ、自然法爾で包み込むだろう。自然法爾は還相の知である。ヨーロッパの知の偏りのなかには還相の知という呼吸法はない。わずかにヴェイユがそこを匿名の領域として生きようとした。
 
 マルクスはこの同一なものを前提として思考を進めていった。解けない主題を解けない方法で解こうとしたというのはそういうことだ。マルクスが『経済学・哲学草稿』で語った貨幣についての考えは『資本論』ほど洗練されていないために貨幣の特質がよくあらわれている。貨幣への欲望は節度と際限がなく「敵対的な存在を我がものとするために、人間はそれだけますます多くの貨幣を必要とする」「新しい生産物のすべては、相互のだましあいや相互の奪いあいの新しい潜勢力なのである」と言う。このような人間のありかたが社会主義を理念として担ぎ上げれば善き世のしくみへと転換できるとマルクスは夢みた。マルクスの主観的な意識の襞のうちに社会主義的な理念が信としてあったことはたしかだ。
 
 また『資本論』で貨幣の謎を解明したと鬨の声をあげたとき、同一性の形式を前提とすれば貨幣の謎は解けたとかれが考えたことも事実だと思う。ほんとうはなにも解けてはいなかった。わたしたちが生きている世界の大変動のなかにマルクスの渇望した夢はそのかけらもその兆しもない。むきだしの生存競争が現前している。「社会主義」の幻想が廃れて、民主主義という「社会」主義をみなが唱えるようになっただけで本質的にはマルクスの生きた時代となにも変わらない。収奪された資本を公平に分配してもむきだしの生存のありようは変わらない。この世のしくみが変わることもない。マルクスはかれの思想をもう一捻りすればよかった。そうすれば現在にもつながり、思想は現在を生きることができた。ないものねだりをするならばマルクスは親鸞の自然法爾の思想で資本論を書くべきだったのだ。それは搾取する資本ではなく贈与論になるはずだ。どうすればその世界に行けるのだろうか。
わたしはマルクスの思想の未然をひらくことができると思う。そう思うから内包論を書いている。
 
 外延的な意識を内包的に包まないかぎり世界は胸襟を開かない。還相の性を世界の表現の基底とするとき、外延的な表現の三人称は、あたかも家族のようなものとしてあらわれる。この驚異をわたしは喩としての内包的な親族と呼んでいる。ほんとうを言えばマルクスの類生活とはそのほかではない。もちろんマルクスは気づいていない。そうすると引用したマルクスの言述は入れかわる。つまり②→①→③とマルクスは論理を進めればよかった。順序を入れ替える。
(1)男性の女性に対する関係がもっとも直接的で自然的で必然的な関係である。
(2)それは人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。
(3)そのことは人間の自然にたいするもっとも自然的な基底である。
この三つの推移律は類推と対応の魔力によってなめらかにつながっているようにみえる。その華麗さがマルクスの思想の魅力でもあるのだが、先の引用を②→①→③と順序を変えても、すきまがたくさんある。
男性の女性にたいする関係が最も本質的であり、この関係のなかに人間の人間にたいする関係を見ることができ、それはとりもなおさず人間の自然に対する関係である。斯くして人間は自然化され、自然は人間化されるというマルクスの自然哲学が開示されている。とても美しい。でもすきまだらけだ。マルクスの美しい言葉にすきまがあることを、人間の類生活は可能であると錯覚した社会主義の幻想が覆い隠した。マルクス自身も言葉に酔っている。自己意識の外延的な表現ではここまでしか来ることができない。そしてこの外延表現が災禍として実現された。わたしはそこに外延表現の必然があると思う。それはグローバリゼーションに追いまくられる世界の現在の行き詰まりとしてもあらわれている。翻っていえばマルクスはこの三つの直観を編み上げることによってかれの壮大な世界認識をつくった。それがマルクスの世界だ。「社会主義」は滅び、意志や倫理を骨抜きにした建前だけの「社会」主義者が生き残る。そしてだれもが空疎な民主主義を唱和する。内面の文学や共同性の政治は表現意識の虚偽や欺瞞としてのみ存在する。この仮構の意識のなかに生の未知はない。
 
 1980年代の前半にもこのあたりのことはしきりに考えた。その頃は、関係が表現であるとか、対の原像という言葉を使っていた。対幻想を逆向きに求心するとそこに対の原像があるという言い方もしていた。シンプルだがとても伝わりにくい言い回しだった。そのことを指摘されたこともある。その頃よりは少し考えを進めることができた。そこからマルクスの自然哲学について言ってみる。
 
(1)は対幻想のことだがマルクスは対関係の外延的なあらわれに目を奪われて対関係の本質や驚異を考究しつくしていない。「共同体的な肉欲の餌食や下婢」を嫌悪し、男性の女性にたいする関係はそういうものではないとイェニーを念頭に置きながらここを書いている。つまりほんとうはべつのことを言いたいのに対関係の外延的な形式を述べているわけだ。この対関係の外延的な形式が、人間の人間に対する類の関係を導いている。たしかに外延的な形式ではそういうこともできる。ただこの意識の形式化は間違った一般化を不可避に呼び込む。これこそがマルクス主義の神髄だった。思考の型は滅んでいない。そのまま人格の表出にすぎない民主主義として受け継がれている。人間のありようを意識の外延的な表現として考えるかぎり、人間の思考はここで行き止まりだと言える。だれがどうやろうとここまでしか来ることができない。
 
マルクスよ、まだわたしたちのよく知らない性があるのだ。始まりがあって終わりのない、ますます深くなる渦のような性。内面化することも共同化することもできないそれ自体。それ以外のものではありえないそのものを名づけること。この道行きは困難を極めた。名づけようもなく名をもたぬ内包のこの場所のことをわたしは還相の性と名づけた。還相の性は神仏と往相の性の彼方にある。自覚的か無自覚かを問わず、それは存在しないことの不可能性として存在する。いつもすでにその上に立っているシンプルな情動。自我の支配が及ばない自我ではない主体。だれのなかにも無限小のものとして存在している。この還相の性があることによって三人称の世界は内包的な親族に比喩されることになる。内包論で性はそのようなものとしてあらわれる。
内包と外延は往還するので、内包的な表出である還相の性を意識の自己意識の外延として言うこともできる。還相の性という内包的な表出は外延的には領域としての自己としてあらわれる。他者を自己のうちに含みもつ奥行きのある存在のありようのことをわたしは〔主体〕と呼ぶことにした。それは外延的な表出である自我や主観というものとはべつものである。自我や主観は空虚な形式である同一性から派生するのだ。私性も貨幣もここに起源をもつ。自我ではなく内包的主体を生きるとき、あらゆる表現は表現の価値を転倒することになる。ここまできてやっと始まりの不明はひらかれる。人類史のモダンはここではじめて根柢から変わる。 
 
おそらくマルクスは表現に関わるこの微妙な機微を知らなかった。マルクスが生きた時代の興隆する社会の勢いが個と類を接続することができるように錯覚させたのかもしれない。それがどれほど無惨なことであったか、ロシア革命や、レーニンらの権力を受け継いだスターリンのなしたこと、ヒットラーのナチスがなしたこと、天皇の赤子がなしたことから明らかである。ありとあらゆる倒錯と奇形的な理念が実行された。そしてこの理念の型は現在もそのまま継承されている。その長い影のなかをわたしたちはいまも生きている。 
 
間違った一般化は不可避に実体化と可視化を呼び込み、ひとの生を切り裂く。どんな例外もない。自己意識の外延的な表現の必然だと思う。そこでひととひとはつながることができない。ひとは内包的な表出においてすでにつながっている。喩としての内包的な親族として。この喩は自我でもなく共同性でもない。この喩の場所において内包的な贈与が可能となる。

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